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小説63(想い出の渚・幕開け)前編

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とびら
フォレストシンガーズストーリィ・63

「想い出の渚・幕開け」・前編

1


恋というものは、期待もしていないときに限って天から舞い降りてくる。シゲくんが川上恭子さんと結婚し、年下に先を越されちゃったね、と乾くんや本橋くんとため息をついていたころに、私にも恋が訪れた。訪れはしたものの、のめり込めなかった私が悪かったのだろうか。
 クリスマスデートからはじまって、二十八歳の冬が終わろうとしていたころに、先延ばしにしていた問題と向き合った。彼と対決? 一時は甘いムードもあるにはあった恋人と対決だなんて、恋の結末ってこうなるんだ。結末……結末が近づいているのはまぎれもなかった。
 好きだ、愛してる、つきあってほしい、俺の彼女になって、そんな告白はされたことがあるけれど、求婚されたのは、幸生くんのジョークを除けば初の経験だった。一ヶ月ほど前に、圭祐がしてくれたプロポーズ、美江子、結婚してくれないか、と言われて、早すぎる、と私は感じていた。
「もうすこしつきあってからでも……」
「結婚式は先でもいいんだよ。きみの仕事の都合もあるだろうし、すぐに式を挙げたいとは言わない。だけど、できれば仕事はやめてほしいんだ」
「仕事をやめる?」
「やめたくない? 仕事をやめるのも子供ができるまではいいかな。しかし、せめて担当ミュージシャンを替えてもらえないだろうか」
「どうして?」
「わかるだろ。きみが五人の男と常に行動を共にしてるなんて、僕は嫉妬で妬け焦げそうになるんだよ」
 冗談めかしてはいたが、本音も見えていた。
「フォレストシンガーズも売れてきてはいるけど、売れっ子とまではいかないね。いつかきみが話してくれたように、マネージャーのきみが彼らと同室で寝る羽目になったり、よその男までが同室になったりするんだろ。彼らは友達なんだからかまわないときみは笑ってたけど、僕はかまわなくないよ。女性シンガーのマネージャーになるってのは無理?」
「フォレストシンガーズのマネージャーをやめるんだったら、私は仕事をやめる」
「そのほうがさらにいいね。僕の夢なんだ」
 高校卒業後はずっと独り暮らしで、明かりのついていない暗い部屋に帰る日常だった。結婚したら妻が待っていてくれて、部屋は明るく整理整頓され、掃除が行き届いて食事ができていて、風呂が沸いていて……いずれは子供もできて賑やかになり……と、語る圭祐を見ていたらうんざりしてきた。女はなぜ待つ立場にならなくてはならないのか。
「無理は言ってないでしょ。きみの気性からすると専業主婦は向かないだろうけど、アルバイト感覚で仕事を続けるってのもできなくはないと思うよ」
「結論は先にしていい? 考えさせて」
「待ってるよ」
 考えなくても結論は出ていた。私にはフォレストシンガーズが大切だ。メンバーである本橋くん、乾くん、シゲくん、幸生くん、章くんと同等に、フォレストシンガーズの存在が大切だ。昔からの仲間としての彼らも大切だ。
それをやめろと言う男とは結婚できない。が、説得はしてみるべきだろう。私は決して仁科圭祐自身は嫌いではないのだから。
「仕事はやめられない。やめたくない。わかってほしいの」
 その夜、はじめてふたりで行ったのと同じレストランで向き合って、私は言った。
「私にとってはフォレストシンガーズは、生きるすべてに近いの」
「きみは彼らのメンバーじゃないだろ。生きるすべては言いすぎだよ」
「そうかもしれないね。私が勝手にそう思い込んでるだけかもしれない」
「そうだよ。彼らにとってはきみはただのマネージャーだ」
「ちがう」
 ちがうと信じてる。あなたがいたからこそ俺たちは、と乾くんは言ってくれる。頼りにしてるぜ、山田、と本橋くんも言ってくれる。美江子さんのおかげで俺は励まされますよ、とシゲくんも言ってくれる。だから美江子さん、だーい好き、なんて、幸生くんも言ってくれる。章くんは私を、女のくせにいばってる、とも感じているようだけど、美江子さんってさすがだよな、などとぽつりと言う。
 そんなのはお世辞? きれいごと? 彼らには彼らのみが大切で、私はただのマネージャー? もしもそうだとしても、私には彼らが大切だ。
私も含めてのフォレストシンガーズ、そんな想いは僭越なのだろうか。だとしても、私は彼らとともにいたい。フォレストシンガーズが消滅するまでは、ずっとずっといっしょにいたい。
 お世辞なんかじゃない。長年のつきあいなんだから知っている。彼らは真心から、私を仲間だと認めてくれている。そうでなければなぜ、あんなにも私を……かつてのさまざまな出来事を思い出し、身勝手な誤解ではなくて、確信だと決めて、私は言った。
「仕事はやめません。フォレストシンガーズのマネージャーは絶対にやめない」
「マネージャーをやめるよりは、僕との結婚をやめる?」
「どちらかしか選べないんだったら、仕事を選ぶ」
「決意は固いんだね」
「あなたも譲歩してくれないの?」
 仕事と結婚を天秤にかけて、仕事を選ぶのは意地っ張りなのだろうか。両方とも手に入れるのは贅沢なのだろうか。圭祐はしばらく無言でいて、立ち上がった。
「僕も考えてみるけど、結婚しても今までと同じ暮らしじゃね。僕は古いんだろうけど、控えめについてきてくれる女性が好きだよ。今どきそんな女はいないのかな。最初からきみとは合わなかったのかもしれないね」
「そうかもしれない。でも、楽しかった」
「僕も楽しかったよ。きみはいい女だった」
「あなたもね」
 向けた背中が、さよなら、と告げていた。好きだとしても別れることになるのも人生。楽しい思い出がふえたんだから、無駄な恋ではなかったよね、と敢えて考えて、私からもさよなら、と呟いた。 くしゅんと鼻が鳴って、目元がじわじわっとしてきた。今夜はうちに帰ってひとりで、ほんのちょっと泣こうかな、たまには泣くのもいいかしらね、笑ってみようとしたけれど、心もじめっとしていた。


確実にフォレストシンガーズが売れてきているひとつの証拠だろう。四枚目のアルバムのレコーディング風景撮影のために、カメラマンの田所氏が助手を数人ともなって、スタジオに来てくれていた。
 白髪まじりの長めの髪をした田所氏は、頑丈そうな体躯のじっくりした風貌の中年男性である。カメラマンとは重労働であるようで、田所氏にしても力持ちだし、大変な仕事だなぁと私は感心して見ていた。
