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小説63(想い出の渚・幕開け)後編

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フォレストシンガーズストーリィ・63

「想い出の渚・幕開け」・後編


3

眠っているはず。私は眠っている。すると、これは夢なのだろうか。五人の少年がいる。誰が誰なのかはわかる。少年時代の彼らには会ったこともないけれど、会ってみたかったな、と考えた覚えは幾度もあった。そんな願望が見せている夢?
「章、ころぶぞ」
 五人の先頭に立って走っていた章くんに、本橋くんが声をかけた。ほらほら、言わんこっちゃない、といったふうに章くんがずどんところび、乾くんが章くんに近寄って、子供ながらにきびしい声を出した。
「泣くな。章、立て」
「膝をすりむいたよ。痛い」
「そんなの痛くない。立て」
「だーって……」
 やーいやーい、章の泣き虫、弱虫、と囃し立てているのは幸生くんで、乾くんは幸生くんにもきびしい表情を向けた。
「おまえは黙ってろ。ころんで痛がってる友達を笑うなんて、そんな奴は最低だぞ」
「……はい、ごめんなさい」
「章、大丈夫か?」
 シゲくんが章くんに手を差しべようとしたら、本橋くんが言った。
「ひとりで立たせろ。ころんだくらいでべそかいててどうするんだよ。おまえはそれでも男か」
「章、しっかりしろ」
 幸生くんが言い、章くんは一生懸命に立ち上がり、乾くんがその頭を撫でた。子供の姿はしていても、現在の彼らと性格はさほどに変わらない。
 子供のころからシゲくんは声が低かったと言っていたが、十歳前後だったらシゲくん以外はみんなボーイソプラノだったんだろう。
子供では声の出し方や技能や表現能力も乏しくて、FSのような迫力のある歌は不可能だろうけど、ポーイソプラノ版フォレストシンガーズ、ってのは楽しいにちがいない。シゲくんは少年版バスパート? ぜひ聴いてみたい。
 ずっとそんなふうに思っていたから、夢だと知っていてもわくわくしてきた。
 知り合ったのは十八歳。本橋くんと乾くんは同年だから、私も当時は十八歳だった。シゲくんも幸生くんも章くんも、彼らが十八歳のおりに私と初対面を果たした。
 よって、私は彼らの子供時代を知らない。十歳そこそこの彼らを想像してみたら、脳裏に姿が浮かんできた。現実には本橋くんが東京、乾くんは金沢、シゲくんが三重、幸生くんは横須賀、章くんは北海道、私は栃木にいたのだから、六人が会う機会は皆無だったのだけど。
 十一歳の本橋くんは、当時から背は高かったと聞いている。写真でなら見たことのある少年時代の彼は、ひょろりとしていて小生意気そうな顔をして、半ズボンからすりむき傷のあるひざ小僧と脚を突き出していた。まだひげも脛毛もなくて、声も顔も子供のくせして、いっぱしの口をきいていっぱしのリーダー面をしているんじゃないかしら。
 同じく十一歳の乾くんは、孤高の少年? 色白の北陸少年だったのかな。乾くんは半ズボンじゃなくて、本橋くんよりは低めの背丈の身体を、少年用のスーツに包んでいる。頭脳明晰そうな顔をしていたんだろう。
 十歳のシゲくんは、少年野球をやってたんだったよね。だったら身体つきはしっかりしてる。甲高い少年たちの声の中で異彩を放つ、低いおじさん声だったの? 素朴な田舎の男の子だったんだろうな。白いシャツと黒の半ズボン。片手には野球のボールを持って、なんとなく照れた表情を浮かべて。
 九歳の幸生くんは、ひょうきん少年だったのだろうか。ふたつ年上の本橋くんや乾くんと較べたら、現在以上に身長差があっただろう。横須賀生まれなんだからけっこう洒落たボーイズファッションで、女の子に人気があったんじゃない? 
 最年少章くんは、きっと美少年だったのだろう。体格は幸生くんとおんなじぐらいで、今よりさらに高い声をして、背伸びしてお兄さんたちと肩を並べてる。北海道少年だからか、章くんは冬服姿で脳裏に浮かぶ。ダウンベストとジーンズあたり? 真っ赤なマフラーを巻いていたりして。
 小学六年生、十一歳の私は、身長は百四十センチ余りしかなかった。本橋くんはすでに今の私程度の身長だったはずだから、差は現在と大差ない。乾くん、シゲくん、幸生くん、章くんの年齢順身長順も現在とまったく同様だけど、幸生くんと章くんは私よりも背が低かっただろう。
 二十年近く昔の彼らを想像していたのと、夢に出てきた姿はそっくりそのままだった。私はいつものように傍観者? いいえ、私もいる。タータンチェックのワンピースを着た私を、夢を見ている大人の私が見ていた。
「歌ってよ、私が聴いてあげるから。将来は歌手になりたいんでしょ? なれるかどうか審査してあげる」
 生意気少女といえば私もその通りで、五人に向かってそう言うと、本橋くんは少年の声で応じた。
「俺は歌手になんかなりたくないぞ」
「ウルトラマン?」
「そんなもんになれるはずないだろ。ガキじゃあるまいし」
「本橋くんはガキじゃないの?」
「ちがうよ。そこにいる奴らといっしょにすんな」
「俺もガキのつもりはないよ」
 少年としても、本橋くんの声はやや低い。子供でも声に男女差があるものだが、本橋くんはいかにも「男の子」の声だ。乾くんは本橋くんよりは高めで優しい声をしていた。
「来年は中学生になるんだ。いつまでもガキじゃいけないよね。だけど、歌手か。俺はなりたいな」
「そちらの三人はどう?」
「俺は歌手より俳優がいいな。かっこいい二枚目俳優になるの」
「幸生くんは少年合唱団に所属してるんでしょ?」
「そうだよ。歌も好きだけどさ」
「章くんは?」
 昔から甘い声をしている幸生くん、高い高い声なのは昔から変わっていない章くん。章くんはその声で言った。
「俺はロックがいい」
 実際は章くんがロックに覚醒したのは中学生になってからだったのだそうだが、私の先入観が章くんに発言させたのだろう。シゲくんも言った。
「俺は歌手になりたいです。歌いましょうよ、本橋さん、乾さん」
 ほんとにシゲくんは声は大人だね。私がひとりで納得していると、本橋くんが私に言った。
「おまえが歌えって言うからじゃないけど、歌ってやるから聴いてろ。乾、なにを歌う?」
