ショートストーリィ(しりとり小説)
119「ミラクル」
しりとり小説119
「ミラクル」
既婚で子どももいる友人が言った。
「パソコンなんていらないと思ってたんだけど、大学受験について調べるのに使うんだって。高いのに、とは思うんだけど、パパも乗り気になって、買っちゃった」
「あなたは使ってるの?」
「息子が教えてくれたから、ちょっとは使えるようになったよ。便利は便利かな。綾女ちゃんはどう?」
「……仕事では使ってるけどねぇ」
当時のパソコンはひどく高価で容量も乏しく、インターネットだって常時接続以前の時代だったから電話料が高くつき、じきにフリーズしたり回線が切れたり、電話と同時には使えなかったりするしろものだった。
なのだから、友人が買った、便利だ、と聞かなかったら、仕事だけでいいと思っていたかもしれない。
息子や娘のいる友人は若い世代からさまざまな刺激を受け、おばさんなのに意外と新しい情報を持っていたりする。綾女のように独身で、職場にも若者は少なく、いたとしてもまともに相手にしてもらえない四十代は、時代の流れに取り残されてしまいそうだった。
一念発起、綾女もパソコンを買った。
我が家に運び込まれたデスクトップパソコン。間もなく常時接続、使い放題の契約ができるようになったから、暇があるとインターネットの世界で遊んだ。あのころは「ネットサーフィン」などと言っていたものだ。
「ミケちゃん、こんばんは」
「あら、ヤメちゃん、来てたの」
チャットというものを知り、もの珍しさもあって綾女はその世界にすこしはまった。洋画好きが集う談話室のようなものがあり、マニアックな映画の話などで盛り上がっているうちに、ひとりの人物と知り合った。
ハンドルネームは「ヒジュラ・ミケ」。ヒジュラとはインドのニューハーフの名称だ。遠い昔には男でも女でもない神聖な存在として尊重され、現代では卑賤な人間扱いされているというヒジュラについては、インド映画で見た知識があった。
そんなものは知らない誰かが、ヒジュラってものものしい名前ね、なんの意味があるの? と質問したら、火樹羅よ、と当人が答えていたが、チャットでの口調といいこのハンドルネームといい、正体はそういった性癖のある男性なのだろうと綾女は確信していた。
知らないひとは女性だと思っていればいいし、知っている者にはわかると本人は考えているらしい。ニューハーフ扱いでも女性扱いでも、彼はなんということもなく受け入れている。ヒジュラよりも「ミケ」のほうが簡単なので、チャットではいつもそう呼んでいた。
一方、綾女は本名の「あやめ」をもじって「ヤメ」がハンドルネームである。辞め、病め、止め、に通じてよくないな、と言われたこともあるが、むしろダークな感じが気に入っていた。
「ふたりっきりの部屋に行きましょうか」
「そうね。ミケちゃんに聞いてほしいこともあるから」
「じゃあ、行くね」
ふたりきりの部屋とは、他人をシャットアウトできるチャットルームだ。あらかじめグループで決めておいたパスワードを打ち込まないと入れない。ミケに相談ごとをしているうちに、ネットの世界では彼と綾女はそこまで親しくなっていた。
「Kくんのことなの」
「あんた、まだあの若造にこだわってるの」
「だって好きなんだもん」
「好きってね。いいトシしたおばばが駄々こねてんじゃないわよ」
「いいトシとはなによっ。おばばとはなによ。駄々とはなによ」
「あたしはほんとのことしか言ってないのよ」
毒舌がいっそ小気味よくて、自虐気味になってしまう。この話題はヤメとミケの定番だった。
今年の春、綾女がパソコンを買って夜には向かうようになったのと近い時期に、大学卒業後の研修を終えた新入社員が配属されてきた。綾女は経理部で、新人は女性だったのだが、隣接した人事部に男性新入社員が入ってきた。
二十五歳、眉目秀麗を絵に描いたような清潔でさわやかな青年の名前は近藤要平、そんな一流の大学を出て、どうしてうちみたいなそれほど大きくもない会社に? とは大方の疑問だったようで、無遠慮に尋ねた男性社員に、彼は答えていた。
「あまり成績がよくなかったんです。でも、がんばります。全力を尽くします。先輩方、よろしくお願いします」