そんな重労働にも関わらず、助手の中にひとりだけ女性がいた。田所氏には何人も助手がいるそうで、日替わりでお供をしてくるのだが、彼女は常にやってくる。重たそうな荷物を両肩にかけて、弱音も吐かずに力強い足取りで歩いていた。
「あ、忘れてた。柏原、これを持って先に行け」
「忘れものですか。先生、私が取りにいってきます」
「僕でなきゃ探せないものなんだよ」
 駅からレコーディングスタジオへの道で、たまたま会ったシゲくんとふたりで歩いていたら、前のほうでそんなやりとりをしている田所氏と、アシスタントの彼女が見えた。田所さんは自らの荷物までを彼女に持たせ、自身はシゲくんと私にも気づかずに、猛スピードで走っていった。
「田所さんも電車かな」
「車でしょ。スタジオの駐車場へ走っていったんでしょう」
 スタジオの駐車場はやや離れているので、そこに車を駐めて、田所さんと彼女、柏原さんというらしき助手の彼女は、大荷物を持って歩いていたのだろう。
今日は他の助手は見当たらず、ひとりであんなにたくさんの荷物を? と私が見ていると、柏原さんは両肩にふたつずつバッグをかけ、両手に三脚だのなんだのを持って、一歩、一歩と歩き出した。
「あれはないでしょ。女のひとに……」
「って言ってもね、仕事なんだからね。だけど、シゲくん、見てられない? 手伝うのは失礼なのかしらね」
「失礼なんかじゃありませんよ」
 すこしばかり怒った顔をしてシゲくんが走っていき、私も足の速い彼を追っかけた。さすがに柏原さんも早くは歩けない様子で、ふらつき加減に歩を進めている。シゲくんがその肩から荷物を取り上げた。
「あれ? 本庄さん、おはようございます」
「おはようございます。足が地面にめり込みそうでしたよ」
「そうでした? いえ、持っていただかなくてけっこうです、仕事ですから」
 やはりそう言うんだな、と考えつつ、私もふたりに追いついた。
「おはようございます。柏原さん、あなたの仕事熱心は重々承知してますけど、そんなにいっぱい荷物を持ってたら、いつになったらスタジオにたどりつくかわかりませんよ。私も持ちます」
「そんな、山田さんに……」
「だって、いくつあるの? バッグが四つ、他にもあるでしょ? カメラマンの仕事道具の名称ってよく知らないけど、手に持ってる分は私が持ちますよ。バッグは半分、シゲくんに持ってもらったら? 彼は力持ちなんだから。田所さんにも力では負けないよね、シゲくん?」
 負けません、とシゲくんは言い、四つのバッグを全部持とうとした。
「いいんです、じゃ、ひとつだけ……」
「これひとつでも相当重いですよ。柏原さんみたいなか細いひとが……」
「私はそんなにか細くありません。鍛えてるんですから」
 私よりもやや小柄でほっそりした柏原さんは、腕を曲げてみせた。長袖のシャツごしに力こぶに触れてみて、私は言った。
「私と較べたら筋肉はついてるみたいね」
「俺と較べてだったら?」
「シゲくん、比較のしようのないことを言うのはやめようね。シゲくん以上に筋肉のついてる女性は、格闘家だとか砲丸投げの選手だとかじゃない? 恭子さんだって力ではシゲくんに負けるでしょ」
「当然です」
「無駄なお喋りしてる場合じゃないよ。いいから、半分ずつ持って急ぎましょう。柏原さんも、それでいいでしょ?」
 悪いなぁ、すみません、と恐縮しながらも、柏原さんは歩き出し、シゲくんと私もついていった。
 いつだって柏原さんは大荷物を持っている。女性が大きな荷物を抱えていたら、手助けしてやりたくなるのは男の習性なのだろう。シゲくんは言うに及ばず、本橋くんも彼女の荷物を無理やりのように取り上げていたし、章くんも、持ちますよ、と声をかけていた。
「私は力持ちですからへっちゃらです」
「俺も細いから力には自信ないけど、あなたには勝てるんじゃないかな。腕相撲しましょうか」
「腕相撲だと負けるかもしれないけど、重い荷物には慣れてますから」
「これも仕事、ってのはわかるけどね、朝から荷物を持ちすぎてくたびれたら、肝心の仕事がおろそかになるよ」
「これしきで仕事をおろそかにしませんから」
 荷物を持たせてくれない柏原さんのあとから歩いていた、章くんが私に目を留めた。
「美江子さん、俺、持つって言ったんですよ。女のひとがこんなにでっかいバッグを持ってるのに、俺は知らん顔で歩いてたんじゃないんですからね」
「見てたから知ってる。柏原さんって意地っ張りだね」
「そうじゃなくて……」
「それも知ってる。私はそんな女は大好きだよ」
「ふむふむ、あのな、章」
 そこにやってきた幸生くんが言った。
「美江子さんと柏原さんは、意地っ張りにかけては好敵手ってわけだね。仕事に生きる女性とはそういうものなんだよ。章、おまえは無知」
「聞いたふうな口を叩いてんじゃねえよ」
 幸生くんと章くんは毎度のもめごとをはじめ、柏原さんもくすくす笑っていた。
 こんなシーンも目撃した。スタジオの廊下を駆けていく柏原さんを見かけて、いつものように走ってるのね、と眺めていたら、彼女はスタジオの裏手の空き地へ出ていった。こっそりついていってみると、そこには乾くんがいた。
「なにを見せて下さるんですか」
「こう」
 学生時代から大人びたところのあった乾くんなのだが、稚気もある。乾くんが披露してみせたのは彼の得意技のバック転で、柏原さんは歓声を上げて拍手した。
「すごーい。体操選手みたい」
「身が軽いのは俺のとりえですから」
「背は高いのにね」
「並よりやや高いだけですよ」
「……あ、大変。また見せて下さいねっ」
 またまた駆けていく柏原さんを、乾くんはほげーっと見送っていた。どんないきさつでバック転を見せてあげよう、となったのかは謎だけど、子供っぽい行動をする乾くんには可愛げがある。私にも久し振りで見せて、と声をかけようかと思ったのだけれど、なんとなくやめておいた。
 それから数日後の遅い朝の時刻に、レコーディングスタジオで章くんとシゲくんが不安げな面持ちを見合わせていた。乾くんと幸生くんも来ていたはずなのに、姿が見えない。本橋くんは朝からいない。なにかあったの? と尋ねたら、シゲくんが答えた。
「幸生から電話があったんですけど、本橋さんが交通事故に巻き込まれて、脚を複雑骨折して……」
「救急車で運ばれたの?」