「子供の歌なんかつまんないよな。大人っぽいのがいいよ。ラヴソングを歌おう。アルフィの「泣かないでMY LOVE」、みんな知ってるか?」
 知ってるよぉ、歌おう、と全員が賛成して、いつ相談したのか知らないけど、ア・カペラで歌い出した。リードは本橋くんの声。子供でありながら情感がこもっていた。

「傷つけ泣かしたこともあった、なにも言えなくて
 心feel so blue
 でも今は I love you I love you
 もう迷わない」

 ふたつ下のきみに戸惑って、苛立っていた俺を許して……と、乾くんの透明な声が続く。幸生くんと章くんのソプラノのコーラスに、ただひとり成人男性に近いシゲくんの声も和した。
「……想像以上だね。子供なのに……声は子供だけど、すっごく上手」
「おまえだって子供だろ」
 言い返す本橋くんに、そうなんだけどね、と私は口の中で答えた。
 もしも本当に子供のころから私たちはお互いを知っていて、彼らがボーイズシンガーズを結成していたとしたら、現実もこうだったのだろうか。私はいつも、彼らを見守っている。彼らの歌を聴いている。
そうだったらよかったのに……ううん、そうでなくったって、現在の私たちは、将来の私たちも、ずっとずっといっしょにいるんだよね。
 夢の中にいる私を、大人になった私がどこかで見ていた。子供の私はいつしか泣いていて、乾くんが歌をやめて私の肩にそっと手を乗せた。
「ミエちゃん、どうしたの、なにを泣いているの? 悲しいことがあった?」
「泣くなよ、これ、やるから」
 本橋くんはポケットから取り出した飴玉をくれ、幸生くんはおかしな顔をしてみせた。
「べろべろばーっ! 俺の顔を見て笑って笑って」
「美江子さん、泣くとますます悲しくなるんですよ」
 困った顔をしてシゲくんは言い、章くんはぷっとふくれた。
「俺が泣いたら怒ったのに、美江子さんはいいの?」
 おまえは男だろ、美江子は女だ、と本橋くんが言い、そうだそうだ、とシゲくんと乾くんも言った。本橋くんったら、美江子だなんて呼んでる、と思ったら、涙が止まった。
「泣いてないよーだ。目にゴミが入ったの」
「そうだよ、ミエちゃんはそうでなくっちゃね」
 乾くんが微笑み、うんっ、と私は元気いっぱいに答えた。ほんとはあなたたちの歌が素敵すぎて泣いてたんだけど、そんなんで泣いたら山田美江子の名がすたる、ってね。やっぱり私も私だな。
夢の世界にいる子供の私も、大人の私とおんなじに幸せ。みんながいてくれるからだね、と私は、私に話しかけていた。
「そうだったんだ。やっぱり私の想像通りだったんだね」
 夢から醒めて、夢は夢なんだから当たり前だよね、とひとりで笑っていたら、窓の外から少年たちの声が聞こえてきた。夢の続きでもあるまい、と思って窓を細く開けてみると、少年版フォレストシンガーズではない、現実の少年たちの姿が見えた。
 小柄な中学生が四人、朝の浜辺にいる。四人? 目を凝らしてみると、その中ではいくらか背の高いのは数馬くんだった。サンの少年たちは中学一年、数馬くんは三年生なのだから、背が高いのも当たり前だ。
声にしても三人は子供そのものだが、数馬くんは変声期もすぎているので、大人に近い。
 他には人影のない浜で、十二歳三人と十四歳ひとりはなにをしているのだろうか。エヌとユーはやや離れた場所に立っていて、エスと数馬くんは口争いをしているように見えた。
「おまえの父ちゃんとオレらはなーんも関係ねえんだよ」
「おまえとはなんだよ。オレはおまえらより年上だぞ」
「それがどうしたんだよ」
 おじさんたちが出てきたよ、とユーが言い、エスと数馬くんはそろってぎくっとした。おじさんたちとはFSの五人で、恒例の朝の運動なのだろう。トレーニングウェア姿の五人が見えると、エヌはユーの背中に隠れ、エスが言った。
「オレ、本橋って奴は……」
「呼び捨てにすると怒られるぞ。うるせえんだから。オレは本橋さんよりも、どっちかってーと乾さんのほうが……あれ? エス、おまえ、本橋さんになにかされたのか?」
「なんにも」
「エヌかユーがなにかされたのか? エヌが怖がってる」
 なんでおまえが怖がるんだ、と尋ねられたエヌは、おどおどした様子で言った。
「僕はなんにもされてないけど……されたのはエスだろ」
「オレもなんにもされてねえよ。おまえは怖がりなんだから。しゃきっとしろ」
 なにをされたんだ、と数馬くんが追求し、あのねぇ、と答えようとしたユーに、エスが砂をかけた。なにをするんだっ、と怒ったのは数馬くんで、砂のとばっちりを受けたらしい。そこからなぜかエスと数馬くんの砂のかけ合いがはじまり、ユーとエヌは本橋くんたちのほうへと走っていった。
「あーあ、知ーらないっと」
 知らないと言ったものの、私は彼らを観察していた。
 やがてユーが先導して本橋くんと乾くんがやってきた。数馬くんとエスの砂のかけ合いは激しさを増していて、双方砂まみれ。乾くんが数馬くんを、本橋くんがエスをつかまえたのだが、ふたりともに滾っている。本橋くんと乾くんは目と目で語り合い、それぞれにひょいと少年を肩にかついだ。
「おとなしくしろ」
 その気になれば乾くんにも凄みの漂う声が出せる。子供を相手にしているにすれば、乾くんの声にはかなりの恫喝調があったのだが、数馬くんも負けずに叫び返した。
「やだ。降ろせっ!!」
「やだだと? 大人の言うことを聞かないガキは……いいんだな?」
「いいんだなって? やだよっ!」
「パパに言いつけるのか? 言いつけてこいよ。なんて言いつけるんだ? 言ってみろ」
「うーううう」
 明らかに乾くんは面白がっていて、本橋くんは本橋くんで、エスに言っていた。
「朝っぱらからおまえらはなにをやってるんだ。元気が有り余ってんのか。そんなら俺たちといっしょに朝のランニングだ。シゲ、受け止めてくれ」
 肩から一旦地面に降ろしたエスを、本橋くんが抱え上げて放り投げ、彼の身体は宙を飛んでシゲくんの腕にキャッチされた。続いて数馬くん。数馬くんはエスよりは重いはずだが、乾くんも軽々と本橋くんと同じようにし、シゲくんも同様に数馬くんを受け止めた。
「走るぞ。ついてこい。幸生、章、坊やたちを逃がすなよ」
 言ったシゲくんが走り出し、章くんが数馬くんの、幸生くんがエスの腕をがっちり抱えてついていこうとした。