「バブルのころだったら、きみだったらもっといい会社に入れただろうにね。生まれてきたのがちょっとばかり遅かったな」
「そんな、うちはいい会社ですよ」
そう言って笑った近藤は、ね、綾女先輩? と同意を求めた。
あの瞬間から、綾女は彼に恋してしまったのだ。
むろんそんな感情はおくびにも出さないようにしている。二十五歳の青年に恋してどうにかなるような年齢でも外見でもないと、身の程は知っているつもりだ。四十五歳、社歴も二十五年になり、同年輩の女性は皆退職し、男性は役付きになっている年頃なのだから、感情を隠すのだって巧みになった。
けれど、隠していると苦しい。社内では誰にもばれていない自信があるが、なんの利害関係もない場所では表明したくて、ミケに打ちあけてしまったのだった。
「いい加減に諦めなさいよね」
「普通のことばっかり言わないで」
「だって、普通に一般常識で考えたら、おばばがハンサムな好青年と仲良くなるってことが無理でしょうに」
「わかってるわよ。私は彼とひとことでも口をきけたら、その日一日が楽しいの」
「今日はなにか話した?」
「お昼に社内食堂で会ったわ。私はお弁当を食べてたから、おいしそうですね、お料理うまいんですね、なんて言われた」
「今度、あなたにも作ってきてあげようかって言った?」
「言うわけないでしょ」
「馬鹿ね。言えばいいのに。いやいや、言わないほうがいいか。そんなことを言ったら気持ち悪がられて、あんたのたったひとつの楽しみまでなくなるもんね」
「どうせそうよ」
匿名なのもあるから、ミケは好き放題言ってくれる。
「実は母が作ったんだけどね」
「その弁当? うわっ、いいトシしたおばばがお母さんに弁当作ってもらってるんだ」
「母は料理が生き甲斐なんだもの」
「うわぁ、最悪。そんな娘がいたらお母さん、死ねないね。長生きできていいかもね」
「そうよ、きっと」
現実生活では決して口にできないような会話ができる。ミケとのやりとりは綾女のリクレーションのようなものになっていた。
そうして十五年、インターネットの世界もさまがわりし、綾女も個人のパソコンを三回、買い換えた。社内業務も日進月歩で年齢的にもつらいものがあるが、定年までは踏ん張るつもりでがんばっていた。
「定年って今は六十五歳でしょ」
「そうなの。もうじき私は定年で隠居できるって思ってたんだけど、うちも延長になったのよ。六十で辞めてもいいんだけど、お金はほしいしね、辞めても暇になるだけだから続けようかな。それとね」
「なになに?」
十五年の間にはチャットルームのメンバーも変わった。そもそもチャットなんてものは流行らなくなってきているのだが、ミケとヤメは主のようになって居座っている。今夜もふたりきりの部屋にこもって話していた。
「Kくんが転勤で戻ってきたの」
「Kくんって誰だっけ」
「ミケちゃんと知り合ったばかりのころに、私が恋してた若者よ。覚えてない?」
「あ!!」
思い出してくれたらしい。
あのころの綾女は四十五歳の恋する乙女だった。高校生に戻ったような心持ちで、けれど、現実は中年女。二十歳も年下の男の子に恋をして、心のはずみが楽しくて苦しかった。
そんな気持ちをミケに話して、散々にからかわれたり毒舌を浴びせられたりしているのも楽しかった。誰にも言えるはずのない想いだからこそ、どんなに悪しざまに言われても聞いてくれるミケがありがたかったのだ。
「彼は三十くらいまではうちの支社にいて、結婚して子どももできて、転勤していっちゃったのよね」
「そうだったわね。想い出してきたわ。ヤメちゃんったらしつこくて、その怨念が怖かったもんね」
「一方的な片想いだから続いたのよ」
彼が結婚すると聞いたときには相手の女性がうらやましかったが、ショックでもなかった。芸能人に恋をしていたようなものだったからかもしれない。
大先輩としての綾女には親しみを持ってくれていた近藤は、結婚式にも招待してくれた。可愛らしい二十代の花嫁を見て、綾女は近藤の母のような気持ちになっていた。
三十代半ばで彼が転勤してしまってからは、さすがにつきものが落ちたようになっていた。ミケにも話さなくなっていたから、彼は忘れてしまっていたのだろう。
「禿げたオヤジになってた?」