「いや、それでも自力でスタジオに行くと言うから、幸生が背負ってくるとかなんとか……乾さんと幸生は、本橋さんからのSOSで駆けつけたそうなんですよ。車の下敷きになった本橋さんの脚を、幸生が全力で引っ張り出して、見るも無残なありさまになったのを治療して……だとか言ってました。幸生の治療のたまもので、凄まじかった症状が複雑骨折程度でおさまったって、嘘だと思うんですけどね」
 嘘だよ、あり得ない、と章くんが言った。
「車の下敷きになったリーダーの脚を、幸生の力で引っ張り出せるわけないでしょ。あいつに治療なんかできるわけもないし、あいつにリーダーが背負えるわけもない。乾さんはなにをしてるんですか」
「乾さんは最初から脚を大怪我してて、もともと瀕死の重症だとか……」
「あり得ない上にもあり得ないよ。さっき、乾さんがいるのは見ましたよ。そういえば歩きにくそうにしてたけど、瀕死の重傷なんてはずはない。あの人騒がせ野郎、オーバーの百倍に言ってるんだ」
「俺もそうだろうと思うよ。乾さんは口まできけなくなったから幸生が電話してるって言ってたけど、あいつの言うことを信じると、あとでとんだ馬鹿を見るだろ」
「そうですよ。信じちゃいけません。話半分じゃなくて、話十パーセントで聞いておくに限るんだ」
「なににしても、戻ってくるはずだよ。待つしかないな」
 そうだよね、と私も言ったものの、不安ではあった。シゲくんと章くんは外に出ていき、私はスタジオの窓から見ていると、やがて、幸生くんの肩にすがって歩いてくる本橋くんと、そのうしろから歩いてくる乾くんと、見知らぬ老婦人が目に入ってきた。たしかに乾くんは足をひきずり気味ではあったが、瀕死の重傷にはとうてい見えない。章くんが言った。
「幸生のくそ馬鹿野郎、心配させんなよ。リーダーも複雑骨折なんかしてないでしょ。なんとか歩いてる」
「そうだよな。けど、幸生にもたれて歩いてるぞ。あんな姿ははじめて見た。幸生に肩を貸してもらってる本橋さんなんて前代未聞だよ」
 おーい、と本橋くんが片手を挙げ、幸生くんは叫んだ。
「肩にもののけが乗っかってるみたい。シゲさん、章、ぼーっと見てないで来てよっ!!」
 駆け寄っていったシゲくんが、幸生くんから本橋くんを引き継いだ。幸生くんは、はぁー、やれやれと息を吐いてから言った。
「今夜は夢を見るだろな。肩に鉛怪獣かなんかが乗っかって、時々俺の腕だのなんだのを殴るんだ。感謝もしてくれずに、黙れ、やかましい、って怒るんだよな」
「幸生」
「はーい、リーダー? なにかご用でしょうか?」
「ありがとう、俺は感謝感激のあまり倒れそうだ」
「……こわっ。いえいえ、どういたしまして」
「えらいちがいだな。シゲにもたれたら大船に乗った気分になれる。幸生だと嵐の中の難破船、ってのか、木の葉の舟ってのか、そんな感じだったぜ」
「それが感謝感激してるひとの台詞ですか。リーダーったらあんまりだよぉ。こら、章、なんとか言え」
「なんとか」
「……呆れてものも言えない反応をするなっ」
「言ってんじゃん。いや、だけど、本橋さんも意外に元気そうだし、大丈夫なんですよね」
「たいしたことはない。幸生に助けられて歩いてる間がもっともやばかった」
 笑いたいのをこらえているようにも見えれば、呆然としているようにも見える老婦人に、乾くんが言った。
「かえってご迷惑をおかけしましたね。天地さんは大丈夫ですか?」
「私はなんともございません。本橋さん、ありがとうございました」
 あれぇ? という女性の声が聞こえた。柏原さんだった。
「おばあちゃん?」
「あらま、美里」
 走り寄ってきた柏原さんと、天地さんと呼ばれた老婦人ががぴっくりまなこで見つめ合う。天地さんとせわしく会話をかわした柏原さんが、本橋くんに向き直った。
「本橋さん、祖母がお世話になりました」
「いやいや、奇遇だったね」
 つまり、天地さんは柏原さんの祖母なのであるらしい。柏原さんは美里という名前であるらしい。姓がちがうということは、母方のおばあちゃんだろう。祖母と孫娘を残し、シゲくんが本橋くんに肩を貸して、FSの全員がスタジオに入ってくると、乾くんが説明してくれた。
「ここに来て外で柏原さんや幸生と朝の挨拶をしていたら、ケータイが鳴ったんだよ。おばあさんの声が、突然申しわけございません、と言う。なにがなにやらわからなかったんだけど、本橋がどうかしたらしい。そばにいた幸生を連れて、教えられた場所に急行した」
「乾さんは足をくじいてて走りづらかったんですけど、リーダーのためなら足の痛みなんか忘れて、ふたりして走って走って走って……死にかけで現場に到着しました」
「幸生、おまえは黙ってろ。話が終わらない」
 本橋くんに言われて、幸生くんは一応黙り、本橋くんが話を続けた。
「俺がそこらを通りかかったら、柏原さんのおばあちゃんだとは知らなかったんだけど、さっきのおばあさん、天地さんとおっしゃるあの方が立ちすくんでたんだ。行かなくてはならないところがあってタクシーを降りたんだけど、場所の見当がつかなくて途方に暮れてたってな」
「都会のタクシードライバーは不親切ですからね。教えてあげればいいのに」
「幸生、おまえは黙ってろ。それで、聞いてみたらその場所を俺は知ってる。案内しましょうとなって天地さんと歩き出した」
 そうして歩き出すと、車が天地さんをひっかけそうになった。咄嗟に彼女をかばった本橋くんが転倒し、どうやら足を捻挫したらしい。車は止まりもせずに走り去り、天地さんは本橋くんを介抱しようとしたのだが、本橋くんは携帯電話を取り出し、言ったのだそうだ。
「う……いて……すみません。ここに、電話をかけていただけませんか。仕事の時間が迫ってるんです。乾って、俺の友達です。なんだか目が霞んでるんですけど、乾ですよね、ここに出てる名前は」
「はい、乾隆也さんと……」
「そこにかけて下さい」
「本橋さん、大丈夫なんですか。救急車を呼んだほうがよくありません?」
「そんなに大層な怪我じゃありませんよ。それより天地さんのご用は?」
「急ぎませんから」
「そうですか、では、とにかく乾を……」
「わかりました」
 慣れない携帯電話で天地さんが乾くんを呼び出したのだが、話している途中にケータイが彼女の手から落ちてころがり、車に踏み潰されてぺちゃんこ、といった次第だったのだ。ゆえに、乾くんと幸生くんは事情をきちんと飲み込まずに駆けつけた。続きは乾くんが話した。
「目が霞んだってのも気が動転していたせいだったようだし、本橋の足はさほどの重症ではなかったんだけど、ひとりでは歩けそうになかった」
「複雑骨折ってなんだよ、幸生?」
「俺、そんなこと言ってないよ。おまえの耳の錯覚だよぉ、章」