本物の子供体型のエスは幸生くんの力にもかなわないようで引きずられていったのだが、数馬くんは章くんの腕をふりほどいて逃げようとした。逃げようとはしたものの、あっという間にシゲくんが追いついて引き戻し、シゲくんは言った。
「走るとすかっとするぞ。喧嘩なんかしてるのが下らなく思えるほど気分爽快になるんだ。だまされたと思って走れ」
「やだよ。走るほうが下らないじゃん」
「走るのは下らなくなんかない。ランニングは体力づくりの基本だ」
「そうだよぉ。それでも逃げる? あっちに逃げると乾さんがいるよ。数馬は乾さんが怖いんだろ」
 幸生くんに脅された数馬くんは、うっ、ううっ、とまたまた唸り、乾くんを上目遣いで見た。乾くんは半分笑っていて、半分はいかめしい表情を作り、おいでおいでと手招きしている。数馬くんはくっそーっ、と叫んで走り出した。
「ユー、エヌ、おまえたちも走ろう」
「いえ、僕は……」
「ぼくも……」
 こちらのふたりも逃げようとしたのだが、本橋くんにむんずとばかりに襟首をつかまれて降参した。
「そうだね、きみたちは素直だね。歌を歌うには体力も大切なんだ。走ろう」
 乾くんがにっこりと言い、本橋くんはげんこつを固めて言った。
「おし、ついてこい。逃げるとこれだぞ」
「逃げないよな。おじさんたちはきみたちを信じてるよ」
「乾、てめえでおじさんと言うな」
「失言、お兄さんたちだったな」
 タンクトップ姿であらわになっている本橋くんの二の腕の筋肉も、ショートパンツから伸びたたくましい脚も、何度見てもちょっぴり猛々しく感じる脛の毛も、本橋くんよりは控えめとはいえ、腕も脚も男でしかない乾くんの同じような姿も、朝の陽光の中で私の目を眩しくさせる。
 少年たちも走り出し、そのうしろから本橋くんと乾くんが走っていく。本橋くんは紺に白、乾くんはブルーにベージュ、本橋くんはがっしりしていて、乾くんはすんなりしているけれど、無駄な贅肉のない身体つきが、うしろ姿でもよくわかる。
三十歳間際の男たちの身体は、学生時代の若々しさも多分に残し、それでいて大人の男そのもので、大人になったんだねぇ、と言いたくなる。あなたたちは決しておじさんではなくて、大人の男になったんだよ。
 ああやって腕力を使われたら、少年たちでは抵抗は無駄なのは自明の理だろう。なんだかかわいそうな気もするけど、息子でも弟でもないにせよ、あれは教育、鍛錬なのだろうから、私が口出しするのはやめておこう。
 だけど、鍛錬ってのは私にも必要かな、と思いついて、Tシャツとショートパンツに着替え、帽子をかぶって浜に出た。
本橋くんたちの姿は遠ざかってしまっていたのだが、FSとサンの中間の年頃の若者たちもまた、走っていた。章くんはピンクで、幸生くんは赤のタンクトップを着ていたが、燦劇の面々はトレーニングウェアでも色とりどりだ。派手なグリーンやら蛍光イエローやらのTシャツ、タンクトップ、眼が覚めそうなオレンジのパンツだったりする燦劇の五人が、私を認めて口々に言った。
「おっはよーっす」
「山田さんもジョギング?」
「キミたちも?」
「そうなんだよ」
 あー、やだやだ、と言いたそうにも見える、ファイが言った。
「本橋さんに言われたんだ。おまえらは不健康な格好をしてるけど、中身まで不健康でどうする。朝は早起きして走れ、ってさ」
「俺もシゲさんに言われたよ。走るのがすべての基本だ、だってさ」
 エミーも言い、私はこちらの五人といっしょに走り出した。
「やっぱり彼らはおじさんになりつつあるんだね。若者たちに好影響を与えてるんだから、いいんだろうけど」
「若者たちって、俺たち以外も?」
 走ってるときに喋ると、体力の消耗が激しくなりますよ、とシゲくんに言われたこともあるのだが、こちらはちんたら走っているのだからいいだろう。問いかけたパールに言った。
「サンの僕ちゃんたちと数馬くんを連れて、うちのおじさんたちは……っと、おじさんたちって言ったら、私もおばさんになっちゃうから言い直すね。うちのお兄さんたちも走ってった」
「数馬とサン? あいつらがよく言うこと聞いたね」
 トビーも言い、ルビーも言った。
「無理やり連れてった?」
「無理やりみたいなものかな。朝からエスと数馬くんが浜辺で喧嘩してて、ユーが本橋くんたちに言いつけにきて、本橋くんと乾くんがエスと数馬くんを引き剥がして、ふたりしてこうやって担ぎ上げて、ユーとエヌも脅迫して連れていったの。ああいうのは女にはできません。エスにだって全力で抵抗されたら、私だったら負けちゃいそうだもの」
「エスって奴は小生意気だからな。もっとやってやったらいいんだよ」
「おまえが乾さんにやられたようにか、ファイ?」
 にやりとエミーが言い、パールも言った。
「あんなふうにされたら、子供だったら脚が折れるよね。うんうん、ファイは脚は大人になってるんだ」
「うるせえんだよっ、おまえらはっ!! エミー、パール、覚えてろ」
 はるか前方に、三人の大人と四人の少年と、知らなかったら大人だか少年だかわからないようなふたりの、合計九人の背中が見える。
燦劇の面々が大声で、おーい、本橋さーん、乾さーん、シゲさーん、木村さーん、と呼びかけ、パールは叫んだ。ユキちゃーん、待ってよぉぉーっ!! その声に応えて、幸生くんの叫び声も聞こえてきた。やっほーっ!! 早く来ーい! だった。
 最初のうちはエスや数馬くんと変わりない反抗的少年の群れにも見えた燦劇の若者たちも、私を気遣ってくれる。おんぶしてあげようか、とファイが言うのであっかんべしたら、エミーも言った。
「山田さん、大丈夫?」
 身長は私とたいしてちがわないくせに、パールも言った。
「山田さんは女のひとだから……他はみんな男だし……」
「持久力には男女差は少ないはずよ。疲れてはきてるけど……なんのこれしき。シゲくんの口癖」
 山田、がんばれ、ミエちゃん、しっかり、美江子さん、もうすこしですよ、と三人分の男の声が呼んでいる。たぶん章くんは息が上がっていて、叫び返す元気がなくなっているのだろう。文句たらたらだった少年たちも、いまや楽しそうに走っている。私も負けてはいられない。美江子さーん、がんばれーっ!! と大音響で叫ぶ幸生くんに、がんばるよーっ!! と応えた。


真夏の太陽が海辺を輝かしくもぎらぎらと照りつけるころには、ライヴが開始される。色違いのトロピカルプリントのアロハシャツを着たフォレストシンガーズが、ステージに登場してきた。中央に立っている幸生くんだけが、赤いハーフパンツを穿いている。あとは長いパンツだ。