「ううん。そりゃあ老けてはいたけど、スリムでダンディなかっこいいおじさまになってたわ」
「あんたにおじさまとは言われたくないでしょうね。彼、いくつ?」
「四十歳かな。それがね、離婚したんだって」
「あらま」
「子どもさんが亡くなったらしくて、それでぎくしゃくしたって言ってたわ」
「そうだったのか、気の毒にね」
六十歳間近になれば、あとは定年までなんとか勤めて日々をやりすごすだけだ。枯れた心境になっていたのが、思いがけなくも定年が伸びた。おまけに近藤が戻ってきたのもあって、綾女の毎日がリフレッシュされた。
一般職だと異動も転勤もないので、綾女は入社以来経理部にいて、今では経理の北政所だとか呼ばれている。近藤は総務部の部長として戻ってきていた。
「みーんないなくなってるのに、綾女さんだけは残っててくれて嬉しいですよ。なつかしいな」
「化け物がいるって思ったんじゃありません?」
「いいえ。やっぱり独身だとお若いですよね。綾女さんは今でも美人です」
「お上手になられたこと」
ふたりで笑い合うのが楽しくて、久しぶりの胸のときめきを覚えた。
「綾女さん、飲みにいきませんか」
「え? ふたりで?」
「俺と飲みに行くと怒る誰かがいますか」
「いるわけないでしょ」
「そうなんですか。綾女さんは美人だから、独身でも恋人はいるのかと思ってた」
「いるわけないってば」
「うん、安心しましたよ。だったら行きましょう」
なつかしさだけで誘われているのだと思っていたから、綾女も多少はためらったものの、近藤とふたりで飲みにいくようになった。互いに気楽な独り身だ。綾女の両親は五年ほど前に有料老人ホームに入居して、それから間もなくして相次いで亡くなっていた。
飲みにいっても話題はつきない。綾女から見れば四十代になったばかりの近藤は若々しくて青年にさえ映る。十五年前の切ない片想いを想い出すと、いまだ胸がきゅーっと締め付けられた。
「本気で言うんですから本気で聞いて下さいね」
「なんでしょうか」
「綾女さん、結婚して下さい」
「えーっ?!」
絶叫しそうになって慌てて口をつぐみ、絶句してまじまじと近藤の顔を見た。
「俺はひとりでは生きていけない男なのかな。なつかしい綾女さんに再会して、こうしていると楽しいし安らげる。綾女さんだって俺を嫌ってはいないでしょう? 俺が再婚なのは知ってるんだし、ごちゃごちゃ話さなくてもなんでもわかってくれている。一緒に暮らしましょうよ」
「私と再婚したいってこと?」
「綾女さんは初婚なのに、バツイチ男はいやですか」
「いやなんてそんな……」
夢を見ているのかしら? 今日はエイプリルフールじゃないわよね? 近藤さん、誰かとおばばを落とせるかどうかって賭けでもしていない? 罰ゲームだったりしない?
「本気で真面目に答えるんで、笑わないでね」
「笑いませんよ」
「あなただったら再婚するつもりになれば、三十歳くらいの女性だって大丈夫じゃない? もう一度子どもを持てますよ」
「いいんですよ、そんなの。若い女なんてつまらない。俺は綾女さんと会ったときから好きだったんだけど、あのころはね、二十代で四十代の女性と結婚は考えられなかった。すみません」
「いえ、当然だからいいのよ」
他には悪い可能性はないかしら、と考えたがる頭がくらくらしてきていた。
「今だったらいいでしょ。綾女さんは美人の六十歳。俺はくたびれかけたおじさん」
「今のほうがもっと不自然だわ」
「そうかなぁ。ねぇ、マスター」
よく飲みに来る料理屋の主人が、はい? と顔を向けた。
「俺、綾女さんにプロポーズしたんです。似合いませんか」
「ほぉ、それはそれは。おめでとうございます。みなさーん、たった今、カップルが誕生しましたよ。シャンパンでもふるまいましょうか」
「ちょっと、ちょっと……」
「綾女さん、いや?」
「ええ……そんな……」
この店の常連たちもぐるになってのドッキリだったりしたら、みんなを訴えてやるわ、遠いところでそんなことを考えていたような気もするが、もはや綾女は気絶寸前になっていた。
「なんだって? Kくんにプロポーズされた?」
「そうなの。本当なのよ」
「嘘をつきなさい。いくらネットだからって現実離れにもほどがあるわ」