「聞いたのはシゲさんだよ。それに、耳は錯覚とは言わないだろ」
「目の幻聴」
 幸生も章も黙ってろ、と乾くんに言われてふたりは口を閉じ、シゲくんは大きな吐息をつき、私も苦笑いするしかなく、乾くんが続けた。
「幸生がシゲに電話をかけてる間に、本橋が言った。乾、肩を貸せ、と。ところが、俺もこの足だろ。幸生に頼るしかないじゃないか」
「リーダーに肩を貸して、瀕死の重傷、複雑骨折になりかけたのは俺だよ。話がどうねじまがって、リーダーがそうだって伝わったんでしょうね、シゲさん?」
「おまえがねじまげたんだろうが。黙ってろ。何度言われたらわかるんだ。俺も黙りますから、乾さん、どうぞ」
 乾くんが言うには、幸生くんは本橋くんと歩いている間もずっと、この調子だったらしい。
「はい、一、二、三、かわりばんこに足を出しましょうね。ゆっくりゆっくりね。……いて、なにすんですか、乾さーん、怪我人のくせに、リーダーが暴力ふるうよぉ」
「やかましい。黙って歩け」
「だって、本橋さんって見た目は重そうでもないのに、なんでそんなに重いんですか? 服の下に鉛のかたまりかなんか入れてません? いやがらせとか? いでで。乾さーん、また叩くぅ」
「黙れと言ってるだろ。手はなんともないんだからな、黙らないと……」
「ちぇっちぇっ、黙りますよ」
 荷物は乾くんが持ち、幸生くんは本橋くんに肩を貸し、それでいて口は減らず、本橋くんは片足をひきずっているくせに、時おり幸生くんをぼかっとやり、乾くんは一生懸命歩き、うしろからは笑っていいのかしら、いけないのかしら、といった表情の老婦人が歩いてくる。
奇妙な一行に見えたんだろうけど、通りすぎる車はすべて我関せずだった、と乾くんはしめくくった。
「そういうわけ。ミエちゃん、心配かけてごめんね」
「私はいいのよ。心配したのは人騒がせ幸生くんのせいだもんね。本橋くんは本橋くんらしくて……」
 荒っぽい男なのは否定できないけど、本橋くんのそういうところが……んん? そういうところが、なに? 私が首をひねっているうちに、おまえが悪いんだろ、と章くんが幸生くんを蹴飛ばし、なんで俺が悪いんだよっ、と幸生くんも章くんを蹴飛ばし返し、こらっ、静まれ、と本橋くんが怒り、私の想いは曖昧なまま消え失せてしまった。


2

失恋は時が癒してくれる。徐々に私の心も癒えてきている。それもこれも、時と、大切な仲間たちのおかげだ。
 考えようによっては、私の身勝手でこわしてしまった恋だったのかもしれない。恋人ができると、飲みにいくか、と誘われても断ったりして、美江子さん、このごろつきあい悪いなぁ、と幸生くんに横目で見られたり、まあまあ、大人にはなにかとあるよ、と乾くんが意味ありげに言ったりもして、悟られていたのかもしれないけれど、彼らはとりたてて追及はしなかった。
 いずれにせよ恋は終わったのだから、新しい恋が見つかればそれもよし、見つからなかったらそれはそれでよし、と達観していたら、プロダクションの金銭問題をおまかせしている計理士の、佐々木氏に言われた。
「山田さん、食事でもしませんか」
 食事からはじまる恋はありふれている。圭祐とはその前の彼の悪酔い事件が発端だったのだが、お礼とお詫びをかねてごちそうしてくれた食事が、恋愛に発展した。
クリスマスイヴに二度目にふたりっきりで会って、ラビットの白い襟巻きをプレゼントされた。安物でごめんね、とはにかんで笑った圭祐の顔が、今となってはなつかしい。
 あれから半年もしないうちに別れてしまって、襟巻きはしまい込んであるけれど、冬になっても使いはしないだろう。仕事のつきあいしかなかったから、意識もしていなかった佐々木さんを見つめて、私は応じた。
「ありがとうございます。でも、ごめんなさい」
「恋人はいるんですか」
「います」
「そうかぁ。残念」
 仕事が恋人ですからね、だなんて、ありきたりの台詞を呟いて、私は帰っていく佐々木さんの背中を見送っていた。
 恋なんかもうしないわ、失恋の味なんか何度も知ってこりごり、だとは考えていない。幾度目だって恋は新鮮に楽しくて、胸がはずむ。圭祐と出かけたレストラン、ふたりで食べたさまざまな料理、いくつものお酒のグラス、キスの味もベッドでのひとときも、思い出すと幸せ気分がよみがえる。
 幸せははかなく去って、去ってしまえば、恋は楽しいものでもあるけれど、苦いものでもあるのだなぁ、と思い起こして現実に打ちひしがれる。
恋なんてものは、楽しいばかりであるわけがない。それでもまた恋はしたいけど、当分はお預けにしておこう。恋を捨てて間もないのに、またまた次の恋だなんて、私はそんなに変わり身が早くない。
「山田、夏の仕事が入ったぞ」
 気持ちを切り替えて仕事に集中していると、社長がやってきた。
「あいつらがデビューした次の年にも行ったんだったよな。きみたちが大学時代に合唱部の合宿をやってたという、あの海辺でのイベントの仕事だ」
「あの海辺ですか。あの仕事以来行ってませんから、なつかしいです」
 デビュー一年足らずのころにもその地に出かけた。仕事が中止になって休暇になったのだが、その二日間を思い出そうとすると、頭痛持ちでもない私の頭が痛くなる。思い出すほどのことはなかったのかな、と考えている私に、社長が言った。
「今年の夏のイベントのメインは、燦劇になるな。フォレストシンガーズも売れてはきてるけど、燦劇はあいつらの何年後輩になる?」
「四年です」
「四年後輩にあっという間に抜かされたぞ」
「そのようですね。双方ともに社長の支配下にあるグループなんですから、よろしいんじゃありません?」
「支配下とはなんという言い方を……山田、きみは私を独裁者だとでも言いたいのか」
「そうは言っておりませんわよ」
 あっちは若者受けのする派手なビジュアル系ロックバンドで、こっちは地味なルックスのコーラスグループ、較べないで、と私は言いたい。言いたいのだが言わずにおいて、別の話題を持ち出した。
「燦劇もフォレストシンガーズも、いずれはグラブダブドリブほどに……」
「あそこは格がちがいすぎる。目ざす星がはるかに遠すぎる。無茶言うな」
「無茶ではありません」
「まあ、目標は大きければ大きいほどいいわな。山田、きみもがんばってくれ。時に、佐々木くんは……」
「はい、がんばります。私は仕事命の女ですから」
「……そうかね。ま、そうか……ま、いいか」
 このおじさんも時として私の私生活にお節介を焼きたがるのだが、仕事の話に変えて撃退しておいて、社長が行ってしまうと、楽しみになってきた。今年の夏も海辺でのイベント。私たちには縁の深いあの浜辺での仕事。
