番外編

番外編19(5-3)(みだれ髪)前編

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番外編19(5-3)

 「みだれ髪」前編

1

「やわ肌の熱き血汐に触れもみで
  さびしからずや道を説く君」

 どこを見ても男がふたりに女がひとり。俺自身も含めて周囲にはそんなのばかりだが、この歌を詠んだ女性は、女がふたりに男がひとりの関係に苦悩していた。いや、当時男には妻がいたはずだから、女が三人に男がひとりか。与謝野晶子は写真ではあかぬけない中年女性にしか見えないのだが、内には熱い血汐を秘めた情熱家だったのだ。
「曲はいいんだけど詞を書くと、ああ、このひとってこんなことを考えてるんだ、と思われそうだから……」
 そんなふうに言ったシンガーがいると聞いた覚えがあるのだが、俺もこの台詞に同感で、詞は書きたくない。近頃はもっぱら、昔のひとが書いた詩に曲をつける方向で歌づくりをしている。メジャーどころを選んでボードレールの詩を取り上げたあとは、与謝野晶子の和歌だ。先日、テレビ番組の録画取りのために合唱部出身者たちが集まって、そのあとで飲んだ際に話すと、乾がしかめっ面になった。
「和歌をモチーフにした歌ですね。俺も考えてたんですよ。万葉集の恋歌」
「相聞歌か。いいんじゃないのか」
「金子さんに先にやられてしまっては、俺はできませんよ」
「こういうのは早い者勝ちだもんな」
「参りました」
 あの夜には乾と詩や和歌の話などもしていたのだが、本庄が彼らしくもないそぶりをしていて、乾や三沢の態度も重ね合わせて理解した。知られている。少なくとも乾と本庄と三沢には、大野莢子と音羽吾郎と俺の、他人から見ればおかしな関係であろうトライアングルを。
 その後には美江子さんにまで知られてしまった。まったく本庄って奴は、馬鹿正直といおうか純朴すぎるといおうか、二十八にもなって結婚もしていて、なのになのに、いつまでそんなに朴訥な男でいられるのか。むしろうらやましい。
 本庄とその妻の恭子さん、美江子さん、本庄の幼馴染だと聞いた瀬戸内泉水さん、四人が会食している席に招かれて以来、美江子さんは俺をそこはかとない非難を込めて見る。時として悪い冗談をやると言われたのは、学生時代のささやかなエピソードまでを加味しているのだろうか。さっさと忘れてくれと言いたいところだが、俺にしても忘れてはいないのだからどうしようもないのだった。
 なににしてもフォレストシンガーズは俺とは無関係な仕事をしているのだから、しばらくは近寄らないでおこうかと考えていたのだが、関わらざるを得なくなってしまった。ケーブルテレビの同窓生集合番組の評判がよかったとかで、フォレストシンガーズ、徳永渉、金子将一のジョイントライブの企画が持ち上がったのだ。
 春にはジョイントライヴが開催されると決定し、打ち合わせのあとの流れで酒になった。男が七人そろうと決まって酒になるというのは、社会の悪しき慣習ではなかろうか。
「金子さん、与謝野晶子の和歌を使った曲は書けましたか」
 今夜も徳永は黙然とひとりで飲んでいて、乾が俺に話しかけてきた。
「完成したとしたら、ジョイントライヴで初披露しようか」
「いいですね。金子さんは自ら作詞はなさらないんですよね。曲は書くのに詞は書かない? 金子さんがラヴソングを書いたら、どういった趣向になるんでしょうね」
「ラヴソングか。俺は……たかが恋に頭を悩ませたくないよ」
「詞ってのは基本的にはフィクションですけど、自らの思想はあらわれますよね。たかが恋ですか。心底そう考えてらっしゃるんでしたら、そういう思想の詞を書けばいいじゃありませんか」