「そう言われそうな気はしたの。だけど、私がKくんに恋をしていたてんまつをすべて知ってるのはミケちゃんだけだもの。報告したかったのよ」
「アホか、あんたは、信じないわよっ!!」
内輪だけでパーティをしようと、近藤がプロポーズしてくれた店を借り切っての結婚祝賀会が本決まりになってから、ヤメはミケにチャットで打ち明けた。
が、ミケは絶対に信じないと言う。無理もないかもしれないのだが、勢いで言ってしまった。
「そんなら紹介するわ」
「リアルで?」
「そうよ。ミケちゃんとはネットだけのつきあいとはいえ、十五年も仲良しで週に一度はお話ししてたじゃない。リアルにだってもうそんな密な友達はいないの。ミケちゃんが信じてくれないのもあるから、紹介したい」
「んん、そうね、いいけどね」
「私に会いたくないの?」
「会ってみたいと思ってはいたわよ」
こんな機会でもなければネット友達に会うこともない。オフ会をやっているグループもあるようだが、この洋画サイトでは少なくともヤメにはそんな誘いもかからなかった。
「そんなら会おうか」
「ええ。Kさんも連れてくわ」
「どんな男かねぇ。実はあんたよりも二十歳も年上のじじいじゃないの?」
「ちがいます」
この期に及んでも毒舌を吐いているミケと、会う約束を取り付けた。
幸いにも住まいはそうは離れていないようだが、ヒジュラミケ、彼はニューハーフ男性だ。会わせると近藤が驚くかもしれないので根回しをしておいた。
ネットでの友達だが、詳しい境遇などは知らない。六十歳になって結婚すると決まった私を祝福してくれて、リアルでお祝いを言いたいと言ってくれた。ミケとも打ち合わせてそういう筋書きにした。むろん、十五年前から近藤の話をしまくっていたとは言わずにおいた。
目印には洋画雑誌。メジャーな雑誌ではないのでそんなものを持ち歩いている人間はまずいないだろう。近藤も特に異も唱えず、綾女についてきてくれた。
「そんなふうなひと、いないね」
「普通の男性の格好なのかしらね」
「……ん? あの雑誌じゃない?」
「だって、あのひと、女性よ」
「うーん……」
胸に目印の雑誌を抱いて、ミケもヤメも知っていた喫茶店の店内で悩んでいると、女性が近寄ってきた。
「ミケです」
「え……え……だって……」
「思い切りだまされてくれちゃってたようですね。あやまりたいのもあって、会うのを承諾したんですよ。おかけになりません?」
四十五歳のヤメをおばば呼ばわりしたミケは、七十歳くらいに見える女性だった。近藤も戸惑った顔になって、三人でテーブルを囲んだ。
「ニューハーフキャラのふりをしている女性……ややこしい」
「ほんと、ごめんなさいね。ネカマってあるでしょ。ネナベもあるらしいからそっちのキャラになり切ろうかとも思ったんだけど、もうひとひねりしてネカマキャラ女」
「ややこしすぎよ、ミケちゃん」
「ごめんね。でも、面白かった」
「他のひとにはばれてないの?」
「ひねりすぎて本物の女だと信じられてたりしてね」
呆然としてしまって、年上のあんたにおばば呼ばわりされたくなかった、とも言えなくなってしまった、事情が完全にはわかっていないらしい近藤も笑っている。おめでとう、と微笑むミケがネットのミケと同一人物なのかどうかも、こうしているとわからなくなってきそうだった。
次は「る」です。
短編小説をいっぱいいっぱい書いておられる人って、登場人物の名前をどうやってひねり出しているのでしょうか。
名前に悩み多くなっている今日このごろです。
「ミラクル」
既婚で子どももいる友人が言った。
「パソコンなんていらないと思ってたんだけど、大学受験について調べるのに使うんだって。高いのに、とは思うんだけど、パパも乗り気になって、買っちゃった」
「あなたは使ってるの?」
「息子が教えてくれたから、ちょっとは使えるようになったよ。便利は便利かな。綾女ちゃんはどう?」
「……仕事では使ってるけどねぇ」
当時のパソコンはひどく高価で容量も乏しく、インターネットだって常時接続以前の時代だったから電話料が高くつき、じきにフリーズしたり回線が切れたり、電話と同時には使えなかったりするしろものだった。
なのだから、友人が買った、便利だ、と聞かなかったら、仕事だけでいいと思っていたかもしれない。