 社長との会話に出てきた燦劇とは、シゲくんが結婚した直後に、同じ事務所に入ってきたFSの後輩ロックバンドだ。
なぜか章くんがこよない嫌悪感を抱くビジュアル系バンドで、ステージ衣装はけたたましい。私たちと知り合ったころには態度も悪くて、本橋くんを怒らせ、乾くんがヴォーカリストのサファイアになにやらしたらしいとの話も聞いていたのだが、私は見ていなかったので詳しくは知らない。
宝石をコンセプトにしているという燦劇のメンバーは五人。サファイアがヴォーカル、トパーズがペース、パールがキーボード、エメラルドがギター、ルビーがドラム。サファイアがファイ、エメラルドがエミー、トパーズはトビーと呼ばれている。
 最初のうちはどうにもこうにもどうしようもなかった彼らは、しかし、後輩には面倒見のいい本橋くんを筆頭とする先輩たちの尽力により、だいぶ人当たりもまろやかになってきつつあるようだ。二十歳前後の彼らが扱いにくいのは、私たちとはもはや世代が異なっているのだから致し方ないと諦めるしかない。
 今回の出演者リストを見ると、目玉は燦劇。他にも出演者はいるのだが、FSが二番目といった扱いだろうか。
リストをざっと見ていくと、「サン」というグループ名があった。私も聞いた覚えはある、アイドルグループの卵だ。なんでも、全員中学一年生、燦劇と似た名前でまぎらわしい上に、私たちとは世代がもうひとつ下。騒動が起きそうな気がしなくもない。
 表記はS・U・N。メンバー名もエス、ユー、エヌだそうで、名前のイニシャルなのだろう。写真も添えられているが、区別がつかない。アイドルの名前と顔を一致させられないようになるのは年のせいだとかいう説も……ううん、私はまだまだ若いんだーっ、まだ三十にはなってないんだからね。
 考え直して、私はひとりでガッツポーズをした。みんながんばろうね、えいえいおーっ!! ってね。

 
 愕然も愕然だよね、中学生だって、しかも中学新入坊主だよ、と言いながら、横を歩いている本橋くんを見上げた。本橋くんの中学生時代ってどんな悪ガキだったのかな、会ってみたかったなぁ、と、三十歳に近い男の顔に中学生の顔を重ねて笑っていると、本橋くんが言った。
「思い出し笑いはドスケベの証拠だぞ」
「ドスケベ? あんたに言われたくない」
「俺のどこがドスケベだ」
「男はみんなスケベでしょ」
「断定するわけか。いや、まあ、そう言われるとそうかも……ちょっと待て、山田」
「どうして待たなくちゃいけないの」
 今回のイベントでフォレストシンガーズが割り当てられている、宿舎の近くまで来ていた。裏手で何者かがごそごそしている。本橋くんは声をひそめて言った。
「泥棒……じゃないよな。ちっちゃいぞ」
「そうだね。ああ、あの子、たった今噂してた中学生よ」
「SOSのか」
「ちがうって。表記はS・U・N。発音すればサン」
「Sからはじまるのは同じだ」
 エスオーエスではなく、サン。そのうちのひとり、エスなんだかユーなんだかエヌなんだかは知らないが、ごそごそしているのはサンのメンバーにちがいない。本橋くんとふたりして見ていると、彼はせっせと地面に穴を掘ってなにかを埋めていた。
 なにをしてるの? と声をかけるべきかと思っていると、本橋くんがつかつかと近づいて、あろうことか、彼がつけているサスペンダーを片手でつかんで吊り上げた。
「本橋くん……乱暴はやめて」
「こんなののどこが乱暴だ。こら、なにしてる」
 そのまま軽々と持ち上げて、少年の顔を覗き込む。少年は驚いて声も出せない様子に見えたのだが、身体にはずみをつけて本橋くんを蹴飛ばそうとしたらしい。本橋くんはくすっと笑って言った。
「あばれると落ちるぞ。なにをしてたんだ、おまえ?」
「離せよっ!!」
「不審者をとっつかまえて、離せと言われて離す馬鹿はいない。なかなか身のこなしがいいな。しかし、俺はおまえなんかに蹴られない。振り回して放り投げてやろうか」
「本橋くん、子供相手になにをいばってんの?」
「いばってねえよ。抵抗は無駄だと言い聞かせてるんだ」
「言い聞かせるんだったら、下に降ろして穏便にね。逃げないよね? キミはサンの子でしょ? えーと、お名前は?」
 ぷいっと横を向いて、彼は返事をしない。本橋くんの隙を窺っているように見えた。
「ねえ、ほんと、抵抗は無駄だと思うよ。キミは私よりも小さいでしょ? このお兄さんは巨体ってわけでもないんだけど、見かけよりはるかに力が強くて喧嘩も強いの。空手の猛者って……」
「空手の猛者は俺の兄貴たちだ。俺はそこまで強くない。だが、ガキに負けるほど弱くもない」
「だから、いばってないで降ろしたら?」
「いばってねえって言ってんだろ。こら、なにをしていたのか言え」
 それでは拷問じゃないの、まったく本橋くんときたら、デビューが近いアイドル少年にそんなことをして、手中の珠のごとくに大切にしている、彼らのマネージャーさんに見つかったら大変だよ、と言いたかったのだが、こうなると私がなにを言っても聞く本橋くんではない。
 私では力づくでやめさせるのも無理だし、乾くんがシゲくんを呼んでこようかと考えていると、少年がぶすっと言った。
「エスだよ」
「エスくんなんだね。なにをしてたの?」
「頭来るから……むかつくから……」
 なにか埋めてたんだよな、と言いながら、本橋くんが足で地面を掘った。そこから出てきたのは、エスくんもつけているサスペンダーだった。
 SUNの文字がちりばめられているところを見ると、彼らのステージ衣装のひとつなのだろう。サスペンダーなんてものは今どき流行らないはずなのだが、若者には新鮮に見えるのかもしれない。
「むかつくからサスペンダーを埋めた? こんなのつけたくもないから?」
「ちげえよ、それはユーのだ」
「ユーくんの? つまり、ユーくんにむかついたから?」
 またもや返事をしなくなったエスくんの頭を、本橋くんがごつんと叩いた。
「いってぇーっ!!」
「陰険だな、おまえは。そういう奴は大嫌いだ」
「あんたに嫌われたって……」
「それは苛めの一種だろ。こんなもんはひとつしかないんじゃないんだろうけど、仲間の衣装の小道具を隠す、土に埋める。最低じゃないか。汚れて使えなくなっちまうだろ」
「いいもん」
「よくない」
 再び手を振り上げた本橋くんを、焦って止めた。
「やめてってぱ。彼にもマネージャーさんはいるんだよ。叱るのはマネージャーさんにおまかせしたらいいじゃないの」
