番外編

番外編19(5-3)(みだれ髪)後編

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番外編17(5-3)

 「みだれ髪」後編

3

「キャプテンと副キャプテンの関係っていう話にしようか。おまえは俺が卒業してから入学してきたんだから、その先の話はおまえがしろよ、酒巻。
 最初はたいして意識もしていなかったんだが、俺は一年生のころから合唱部の仲間たちを観察していた。先輩たちも見ていた。たかだか十八の少年にはなにほどの理解力もありはしなかったけど、先輩たちから話も聞いたから、すこしはわかったつもりでいるよ。先輩たちにしたところで、二十歳をひとつふたつ超えた年齢だったんだから、そうそう複雑でもなかったんじゃないかな。
 はじめて出会った大学の男子合唱部のキャプテン、奈良林さん、副キャプテンは田中さん。むろん大人に見えたさ。
あのころの俺は確固たる目標も持たず、歌って楽しそうだな、と考えて合唱部に入ったにすぎない。ピアノを弾いて妹と歌って、家を訪ねてくる客に喜んでもらったという思い出と、ガキのころからの友達だった皆実が合唱部に入ると決めていたから、だったら俺も、となったんだ。
 合唱部ってのはたとえ男子部であろうとも、わりあい品がいいんじゃないかと想像していたのは見事に裏切られて、はじめのころは戸惑っていた。歌ばかりかハープの練習までさせられて、あのころの俺は自分で手一杯だったよ。それでもいつしか見えてくる。周囲の人間関係ってやつが。
 うちの大学では男子合唱部のキャプテン、副キャプテンとなるとなかなかの有名人だろ。したがって部外の噂も聞こえてくる。部内でも仲間たちが噂をしている。他人の噂ばかりでは信憑性に乏しいから、俺はある日、奈良林さんに直接訪ねた。
「キャプテンは会津の出身で、副キャプテンは薩摩だと聞いたんですが」
「そうだよ」
「会津と薩摩……ですか。あの、過去の確執はもはや関係ないんですか」
「いや、俺の故郷ではこの前の戦っていったら、戊辰戦争だったりするんだよ。薩摩の奴らなんぞは顔も見たくないって言う年寄りもいるな」
「奈良林さんは?」
「俺が上京してきて大学に入って、合唱部に入って、同じ一年生になんだか軟弱な奴がいるなと思ったら、大阪の出身者だった。俺が会津の出だと言ったら、そいつは言ったよ。東北人と大阪人はもっとも馬が合わないんだってさ」
 脆弱柔弱だとしか会津の人間には思えない言葉と態度で、その同級生は奈良林さんの目にはへらへらした男に映った。奈良林さんも会津弁が抜け切れず、大阪弁と会津弁でほとんど喧嘩の格好になって、この軟弱者、この田舎者、とやりあっていると、田中さんが割り込んできた。
「奈良林、おまえ、会津の出か? 俺は薩摩じゃっで」
「……」
 軟弱者の大阪人と仇敵薩摩人、こいつら許せん。俺はこれからこのふたりと闘っていくのだと、奈良林さんは決意したのだそうだ。
「だが、大阪の奴はじきにやめてしまった。薩摩の人間は会津の人間を、いつまでそんな大昔にこだわってるんだ、馬鹿か、って目で見てるんだよな。なにが許せなかったのか、今となっては俺にしてもお笑いなんだけど、そのころは本気で考えてた。いつかこの田中を成敗してやる、会津の仇を江戸で討ってやる、だったのか。思い出すと大笑いだよ」
 歌とはなんの関りもないところで、奈良林さんは田中さんに闘志を燃やしたんだそうだ。あまりに遠い過去にそんなにも……ってのは、関東人には理解しがたいよ。山形県人にも理解しにくくないか?
 しかし、田中さんのほうは奈良林さんを仇敵だとは思っていない。田中さんを見ているだけでも腹を立てていた奈良林さんに、なにを怒ってる? 同い年なんだから仲良くしようよ、ってな態度だったんだそうで、次第に奈良林さんも馬鹿馬鹿しくなっていった。
 そんなふうな初対面を果たしたってのも、いったいいつの時代だよ、なんだけど、俺が出会ったころの奈良林さんと田中さんは、互いを補い合うつきあいをしていたよ。けれど、奈良林さんはこうも言っていた。
「俺には妹がいて、今年、東京に出てきたんだ。地元の短大を卒業してこっちで就職したんで、田中が紹介しろって言う。絶対に紹介はしてやらない。会津の女は薩摩の男の嫁になったらいけないんだ」
「はあ、そうなんですか」
 絶対に絶対に、と力を込めて言っていた奈良林さんの目つきは真剣だったよ。けっこう先走るひとだったんだな。後日、俺は田中さんにも質問した。
「俺は東京出身なんですけど、薩摩隼人から見ると東京人ってのも軟弱ですか」
「おまえはちと軟弱そうに見えたけど、ハープの特訓にも音を上げずに上達したじゃないか。見直した。出身地で人を差別するのはよくないよ。東京も薩摩も会津も、みんな同じ日本人だ」
 あの言葉には、奈良林さんの内心を気づいているがゆえの含みがあったのか。会津と薩摩の出身者たち、との先入観などをまじえずに観察していたら、頼りがいのあるキャプテンと副キャプテンだったよ。
 合唱部の練習をさぼった翌日に、こらーっ、金子、昨日はなにをしてた、申し開きできるんだったらしてみろーっ!! と田中さんに怒鳴られて、首をすくめた俺に奈良林さんが言った。さぼりの罰は、次の飲み会の出席停止だな、ってさ。息もぴったり合ってたよ。
 二年生となると合唱部での暮らしにも余裕が出てきたよ。奈良林さんの代の先輩には豪快すぎる男が多々いたんだけど、福田さんの代は一年前と較べると穏やかだった。
 学校にも合唱部にもなじんで、後輩もできて、それでいて将来について思い悩むにはまだ至らない。大学二年生ってもっとも若さを謳歌できる年頃だったのかもしれない。奈良林さんも田中さんも卒業してしまって、俺は新キャプテンの福田さんと副キャプテンの井上さんを見ていた。
 あの年に大学近くに新ホールが建設されたんだ。ホールのこけら落としは年の暮れのカウントダウンコンサートと決まって、うちの合唱部にも歌ってくれとの依頼が来た。
合唱部全体で混声合唱をやろうとの提案も出ていたんだが、福田さんが女子部のキャプテンに言ったのだそうだ。
「ただいまのところ、うちの部でいちばんの実力者は、三年生の高倉、渡嘉敷、星の三名だ。混声合唱などというありきたりの出し物ではなく、彼ら三人の歌をお客さまに聴いてもらいたい」
「混声合唱はありきたり? 女子部からは誰も出ないってわけ?」
「女子部にはさほどに実力ある歌い手がいないだろ」
「悔しいけど……そうよね。男子部も四年生を差し置いて三年生が出るの?」
「学年ではなく実力だよ」
「私たちが出演できるプログラムはひとつきり。そうなると、福田くんの提案が妥当だね」
 両キャプテンの話し合いで出し物が決定し、その時代の合唱部では歌唱力が粒よりだった高倉、渡嘉敷、星の低音トリオがステージに立つことになった。それまでの合唱部では年功序列が幅をきかせていて、そのようなステージには四年生が最優先だったんだ。それを切り崩したのが福田さんだよ。
 自らは裏方に回り、福田さんと井上さんは三年生トリオの指導に当たった。バスの渡嘉敷さん、バリトンの高倉さんと星さん、高い声のいない男声コーラスは異色ともいえるので、不安視する向きもあった。
暗いだの重いだのと横槍を入れたがった四年生の中には、なんだって三年生が主役になるんだ、との嫉妬もまじっていたんだろう。
「男の低い声ばかりでは重い、暗い。たしかにそれは当たってるんだ。だからな、金子、頼む」
 コンサートのための練習の場に呼び出されて、俺がなにを? と問い返すと、福田さんは言った。
「ハープだよ。ハープの伴奏でかろやかさと華を加えてくれ」
 井上さんも言った。
「それとフルート。伴奏する楽器で華麗さを出すんだ」
「おまえの楽器の腕は証明済みだろ。両方頼む」
「……両方? 俺はフルートの経験はありません。フルートは別の誰かに頼めませんか」
「ハープだってはじめてだったのに、巧みにこなしたじゃないか。できるよ。おまえにだったら」