「みなさまーっ、フォレストシンガーズでーすっ!! 会場にお集まりいただいているみなさまのお年頃からしますと、僕らを知らない方もおられるかな。年頃なんか関係なく知られてないって? そうかも。紹介しますから覚えて下さいませね」
 幸生くんの紹介に従って、それぞれが声を出す。乾くんの高らかな「あーっ」、章くんのもっと高い「いーっ」、打って変わって低い、シゲくんの「うーっ」、甘く響きのいい本橋くんの「えーっ」、最後に幸生くんが言った。
「おーっ、おーおーっ、三沢幸生。三沢幸生です。僕を特別に……じゃないか。五人まとめて……ワンツースリー、はいっ!!」
 フォレストシンガーズでーすぅっ、うううううーっ、と全員がハモり、熱心に注目しているひともいるのだが、半分以上はつまらなそうにしている。このあとに出てくる燦劇が目当てなのだろうか。真夏の海辺には似つかわしくない、ビジュアルロッカーふうファッションの女の子たちが目についた。
「あの、あの……フォレストシンガーズのマネージャーさんですよね?」
「はい」
 振り向くと、ふっくらした小柄な女性が立っていた。彼女が押しているベビーカーの中で、赤ちゃんがすやすや眠っている。三十歳前後だろうか。どなただっけ? 必死で思い出そうとしていると、彼女は言った。
「山田さんでいらっしゃいますよね。私は山田さんとはお会いしたことはないんですけど、みなさんがデビューして半年ほどのころでしたか、乾さんとテレビ番組で共演したんですよ。乾さんが雪女を演じたときの……」
「……さやかさんですか」
「はい。結婚して、この近くの商店のおかみさんになってます。主人に上の子を押しつけて出てきました」
「じゃあ、彼らの歌を……」
「歌も聴きたかったんですけど、乾さんと……無理ですね」
「待っていてもらったら……」
「いいんです。山田さんとだったらお話しできます?」
「私でよろしければ」
 あのころはアイドルだったさやかさんだ。乾くんがいやいや出演したケーブルテレビ番組で共演して、つかの間の恋人同士を演じたのだった。
栄華盛衰の移り変わりが著しいアイドル界では珍しくもないのだろうが、さやかさんの名前はめっきり聞かなくなっていた。引退して海辺の町の商店主と結婚したのか。ステージから離れていくぶんかは静かな場所に行くと、さやかさんはベビーカーをゆっくり動かしながら言った。
「さやかは本名ですから、さやかって呼んで下さいね」
「わかりました」
「……三年になるかなぁ。乾さんとテレビでごいっしょしたころも、まるで売れてはいなかったんですけど、その後も売れるどころか、下降線一方だったんです。そのころに今の主人と知り合ってプロポーズされて、思い切って仕事はやめてついてきました。上の子が産まれて、この子も産まれて、店もあるし、めまぐるしく忙しくて、そんな生活のほうが私には合うんだな、って思ってたんですけど、フォレストシンガーズがイベントにいらっしゃるって聞いて、一気にあのころがよみがえってきました。売れてないとつらいこともたくさんあったけど、楽しかった。乾さんとは後にも先にもあれだけの触れ合いだったんですけど、なぜだか忘れられなくて……」
 恥ずかしそうに笑って、彼女は続けた。
「だってね、こうやって抱き上げられたんですよ。私も太って重たくなっちゃって、もうできないかもしれないけど、あのころは細かったの。覚えてらっしゃいます?」
「私もテレビは観ましたよ。さやかさんは華奢で可愛くて……いえ、今でも可愛らしいママさんぶりです」
「面影もありませんよ。食べるだけが楽しみなんですもの。素敵なひとときだったな。雪女の乾さんには拉致されていったんですけど、そのあとね。雪の中に倒れてる私を乾さんが抱き上げて、抱いたまま歩いていくんです。乾さんの力強くて優しい腕の中で、私、どっきんどっきんしてました。告白しちゃおうかしら、って思ったの」
 いったい乾くんに恋をした女性は何人いるのだろうか。彼女側の片想いまでを計算に入れたら、彼は百人ほども女性を泣かせているのではあるまいか。
「好きです、乾さん、私を本当の恋人にして、なーんてね、言ったらどうしたかな」
「さあ? 私には想像もつきません」
「そのあとで共演者の女の子たちが私に意地悪を言って、乾さんは当惑顔で見てました。とりたててなにも言わなかったけど、優しい目で私を見てくれてた。胸がきゅきゅきゅーん、ってね。あんな胸のときめきは最後でした」
「ご主人には?」
「それはまた別。ときめくような主人でもないし……いいんですよ、まあまあ幸せなんだから。乾さんに今さらそんなことを言っても困らせるだけでしょうから、会わなくてよかった。山田さんとお話しできてよかった。乾さんには内緒にして下さいね」
「はい。もうお帰りに?」
「子持ちの零細商店のおかみさんには、ゆとりはほとんどないんです。フォレストシンガーズの歌を生で聴きながら帰ります」
「お近くなんですよね」
「近いけど、バスに乗らないといけない距離です」
 あーあ、私の世界はなんて……と呟いて、さかやさんは立ち上がった。
「綺麗な声……乾さんだ。今でも私の心の恋人は乾さん……嘘、嘘。こんなおばさんになっちゃってね……乾さんには会いたくありません。所帯やつれした姿を見られたくないもの」
「さやかさん……」
「山田さんはキャリアウーマンですよね。かっこいいな。うらやましいな。山田さんは仕事で自立してらっしゃるんだから、経験者から忠告しておきますね。よほどでない限りは結婚なんかしないほうがいいですよ」
「は、はあ……」
「いいなぁ。恋人ではないにしても、乾さんのそばにいられて……恋人ではないんですよね」
「ただのマネージャーです」
「そっか。よかった。この上山田さんが乾さんの恋人だなんてことで、ああして抱き上げられたりしてるんだったら、私、きーっ、ってなって山田さんをひっかきたくなっちゃう」
 返答のしようがなくなった私を見返して、さやかさんはにこっと笑った。
「ごめんなさい。好き勝手に言っちゃって。ストレス解消できたみたい。山田さんも大変でしょうね。がんばって下さいね」
「さやかさんもがんばって下さい」
「がんばりますよーっ。かき氷食べてから帰ろうっと」