「俺に告げ口しろってのか」
「告げ口といえば告げ口だけど……私が言うから、本橋くんはしなくていい。とにかく、エスくんを降ろして」
「そんで、おまえがこいつについていくのか? なにをされるかわからないぞ」
「子供じゃないの。平気だよ」
 サンのマネージャー氏は太目の中年男性だ。私とは同業者であるわけなので、多少は話をした。腰の低い人のよさそうな男性だった。あのひとにこんなやんちゃ坊やたちのマネージャーがつとまるのだろうか、と私は懸念したものだが、ベテランマネージャー氏ならば、アイドル少年の上手な扱い方も知っているのだろう。
「そんなら、俺がこいつをマネージャーさんのところへ連れてくよ。こいつの口から言わせる。山田、おまえは帰ってろ」
「大丈夫?」
「大丈夫ってなにがだ? 逃がさない、大丈夫だ」
「……そのまんま行くわけ?」
「もちろん」
 うわっ、やだっ、降ろせ、離せ、ともがいているエスくんを吊り上げたままで、おとなしくしてないともう一発やるぞ、だとかなんとか脅迫しながら、本橋くんは行ってしまった。まったくもう、本橋くんはいつだって本橋くんだね、と嘆息していると、うしろで私と同じ感想を述べたひとがいた。
「リーダーはリーダーで、乾さんは乾さんだなぁ。あまりにもらしくてため息しか出ませんよね」
「幸生くん、見てたの?」
「はい。去年でしたっけ。乾さんと章と俺が数馬を燦劇のライヴに連れていったでしょ。あんときに近いシーンがあったんですよ。おまえらなんかと歩きたくない、って態度の数馬が、道端で歩かなくなった。ついてきてくれなんて頼んでねえよ、ってね、反抗的な悪ガキを、乾さんもかつぎ上げたんですよ」
 数馬くんとは社長の息子で、中学三年生である。数馬くんの保護者は大変だったね、と言ったら、乾くんは笑っていた。そうでもなかったよ、と言っていたのだが、私は詳しくは聞いていなかったので、幸生くんの話に耳を傾けた。
「乾さんもさっきのリーダーと似たようなことも言ってたし、脅迫もしてましたよ。数馬のクソ生意気な言動に腹を立てたのは章で、あいつは対等に数馬とガキの喧嘩をするんですよね」
「章くんも、らしいよね」
「でしょ? だけど、乾さんは、口でびしばしっとやって、数馬の反抗を封じ込めた。そのあとで俺が当り散らされて、蹴られそうになったんです」
「数馬くんも、らしい」
 中学生の年頃は、反抗が生きている証明だったりするのではないだろうか。大人に反抗もしないいい子は、むしろ将来が思いやられるのかもしれない。そういう意味では、数馬くんには見所があるのかもしれない。
「しまいにあいつ、最終奥義を出したんですよ」
「最終奥義?」
「数馬の切り札。想像してみて下さい。そんでもって俺を蹴ろうとする。俺だってあんなガキにはやられないから身をかわしてたら、乾さんが数馬を抱え上げた。それから口でびしばしっの続き」
 大人になんかなりたくない、と言う数馬くんに、乾くんは言ったのだそうだ。
「ガキのまんまでいたら、優しいパパがなんでもしてくれて楽だよな。なにをしでかしても後始末はしてくれる。小遣いをねだればくれる。大人ってのはつらいもんさ。親父ってのはとりわけつらいものらしい。俺は二十八だから、世間的に見れば若造の部類だよ。親父になった経験もないけど、おまえよりは大人だ。だからな、大人ってのは理不尽なものなんだ。身勝手で、子供を腕力で蹂躙しようとするものなんだ。教えてやろうか、どうやるのか」
 硬直してしまった数馬くんに、乾くんはきびしい声音で言った。
「おまえは親父に殴られたこともないんだろ。親父さんの教育方針は尊重しなくちゃいけないけど、俺はおまえの親父じゃない。しかし、今夜はおまえの保護者だ。大人になりたくない? 今どきの流行りかもしれないけど、そんなのはまっとうな少年じゃないんだよ。早く大人になって、むかつく大人を見返してやりたいと願うのが健全な少年だ。おまえの不健全な精神を叩き直してやろうか。え、数馬?」
 記憶力のいい幸生くんだから、乾くんの台詞の再現はおよそその通りなのだろう。泣き声になった数馬くんを地面に降ろし、乾くんは言った。
「殴られるのがそんなに怖いのか。そんなガキを殴る気にもならねえよ。ガキはガキらしくしてろ。わかったら返事しろ」
「……わかったよ」
「お、その目だ。いい目をしてるよ、おまえ」
 そこまで話して、幸生くんは遠くを見るまなざしになった。
「リーダーの行動と乾さんの行動って、似てるようでちがってるんですよね。ま、どっちもらしいんだし、ぶっ飛ばしたったってあの程度だし、リーダーとしたら遠慮したほうでしょ。章や俺だったら、横っ面にばっきゃーん、ですよ」
「ばっきゃーん、ね。アイドルの顔を叩くわけにもいかないし」
「そうそ、相手はガキだし」
「幸生くんや章くんは、あんな陰険な真似はしないよ。知ってるよ。それにしても本橋くんったら、エスくんにああやってるとお父さんみたいだったね」
「なんぼなんでも親父は気の毒でしょ」 
 計算してみれば十七歳のおりの息子になるのだから、それはたしかに気の毒だろう。だけど、本橋くんだったら息子ができたら、ああやって教育するんじゃないだろうかと思える。乾くんはそうやって? シゲくんはどうやって? 現実味があるのはシゲくんのみだけど、いつかはみんな、子供を持つようになるのだろうか。
 私だって、子供がいてもおかしくない年頃になっている。いつの間にこんなに……と考えかけて、となりで鼻歌を歌っている幸生くんを見た。
 どうも幸生くんと章くんは、パパになった姿がまったく像を結べない。そう言ったら、幸生くんは怒るだろうか。なんと言い返す? その想像だったら、いくらでもできそうなのだけど。
 夏が来て海辺でのイベント。デビュー以来幾度もこなしてきたステージだ。今回の出演者は、すでに人気度ではフォレストシンガーズを越えた燦劇、アイドルグループの卵であるS・U・N、フォレストシンガーズ、他にもいるのだが、どういうわけだかここ数日は、男性ばかりが出演する。
 人気が待遇のバロメーターであるらしく、燦劇は比較的高級なリゾートホテルに宿泊することになっていて、フォレストシンガーズとサンが同じ宿舎だ。
 フォレストシンガーズもそれなりに人気は出てきているのだが、若者受けはしにくく、大人のファンが多いせいだろうか、デビューもしていない子供たちと同宿となっていた。同宿にはライヴスタッフやバンドのメンバー、見事に男性ばかりが集まっているのだった。