「他に頼める奴はいないんだよ」
 ふたりがかりで迫られて引き受けざるを得なくなって、俺は二年生の一時期はフルートとハープの特訓に痩せる思いだった。俺は合唱部で歌うんじゃなくて、楽器担当か、ってなものだったんだけど、ハープを弾けたという前例を作ってしまったから、否も応もなかったんだよ。
 けれど、そのおかげで俺は、高倉さんと渡嘉敷さんと星さんの歌を、練習段階から完成するまでじっくりと聴かせてもらった。俺も声は低いほうなので、彼らの歌は参考にもなった。
さらにそのおかげで、先輩たちと会話もできた。四年生がふたりと三年生が三人の専門的な歌の話にも、雑談にも耳をかたむけていられた。意見を求められたりもした。
 会話の断片をつなぎ合わせると、福田さんと井上さんは高校三年の夏休みに、東京の予備校に通っていて知り合ったんだそうだ。
福田さんは静岡、井上さんは群馬から、大学受験のための勉強をしに東京に来ていた。勉強の合間には息抜きと称してライヴハウスで歌を聴いたりもした。ともに歌が好きで、ともに同じ大学を受験して、昔から有名だった合唱部に入部しようと語らって、春には桜が咲いた。
 そんな仲だったんだから、福田さんと井上さんは終始和やかだったよ。カウントダウンコンサートでは低音トリオのコーラスも好評を博し、がっちり握手していた福田さんと井上さんの姿が脳裏に残ってる。
 高倉さんと渡嘉敷さんと星さんは、それ以前からトリオを結成して歌っていたんだ。いずれも遜色ない歌唱力の持ち主だったんだけど、星さんにはすこしばかり不良っぽい香りがあったのかな。そのためだかなんだか、俺が三年生の年には、高倉さんがキャプテン、渡嘉敷さんが副キャプテンに選出された。
 三浪していた高倉さんは、彼が一年生の年の四年生たちと同年齢だ。苦労人だったのもあり、実直で温厚な人柄もあって、一年生のころから皆に一目置かれていた。俺とは学年では一年の差だし、昨年のカウントダウンコンサートでの関りもあって、そのころには気安く口がきけるようになっていた。
 来年には男子部の実力者たちが卒業してしまうこの年に、彼らの後継者たちが入部してきた。そう、徳永、本橋、乾だよ。皆実と俺も注目されていたから、この年の男子部にはスターの卵がそろってると言われていたものさ。
 温厚でいて発言力もあり、年齢的にも誰よりも大人だった高倉さんは、完璧に合唱部をまとめていた。
この年の四年生は高倉、渡嘉敷、星以外の者は俺の記憶にはあまり残っていない。四年生よりも一年生に関心が移ったせいもあったんだろうか。星さんには多大な興味があったけど、キャプテンと副キャプテンの話だったよな。高倉さんと渡嘉敷さんだ。
 かつてから男子部にはルックスはもうひとつ、ってタイプの男が多くて、高倉さんや渡嘉敷さんにしても、人並みの外見の持ち主だったよ。星さんはその中で群を抜いて光ってたんだけど、男の顔はどうでもいいよな。
それに、このあたりになるとおまえも後に出会ってる。おまえの知らないころの話をしなくちゃ。
 ただ、俺は星さんともっとも親しくしてもらっていたので、彼からの又聞きの話をよく覚えてるんだよ。同年だが三つ年上の高倉さんを、星さんは敬称つきで呼んでいた。
「高倉さんと渡嘉敷さんはどうやって知り合ったんですか」
「高倉さんは広島、渡嘉敷は沖縄、俺は新潟だろ。高校生まではなんの接点もありはしなかったよ。三人ともに声が低くて歌が好き。それ以外の共通点はなかった。俺たちも合唱部で知り合った。高倉さんとの初対面の際には、たいていの奴が言うし、高倉さんも気を悪くしたりはしないだろうけど、老けてるなってのが第一印象だった」
 年上というだけではなく、高倉さんは学生時代から年齢以上に落ち着いた外見をしていたんだ。
「部室ではじめて会ったときには特に話もせずに外に出た。そうしたら、ほら、野球部の大泉さんが高倉さんに声をかけた。大泉さんは当時、三年生だったな。野球部ではスターだったから俺も知っていた。大泉さんが高倉さんに歩み寄って、ふたりは親しげに話していた」
 あの大泉さんと高倉さんがなぜああいう口のききようで話す? 不可解に感じていた一年生たちに、大泉さんが言った。
「高倉は俺と同郷でずーっと親友なんだ。こいつをよろしく頼むよ」
「そうなんだ。俺、大泉と同い年なんだよ。つまり三浪なんだ」
 てへっ、と高倉さんは照れ笑いし、ああ、そうだったのか、とみんなは納得した。あの大泉さんと親友、それだけで一年生たちは高倉さんを尊敬してしまったらしい。星さんは続けて話してくれた。
「そんなだから先輩たちも、高倉さんは特別扱いだったよ。高倉さん自身は遠慮して、俺も一年生なんですから、と言うんだけど、下っ端扱いはできなかったんだろ。高倉さんの人格ってのもあるんだろうし、彼は音楽にはきわめて造詣が深いから、俺はそんなもんかと思ってた。ただし、そうなると高倉さんは一年生の間で浮く。進んで話しかけるような奴は少なかった。高倉さんに話しかけられてもなんとなく臆するような奴もいた。渡嘉敷と俺はそういうふうにも考えてなかったんだな。いつしか三人で親しくなって、三人で歌うようになったんだよ」
 低音トリオが一年生だった年に、女子部に水無月さんというソプラニストがいた。水無月さんには星さんが声をかけた。
「俺は星、きみは月だね。名前にも縁があるんだし、俺たちは三人とも声が低いから、その中にきみの綺麗な高い声がまざるといいハーモニーになると思わないか。いっしょに歌おう」
 そうやって誘った水無月さんと、一時は四人で混声コーラスグループをやっていた。PPMだのママス&パパスだのって、男女混合グループの海外の歌を歌っていたんだそうだ。俺も聴きたかった、と俺が言ったら、星さんは続きを話してくれたよ。
「水無月さんはそのうち、誰かと恋仲になったんだよ。声も顔も綺麗な子だったから、恋人のいる水無月さんに横恋慕した奴がいてすったもんだして、女子部の内部では内部で、一年生のくせに生意気、だなんて言われたりもしていたらしい。グループはやめるって言って飛び出していって、合唱部もやめてしまった。ありがちだよな」
 彼女が恋仲になった誰かの名も、横恋慕した誰かの名も、星さんは出さなかった。三人のうちの誰かだったのかもしれないけど、そのせいで三人の仲が崩壊したりはしなかったんだな。だから、別の誰かかもしれない。だから、俺は四人の美しいハーモニーを聴いたことはない。残念だよ。
 現在の合唱部でも伝説になっているらしいけど、それから高倉さんが本橋と乾を抜擢し、渡嘉敷さんは本橋と乾には敢えてかまわず、徳永に目をかけた。
星さんともよく、あの三人の話をしたよ。そして俺は、卒業していく高倉さんに徳永を託された。託されなくても、徳永とは妙な因縁があったような気がするんだけどね……おい、酒巻?」
 記憶力がいいんですねぇ、よく覚えてるなぁ、それから? それで? さすがDJ、聞き上手の酒巻は俺に長々と話をさせた。相槌と合いの手が途切れがちになり、気がつくと、酒巻はソファで丸まって寝息を立てていた。
 この話の続きは皆実と俺の代になり、一年飛ばして、続くは本橋と乾だ。自らの話は以前にも酒巻にはした。本橋の代となれば、酒巻も合唱部のメンバーとなる。
そうすると、酒巻がこの続きを聞く必要はないだろう。彼が大学に入学してからの話も折に触れては聞いているので、眠っている酒巻に毛布をかけてやって、キッチンで喉を潤した。
 愛理ちゃんは無事に帰って眠ってる? 俺のうぬぼれではなかったのかな、そうだったのかな、だけど、そうだとしても過去の話だろ。俺は莢子に魂を奪われて、今は身動きが取れない。愛理ちゃんは愛理ちゃんで、早くいい男を見つけて恋をしろ。
 男たちの話が終わると想いが女たちに漂っていって、酒巻の控えめな寝息を耳に留めつつ、俺は愛理ちゃんにこっそり話しかけていた。来なかったな、莢子は、愛理ちゃんと顔を合わせなくてよかったな、なんてことも思っていた。