「乾、それは意味深な台詞か。皮肉か」
「先輩に向かって皮肉を言うような性格をしてますか、俺は」
「してるじゃないか」
「心外ですね」
 たかが恋か、そんなことはないけどなぁ、と呟いている乾に、本橋が言った。
「ま、恋なんてのはたかがだよ。たかが恋だ。俺は金子さんに賛成だな」
「人それぞれの考え方は尊重すべきだと知った上で言うんだけど、たかが恋、されど恋だよ」
「月並みだな。使い古しじゃないか」
「使い古されたフレーズってのは真理だからだよ。たかが、されど、そのあとにはさまざまな単語がくっつく。太古の昔から人はいろいろな事象を、たかが、いや、されど、と考えて考えて、そうして人生の局面を詞や曲や物語にあらわしてきたんだ。昔の人が口にしたり文章にしたりした言葉は、使い古しだとひとことで退けるものではない」
「またおまえは抽象論を……」
「具象論だ」
 乾との会話に割り込んできた本橋が俺と交替して、ふたりは口論口調になっていた。徳永がちらりとこちらに視線をよこし、本橋は視線には気づかぬ様子で言った。
「恋愛なんかより男は仕事だろ」
「仕事に男も女もないよ」
「話をすり変えるな。今は男の話をしてるんだ。恋愛なんてものにうつつを抜かしてたら、男はいい仕事ができねえんだよ」
「恋愛なんてもの? うつつを抜かす? 俺たちにとっては恋は仕事の糧にもなるんだろ。俺たちではなくて一般論としても、男にも女にも恋は大切だよ。たかが恋だなんて言い捨ててると、薄っぺらなラヴソングしか書けなくなるんだ」
「俺の詞は薄っぺらだと言うのか」
「なんでもかんでもおまえのことは言ってないよ。人間全般について客観視して話すってのが不可能な奴は、自己中心的っていうんだよな」
「俺が自己中心的?」
「ほら、また、てめえの話にしてる。すり変えてるのはおまえだろ」
「ジコチューはおまえだろうがよ」
「俺がだと? どこがだ。具体的に言ってもらおうか」
「具体的じゃない話ばっかりしてるのもおまえだろうが」
 このふたりは打ち合わせ前にもなにかあったのだろうか。本橋がたやすく怒りをたぎらせるのは毎度だが、今夜は乾までが冷静さを失って激しつつある。三沢が心配そうに顔を突っ込んできた。
「リーダー、乾さん、どうしちゃったの? 酒は楽しく飲まなくちゃ。さあさ、はいはい、喧嘩はやめましょうね。ユキちゃん、隆也さんと真次郎さんの喧嘩なんて耐えられなーい。泣いちゃうからね」
 うるさい、とふたり同時に言って、本橋と乾は顔をそむけ合った。これはなにかあったにちがいないので、三沢に目配せして席をはずした。
「本橋と乾は、打ち合わせの前からもめてたのか」
「もめてたっていうか、そうではなくて、ラジオ番組に五人で出ましてね」
 手短に話してくれたところによると、お笑い芸人がDJを担当しているラジオ番組だったのだそうだ。芸人はゲストをいじるのが本領であるのだから酌量はできるのだが、フォレストシンガーズ? 知らないなぁ、としょっぱなから揶揄されて、本橋がかちんと来ていたらしい。クリスマスライヴのチケットが売り切れた? 暇なひとがいるもんだね、男五人の色気もない歌を聴いて暇つぶしか、不幸なひとたちだね、とまで言われて、本橋の顔がひきつっていたと三沢は話した。
「乾さんはフォローに回ってたんですけど、章も顔が怒ってたし、シゲさんはなにを言ったらいいのかわからなくなって困った顔してたし、俺がなにか言おうとすると遮られるしで、DJさんはやな奴だったんですよ。しまいにはリーダーは無言になっちまって、乾さんと俺とがなんとか話をつないでたんです。乾さんは番組がすんでから……」