 とすると、宿泊客の女は私ひとりか。男の中に女がひとり状態には慣れているものの、ライヴスタッフの女性たちや、数少ないながらもいる女性ミュージシャンたちが恋しい気分もあった。
 大学の合唱部合宿で毎年訪れていた、この海辺にやってくるのは久し振りだ。仕事なのだから、女同士のお喋りもしたいな、などと考えている場合ではない。なつかしい、とノスタルジーに浸っている場合でもない。いつかはできるかもしれない、彼らの子供の想像をしている場合でもない。
 幸生くんと連れ立って民宿に入っていって、私は一旦、数日間は自室になる部屋に引き取った。今回は私は個室を使わせてもらえる。
 回りは男性ばかりだとしても、宿には従業員の女性もいるのだ。世の女たちも溌剌と働いているのだから、私は私の仕事に全力を尽くそう。イベント出演は明日からなので、今日はのんびりしていてもいいのだが、仲間たちにハッパをかけてこようと、私はフォレストシンガーズ五人の部屋に出向いた。
「本橋くんは帰ってきた?」
 部屋にいたのはシゲくんと章くんで、シゲくんが答えた。
「何分か前に、本橋さんが顔を出して、乾さんをどこかへ連れていきましたよ」
「はーん、乾くんの口に助けを求めたんだね」
「なにかあったんですか」
 問いかける章くんに、あとで本人に訊いて、とはぐらかしていたら、乾くんと本橋くんが戻ってきた。
「お疲れさま、ミエちゃん。ああいうときの本橋を止めるのは、ミエちゃんにも至難の業だったようだね」
「いいえぇ、慣れてますから。マネージャーさんに正直に打ち明けたの?」
 事情を知らないシゲくんと章くんにも聞かせようとしてか、乾くんが話しはじめた。
「サンのエス、どれがどれだか俺にも区別がついてなかったんだけど、小柄な三人組の中でももっとも小さい奴だ。シゲも章も三人並べて見たら見分けがつくかな。そのサンが、ユーにむかついたってんで、彼のサスペンダーをここの裏手の土の中に埋めていた。そこに通りかかったのが、我らがマネージャーと我らがリーダー」
 さきほどの一幕を乾くんが手際よく話し、それから言った。
「それでな、本橋がサンをぶん殴ったんだってよ」
「アイドルの顔を?」
「顔は殴らない。おまえだって経験あるだろ。仕事前にリーダーに顔を殴られたことがあるか、章?」
「ないかな」
 こうかな、と章くんは自分の頭を自分でごつんとやり、本橋くんは言った。
「どこだっていいだろ。手を上げたのは事実だ」
「そうは言ったって、マネージャーの田中さん、彼も色をなしてたよ。うちのエスにそんな乱暴な……ってね。そこで俺がしゃしゃり出た」
 なにをどうしゃしゃり出たのかまでは乾くんは言わなかったが、いつもの弁舌を満開にさせたのだろう。田中さんも納得してくれ、仏頂面のエスの頭を押さえて、自身もぺこぺこと頭を下げた。
「私の監督不行き届きです。厳重に言い聞かせておきますので……」
 しかし、叩いたりしないで下さいね、お願いですから、とも言い添えた田中さんのもとから、乾くんと本橋くんは辞去してきたのであるらしい。告げ口や弁解は大嫌いな本橋くんなのだから、乾くんを連れていったのは正解だったのだろう。とりあえず一件落着、と乾くんが言うと、章くんも言った。
「監督不行き届きかぁ。思い出しますね。美江子さん、そのせつはどうも……」
「監督不行き届きってなに?」
「あの話、してませんでした? そんならいいか。俺の言うそのせつってのは、ほら、沖縄で……あのせつはどうもすみませんでした」
「今ごろなに言ってんのよ。四年も前の話じゃないの。それはいいんだけど、監督不行き届きって本橋くん? 沖縄の前の海辺でのイベントのときの話? 聞きたい」
「忘れました」
「章くんが言い出したくせに。だったらいいよ。幸生くんに聞くから」
「聞かないで」
 んん? 幸生はどこ行った? と本橋くんが発言し、私は言った。
「幸生くんはさっきの場面を見てたのよ。本橋くんがいなくなってから話しかけてきて、いっしょに民宿へ帰ってきたんだけど、どこに消えたんだろ」
「あいつはまたナンパ……」
「ナンパ? 章くん、事実確認をしないで言ってるんでしょ?」
「そうですけど、やりかねないから」
「仕事前にナンパなんて許しがたいね。ほんとにやってるんだったら私がマネージャーとして……」
 ドアが開くと同時に、きゃーーーっ、と悲鳴が聞こえた。言わずと知れた幸生くんだった。
「ナンパなんかしてませんよ。明日のステージの下見に行ってたんです。美江子さんったら怖いんだから。いやんいやーん、ぶたないでっ。美江子さんにぶたれたら、僕ちゃん、こわれちゃう」
「身にやましいところがないんだったら、こわれる心配はしなくてもいいんじゃない? やったの?」
「やってませんっ。誓います。えーと、こうだったかな。神にでも仏にでもアラーにでもマホメットにでも、お釈迦さまにでもキリストにでも、西王母にでも西大后にでも、徳川家康にでも織田信長にでも、豊臣秀吉にでも天皇陛下にでも卑弥呼にでも、クレオパトラにでも天照大神にでも、小野小町にでも紫式部にでも……いて、までおんなじ。な、章?」
 並べ立てたその名はなに? 本橋くんにごつんとやられて、いて、まで同じってなに? 私にはさっぱり理解できなかったのだが、乾くんがわっはっはっ、と笑い出し、シゲくんも本橋くんも大声で笑い出し、幸生くんは舌を出し、章くんは辟易顔になった。まーた私だけのけものにして、彼らの間でしか意味の通じない話題で笑ってる。私にも話してよっ、と言ってみたのだが、五人そろって知らん顔をした。


 夜空と海が重なる地点、水平線前方にまたたいているのは漁火だろうか。見上げれば天の川、七夕はすぎたけれど、今年は織姫と彦星はデートしたんだろうか。
 そんなことを考えて視線を浜辺に移すと、三人の少年の姿が見えた。私の部屋からは浜が一望できるので、ダンスの練習をしているらしい少年たちもよく見える。
 素顔は腕白坊やたちなんだろうけど、熱心に明日のリハーサルをやってるなんて、感心感心、と微笑ましく眺めていると、エスがひとりの少年を怒鳴りつけた。
「合ってねえんだよ、おまえ。下手くそ。歌は下手だしダンスも下手だし、そんなんでプロをやっていけると思ってんのか!」
「だって……」
 しょんぼりしているのはエヌか。夜空が明るいので顔立ちまでもよく見えて、しっかり見たらエヌらしかった。同じイベントに出演するのだから、キミの名前は? ではいけない。名前と顔が一致するように、あれから写真をよくよく見て覚えていたので、エヌだとわかった。