 年下の者の面倒を見るのが似合う気質と、年上の者に面倒を見られるのが似合う気質。人間を気質で分類するやりようには多種あるのだろうが、そういう分け方もある。そもそもは三沢が言っていたのだ。
「俺は後輩気質なんですよ。先輩に甘えてごろにゃーんってのが、俺にはぴたりとはまるでしょ? 金子さんにもいっぱい甘えちゃってますし、これからもよろしくお願いします。ごろにゃんのごろにゃん」
「ごろにゃんはいいんだけど、なるほど、そうかもしれない。するとさしづめ……」
 後輩気質の男はもうひとりいる。酒巻だ。
 大人になりたいだの、大人になり切れないだの、僕はもう一人前だだの、二十歳をすぎたら大人ですだの、三十になったら大人になりますよねだのと、酒巻は半人前と一人前の間を揺らめいていて、時としてしっかりした一面を見せたと思ったら、次の瞬間にはへにゃっと崩れる。
 危うくて見ていられないので、突き放そうとしてもついかまってしまう。先だっても仕事でなにやら失敗をしでかしたとかで、へこみにへこんでいて、メールだの電話だのでうだうだうだうだ。ついに今日、俺は酒巻にメールの返信をした。
「夜になったら俺んちに来い」
 呼びつけたらやってきた酒巻は、世迷言を繰り返して自己憐憫の深淵に身を投げ、死んでしまいたいとまで言う。
「僕なんかが生きていてもしようがないんです。世の中の迷惑ですよね。こんなに気が弱くて頼りなくてだらしなくて、世間さまに申し訳が立たないってのは僕のことですよ。死んだほうがいいんですよ、僕なんか」
「ああ、死ねよ。ナイフか、ロープか、ベランダから飛び降りるか」
「……金子さん……」
「止めてほしいのか。それとも、殺してほしいのか。俺は殺人者になりたくないし、自殺幇助もまっぴらだ。死にたいんだったらひとりで死ね」
 そんな、あの、でも、あの、と口ごもっている酒巻の頬を軽く張り飛ばしたら、小さな身体が吹っ飛んだ。三沢でさえもこうたやすくは飛ばないのだが、酒巻の体重はどのくらいあるのだろう。愛理ちゃんより多いんだろうか。
 頬を両手で押さえて、どうでもいいようなことを考えている俺を見ている酒巻の目に、みるみる涙が盛り上がっていく。莢子だって愛理ちゃんだってこうもたやすくは泣かないはず。いや、殴ったら泣くのかもしれないが、女の場合はためしに殴ってみるわけにもいかないので、どうなのかはわからない。
 気持ちがよそにそれていたのを引き戻して、俺は声音を低くして言った。
「どんな仕事であれ、甘えてて世の中を渡っていけると思うな。世の中が甘くないってのは、おまえもとうに知っただろ。そんな根性ではなんにもやれないんだ。泣くな。おまえの泣きっ面なんぞ見てると胸糞が悪くなってくるよ。泣いてるんだったら出ていけ」
「はい、はい、でも……涙が……金子さん、後生ですから……そんなに怖い顔……」
「怖くなんかないだろ。俺の面も甘ちゃんだって言われるんだから」
 ソファに身を投げ出して、苦笑するしかなかった。
「泣いてるよりは酒がいいだろ。酒巻、キッチンで働いてこい。酒の支度だ。身体を動かしてると涙が止まる。さっさとしろ。ケツを蹴り上げるぞ」
「はっ、はいっ!!」
 ウィスキーとグラスと氷をトレイに乗せて、赤い目をした酒巻がキッチンから出てくる。トレイをテーブルに置いて、酒巻はフロアに正座した。
「すみませんでした。僕、甘えてましたよね。金子さんに……ありがとうございました」
「殴って礼を言われてりゃ世話ないんだよ。飲め」
「いえ、飲むとまた……僕はお酒には弱いんですよ。酔ったらなにを言い出すか、自分で自分が怖いですし……金子さんはどうぞ」
「言われなくても飲むさ」
 甲斐甲斐しくこしらえてくれた水割りを口にして、薄い、と言うと、酒巻は腰を浮かせた。
「濃い水割りは身体によくありませんよ。なんにも食べずに飲むのもよくありません。冷蔵庫の中のものでなにか、食べるものを……」
「いいんだよ。つまみなんかいらない。あのな、酒巻」
「はい?」
 本橋が三沢を犬っころみたいな顔だと評していたが、酒巻はげっ歯類だろうか。つぶらな瞳が涙に濡れている。女だったとしたら可愛いのかもしれないが、二十六にもなった男が涙に濡れた目をしていても可愛くもなんともない。蹴飛ばしてやりたくなったのをこらえて言った。
「なにも食わずに酒を飲む、言ってみろ」
「はい? なんにも食べずにお酒を飲む? ですから、身体には悪いと……」
「なんだっておまえは、酒に「お」をつけるんだ。男は食うと言え」
「ええ? でも……姉が……」
「姉さんが? なんだって?」
 恥じらいの表情というやつも、酒巻が浮かべると可愛くはないのだが、そんな顔をして彼は言った。
「男のひとだって上品に喋ったほうがいいよ、って、姉は言ってました。金子さんはいつもは上品なのに、あんな下品な言葉を……女性に嫌われません?」
「ケツを蹴るってか? 蹴ってやろうか」
「いいえ、けっこうですっ!!」
「馬鹿か、おまえは」
 勝手に好きなように喋ってろ、そこまで面倒見切れないよ、とそっぽを向いて呟くと、犬っころの顔がまぶたに浮かんできた。
「だからね、酒巻や俺は後輩気質。金子さんは先輩気質なんですよ」
 昔は俺だってこうじゃなかったんだぞ。おまえの知らないころの、若いころの俺は、後輩として先輩に……俺の学生時代をその目では見ていない三沢や酒巻に、おまえたちのせいで俺はこうなったんじゃないのかな、とこっそり呟いてみた。