 また太っちゃう、とてへへと笑って、丁寧に頭を下げて、さやかさんは歩み去っていった。好き勝手に言ってくれていたのは事実だったが、ああやってストレス解消したというのは、私にもわからなくもない。
 働く女も主婦も、両方のさやかさんもがんばってるんだね、と私は、さやかさんの、大地を踏みしめる、あのころよりは格段に太くたくましくなった脚を見ていた。
「聞きしにまさるほどもてるんだ、乾さんって……」
 ぎょぎょっとしたのは、話しかけてきたのがビジュアルロッカーだからだった。黄色の衣装、黄色の瞳、金髪、ゴールドを基調としたメイク、トパーズだ。燦劇のトビーである。
「あのひと、誰?」
「誰でもいいでしょ。キミたちはステージじゃないの? さぼってちゃ駄目だよ」
「乾さんがあのひとを抱き上げた? 俺には無理そう」
 ファイはモデルでも通用しそうな長身で、エミーも乾くんほどあるから長身の部類だろう。ルビーでがたっと背が低くなり、シゲくんよりも低い。トビーはルビーより低くて幸生くん程度。パールが章くん程度。ファイは細身ではあるものの男っぽくなくもなく、エミーはやや女性的。あとの三人は小柄で、体格も少女に近い。
 女の子っぽいのは外見だけで、中身は傍若無人変人ロッカーなのだが、ロッカーは女の子でも傍若無人なのだから、男女差の少ない世界なのだろうか。トビーの細さも幸生くん以下で、これでは現在のさやかさんを抱き上げるのは不可能かもしれない。
「乾さんのモトカノ? いまや主婦?」
「どうでもいいの。キミには関係ないの。次は燦劇でしょ。準備は?」
「はーい。行って参ります」
 駆けていくトビーのニセ金髪が、きらきらと陽光を反射していた。
 

4

予想通りの騒動もあったけれど、事件と呼ぶほどのことでもなく、間もなく夏のイベントも終了しようとしている。本橋くんとふたりきりで散歩だなんて、学生時代にもあったかなぁ、と考えつつ、夕方の浜辺を歩いていた。
「でも、まあ、けっこうみんないい子だよね、燦劇もサンも」
「いい子か。おまえも年食ってきた証拠だよな、その台詞は」
「大人になったって言ってよ」
「そうとも言えなくもない」
 多感な青春時代だなどと言うと、年寄りの台詞だと笑われそうだ。だけど、あのころは青春だったのだから。今では青春はすぎたのもまちがいないのだから。現在の私たちは、季節に合った夏真っ盛りを生きている。
 十八歳から二十一歳までの四年間、夏をここですごした。みんなで歌を歌い、ひとりでも歌った。仲間たちの歌を聴いた。本橋くん、乾くん、シゲくんやヒデくん、幸生くんや章くんの歌声、女子部の仲間たちの歌声が耳に届いてきそうだ。先輩たちや後輩たちの顔や声も胸によみがえる。
 恋をしていて幸せで、寂しかったりも苦しかったりもした一年生の夏。星さんの胸にもたれて、甘い囁きと星のまたたきに酔っていた。星さんが私の長い髪を指に巻きつけ、好きだよ、美江子、好きだよ……
 その冬には別れを告げられて立ち直れなくて、切なくてつらかった二年生の夏。妹をあやすかのように、私をなだめてくれた金子さん。美江子ちゃんは泣かないんだね、えらいえらい……
 金子さんに恋をしていて、片想いのまんまでさよならしたと、泣いていたのは後輩の沙織ちゃんだった。三年生だった私は彼女の打ち明け話を聞いて、先輩ぶって言った。男は金子さんだけじゃないよ……
 あんなガキとつきあうなよ、と本橋くんが言い、ほっといてよ、と言い返したのは四年生の夏。僕は美江子さんが好きです、と叫んだ酒巻くんに、私は言った。ごめんね、私ももうじき卒業だから、いつまでも酒巻くんとつきあってられないのよ、ごめんね、さよならしよう……
 いっぱいみんなと話した。議論もした。喧嘩もした。誰かと誰かがキスしているのを盗み見したり、誰かと誰かがもめてるのを立ち聞きしたり、笑ったり怒ったり困ったり。
私自身の声にかぶさって聞こえてくるのは、誰かの声。いろんな声。女子部のコーラス、男子部のコーラス、混声コーラス。話し声と歌声が何重にも重なって耳に聞こえる。
 ここは私の「想い出の渚」。優しい想い出たちがなつかしすぎるほどに胸をざわめかせる。あれから十年近くが経過して、けれど今も私のかたわらには、あのころの仲間たちがいてくれる。シゲくんは結婚したけど、次は誰かなぁ、と本橋くんに言おうとしたら、本橋くんの声が私を現在に引き戻した。
「また思い出し笑いか。だからおまえは……」
「本橋くんには負けるよ。ドスケベ度では女は男にはかなわないの」
「そうでもないだろ」
「どうでもいいけど、本橋くんの恋はいかが?」
 問いかけたら、本橋くんは白々しくも言った。
「このところもてなくなってなぁ」
「へぇ、前はもててたの?」
「もててたぞ」
「そうだったっけ」
 思い切り首をかしげてみせると、本橋くんの口調がむっつりになった。
「おまえは? あれは終わらせたんだよな」
「あれってどれ? たくさんありすぎてどれだかわからないけど、どれもこれもとっくに終わった。気にしてくれてたの?」
「誰が」
「……私は仕事に生きるんだって言わなかった? FSもようやくいくらかは売れてきて、これからじゃないの。恋なんかしてる暇はない」
「そうかぁ。恋と仕事は別ものだろ」
「そうとも言えない」
「そうかね」
「ね、覚えてる?」
 ちょうどここだった。二十代も残り少なくなっている私たちが、まだうんと若かったころ、ここで私は言うつもりもなかった不倫の話をして、本橋くんを怒らせて、あげくのはては暴力をふるったのだった。
「本橋くんは幸生くんや章くんにはよく暴力をふるうけど……」
「あんなもんは暴力じゃない」
 どこらへんからを暴力と呼ぶのか知らないが、本橋くんはいつも断固としてそう言う。
「げんこつでぽかっ、は暴力じゃないんだ。それにしても、本橋くんは私にはその程度もやったことないね」
「おまえにはしょっちゅうやられてるけどな」
「嘘。私は暴力なんか……一度だけあったけど」
「一度じゃねえだろ」
「一度だけですよ」
 そうだったかな、ととぼけて、本橋くんが立ち止まった。覚えている。私ももちろんだけど、彼も覚えているのだと確信した。
「私のこと……みんな……こんなに頼りないマネージャーなのに……」