息子や娘のいる友人は若い世代からさまざまな刺激を受け、おばさんなのに意外と新しい情報を持っていたりする。綾女のように独身で、職場にも若者は少なく、いたとしてもまともに相手にしてもらえない四十代は、時代の流れに取り残されてしまいそうだった。
一念発起、綾女もパソコンを買った。
我が家に運び込まれたデスクトップパソコン。間もなく常時接続、使い放題の契約ができるようになったから、暇があるとインターネットの世界で遊んだ。あのころは「ネットサーフィン」などと言っていたものだ。
「ミケちゃん、こんばんは」
「あら、ヤメちゃん、来てたの」
チャットというものを知り、もの珍しさもあって綾女はその世界にすこしはまった。洋画好きが集う談話室のようなものがあり、マニアックな映画の話などで盛り上がっているうちに、ひとりの人物と知り合った。
ハンドルネームは「ヒジュラ・ミケ」。ヒジュラとはインドのニューハーフの名称だ。遠い昔には男でも女でもない神聖な存在として尊重され、現代では卑賤な人間扱いされているというヒジュラについては、インド映画で見た知識があった。
そんなものは知らない誰かが、ヒジュラってものものしい名前ね、なんの意味があるの? と質問したら、火樹羅よ、と当人が答えていたが、チャットでの口調といいこのハンドルネームといい、正体はそういった性癖のある男性なのだろうと綾女は確信していた。
知らないひとは女性だと思っていればいいし、知っている者にはわかると本人は考えているらしい。ニューハーフ扱いでも女性扱いでも、彼はなんということもなく受け入れている。ヒジュラよりも「ミケ」のほうが簡単なので、チャットではいつもそう呼んでいた。
一方、綾女は本名の「あやめ」をもじって「ヤメ」がハンドルネームである。辞め、病め、止め、に通じてよくないな、と言われたこともあるが、むしろダークな感じが気に入っていた。
「ふたりっきりの部屋に行きましょうか」
「そうね。ミケちゃんに聞いてほしいこともあるから」
「じゃあ、行くね」
ふたりきりの部屋とは、他人をシャットアウトできるチャットルームだ。あらかじめグループで決めておいたパスワードを打ち込まないと入れない。ミケに相談ごとをしているうちに、ネットの世界では彼と綾女はそこまで親しくなっていた。
「Kくんのことなの」
「あんた、まだあの若造にこだわってるの」
「だって好きなんだもん」
「好きってね。いいトシしたおばばが駄々こねてんじゃないわよ」
「いいトシとはなによっ。おばばとはなによ。駄々とはなによ」
「あたしはほんとのことしか言ってないのよ」
毒舌がいっそ小気味よくて、自虐気味になってしまう。この話題はヤメとミケの定番だった。
今年の春、綾女がパソコンを買って夜には向かうようになったのと近い時期に、大学卒業後の研修を終えた新入社員が配属されてきた。綾女は経理部で、新人は女性だったのだが、隣接した人事部に男性新入社員が入ってきた。
二十五歳、眉目秀麗を絵に描いたような清潔でさわやかな青年の名前は近藤要平、そんな一流の大学を出て、どうしてうちみたいなそれほど大きくもない会社に? とは大方の疑問だったようで、無遠慮に尋ねた男性社員に、彼は答えていた。
「あまり成績がよくなかったんです。でも、がんばります。全力を尽くします。先輩方、よろしくお願いします」
「バブルのころだったら、きみだったらもっといい会社に入れただろうにね。生まれてきたのがちょっとばかり遅かったな」
「そんな、うちはいい会社ですよ」
そう言って笑った近藤は、ね、綾女先輩? と同意を求めた。
あの瞬間から、綾女は彼に恋してしまったのだ。
むろんそんな感情はおくびにも出さないようにしている。二十五歳の青年に恋してどうにかなるような年齢でも外見でもないと、身の程は知っているつもりだ。四十五歳、社歴も二十五年になり、同年輩の女性は皆退職し、男性は役付きになっている年頃なのだから、感情を隠すのだって巧みになった。
けれど、隠していると苦しい。社内では誰にもばれていない自信があるが、なんの利害関係もない場所では表明したくて、ミケに打ちあけてしまったのだった。
「いい加減に諦めなさいよね」
「普通のことばっかり言わないで」