4

 まるで寝物語のごとく酒巻に語ったのは、俺が在校していたころの合唱部。俺が卒業した後にも、合唱部はむろん存続していた。
 金子将一の次なるキャプテンは渡辺、その次が本橋、その次が実松、そこまでは俺とも交流があった。
 そこからは俺が卒業したのちに入学してきた世代のキャプテンとなって、酒巻が三年生当時のキャプテンは三沢となる。三沢も自ら言うよりはよほど立派に合唱部を運営していた。そして、酒巻が四年生だった当時のキャプテンは、三沢と同年の鈴木、留年して合唱部に五年間いたという、一種のつわものだ。
 そうと聞いた俺は思った。卒業しても歌手になるあてがなくなって、留年して就職浪人になって合唱部に居座ってやろうかと考えたことがあるのだから、実行してもよかったのではなかろうか。あるいは、徳永の友人の寄生虫命の男、加藤大河のように大学院生になるという手段もあった。
 実行しなかった手段を悔んでも意味もないのでやめておくとして、その翌年のキャプテンは綾羅木圭太という。俺も卒業してから数年は母校のコンサートを覗きにいったりしたので、綾羅木は記憶に残っている。酒巻との初対面のあの年に、一年生だった綾羅木とも会った。
「金子将一さんでいらっしゃいますか。はじめまして。感激です」
「綾羅木くん? 変わった名前だね。山口県に綾羅木って土地があるよね」
「はい、僕はそこの出身です。よくごぞんじですね」
 そんな会話を思い出したのは、酒巻に無理やり、綾羅木圭太の弟と引き合わされたあとだった。
 あの酒巻にももちろん後輩はいる。後輩の圭太に、歌手志望の弟の貢に力を貸してやってくれと頼まれたのだそうだ。酒巻は、一介のDJ風情になにができるんですか、と言いながらも、断りもできずに貢と会うことになり、そこに俺を引っ張り出した。
 フォレストシンガーズと俺が母校の学園祭に呼ばれた際に、貢は合唱部に在籍していた。俺にサインをもらったと言われて記憶をたどれば、たしかにそんなこともあったような気はする。
 が、サインなんぞどうでもいい。歌手としてデビューしたいと熱望し、先輩のつてを頼って力になってもらおうとするのは、気持ちはわかる。なんにだっていいからすがってデビューしたい、俺にもアマチュアのころにはそんな願いがあったのだから。
 が、そういった気持ちを抱いて接触してきた大先輩に、あの態度はなんなのだ。酒巻さんってちっちゃすぎて見えない、だの、その声でそのルックス? ぎゃはは、だの。
 たしかに酒巻は世間の女程度の身長で、世間にざらにはない低音の持ち主なのだから、そう言いたくなる気持ちもわからなくはない。
 気持ちはわかるにしても、酒巻のさらに先輩である俺には貢なりの敬意を持って接していたのだとしても、無作法な輩と相対していると苛立ってくるので、席を蹴立てたのだった。
「この仕事ばかりは、実力があっても運がないとどうにもならないんだよ。我が手でそれをつかまえろ。本橋たちにしろ徳永にしろ俺にしろ、仕事はちがっても酒巻にしろ、誰だってそうやって這い上がってきたんだから……貢、おまえも我が手でつかみ取れ」
 本来ならば貢に言ってやるべき台詞を、胸のうちで言いながら、酒巻とも別れて仕事に向かった。
 スタジオでレコーディングの打ち合わせをしていると、黒ずくめの長身の男が入ってきた。俺も背は高いほうだが、彼はもっともっと高い。真っ黒な髪を長くして背中で束ねて、黒いサングラスをはずして俺を一瞥した目も、宇宙の果てのように真っ黒だった。
「金子さん? 俺はごぞんじですか」
 酒巻の声を世間にはざらにいないと言ったが、彼も世間にざらにはない声質の持ち主だ。酒巻とはちがってルックスとのギャップはまるでない、低く深く響く美声。
「……真柴さんですね。プロデューサーでもありソングライターでもある真柴豪氏のご高名はかねがね耳にしておりますよ。真柴さんが俺の名をごぞんじだとは、光栄の至りです」
「知ってますよ。俺も他人のレコーディングにつきあってるんですけど、金子さんがいらしてると聞いて来てみたんです。あとで酒でも? お時間はおありですか」
「重ね重ね光栄の至りです。真柴さんさえよろしければぜひ」
「じゃ、あとで、ここで」
 メモを俺に手渡し、軽く手を上げて、真柴豪はスタジオから出ていった。
 やがて仕事を終えると、真柴氏が指定した店に出向いた。音量を絞ったジャージーなメロディが流れる中、改めて挨拶をかわし合い、互いにウィスキー党だとわかって、気が合いますね、などと話しているうちに、次第にほぐれてきた。
「真柴さんのほうが年下なんですね。とはいってもふたつの差だ。堅いのは抜きでやりましょう。酒の席でもあるんですから」
「金子さんがそう言ってくれるのなら、俺はそのほうが楽ですけどね。しかし、本橋に乾に本庄に三沢に木村に徳永といった連中は、金子さんの前ではかしこまってるんでしょう?」
「ほお、ごぞんじですか」
「フォレストシンガーズの五人と、徳永渉は金子さんの弟分というか、大学が同じだとは聞いてますよ。合唱部出身だとも聞いてます。俺もグラブダブドリブの沢崎司とは……」
「俺も知ってますよ。沢崎さんと真柴さんは大学が同じで、剣道部の先輩には俳優の藤波俊英氏がいる」
「司とは同い年だからともかく、藤波のトシさんには俺たちは頭が上がらない。学生時代の先輩、後輩関係ってのは長くひきずるものなんだな。まして、トシさんは役者、俺たちは音楽、近い業界にいるんだからよけいにね。金子さんたちは同じ業界なんだから」
「剣道部となると、合唱部の比ではないでしょうね」
 本物の体育会だ。「系」のつかない体育会の先輩後輩のけじめはいかなるものか。俺は高校時代は読書クラブ、大学時代は合唱部と、剣道部員から見れば軟弱のそしりを受けてもやむを得ない道を歩いてきたので、本物の体育会には引け目を感じなくもない。
「しかし、剣道部出身のミュージシャンってのは……ああ、俺の知り合いにもいますよ」
「金子さん、丁寧語はなしに願います。年上のひとに丁寧語を使われるとやりづらい」
「うん、まあ、では、徐々に……」
「剣道部出身の、金子さんの知り合いのミュージシャンってのは?」
「チキンスキンのベーシスト、柴垣安武」
 プロではあるのだが、当の柴垣も常々言っている通り、きわめてマイナーなパンクバンドだ。知らないのではなかろうかと思っていたのだが、真柴氏は、ああ、彼か、とうなずいた。
「面識はないけど、一応は知ってます。彼は剣道部だったんですか」
「中学、高校では剣道部だったそうだよ。どこで道を踏み外したのかまでは知らないけど、大学ではロック研究会に入り、同じ大学ではないメンバーとバンドを結成した。俺はパンクってのはなじみが薄いんで、チキンスキンのメンバーもよくは知らない。デビューに至る道のりなどもよくは知らない。近頃は会う機会もめったにないからね」
「道を踏み外したっていうと、司も俺もだな」
「真柴さんはクラシック界出身だったね。ピアノの神童だったと聞いたよ」
「神童ではないけど……」
 当方はグラブダブドリブにしても真柴豪にしても、世に流布している程度の情報ならば持っている。なにしろ彼らはスターなのだから。
 音楽系の高校を卒業し、音大ではなく日本中の人間が周知の大学に入学した真柴豪は、大学在学中にロックバンドのキーボーディストとして華々しくデビューを飾り、一躍スターバンドの一員となった。
 だが、メンバーとの音楽的見解の相違により、真柴氏のバンドは解散。その後はプロデューサー、ソングライターとして、その方面でも花形の王道を歩んでいる。
 かたやグラブダブドリブは、真柴氏が見出したのだとされている。それぞれに別のメンバーとグループを組んでコンテストに出場したグラブダブドリブの五人の中に、真柴氏の旧友である沢崎司がいたのもあり、他の四人の才能をも見抜き、五人でやってみろ、と勧めたのは真柴氏だった。
 グラブダブドリブはデビューしてたちまち売れたのではないのだが、楽器も歌も才能は桁外れ、加えてルックスも超一流。それでも売れない者は売れないのがこの世界の常ではあるのだが、数年後には売れはじめ、売れ出したら一気に階段を上り詰めて、今やロック界のスーパースターだ。
 世間に流布している情報とはこの程度だが、裏話もあるのだそうで、真柴氏が話してくれた。
「司の親父さんは刑事で、殉職なさったんですよ。司が中学生のときだったと聞いてる。司には弟がふたりいて、尊敬していた父親のあとを継いで刑事になろうと誓い合った。現在では弟たちは、上のすぐる……優秀の秀って書くんですが、その秀は刑事、下の要は巡査になっています。司のみがロックの道に行ったもので、弟たちから勘当を言い渡されてて、たまに顔を合わせると、おまえみたいな裏切り者は兄貴とはみなさない、なんだそうですよ」
「ほお。で、真柴さんは?」
「俺はご承知の通り、クラシック出身ですから、高校時代の同級生あたりには裏切り者呼ばわりされてます。クラシック畑の連中は、ロックなんてのは下賎な音楽だと思っていたりするんだな」
「そういうものですか。本橋も俺もピアノをやってたんだけど、子供のレッスンの域を出てないから、裏切り者呼ばわりされるほどでもないな」
「金子さんもピアノを? 本橋もですか」
「そうなんだけど、それはあとで。続けて」
「グラブダブドリブの他の奴らにしても、オペラから転向していたり、体育教師になりたかったはずだったり、とある企業の社長にしようと英才教育を授けられたのに、反逆して家出したりと、ひとつの道をまっしぐらに進んできたわけではない。ま、別段珍しい話でもないんだろうけど」
「俺も大学に入学した当初は、言語学者志望だったから、珍しい話ではないんだろうね」
「言語学者ね」
 面白そうに俺を見て、真柴氏は言った。
「俺は金子さんの書く曲が好きでね」
「それはそれは、ますますもって光栄の至り」
「金子さんは詞は?」
「詞は書かない」
「そういう主義? 金子さんの歌はすべてが金子将一作曲で、作詞はさまざまなソングライターがやってるでしょう。俺にも書かせてもらえませんか」
「真柴さんが詞を提供してくれると?」
 願ってもない申し出ではあるが、この話しにも裏があるのではないかと、かすかに頭をかすめた。
「言語学者が詞を書かないっていうのも面白い。俺はあなたに興味がありますよ」
「それで、飲みに誘った?」
「そんなところかな」
「……妙な質問をしてもいいかな」
 どうぞ、と促されたのだが、どう切り出せばいいのだろう。彼の持つ独特なムードはどこから出ている? 普通は男にはこんな質問はしないのだが、もしや、まさか、という思いは、裏が……裏とはそこに所以しているのか? などと頭が回ってしまったせいだ。真柴氏はじっと俺を見返してから、辟易のきわみみたいな表情になった。
「金子さん、俺にはそんな趣味はない」
「へ? なんにも言ってないのに、真柴さんはテレパスか」
「やっぱりそっちか。冗談じゃないってんだよ。俺は小学生のときにはじめて、これは本気の恋なんだと決めた女の子に告白して以来、女がとぎれたためしはないんだ。自慢じゃないけど、抱いた女の数は……っと、まあいいか。これで答えになった?」
「なったよ。了解」
「あんただってその趣味はないよな? あるわけないよな。俺の同類だろ。それで心配してたんだろ。しかし、まあ、あんたはもてるだろうな」
「あんたに言われたくないね」
 話題が変な方向に行き、彼を辟易させたのが怪我の功名だったのか、そこからはすっかり言葉遣いも砕け、昔からの友達のごとくに、学生時代から現在へと話しがとめどなく続いていった。
「ただ今のところは、「みだれ髪」をモチーフにして曲を書こうと考えてるんだ」
「与謝野晶子の短歌? ふーむ、じゃあ、それをアレンジして金子さんが詞を書く?」
「俺は詞は書かないよ。だけど、短歌だけでは歌にはなりにくいから、どうしたもんかと頭を悩ませていたんだ。乾に協力を仰ぐって手もあるけど、あいつはあいつで万葉集の相聞歌の線で考えているらしい。金子さんに先にやられたら俺はできない、なんて言ってたけど、早く完成させないとかっさらわれてしまうかもしれない。フォレストシンガーズの歌をぱくったなんて言われたくないもんな」
「後輩とはいえライバルだからね。俺もその線で考えてみるよ」
「よろしく。考えてみるといえば、真柴くんは新人歌手のオーディションにも関ってるんだったね」
「よく頼まれるから、やってるよ」
「うん、なら、近いうちにもしかしたら……」
「近いうちに?」
「確定したらお願いするかもしれない」
 チャンスのかけらくらいは、貢に贈ってやれるかもしれない。だが、俺は彼の歌を聴いていないのだから、今はまだ真柴プロデューサーにお願いはできない。まずは貢の歌のデモテープを手に入れようと決めた。