 だってだって、と言っているエヌにエスがたたみかけるようにまくし立て、エヌはべそをかきはじめた。白けた表情でふたりを見ていたユーがきびすを返し、エスはユーにも言った。
「なんだよ、練習しないのか」
「そうやって喧嘩してるのに、やってらんないよ。僕は寝る」
「おまえだって歌もダンスも下手だろ。練習しないと明日、恥をかくぞ」
「僕ら、たかがアイドルじゃん? 下手でもいいんじゃない? 顔はいいんだし」
 エスは悪っぽく、エヌは気弱でユーは醒めている。ざっと識別するとすれぱ個性はそんなところか。しかし、放っておくと暴力沙汰になるかもしれない。どうしようかと考えていると、別の男の声が聞こえた。
「下手でもいい、顔がよければいい? その考えはまちがってる」
 姿を見せたのは燦劇のファイだった。あんた、誰だよ、とエスが棘のある口調で問い返し、エヌはユーの背中に隠れ、ファイは言った。ファイは本橋くん以上に背が高いので、三人の少年たちのはるか高みにそびえ立ち、睥睨しているかの感があった。
「俺らもそう思ってたんだよ。そりゃあまあ、ガキアイドルと較べたら、俺たちは下手ったって下手のレベルがちがうんだろうけど、下手な部類だからな、俺たちも。俺を知らない? すっぴんだからか」
「すっぴんだから? ひょっとしたら燦劇の……?」
 エスが言い、ファイはおどけた礼をしてみせた。
「そ、サファイアと申します」
 その瞬間、エスがファイに飛びかかりそうな勢いで駆け寄った。エスは本橋くんが何者なのかは知らなかった様子だが、さすがに燦劇は若い子には知名度が高いと見える。
「燦劇? 本物? うわー、すっぴんでも綺麗な顔してるんだ」
「まあね。顔には自信あるんだけどさ」
「顔だけじゃないよ。かっこいいね。背が高い。脚が長い。オレも大人になったらファイ……サファイアさんみたいに……」
「ファイでいいよ。おまえは? サンだよな。サンと燦劇って半分似ててまぎらわしいけど、共演者になるんだろ。仲良くやろうぜ。サンの誰?」
「エス」
「エスね。あっちは?」
「天然パーマがエヌ、ストレートヘアがユー」
 いちばんちっちゃいのがエス、あとはそう覚えたらわかりやすいんだ、と私はうなずき、ファイは言った。
「おまえらってまだデビューしてないんだろ。俺もサンなんてはじめて聞いたんだけど、たしかに美少年がそろってるな。歌は下手か。聴いてやるから歌ってみろよ。俺もヴォーカリストだから、歌のアドバイスだったらしてやれるぜ」
 本橋くんたちにはガキ扱いされているのだが、十も年下の子供が相手だと先輩面をしたがる。そういうところは今どきの若者でも同じなんだな、と私がこっそり笑っていると、いやそうにしているあとのふたりをエスが促した。
 エスは燦劇ファンであるようなのだが、エヌとユーは燦劇には興味がないのだろう。私服でいてもファイの風体は尋常ではないので、怖そうなお兄さんだと思っているのではないだろうか。
 それでも三人は歌い出した。アイドルソング以外のなにものでもない、音域は狭く、歌詞は意味があるようでないようで、甲高い少年声が幼稚な歌を歌っているにすぎない、と、素人の私にも酷評するしかないできばえだった。
「三人とも音痴じゃないな。そんならレッスンしたらましにはなるよ。がんばれよ」
 アドバイスできるレベルではないと悟ったらしく、ファイも力なく言った。ファイにしても歌唱力抜群とはいえないのだが、サンと較べては気の毒だ。
「当分は顔で売ればいいんじゃないの? ごめんな、おまえらはまちがってないよ」
「そんなに下手?」
 悔しそうに訊き返したのはエスだった。
「かばいようもないほどに下手だね」
「……ファイも歌ってよ」
「俺に歌わせて批評でもしようってのか。あんたも下手じゃん、って笑うつもりか。おー、いい度胸じゃねえか」
「な、なにもそうは……」
「ちびがなにを一人前に……俺は親切でおまえらの歌を聴いてやったんだぞ。張り合う気なら俺にも考えが……げげっ……頼むから、頼むから……あっちで……やめて、ここでは」
 威勢のよかったファイの態度が豹変したのはなぜだろう、と首をかしげていたら、原因がただちに判明した。またしても聞こえてきた別の男の声は、乾くんだったのだ。乾くんはファイの背後に立ち、なにやら囁いていたようだったのだが、すこし声のトーンを上げて言った。
「子供相手になにを凄んでるんだ。みっともない。こっちへ来い」
「行くからね、行くから……じゃあな、坊やたちは早く寝て明日にそなえて……乾さぁん、勘弁して」
 初対面の日にファイは数馬くんに乱暴をして、乾くんに制裁として蹴飛ばされたという経験をしている。つまり、ファイは乾くんには恐れをなしているのだろう。私は乾くんがファイを蹴ったのを見ていないのだが、怒った演技をしている乾くんも相当に迫力があるのだから、ちょっとでも本気で怒っている乾くんはさらに怖い。ファイがびびるのも無理はない。
 ファイが乾くんのあとから歩いていくのを見送っていた少年たちは、なんだ、あれ? と悩んでいる。しばし考え込んでいたユーが言った。
「乾さんって言ってたな。さっき来てたフォレストシンガーズのおじさん?」
 エスも言った。
「ああ、来てたな。わけのわかんねえことを喋ってたおじさんだよ」
「むずかしーい言葉を使ってた。意味がほとんどわからなかったよ」
「オレはわかったけど」
「嘘だろ。エスは僕より頭が悪いじゃないか」
「なんだと、やんのか?」
「喧嘩なんかしない。喧嘩は時間の無駄だ。そんな暇があったら寝よう」
「練習だろうが」
「練習も時間の無駄だよ」
 若いくせしてユーはずいぶんとクールであるらしい。それにしてもおじさんとは……中学生から見たら三十近い男はおじさんなのか。エヌは黙ってふたりの会話を聞いていて、ほわわーっとあくびをした。そこで私も言ってみた。
「ごめんね。ここにいると見えるし聞こえちゃうんだ。ぜーんぶ見せてもらったよ。ねえねえ、僕ちゃんたち、うちのおじさんたちがおじさんなんだったら、私は……」
 やべっ、おばさんに見られてた、と小声で言って、エスが先頭に立って逃げていった。ユーは私にぺこっと頭を下げ、エヌは怯えた表情で私を見つめて目をそらし、前後して走っていった。私はやっぱりおばさんか、ま、しようがないかぁ、と呟いて、私は窓を閉めた。中学生になんと言われても、気にしないでおこう。私も寝るとしようか。

後編に続く

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