「だって、普通に一般常識で考えたら、おばばがハンサムな好青年と仲良くなるってことが無理でしょうに」
「わかってるわよ。私は彼とひとことでも口をきけたら、その日一日が楽しいの」
「今日はなにか話した?」
「お昼に社内食堂で会ったわ。私はお弁当を食べてたから、おいしそうですね、お料理うまいんですね、なんて言われた」
「今度、あなたにも作ってきてあげようかって言った?」
「言うわけないでしょ」
「馬鹿ね。言えばいいのに。いやいや、言わないほうがいいか。そんなことを言ったら気持ち悪がられて、あんたのたったひとつの楽しみまでなくなるもんね」
「どうせそうよ」
匿名なのもあるから、ミケは好き放題言ってくれる。
「実は母が作ったんだけどね」
「その弁当? うわっ、いいトシしたおばばがお母さんに弁当作ってもらってるんだ」
「母は料理が生き甲斐なんだもの」
「うわぁ、最悪。そんな娘がいたらお母さん、死ねないね。長生きできていいかもね」
「そうよ、きっと」
現実生活では決して口にできないような会話ができる。ミケとのやりとりは綾女のリクレーションのようなものになっていた。
そうして十五年、インターネットの世界もさまがわりし、綾女も個人のパソコンを三回、買い換えた。社内業務も日進月歩で年齢的にもつらいものがあるが、定年までは踏ん張るつもりでがんばっていた。
「定年って今は六十五歳でしょ」
「そうなの。もうじき私は定年で隠居できるって思ってたんだけど、うちも延長になったのよ。六十で辞めてもいいんだけど、お金はほしいしね、辞めても暇になるだけだから続けようかな。それとね」
「なになに?」
十五年の間にはチャットルームのメンバーも変わった。そもそもチャットなんてものは流行らなくなってきているのだが、ミケとヤメは主のようになって居座っている。今夜もふたりきりの部屋にこもって話していた。
「Kくんが転勤で戻ってきたの」
「Kくんって誰だっけ」
「ミケちゃんと知り合ったばかりのころに、私が恋してた若者よ。覚えてない?」
「あ!!」
思い出してくれたらしい。
あのころの綾女は四十五歳の恋する乙女だった。高校生に戻ったような心持ちで、けれど、現実は中年女。二十歳も年下の男の子に恋をして、心のはずみが楽しくて苦しかった。
そんな気持ちをミケに話して、散々にからかわれたり毒舌を浴びせられたりしているのも楽しかった。誰にも言えるはずのない想いだからこそ、どんなに悪しざまに言われても聞いてくれるミケがありがたかったのだ。
「彼は三十くらいまではうちの支社にいて、結婚して子どももできて、転勤していっちゃったのよね」
「そうだったわね。想い出してきたわ。ヤメちゃんったらしつこくて、その怨念が怖かったもんね」
「一方的な片想いだから続いたのよ」
彼が結婚すると聞いたときには相手の女性がうらやましかったが、ショックでもなかった。芸能人に恋をしていたようなものだったからかもしれない。
大先輩としての綾女には親しみを持ってくれていた近藤は、結婚式にも招待してくれた。可愛らしい二十代の花嫁を見て、綾女は近藤の母のような気持ちになっていた。
三十代半ばで彼が転勤してしまってからは、さすがにつきものが落ちたようになっていた。ミケにも話さなくなっていたから、彼は忘れてしまっていたのだろう。
「禿げたオヤジになってた?」
「ううん。そりゃあ老けてはいたけど、スリムでダンディなかっこいいおじさまになってたわ」
「あんたにおじさまとは言われたくないでしょうね。彼、いくつ?」
「四十歳かな。それがね、離婚したんだって」
「あらま」
「子どもさんが亡くなったらしくて、それでぎくしゃくしたって言ってたわ」
「そうだったのか、気の毒にね」
六十歳間近になれば、あとは定年までなんとか勤めて日々をやりすごすだけだ。枯れた心境になっていたのが、思いがけなくも定年が伸びた。おまけに近藤が戻ってきたのもあって、綾女の毎日がリフレッシュされた。
一般職だと異動も転勤もないので、綾女は入社以来経理部にいて、今では経理の北政所だとか呼ばれている。近藤は総務部の部長として戻ってきていた。
「みーんないなくなってるのに、綾女さんだけは残っててくれて嬉しいですよ。なつかしいな」