 もとロッカーである木村が神のごとくに崇めていて、フォレストシンガーズの連中もかなり心酔しているらしきグラブダブドリブには、俺も当然関心がある。音楽に携わる人間でグラブダブドリブに無関心な人間はいないだろう。いたとしたら、無関心を装っているのだ。
 そのうちには彼らにも紹介するよ、と真柴くんは言っていたが、グラブダブドリブの前に、彼の剣道部の先輩と出会った。俺とは因縁のある音羽吾郎の役者としての先輩でもある、藤波俊英だ。
「金子、おまえは会ったことはないだろ。紹介するよ」
 テレビ局でばったり会った音羽が、俺には縁のないドラマ収録スタジオに連れていき、藤波氏を引き合わせてくれた。
「シンガーの金子さん? はじめまして。俺とは同い年だってね」
「そのようですね。よろしくお願いします」
 真柴くんが本橋や乾と同年、藤波氏は二年先輩だと言っていたから、計算上も合っている。慌しく挨拶をすませると、ドラマの収録を見学することになった。
 故郷の水戸藩を脱藩してきて江戸にやってきた浪人の藤波氏と、先に脱藩して江戸に来ていた音羽が、飲み屋で再会を果たす。幕末ものの時代劇である。
 脱藩浪人なのだから薄汚れた着物を着て、さかやきもぼうぼう、無精ひげもぼさぼさ、といった格好でないといけないはずだが、ふたりともにまったく汚くは見えない。
 ふたりともに長身で体格もよく、顔立ちも整っていて爽やかに見える。ぱりっとした着物に折り目のついた袴。こんな脱藩浪人がどこにいるんだ、誰が着物を洗い張りしたり、袴を火熨ししたりしたんだ、本物が見たら腰を抜かすぞ、と言いたかったのだが、本物の脱藩浪人なんてものは、現代にはいないのだからいいのだろう。
 二枚目俳優同士が対峙しているのだからして、汚い姿にさせるとファンの方が怒るのか。俺としては違和感はあったのだが、そこになだれ込んできた敵方との立ち回りのシーンとなると、固唾を呑んで見入ってしまった。
 特に藤波氏は素晴らしく殺陣がうまい。斬られ役が達者だからというのもあるのだろうが、かくも鮮やかな立ち回りを間近で見せてもらって、音羽に感謝したくなった。
「門外漢の俺がコメントを述べるのは僭越だけど、素晴らしい。眼福でした。ありがとうございました」
「金子さんもやってみるか」
「殺陣をですか。やってみたいけど……いえ、いつか機会があれば教えて下さい」
「その身体があるんだし、運動神経もありそうだし、筋がよさそうだよ。さてと、音羽、飲みにいこう」
「金子も行くだろ」
 本日の仕事は終了したというふたりと、あとは酒になった。音羽も俺とは同年なので、三人ともに同い年だ。役者と歌手、近いようでいて遠いような業界に棲息する三人は、いつしかタメ口で話していた。
「この店は俳優さんたちの溜まり場? あのひともあのひとも……」
「マスターも昔は劇団で芝居をやってたんだそうで、若い役者が他人事だとは思えないんだな。金がない役者には出世払いでいいと言って、飲ませてやったり食わせてやったりもする。まるで新派の芝居のようだな」
 藤波氏が言ったとき、若いカップルが我々の席に近づいてきた。男は藤波氏と音羽に黙礼して別の役者たちの席に行ってしまい、女は藤波氏に尋ねた。
「ここ、すわっていいですか」
「いいけど、あいつはほっといていいのか」
 あいつとは彼女の連れの男をさしているのだろうが、彼女はかぶりを振った。
「いいの、ドアの前で会っただけだから。藤波さん、えーと、このひとたちは私を知ってる……のかな?」
「さあ、どうだろ。音羽は知ってるか」
「……ごめんなさい、知らない」
 彼女も役者なのであろうか。どこかで見た覚えがあるようなないような、なのだが、テレビはほとんど見ない、映画館に行かなくなって久しい、DVDで映画鑑賞をしたり、観劇に行ったりする趣味もない。音楽関係者ならばキャッチしていても、映画やドラマや演劇の世界には疎いのだから、やはり音楽関係者と役者の生息地はなかなかに遠いのだろう。
 知らないな、と俺の表情に出ていたのか、彼女は機嫌を損ねたようで、藤波氏と俺の間にすわって煙草を取り出した。見ればずいぶんと若い。すらりと伸びやかな肢体は十代にも見えるが、二十歳ってこともあり得るので、合唱部の後輩にしたようなお節介はやめておいた。
「ことわってから吸えよな。とか言ってるけど、俺もいいか。音羽は吸わないんだろ。金子も?」
「俺も吸わないけど、どうぞ」
「歌手の喉に副流煙が悪影響を与えたりは……」
「いいよ。気にしないで」
 では、お言葉に甘えて、と藤波氏は彼女の煙草に火をつけてやり、自分も煙草をくわえた。藤波氏と音羽は先ほどのドラマの話をはじめ、彼女は俺をちらちら見ている。なにを話そうか、ここはひとまず自己紹介だろうか。
「挨拶が遅れました。僕は……」
「私とは関係ないし、なんだっていいんだ。私もおたくを知らないし」
「知らない同士だから初対面の挨拶をするんでしょう?」
「関係ないんだから知らなくてもいいのよ」
「しかし、それだと話のしようがない」
「いいじゃないの。話なんかしなくても」
 実は有名な女優で、俺が彼女を知らないので怒っているのだろうか。だが、有名な方なら知っているはずだから、有名ではないのか。どうするべきかと考えていると、藤波氏が口をはさんだ。
「面倒くさい女だな。金子、彼女はルカっていうんだよ。ルカ、この男は……」
「歌手なんて知らなくてもいいんだから、紹介してくれなくてもいいの」
「なにをすねてるんだ。そんな顔してるんだったらおまえもむこうに行け。目障りだ」
「そう、いいよ。行くよ」
 むくれた顔でルカという名の彼女は席を立っていき、藤波氏はため息をついた。
「卵とはいえ女優なんて人種はわがままでね、金子、失礼の段は俺から……」
「いえいえ、ああいうのには慣れてるよ」
「女の歌手もあんな感じか」
「けっこういるよ」
 そこで彼女の話題は途切れたのだが、藤波氏と音羽と三人で話していると、時おり彼女の視線を感じる。俺と目が合うとつんとし、そのくせまたしてもこちらを見ている。もしや彼女は藤波氏が? 真柴くんは自分でもてると言っていて、たしかにもてるだろうと思えたのだが、藤波氏もさぞかしもてるだろう。
 役者の業界で誰と誰がカップルなのか、そのような噂はあるのだろうが、俺は知らない。藤波氏が結婚しているのか否かも知らないが、恋人はいるだろう。いなかったとしても、ルカちゃんでは幼すぎる。が、人前ではそうふるまっているだけで、実際は……とも考えられなくはない。
 いずれにしても俺が気を回してもしようがないので考えないようにして、三人で飲んで語っていたのだが、その後もルカちゃんの視線を幾度も感じた。
 歌手と役者は関係ないといえばいえるが、有意義な話も聞けた。いつの間にやら時間がすぎていて、そろそろ、と誰からともなく言ってお開きになり、店の前で別れてひとりで歩き出すと、うしろから足音が追ってきた。かろやかなヒールの音、女だ。
「金子さん、いっしょに帰ろうよ」
「あなたもひとり? ああ、では、タクシー乗り場まで送りましょう」
 ヒールが高いので俺とさして身長は変わらない。ルカちゃんは俺の腕に腕をからめてきて、しなだれかかってきた。
「ねえねえ、帰るなんてつまんないな。もう一軒行かない?」
「あなたはいくつ?」
「十九。モデルでデビューしたんだけど、ドラマやCMに出て評判がよかったから、女優の仕事もふえてきてるの。私だって若い子には有名なんだよ。女の子の雑誌のモデルをしてるから、女の子のファンが多いかな。トークショーやったりすると、きゃああ、ルカちゃーん、って女の子が騒いでくれるの。金子さんは私を知らないなんて遅れてる」
「三十すぎた男は女の子向きの雑誌なんて見ないし、テレビも見ないし、遅れてて申し訳ない。だけど、十九? 未成年の飲酒喫煙はばれたら大変でしょうに」
「ばれないようにやってるからいいの。十九ったってもうじき二十歳だし」
「誰かもそう言ってたな」
「誰かって誰? 金子さんの女?」
「男だよ」
「金子さんってそっちのひと?」
 我々の業界にはそっちのひとも数多くいるので、彼女が確認したがるのも納得できる。俺も真柴くんには確認して辟易された。学生時代に後輩が言ったんだ、俺はそうではない、と言うと、ルカちゃんはようやく笑った。
「じゃあ、金子さんは女は好き?」
「並の男として並には好きだよ」
「私は? もっと飲もうよ。お喋りしようよ」
「歌手と知り合ってもしようがないんじゃなかったの?」
「歌手の金子さんじゃなくて、男の金子さんと知り合いたいの」
「十九の女の子には早いよ」
「早くないよ。私なんてファーストエッチは十三歳だったんだから」
「それって自慢?」
「遅いよりいいじゃない。金子さんはいくつ?」
「三十一ですよ」
「……じゃなくて、ファーストエッチの年だよ」
「大学を卒業してから」
「うそ、遅い。遅ーい。なんでなんで? なんでそんなに遅いの?」
 なんでと言われても、遅いといわれても、事実はまげようがない。金子さんがそんなに遅いなんて信じられない、嘘だ、嘘だよね、と顔を覗き込まれて苦笑いしていると、ルカちゃんは話題を変えた。
「ほんとは金子さん、知ってる。金子将一さんでしょ。テレビにも出てるよね」
「ごく稀には」
「なんかむずかしい歌を歌ってたから、歌は全然つまんなかったんだけど、かっこいいなぁ、って思ってたの。金子さんも有名なほうなんだから、私とこんなところを歩いてたらやばい? ホテルに行こうよ」
「早すぎる」
「早くないじゃん。好きなんだもん」
「……きみは藤波さんに……」
「あんなの大嫌い!!」
 高らかに宣言して、そのわけを話してくれた。
「藤波さんなんてのは男尊女卑のいばりんぼで、私を子供扱いするんだよ。藤波さんも最初は嫌いじゃなかったから、ホテルに行こうって言ってみたの。そしたらね、ガキがなにをぬかしてやがるか、早く帰って寝ろ、寝る前に水分を取りすぎるなよ、寝小便するぞ、だって。うーっ、言っててむかついてきた。腹が立つからひっぱたいてやろうとしたら、ひょいってよけて、おまえみたいな小娘に俺が殴れるか、ばーか、なんて言うの。いつか隙を見てひっぱたいてやる」
「ほお、それはそれは」
 思わず声を立てて笑うと、ルカちゃんは俺をも憤怒の形相で見た。めまぐるしく表情が変化するのは、見ている分には面白い。なにやら考えて顔を上げたときには、いささかしょぼんとした顔になっていた。
「でも、私には無理?」
「藤波さんをきみが殴るの? 彼が油断しているときでも無理だろうね」
「金子さんには?」
「俺が藤波さんを? 殴る筋もないし、俺も負けるだろ。彼は剣道家だよ」
「剣道って竹刀っていうのを振り回すんでしょ。なんにも持ってなかったら弱いんじゃないの?」
「なんにも持ってなくても武道の達人には、文弱の徒、音弱の徒たる俺は負けますよ」
 徳永や本橋だったらどうだろ、とも思っていたのだが、彼らとて藤波氏を殴る筋はない。しかし、徳永か本橋が藤波氏と闘うのだとしたら、見てみたい気はする。
「そうなの? なんだかよくわかんないけど、ぶんじゃくとかおんじゃくってなに?」
「俺みたいな男」
「ますますわかんない。金子さんと喋ってると疲れる。藤波さんもむずかしい言葉を使いたがるけど、それっておじさんになってきてる証拠だよ」
「おじさんになりつつあるんだから、きみに言われたら受け入れるしかないね。帰ろう」
「……うん、今夜は帰る」
 うなずいてくれたので安心した。たとえ小娘といえども、俺は女に向かっては藤波氏のような言動は取れないのだから、実のところは男とつきあっているほうが気が楽でいいのだろうか。いや、大人の女とだったらそれなりに……
「ねえ、またデートだったらしてくれる?」
 タクシー乗り場で別れる際にルカちゃんが言い、いいよ、と応じたら顔が輝いて、あの子の表情を見ているのは楽しいな、と考えつつ、走り去るタクシーのテールランプを見ていた。