 尊重してくれて、大切にしてくれて、いつだって守ろうとしてくれて、私のために怒ったり、私のために闘ってくれたりした。口に出せば本橋くんは照れてしまうだろうけど、言いたかった。言いたくて言えずにいると、鼻の奥がつんつんしてきた。
「なんだよ、なんだなんだ、なんで泣くんだ」
「泣いてないけど、言っていい? ありがとう」
「なにがありがとうなんだか、さっぱりわからない」
「そうだね、本橋くんは乾くんじゃないんだから……」
「シゲほどじゃないつもりだけど、鈍感だよ、俺は。さっぱりわからないついでに訊くんだが、キスしていいか」
 絶句、だった。突如としてなにを言い出すの? だった。
「……俺は口はうまくない。乾みたく上手に言えない。だからってこればっかりは、あいつにかわりに言わせるわけにもいかない。山田、俺を男としては見られないか」
「本橋くんが男じゃなかったらなに? そんな女はいないよ」
「いないだろうな」
「……本橋くんがもてなくなった理由がわかった」
 真剣な表情がすこしばかり怖くなって、私はわずかにあとずさりした。
「野暮だから。そんなこと、訊いてからするものじゃないんじゃない?」
「いきなりやったら殴られそうだからさ」
「殴らないってば。私が本橋くんを叩いたのは、あれ一度っきりでしょ? ひょっとしたらこだわってるの? 不倫経験のある女なんて汚らわしいとでも?」
「過去にこだわるんだったら、こんなことは言わないよ」
 何度恋をしたんだっけ。高校生の幼い恋、大学生の大人のつもりの恋、社会人になってからの恋も二度。誰にも言わなかったけれど、アルバイト先で知り合った男性とも一時つきあっていた。だけど、こんな感覚ははじめてだった。
 骨がきしみそうに強く抱きしめられて、くちびるを合わせて、息も止まりそうな長いキス。長い長い情熱の口づけ。本橋くんは私を好きだったの? いつから? 私もきっとずーっと好きだったんだって、たった今知った。私が本橋くんを好きだった、今でも好きだと教えたのが本橋くんとのキスだったなんて、想像もしていなかった。
「ね、本橋くん? 気の迷いじゃないよね」
「ちがう」
「でも、いつかまた、ふたりとも別の恋をするかもしれないね」
「俺はしない」
「私はわからない」
「おまえなぁ」
「約束しない? 三十すぎてもふたりが独身だったら、結婚しようよ」
「結婚しようよ、は男が言うもんだろ」
「誰が決めたの?」
「……決まってはいないな」
「うん、そうしよう。いや?」
「いやじゃない」
 これって私からのプロポーズ? 誰かに見られたら困るよね、と身体を離して、リーダーとマネージャーの会話に戻って、けれど、心の中にちっちゃな灯りがともっていた。
 どうして突然、彼は私にキスしたくなったんだろう。恋って一般的には、なんらかのきっかけがあってはじまるものではないのだろうか。私たちの最初のきっかけは合唱部の新入生同士の出会いだったけど、あれは友達になったきっかけであって、恋の発端ではなかった。
 かけがえのない仲間たちなのは、他のみんなだって同じだ。私は乾くんもシゲくんも幸生くんも章くんも大好き。
私が女だからって仲間はずれにして、って怒ってみたり、男なんて大嫌い、って怒ってみたり、私も男だったらよかったのに、だとか、男になんか生まれなくてよかった、だとか、男たちに囲まれて仕事をしている間には、いろんなふうに考えた。
 なにをどう考えようと、彼らは男で私は女。だからこそいつの間にやら、本橋くんと私の想いは……きっとそうなのだろう。いつの間にやら、いくつものできごとが積み重なってこうなった。
「明日は帰るんだね。美江子さーん、最後の夜にユキちゃんの最後のお願い、聞いてくれません?」
 ふたりしてなに食わぬ顔で宿に帰ると、幸生くんがすりよってきた。
「聞いてくれないだろうな。リーダーに殴られるのが関の山か。いいよいいよーっだ。章、風呂に……うげ、なんにも言ってないのになんで殴るんですか」
「言ったのと同じだろ」
「はれれ? 俺、それらしきことでも言いました?」
 本橋くんにぼかっとやられて頭を押さえている幸生くんに、私は尋ねてみた。
「そんなに女がお風呂に入ってるのを見たい?」
「見たいんじゃなくて、お疲れの美江子さんのお背中をお流ししたくて……いえ、正直言ったら見たいですよ。男だもん。当然じゃん」
「開き直ったね。章くんも見たい?」
「そりゃあまあ、見せてくれるんだったら見たいですよ」
「シゲくんは?」
 いいえいいえ、とシゲくんは頭を振っていた。
「シゲくんは恭子さんといっしょにお風呂に入るんだもんね。私の入浴シーンなんか見たくもないよね」
「恭子と風呂になんか入りませんよ」
「ほんと? まあいいか。乾くんは? 見たくなんかないよね。本橋くんも見たくないよね。目が腐るもんね。どうせそうですよーだ」
 ああ、見たくねえよ、と本橋くんは言い、乾くんは笑っていた。
 もしかしたらもしかして、本橋くんにだけは、いつかは見せてあげられるのかもしれないね。そうなったとしても、見たくねえよ、と彼は言うのだろうか。
「乾くんは……」
「俺がなに?」
「ううん、いいんだけどね」
 たぶん乾くんも恋をしている。相手はあの柏原美里さんだろう。なにも打ち明けてはくれないし、美里さんが乾くんを好きなのかどうかは知らないけれど、恋に関する女の勘は鋭いのだから、乾くんの気持ちはそうにまちがいないはずだ。シゲくんが恭子さんとの恋を実らせたように、乾くんも美里さんへの想いを実らせて、彼女も受け入れてくれたらいいね。
 そしたら、乾くんがシゲくんの次に結婚するのかな。その次は本橋くんと私? 実感湧かないなぁ、などと考えて、私は自室に引き取った。
 よほどでないと結婚なんかしないほうがいいと経験者は語っていたけれど、まあまあ幸せだとも言っていた。ベビーカーの中の赤ちゃんの安らかな寝顔も思い出して、私にもいつかはあんな赤ちゃんが……そんな想像もして、けれど、明日がどうなるかわからないのが人生なんだから、乾くんと美里さんにせよ、私たちにせよ、とそこまで思いをめぐらせて気づいた。
 私たち、だって。私たち……私と本橋くん、私たちの将来はどうなるんだろうね。本橋くん? あなたも今、男性たちの部屋で私を思ってる? たった一度のキスが、私たちの将来に変化をもたらすのだろうか。私の心が変わったのはきっとまぎれもないけれど、本橋くんも?