「化け物がいるって思ったんじゃありません?」
「いいえ。やっぱり独身だとお若いですよね。綾女さんは今でも美人です」
「お上手になられたこと」
ふたりで笑い合うのが楽しくて、久しぶりの胸のときめきを覚えた。
「綾女さん、飲みにいきませんか」
「え? ふたりで?」
「俺と飲みに行くと怒る誰かがいますか」
「いるわけないでしょ」
「そうなんですか。綾女さんは美人だから、独身でも恋人はいるのかと思ってた」
「いるわけないってば」
「うん、安心しましたよ。だったら行きましょう」
なつかしさだけで誘われているのだと思っていたから、綾女も多少はためらったものの、近藤とふたりで飲みにいくようになった。互いに気楽な独り身だ。綾女の両親は五年ほど前に有料老人ホームに入居して、それから間もなくして相次いで亡くなっていた。
飲みにいっても話題はつきない。綾女から見れば四十代になったばかりの近藤は若々しくて青年にさえ映る。十五年前の切ない片想いを想い出すと、いまだ胸がきゅーっと締め付けられた。
「本気で言うんですから本気で聞いて下さいね」
「なんでしょうか」
「綾女さん、結婚して下さい」
「えーっ?!」
絶叫しそうになって慌てて口をつぐみ、絶句してまじまじと近藤の顔を見た。
「俺はひとりでは生きていけない男なのかな。なつかしい綾女さんに再会して、こうしていると楽しいし安らげる。綾女さんだって俺を嫌ってはいないでしょう? 俺が再婚なのは知ってるんだし、ごちゃごちゃ話さなくてもなんでもわかってくれている。一緒に暮らしましょうよ」
「私と再婚したいってこと?」
「綾女さんは初婚なのに、バツイチ男はいやですか」
「いやなんてそんな……」
夢を見ているのかしら? 今日はエイプリルフールじゃないわよね? 近藤さん、誰かとおばばを落とせるかどうかって賭けでもしていない? 罰ゲームだったりしない?
「本気で真面目に答えるんで、笑わないでね」
「笑いませんよ」
「あなただったら再婚するつもりになれば、三十歳くらいの女性だって大丈夫じゃない? もう一度子どもを持てますよ」
「いいんですよ、そんなの。若い女なんてつまらない。俺は綾女さんと会ったときから好きだったんだけど、あのころはね、二十代で四十代の女性と結婚は考えられなかった。すみません」
「いえ、当然だからいいのよ」
他には悪い可能性はないかしら、と考えたがる頭がくらくらしてきていた。
「今だったらいいでしょ。綾女さんは美人の六十歳。俺はくたびれかけたおじさん」
「今のほうがもっと不自然だわ」
「そうかなぁ。ねぇ、マスター」
よく飲みに来る料理屋の主人が、はい? と顔を向けた。
「俺、綾女さんにプロポーズしたんです。似合いませんか」
「ほぉ、それはそれは。おめでとうございます。みなさーん、たった今、カップルが誕生しましたよ。シャンパンでもふるまいましょうか」
「ちょっと、ちょっと……」
「綾女さん、いや?」
「ええ……そんな……」
この店の常連たちもぐるになってのドッキリだったりしたら、みんなを訴えてやるわ、遠いところでそんなことを考えていたような気もするが、もはや綾女は気絶寸前になっていた。
「なんだって? Kくんにプロポーズされた?」
「そうなの。本当なのよ」
「嘘をつきなさい。いくらネットだからって現実離れにもほどがあるわ」
「そう言われそうな気はしたの。だけど、私がKくんに恋をしていたてんまつをすべて知ってるのはミケちゃんだけだもの。報告したかったのよ」
「アホか、あんたは、信じないわよっ!!」
内輪だけでパーティをしようと、近藤がプロポーズしてくれた店を借り切っての結婚祝賀会が本決まりになってから、ヤメはミケにチャットで打ち明けた。
が、ミケは絶対に信じないと言う。無理もないかもしれないのだが、勢いで言ってしまった。
「そんなら紹介するわ」
「リアルで?」
「そうよ。ミケちゃんとはネットだけのつきあいとはいえ、十五年も仲良しで週に一度はお話ししてたじゃない。リアルにだってもうそんな密な友達はいないの。ミケちゃんが信じてくれないのもあるから、紹介したい」
「んん、そうね、いいけどね」
「私に会いたくないの?」
「会ってみたいと思ってはいたわよ」