 
5

 木村章とファンの方のいざこざは問題にはならなかったようで、俺も一安心した。フォレストシンガーズと徳永渉と金子将一のジョイントライヴには、酒巻がメディア席に招待した実松が控え室を訪ねてきてくれて話をして、ライヴ本番も滞りなく終了した。ライヴのあとには晴海ちゃんや花蓮ちゃんも来てくれて、みんなで歓談した。

「情念の糸がからみつく
 おまえの熱い吐息が
 おまえの長い髪が
 俺のすべてを縛る

 やわ肌の熱き血汐に触れもみで
  さびしからずや道を説く君

 やわやわと細く強い腕が
 あえかな女の声が
 おまえの熱い血が
 俺を果てもなき何処かへといざなう」

 そんなある日、真柴豪が届けてくれた詞を見せると、三沢が唸り声を上げた。
「真柴さんの詞ですか。演歌っつうか情歌っつうか、金子さんがこんな詞を歌う?」
「モチーフは女が書いた短歌だけど、歌うのは男の俺なんだから、視点を変えて男の詞にしたんだそうだよ。日本的でもあるよな」
「ですよね。どんなメロディがつくんですか」
「完成はしてないけど、こんなふうに……」
 三沢も詞を書くのだからして、真柴豪が作詞をしてくれると話したら興味津々になり、できたら見せて下さいね、と頼まれていた。真柴くんが詞を届けてくれたと報告すると、三沢が我が家にやってきたのだ。
 ピアノがあるとベストなのだが、我が家にピアノを置くと狭くてどうしようもなくなるので、最近になって小型のシンセサイザーを購入した。俺はシンセサイザーに向かい、ほお、金子さんはシンセもあやつるんですね、と感心している三沢の前で歌った。
「その詞にそのメロディとは意表をついてますけど、そうか、ラテンですか。そのメロディだったら俺だったらこうなっちゃいますよ」
 再びシンセでメロディを演奏すると、三沢がダンスをはじめた。踊りながら即興の詞を口ずさんでいる。