                                               
 どこを境に「おたく」になるのだか知らないけど、男にはおたく傾向のあるひとが多いようで、彼らも決して例外ではない。音楽は仕事なのだから別にしても、本橋くんがウルトラマンマニアだったり、シゲくんはタイガースマニアだったりする。
ロックフリークの章くんもおたくの域に達しているし、幸生くんはひょっとして女好きおたく? そして、乾くんは古典文学好きだ。
 そろってゲーム大好きだし、音楽にはむろんめいめいに一家言あるわけで、彼らの議論はいつも果てしなく広がっていく。
 長年つきあっている男同士だと、普段はあまり話もしないものであるらしいが、彼らはいつでもどこでも話している。五人の中では無口なシゲくんを除いては、みんな会話好きだから、なのかもしれない。
 売れない無聊をかこっていた数年間は、地方へ仕事に行くと宿舎はたいがい五人一室だった。私も同室となる場合までがあったのだが、それは幾度かで、大部屋に五人が雑魚寝といった夜が多かった。
 仕事の前日にその地方に到着して、トレーニングウエアに着替えた彼らは、まずは歌のレッスンをする。喉と筋力のトレーニングをしている合間にも、乾くんと幸生くんのお喋りがはまさる。章くんも負けじと喋り、本橋くんが言う。おまえらの高い声はうるさいんだよ、と。
 彼らの仕事に常に私が同行しているわけでもないのだが、いっしょにいるとつい部屋を覗いてみたくなる。真冬の温泉場に出向いた夜にも、私は彼らの部屋で練習風景を見物していた。
 低いほうの声域がもっとも広いのがシゲくん。高いほうが広いのは幸生くん。カウンターテナーではないのか、とも言われる、高い高い声を出せるのが章くん。
 優しく静かな細い声から、セクシーな低い声、迫力のある力強く高い声までを出す乾くん。甘く伸びやかな中低音がまろやかに響き、ファルセットを使えば高い声も出る本橋くん。五人のハーモニーはいつ聴いても絶品で、聴き慣れているはずの私も陶酔してしまう。
 卓抜なまでの歌唱力、個性にあふれる異質な五つの声質、それぞれの声域、表現テクニック、熱いソウル? 俺たちは歌が好きだ、のハート? いくつもの声がかもし出すハーモニー。五人ではなく、さらに大勢の男性が歌っているのかと錯覚してしまうような、私の愛する彼らの「歌」。
 何曲かのオールディズミュージックを歌っている彼らの歌声を堪能していると、部屋の真ん中でいきなりさかだちをはじめた幸生くんが、その姿勢のままで言った。
「英語の歌は頭が疲れる。リーダー、風呂に入りましょうよ。露天風呂があるよぉ。美江子さんもいっしょに入ろうよ」
「気分転換にもなるし、露天風呂に行くか。山田、行くか?」
「いっしょに入るの?」
「いっしょになんか入らなくていい。男女に分かれてるだろ。風呂までいっしょに行こうと言ってるんだよ」
 いっしょじゃないのー? と幸生くんが無邪気っぽい声を出し、ばーか、と章くんに軽く頭を蹴られて倒れた。
「なにすんだよ、おまえは。首の骨が折れるだろっ」
「そんなにきつく蹴ってないだろうが。おまえはオーバーなんだよ」
 ぴょこんと飛び起きた幸生くんは、私の首にマフラーを巻いてくれた。
「外は寒いですからね、美江子さん。風邪を引かないようにして下さいね」
「ありがとう」
「浴衣に丹前の美江子さん、色っぽいなぁ。だけど、その格好だと寒くない?」
 浴衣のきみはすすきのかんざし、などと口ずさんでいる幸生くんに、すすきのかんざしは季節はずれだよ、と章くんが言い返して、五人で外に出た。おー、さむっ、と肩をすぼめると、両側から幸生くんと章くんが肩を抱いてくれた。
「章がそこにいるのは邪魔だけど、こうしてるとあったかい。はいはい、先輩たちはお先にどうぞ」
「先輩たちはすぐ走りたがるよな」
「走ったほうがあったまる。だけど、おまえたちはミエちゃんのボディガードだぞ。あとからゆっくり来い」
「はーい、乾さん」
 あとの三人は駆け足で先に行ってしまい、幸生くんが言った。
「俺たちではあまり頼りにならないかもしれないけど、男がふたりいるんだから、熊でも出ない限りは大丈夫でしょう。章、万が一暴漢が出てきたりしたら、おまえ、走ってって先輩たちを呼んでこいよ。俺は生命を賭して美江子さんを守る」
「なにを大げさに言ってんだよ。北海道の山の中でもないのに、熊なんか出るはずないし、暴漢だって出ないよ」
「暴漢はわかんないぞ」
「暴漢は出ないと決まったものじゃないけど、私がひとりだったり、連れが女性だったりするよりは、あなたたちがいてくれるほうが頼りになるよ。男がいるというだけで怯む輩もいるし、あなたたちはその存在だけでもボディガードになる。虫よけスプレーみたいなものかな」
 虫よけスプレーって誰が言ったんだった? 思い出そうとしていると、章くんが苦笑いしているのが見えた。ずいぶんと昔に章くんが言ったのだったか? 俺は虫よけスプレー男だと。
「本橋さんやシゲさんだと、鎧を連れて歩いてるようなものなんですけどね」
「幸生、乾さんだとなんだ?」
「ハリネズミかも」
 迂闊に触れると棘に刺される。幸生くんの比喩は的確かもしれない。
「うん、でも、モロにハリネズミじゃないよね。毛皮をまとったハリネズミ。乾さんって不思議なひとですよね。美江子さんもそう思いません?」
 どんなところが? と幸生くんを見返すと、彼は思慮深い表情になった。
「声も性格も変幻自在。知性派で都会派で、クールでいながらホットな部分もあるし、意地悪なのに優しいし、かっこよくもあればずっこけてたりもする。章や俺がなにか言ったりしたりしたときには、本橋さんやシゲさんだとどう出るか、およそは見当がつくんだけど、乾さんはどう出るか謎なんだよな。そういうところが目が離せないってのか、俺、女だったら乾さんに恋しちゃってるよ」
「幸生くんはそういう趣味があったの? ユキちゃんなんだもんね」
「男としての俺にはそんな趣味はないけど、俺が女だったら、って想像してみるのはできますよ。俺がユキちゃんになってるときには、心に女が忍び込んでるのかもしれない」
 真面目に言っているのかどうかわからない、幸生くんにしても不思議なひとだと私は思う。彼はたびたび、女の子のユキちゃんになって芝居をはじめる。あとの三人はひたすらやめろとしか言わないが、乾くんだけは時折芝居につきあっているのだった。
「ユキちゃんになって、泣き真似したりするでしょ。隆也さんの意地悪ぅ、だとか言って、女の子になり切って駄々をこねてみたりする。ユキちゃんの俺は十代の美少女なんですから」
「……薄気味わるっ」
「章は黙ってろ」
 目を閉じて聞いていても、十代の美少女が幸生くんだと知っているから笑うしかないのだが、知らずに聞いていたら薄気味悪くはない。それほど幸生くんの声は少女になり切っているのだから。