こんな機会でもなければネット友達に会うこともない。オフ会をやっているグループもあるようだが、この洋画サイトでは少なくともヤメにはそんな誘いもかからなかった。
「そんなら会おうか」
「ええ。Kさんも連れてくわ」
「どんな男かねぇ。実はあんたよりも二十歳も年上のじじいじゃないの?」
「ちがいます」
この期に及んでも毒舌を吐いているミケと、会う約束を取り付けた。
幸いにも住まいはそうは離れていないようだが、ヒジュラミケ、彼はニューハーフ男性だ。会わせると近藤が驚くかもしれないので根回しをしておいた。
ネットでの友達だが、詳しい境遇などは知らない。六十歳になって結婚すると決まった私を祝福してくれて、リアルでお祝いを言いたいと言ってくれた。ミケとも打ち合わせてそういう筋書きにした。むろん、十五年前から近藤の話をしまくっていたとは言わずにおいた。
目印には洋画雑誌。メジャーな雑誌ではないのでそんなものを持ち歩いている人間はまずいないだろう。近藤も特に異も唱えず、綾女についてきてくれた。
「そんなふうなひと、いないね」
「普通の男性の格好なのかしらね」
「……ん? あの雑誌じゃない?」
「だって、あのひと、女性よ」
「うーん……」
胸に目印の雑誌を抱いて、ミケもヤメも知っていた喫茶店の店内で悩んでいると、女性が近寄ってきた。
「ミケです」
「え……え……だって……」
「思い切りだまされてくれちゃってたようですね。あやまりたいのもあって、会うのを承諾したんですよ。おかけになりません?」
四十五歳のヤメをおばば呼ばわりしたミケは、七十歳くらいに見える女性だった。近藤も戸惑った顔になって、三人でテーブルを囲んだ。
「ニューハーフキャラのふりをしている女性……ややこしい」
「ほんと、ごめんなさいね。ネカマってあるでしょ。ネナベもあるらしいからそっちのキャラになり切ろうかとも思ったんだけど、もうひとひねりしてネカマキャラ女」
「ややこしすぎよ、ミケちゃん」
「ごめんね。でも、面白かった」
「他のひとにはばれてないの?」
「ひねりすぎて本物の女だと信じられてたりしてね」
呆然としてしまって、年上のあんたにおばば呼ばわりされたくなかった、とも言えなくなってしまった、事情が完全にはわかっていないらしい近藤も笑っている。おめでとう、と微笑むミケがネットのミケと同一人物なのかどうかも、こうしているとわからなくなってきそうだった。
次は「る」です。
短編小説をいっぱいいっぱい書いておられる人って、登場人物の名前をどうやってひねり出しているのでしょうか。
名前に悩み多くなっている今日このごろです。
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リクエスト小説

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BL小説家シリーズ

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~ Comment ~
LandMさんへ2
こちらのほうにもありがとうございます。
このストーリィのミソは、二十代と四十代ではありえなかった結婚が、二十年後にはあったという。
それでももちろん、かなり現実離れしていますよね。
四十代バツイチ男性も、二十代女性を求めそうだな。
他人の結婚に口出しはしない。
正解ですよね。
ただ、私だったら……現実離れした結婚ならば、小説のネタにさせてもらいます。
このストーリィのミソは、二十代と四十代ではありえなかった結婚が、二十年後にはあったという。
それでももちろん、かなり現実離れしていますよね。
四十代バツイチ男性も、二十代女性を求めそうだな。
他人の結婚に口出しはしない。
正解ですよね。
ただ、私だったら……現実離れした結婚ならば、小説のネタにさせてもらいます。
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NoTitle
私の身近じゃああんまりいないなあ。。。
あ、12歳はありましたね。
しかし、他人の結婚に口出すほど私は野暮じゃないですからね。
・・・というのが本音か。
(*´ω`)