「あなたがくわえた薔薇の花
 花びらがこぼれて
 僕のハートにともる真紅の炎
 ああ、もう、どうにでもしてぇ……」

 おっと、字余り、と舌を出して歌をやめた三沢に、俺は言った。
「この曲にその詞では意表はついてないな。ところで、三沢、別の歌を聴いてくれ」
「はい、誰の歌ですか」
「誰だかはいいんだ。聴いて忌憚なき意見を述べてほしい」
「わかりました」
 知人に依頼して俺の名は出さずに、手に入れた綾羅木貢の歌のデモテープだ。俺は幾度か聴いたが、歌唱力には難はない。ヒップホップとR&Bが融合した今どき流行の歌を、貢は巧みに歌いこなしていた。
「……ふーん、うまいですね。うまいけど無難ってのか、特色がありませんよね。金子さんの知り合いの歌手志望の若い男ですか」
「そんなところかな。特色は今後の課題だろ。彼はプロになれるか」
「プロったって下手な歌手は大勢いるんだから、うまく行ったらなれるんじゃありません? 彼は下手ってレベルではないし、伸び代もありそうですよ」
「うん、ありがとう。真柴さんにも聴いてもらうよ」
「真柴さんが承諾してくれたら百人力じゃん。あのぉ、金子さん、あつかましいんですけど、俺、今夜は晩メシを食ってないんですよ。腹減っちゃったな」
「ピザでも配達してもらうか。酒はあるよ」
「おー、ごちそうさまです」
 無邪気な子犬の顔をして、腹減った、ごちそうさまです、なのだから、それでいてわずかな嫌悪感も与えないのだから、この男は得な性格をしている。カリフォルニアワインの栓を抜き、配達されたピザを食っていても、三沢はひとりで喋りまくっていた。
「グラブダブドリブのライヴには行ったんですけど、俺はメンバーには会えなかったんですよ。章はグラブダブドリブのドルフと昔なじみで、リーダーと章がヴォーカルのジェイミーと歌合戦やって、引き分けだったんですって。その話は聞きました? 聞いたんですね。俺がいたら勝てたのになぁ。だからね、俺はグラブダブドリブにも真柴さんにも会ってないんです。真柴さんってかっこいいんですってね? その上俳優の藤波さんにも会った? 彼もかっこいいんでしょ。金子さんと三人そろってたら……うわ、俺はそこにはいないほうがいいかも。あ、タバスコですか。はいはい、どうぞ」
 喋りながらも手もひっきりなしに動いている。俺って聖徳太子みたいでしょ、きゃははっ、と笑う三沢になんと言い返してやろうかと思っていると、電話が鳴った。
「彼女からですかー」
「誰だろうな。待っててくれ」
「彼女がいらっしゃるんでしたら、俺はおいとましますから」
 好奇心のかたまりでもあり、音羽と莢子と俺の関係についてなにかしら知っているようでもあり、学年はすれちがっていても同じ合唱部にいたのでもある三沢と莢子が会うと、事態はどうなるのだろう。
 莢子が来るのなら帰らせたほうがいいのだが、そうするとまたもやことが……悩みつつ取り上げた受話器のむこうから聞こえた声は、だが、莢子ではなかった。
「金子さん、いつデートしてくれるの?」
「ルカちゃん? 悪いね、近頃取り込んでて忙しかったんだよ。誕生日が近いって言ってただろ。バースディパーティがあるんだったら呼んでくれたら伺うよ」
「そんなのデートじゃないし」
「おじさんとデートしたってつまらないでしょ」
「デートしてくれるって言ったじゃん」
「じゃあ、近いうちに食事でも」
「食事のあとは?」
「送っていきますよ。おくるといえば、プレゼントもしなくちゃね。なにがほしい?」
「んんと……ダイアのティアラ」
「……それは彼氏にねだりなさい」
「彼氏がいたら金子さんに電話なんかしないよ」
 デートの約束をしたものだから、自宅の電話番号を教えることになってしまったのだ。安請け合いは怪我のもとと言う。だが、彼女と話しているのは楽しくもないので、すこしつきあってから言った。
「客が来てるんだよ。またね」
「女のひと?」
 こちらの通話が聞こえているのだろうか。三沢が奇声を上げた。
「僕は男ですよーっ。この声でわかるでしょ」
 前半は女声、後半は低くした作り声、器用な奴だ。
「どっち、今の声?」
「男だよ。じゃあ、またね」
 これ以上三沢が変な声を出さないうちにと、そそくさと電話を切った。
「ルカちゃん? ふむふむ……誕生日が近くて、プレゼントを贈る仲……なのに、彼氏にねだりなさい? 謎めいた仲なんですね」
「よけいな気を回すな。藤波さんの知り合いの女の子だよ」
「金子さんがおじさんだってことは、うんと年下? もてますねぇ、このこの」
「よけいな気を回すなと言ってるだろ」
「きゃああっ、はいっ!! えーんえーん、金子さんがぶったよぉぉ」
 冗談なのだから当然、三沢は泣いたりはしない。泣き真似だ。大げさな感情表現は彼の特色なのだからして、泣こうがわめこうが騒ごうが踊ろうが、またやってるよ、ってなものである。
 三沢ならば気安くぽかっとやってやれるのだが、酒巻を冗談で殴ったらどうなるだろうか。あいつはジョークを本気に取り、金子さん、僕が悪いんです、すみませんっ!! と土下座でもしかねない。酒巻には冗談の暴力はタブー、やるならマジでやるべきだ、と俺は改めて自身に言い聞かせていた。
 そしてその翌日、夜になって莢子がやってきた。いくらかきこしめしているのか、玄関先で口づけをかわしたら、酒の匂いがした。
「久し振りね。将一はいろいろと忙しくて、私に会う暇もなかったんだ」
「忙しいのは一段落したよ。ライヴには来てくれなかったんだろ」
「行ってない。今夜は誰も来てないの?」
「来てないよ。上がれよ」
 長い髪が俺の鼻先をかすめる。かぐわしい香りもかすめる。部屋に入ってきた莢子を抱きしめようとしたら、するりと身をかわしてソファにしどけなくすわった。
「私とはいつデートしてくれるの?」
「きみとは外で会わなくても、ここに来ればいいんじゃないか。きみはお母さんと暮らしてるんだから、俺が訪ねていくのはまずいんだろ」
「金子さんと結婚しないの? なんて言うから、金子さんとは別れたの、って言った」
「お母さんは俺を嫌ってる?」
 返事をせずに、莢子は俺を強い光をたたえた目で見つめた。
「私もダイヤのティアラがほしいな」
「ん?」
「誕生日はまだ先だけど、パーティがあったら来てくれる?」
「莢子、それは……?」
 ダイヤのティアラ? パーティ? 誕生日? 昨夜のルカちゃんとの通話は、三沢は聞いていた。しかし、彼は俺の恋人が大野莢子だとまで知っていただろうか。
 そもそも昨日の今日で、三沢が莢子に会ってそんな話をするか? 母親とドラッグストアを経営している莢子と、三沢がいつ会った? 会ったとしても、三沢が告げ口めいたことをするか?
 頭がしびれてくる。これはなんだ? 莢子はなぜ知っている? どう質問すればいいのかもわからぬままに見返していると、莢子はふっと笑って立っていった。立っていって電話をごそごそして、戻ってきてテーブルになにかを放り出した。
「なんだ? なんのおもちゃ?」
「おもちゃみたいなものだけど、こういうのって流行ってるんだって。うちの店によく来る学生さんが、盗聴マニアっていうの? 面白いよって言ってくれたのよ。安価なものだけどなかなか精巧にできてて、たしかに面白かった。この間ここに来たときに、電話にくっつけていったの。将一だったら気がつくかと思ってたけど、気がつかなかったんだね」
「盗聴器? 気づくはずがないだろ。きみはそんなにも俺を疑ってたのか」
「なにを疑うの? 疑うっていうよりも、私の知らない将一の生活の一部を覗いてみたかっただけ。怒ったの? ほんのいたずらよ」
「いたずらにしたらタチが悪いよ」
「そうだったわね。ごめんなさい」
 ごめんなさいと言われては怒れない。酒でも飲んで気を静めようとキッチンに行き、ウィスキーボトルとグラスを持って戻ると、莢子は言った。
「将一、飲みすぎじゃない? あのときは誰が来てたの?」
「昨夜? 三沢だよ。フォレストシンガーズの三沢幸生だ」
「合唱部の後輩だね。ルカちゃんって誰?」
「知り合いに紹介してもらって、なりゆきから送っていくことになった女優の卵だ。やましい点はなにもないよ」
「将一が女の子に慕われるのをひとつずつ妬いてたら、私がどうにかなっちゃうもんね。プラトニック?」
「プラトニックまでも行かない。彼女は男を見たら口説きたがる部類の女なんだろ」
「溝渕さんみたいに? もてるねぇ」
 からみついてるのは情念ではなく、言葉の棘だ。恩人でもあり色気の権化でもあり、会うたび俺を口説きたがる溝渕さんの話をしても笑っていたくせに、今夜はなんなのだろう。
「将一がもてるのは知ってるから、気にかけないって決めてたんだよね。だけど、プラトニックってむしろいやなんだな」
「ルカちゃんとは恋じゃないよ。第一、彼女はたった十九の小娘だよ」
「ぴっちぴっちの若い子じゃないの。ぐらついたでしょ?」
「ぐらつかないよ。俺はおまえがいいんだ」
「愛理ちゃんは?」
 その名が莢子の口から出るとは、三沢ではないが意表をついていた。たじろいだのをごまかそうとウィスキーを飲むと、莢子は静かに言葉を継いだ。
「愛理ちゃんってラジオのアナウンサーをやってるんだよね。知らなかったんだけど、薬の会社の営業マンが教えてくれたのよ。沢田愛理さんっていうローカル局のアナウンサーが、フォレストシンガーズと同じ大学の出身なんですって。そうすると莢子さんとも同じ? そう言われて、愛理ちゃんを思い出した。ひとつ年下のふっくら可愛い子だったよね。将一とは学生時代に親しくしてたよね。それも思い出して興味を持って、ラジオを聴いたの。愛理ちゃんのなつかしい声が聞こえてきた」
 会えなかった間に莢子はなにをしていたんだ。俺が問いかけるまでもなく、莢子は続けた。
「それでね、番組に葉書を送ったの。そしたら愛理ちゃんから電話がかかってきて、大野さん、お久し振りです、ってなったのよ。番組では葉書は読めなかったけど、ドラッグストアを経営してらっしゃるんですってね? お会いしたいです、会いたいね、って話になった。そのころはまだなんにも知らなかったのよ、私」
 知ったのか、なにを? 俺は愛理ちゃんとはなにも……言葉を飲み込んで耳をかたむけていた。
「それでランチをいっしょに食べて、学生時代の思い出話をしたの。もちろん私は将一とどうこうなんて言わずに、愛理ちゃんったら、金子さんを好きだったんじゃないの? って尋ねたのよ。するとね……あとはあなたもよーく知ってる今の話になったわけ。愛理ちゃんはあれからずっと、今でもずっと、金子さんに恋をしてるのね」
 そうではないかと考えては、俺のうぬぼれだと打ち消してきた。幾度も繰り返した自問自答は、最近になって、うぬぼれではなかったと結論が出ていた。が、俺は自身の結論を、過去の話なんだから今さら、とまたしても打ち消した。
 愛理ちゃんが莢子になにをどう話したのか、莢子はそれを聞いてどう感じたのか。細かくは聞かなくても、十年以上前からの愛理ちゃんとの触れ合いを思えば、いや、しかし、だからって俺はどうしたらいいんだ、と一種茫漠とした想いが起きるのだった。
「ルカちゃんなんてどうでもいいけど、愛理ちゃんはね……もちろんももちろん、私は将一と私がこうなってるなんて言ってないよ。愛理ちゃんも気づいてなかったはず。愛理ちゃんはああだし、将一も愛理ちゃんには……ああいうのをプラトニックラヴって言うんじゃないの? 私にはできない恋の形だな」
「俺は愛理ちゃんとはプラトニックも、おまえとの恋みたいなのも……それで、どうしたいんだ」
「あなたはどうしたいの?」
「俺はこのままでいいよ」
「愛理ちゃんはどうするの?」
「愛理ちゃんは……いつか別の男に本当の恋をして忘れるさ」
「そうかしら。私が音羽さんと寝たって言ってもこのままでいい?」
「莢子……」
 あからさまには言ってほしくなかったのか。もしもそうだとしても、曖昧なままだったらよかったのか。頭がしびれっぱなしで考えがまとまらない。
「音羽さんに乗り換えるってつもりもないけど、なんだか飽きちゃったな。別れようか」
「きみがそうしたいのなら」
「将一はキスも上手だし、セックスのテクニックも最高だし、抱かれてるととろけていって、なにもかもがどうでもよくなっちゃって、将一がこうなるには……なんて考えかけてもどうでもよくなって、あなたとのベッドは素敵だったわ。テクニックを磨きすぎると愛理ちゃんには……怖い顔。殴られそうだから帰ろうっと」
「どうぞ」
「キスして」
「さよならのキス?」
「時々会ってセックスするって仲だったらいいのよ」
 挑戦的に見上げる小さな身体を抱きしめて、抱きすくめてソファに倒し、荒っぽく身体をまさぐる。莢子は俺の手を押しとどめて、耳元で囁いた。
「あなたってキスやセックスは上手だけど、意外にね……いいわ。離して。帰るから」
「意外になーんにもわかってないってね。自覚はしてるよ。意外じゃないよ」
「将一はそのほうがいいよ」
 そのほうがいいとはなにがだ。なにがそのほうがいいんだ。質問すらがまとまらない俺を残して、莢子は部屋から出ていった。ドアが静かに閉まり、ひとつの恋の終焉を告げた。と、格好でもつけておこうか。