「乾さんは対等の立場でつきあえる大人の女性にしか恋はしないらしいから、ぐんと年下の子供っぽい女の子となんかつきあったことはないんだろうし、ユキちゃんの俺とはファンタジーとしてつきあってくれてるんだろうけど、我が儘娘の芝居をして、乾さんに叱られてると……こう、胸がきゅんってのか」
 きみに胸きゅん? と章くんは言い、おまえ、やっぱり変だぞ、と続けた。
「泣き真似しててねぇ、もっと泣かせてやろうか? って脅されて、どうやって泣かせるの? って訊き返して、芝居に熱が入っちゃって……」
 うふふんと身をくねらせて章くんをえづかせておいて、幸生くんは尋ねた。
「美江子さんは誰にも叩かれたことはないでしょ?」
「あるわけないじゃない」
 乾くんはもちろん、本橋くんにしてもシゲくんにしても、女に暴力をふるう男ではない。そんなことに腕力を使う男ではないと、私は確信していた。
「章はなんかやったよな?」
「それほどでもないけどね」
 なんかってほどではないよ、と私が笑うと、章くんは言った。
「あのとき、乾さんに聞かれたら、俺、どんな目に遭わされてたんだろ。シゲさんは聞いてたんですよね。あのシゲさんが、ぶん殴ってやろうかと思った、って言ってたくらいだから、俺は美江子さんにひどいことを言ったんだなって。シゲさんは即座に行動を起こさなかったわけだけど、リーダーにだったら殴り飛ばされてたでしょうね。乾さんだったらどうだったんだろ。そっちのほうが怖かったかも。乾さんって時々すっげえ怖いんだ」
 沖縄での話しだろうか。それとも別の? 章くんは詳しくは言わず、幸生くんが言った。
「あのときの俺はちょびっと変になってたかもしれない。俺って変態傾向あり?」 
 変態だ、と章くんは断言し、私は言った。
「アニマだとかアニムスだとか言うの、あるでしょ? 男性の中にいる女性がアニマ、女性の中にいる男性がアニムス? そんな言葉もあるんだから、幸生くんの中にユキちゃんっていうアニマが棲んでたって、変態なんかじゃないのよ」
 そんな話をしていたら、前方に露天風呂の囲いが見えてきた。そのむこうから本橋くんと乾くんの声がする。女湯はあっちですよ、と幸生くんが言ったとき、がるるる、と唸り声が聞こえた。
「……犬?」
 うわーっ!! と、章くんが超高音で叫び、幸生くんは私の前に出た。
「食いものなんかなにもないよな。章、そのへんにウサギかリスでもいないか」
「いるわけないだろ、こんな季節に」
「そっか。先輩たちは裸だよな。狂犬じゃなかったらいいんだけど……俺がこいつを引きつけておくから、章は美江子さんと逃げろ」
「美江子さん、犬は目を見つめたらいけないんですよ。先輩たちー、誰でもいいから服を着て来て下さいーっ!!」
 囲いの上から三つの顔がこちらを見ている。囲いを乗り越えて走ってきたのは、トランクス一枚の本橋くんだった。続いてシゲくん、乾くんも、下着姿で走ってきた。
「ごめんな、おまえに罪はないんだろうけど、許せ」
 先にあやまっておいて、本橋くんが犬の顎を蹴った。犬は、きゃんっ、と吼えてはじき飛ばされ、尻尾を巻いて逃げ出していった。幸生くんが、おー、お見事、と拍手した。
「さすがだなぁ。リーダーは犬にも強いんですね。オスだったのかな、あいつ」
「犬にオスもメスもないだろ。山田、大丈夫か?」
「大丈夫。唸られただけだもの。心配させてごめんね。冷えちゃうよ。お風呂に戻って。私も女湯に入る」
 逃げていった犬が戻ってきたとしても、本橋くんにひと睨みされたら退散しそうな気がする。犬にまで威圧感を持って臨めるんだから、本橋くんってたいしたもんだよね、シンガー以外にもうってつけの職業がありそう、そう考えつつ服を脱いで温泉に向かっていたら、男湯のほうから幸生くんの声がした。
「美江子さーん、寂しいでしょ。こっちに来ません?」
 いてっ、と言ったのは、本橋くんに頭をぽかりとやられたからだろう。私がそれについて意見をしたら、乾くんは言った。
「精神的にはまちがいなく、先輩である俺たちは幸生や章を見下ろしてる。よほどでもなければ、あいつらは本橋や俺に本心からはさからえない。そんな奴らを殴るのはよくないんだよ。腕力にしても、幸生や章は俺たちより非力だろ。身体は小さいし細いし、腕力に乏しいのは見ればわかる。それでも敢えて、殴ったほうがいいって場合もあるんだよな。本橋もわかっててやってるんだ。ミエちゃんもわかってるんだろ」
「まあね」
 してみると乾くんは、怒って後輩をひっぱたくのではない。あれは決して暴力ではない。理不尽なことがらには暴力で立ち向かう場合もあるのだけど、乾くんは激昂なんてものはしない性質なのかもしれない。常にどこかで醒めているのかもしれない。
「声帯が長いとシゲさんみたいな声になって、短いと章や俺タイプの声になるんですね」
 お湯に浸かると、幸生くんの声が聞こえてきた。
「するとやはり、身長と関係あるのかな。ないのかな。リーダーと乾さんだと背丈はそんなに変わらないけど、リーダーのほうが声帯は長いんだよね」
「声の太さは声帯とどう関わってくるんですか」
 尋ねた章くんに、乾くんが答えた。
「声帯の厚みかな。本橋の声帯は厚くて長いんだろ。肩や胸も厚いよな。章の声帯は短いんだろうけど、厚みはあるんだよ。そんなにも高い声でありながら、力強く太くもあるから男の声として認識される。幸生は声帯を意識的に変化させてるんだろ。俺たちはトレーニングを積んでるから、声の出し方の技術ってのも身につけてる。ミエちゃん、なにか歌おうか」
 専門的な話をしていた乾くんが、急に私の名を呼んだ。
「そうね、ユキちゃん、女性の歌をうたって」
「山田、ユキちゃんなんて言うな。幸生がその気になるだろ」
「なってなって」
 まったく、と本橋くんがぼやき、幸生くんは言った。
「この季節と情景に似つかわしい歌といえば、ザ・カーナビーツ「マイベイビー」。ユキちゃん、女性の声で歌いまーす」
 GS好きの幸生くんは、そんなの似つかわしいか? という章くんの横槍にもめげず、高くて甘くて細い声で歌い出した。誰が歌っているのか知らなかったら、本当に女性が歌っているのだと思い込むにちがいない、そんな歌声だった。
 あのときもそのときも、本橋くんは私を守ってくれた。いつもいつでも、本橋くんだけではないけれど、みんなみんな、私のためにいくつもいくつもの……
 ねえ、本橋くんと私は、これからいったいどうなるの? キスはキスにすぎなくて、いずれはふたりともに別の恋をする? それとも? それとも、の先に続く言葉は、現段階ではなんとも言いようがないのだった。

END


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