 深く考えれば、莢子の言葉にだって偽りが含まれていたのかもしれない。決定的な嘘、音羽と寝た。だが、それでどうする? 事細かに問い質して、戻ってこいと言うのか。ひざまずいて願うのか。執着がないとは言わないが、莢子の中で終わった恋なのならば追うまい。
「金子さん、なにをこむつかしい顔をしてるんですか」
 今夜は徳永が来ている。完成した「みだれ髪」を聴いてひねくれたコメントを述べたり、女の匂いが薄くなったな、などと呟いたりしている。今夜もウィスキーとグラスをテーブルに並べて、俺は徳永に歩み寄った。 
 ん? と顔を上げた徳永の顎に拳が一閃。何度も殴ってやろうとしてはかわされていたので、見事に決まったのは初ではなかろうか。徳永はひとことも発さずにソファからころげ落ち、怪訝そうに俺を見上げている。まだなにも言わないので、俺が言った。
「おもてに出ようか。反撃したいんだろ」
「その前に、理由を教えて下さい」
「かつてのすべてだ」
「すべて? 俺はなにかしましたか。もしくは、金子さんになにか言いましたか?」
「とぼけてんじゃねえんだよ、この野郎、つべこべ言わずにかかってこい。外だ。外でやろう」
「高そうなソファがこわれてはいかんと。金子さん、なにかあったんでしょ? 要するに八つ当たりですか。やりたいんだったらやってもいいですけど、みっともねえな。女にふられて後輩に八つ当たりか。誰かに教えてやりたいもんだ」
「誰かって誰だ。いいからつべこべ言うな」
「言いますよ。金子さん、休暇は取れますから、休みを合わせてふたり旅しましょうか」
 馬鹿野郎と言うのも馬鹿馬鹿しいので口を閉じ、再び考えた。莢子は俺にこう言いたかったのか。
「あなたと私は身体でつながってただけ。そんな関係には飽きたからさよならね」
 最後通牒をつきつけられたのか、それとも……それとも? それとも? それとも、が脳裏をぐるぐる回り、つかまえようとしても逃げていく。
 長い髪の先が俺の鼻先をかすめ、美しい身体がつかまえられない。俺は黙って立ち上がり、なおもつべこべ言っている徳永の横をすり抜けてサイドテーブルの引き出しを開けた。下らない会話をしていないで、貢のデモテープを徳永にも聴かせようとしたのだ。
「たしかここに……んん?」
 引き出しには指輪が入っていた。
「……おまえにやるよ」
 輝きの失せたルビーのファッションリングをつまみ上げ、放り投げると、徳永が空中でキャッチした。
「婚約指輪ですか。俺は金子さんと婚約はしたくないんですが」
「当たり前すぎることを言うな」
 去年のクリスマスイヴに莢子がやってきて、七面鳥を焼いたりケーキを焼いたりして、キッチンで奮闘していた。大成功、とキッチンで歓声を上げて、莢子は大きな皿を手に満足そうな表情で出てきた。
「いい香りだな。うまそうだ」
「味つけはどうかしらね。ふたりで食べ切れるかな」
「所帯じみた話はいいから、ごちそうを作ってくれたお礼だよ」
 そう言って指輪の入った小箱を手渡すと、莢子は箱を開け、お礼なんだったらもらうわ、と言って指にはめた。あれは恋愛ごっこだったのか。莢子の細い指にはまっていたファッションリングは、俺の部屋の引き出しに捨てられていった。
「こんなのをもらって、俺はどうすりゃいいんでしょうね」
「いらないんだったら捨てろ」
「自分で捨てなさい」
 投げ返された指輪を受け取り、ダストシュートに放り込んだ。昨夜は盗聴器もここに放り込んだ。莢子と俺の恋愛ごっこはゴミとなって、何処へと消えていくのだろうか。
 からみつくのは情念の糸ではなく、未練のかけらか。そんなものがあるのだとしたら、まとめてダストシュートに投げ込もう。肩先を払っていると、徳永が指を差し出した。その指には長い髪が一本。探せば部屋のあちこちに、髪の毛も落ちているのだろうか。
「金子さん、なにやってんですか。時ならぬ大掃除?」
「きれいさっぱり捨てるのさ」
 掃除機を持ち出してきた俺を、徳永が呆れ顔で見ている。
 もつれて乱れてからんでまとわりつく、長い髪をもゴミにして、なにもかもを捨ててしまおう。未練があるとは認めたくない。ほんのひととき、おまえに惚れていると感じたすべても、ゴミにしてしまおう。終わった恋はたかがゴミ、そうしようとつとめるのは未練のあらわれか。
「なあ、徳永、俺は……まあいいか。おまえにひとこと言うと、つべこべが際限なく出てくるんだもんな」
「なにが言いたいんですか。なんだって掃除を……ああ、そうか」
「ひとりで納得するな。俺は当分は……」
「当分は? 当分は掃除をしてますか。うん、それもいいかもな」
「掃除じゃねえよ」
 当分は女を遠ざけて、おまえだのフォレストシンガーズの連中だの酒巻だの、男の後輩とつべこべぐだぐだやるよ、と言いたかったのだが、徳永がそれをどう曲解するか、面倒なので言わずにおいた。
 そうしているうちには掃除もすむだろうから、それから愛理ちゃん……いや、愛理ちゃんは女なのだから、当分はきみとも係わり合いになりたくない、なんて言ったとしたら、それはそれで愛理ちゃんも変に曲解して厄介な事態に……
 がーがーうるさい掃除機と、つべこべうるさい徳永の声に妨害されて、俺の際限もない思いも、いっこうにまとまりそうになかった。

END
 



みだれ髪
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