 おまえはそれでもリーダーか、と吐き捨て、乾は本橋をねめつけた。本橋はなにか言い返そうとしたようなのだが、言い返せなくて先に立って局から出ていった。
「それから本橋さんと乾さんは、口をきいてなかったんですよ。その前からなにかあったのかな。俺はそこまでは知りませんけど、いつになく険悪なムード。金子さんと乾さんの会話にリーダーが参加したのは、乾さんへのお詫びのつもりもあったのかもしれませんが、むしろよくないほうへ突き進んでしまいましたね」
「その前にもなにかあったんだったらどうしようもないけど、それだけだったらじきに冷めるだろ。静観しているとしようか。俺たちが密談なんかしてたらよくないよ。戻ろう」
「はい、金子さんにまでお気を使わせてしまってすみません」
「おまえもなかなか苦労してるんだな」
「そうなんですよぉ」
 聞いてくれます? と見返す三沢に、次の機会にな、と言って席に戻った。常のごとく、個室を借り切ってあって、隅の席では徳永がひとり白け顔。本橋と乾はとなり同士で無言。本庄と木村は困惑のていで本橋と乾をちらちら見やっていた。
 まあいい、しばらく放っておけ、と視線で三沢に言って、俺は彼らから離れた席に腰を下ろした。グループというものは人間の集団であるのだから、集団にはもめごとはつきもので、彼らも昔からそれらを乗り越えてきているのだろう。今さら先輩面をして首を突っ込む必要はない。しかし、美江子さんがあらわれて、本橋くん、乾くん、なんなのよっ、とでも叱りつけてくれないものだろうか。
「このごろ、金子さんとお仕事でごいっしょする機会が多いですよね」
 このたびのジョイントライヴが決定した数日後に、美江子さんが言っていた。
「そうなるといろいろと昔を思い出しちゃう」
「昔? いつの昔?」
「いつでしたかしら。金子さんって恋愛経験がないって聞いた気がするんですけど」
「俺があなたにそう言った? ありますよ」
「金子さんが直接私にそうおっしゃったんじゃなくて……」
「誰が言った? 徳永か乾か」
「誰だったかなぁ。私は記憶力がよくないんで、誰だったかは忘れてしまってるんですけど、たしかにそう聞きました。聞き間違いだったのね。あるんですか」
「ありますよ」
 あなたには恋をしましたよ、ふられたけどね、と言ってみると、やーだ、そんなの忘れましたよ、と笑ってから、美江子さんは言った。
「それだけ?」
「それだけ」
「嘘ぉ。ああ、そうか。恋をされた経験だったらいくつもいくつもいくつもいくつもあるんですね。前に乾くんにも言ったんですけど、もてたとかもてたとかの話、してもいい? って。そしたら乾くんったら、それはもてたとかもてたとかじゃなくて、もてたとかもてないとかの話だろ、って言ったの。いいえ、そうじゃないんです。金子さんと乾くんの場合は、もてたとかもてたとかもてたとかの話」
「はい、もてたとかもてたとかの話をどうぞ」
 ふーん、と意地悪な目で俺を見て、美江子さんは本題に入った。
「恋をされたことはひとつずつ覚えてらっしゃいます?」
「恋をした経験はありますが、俺は恋をされた経験がないんだな。そのせいでこんなふうに……」
「こんなふうに?」
「本庄みたいな性格の男に生まれたかったよ」
「金子さん、それってものすっごく失礼ですよ」
「失礼じゃないでしょう。俺はあいつが真剣にうらやましいんだから」
「……私には無理だわ」
「なにが無理?」
「いいえ、いいんです」
「いいんですか。ならば逆に問い返しますが、誰がいつ俺に恋をしてくれたんですか」
「やーねぇ、金子さんったら。やだ、幸生くんの口癖がうつっちゃった」
 きゃははっ、と笑い声までが三沢に似ていて、のらくらのらくら、身をかわすのは乾にも徳永にも似ていなくもない。いつから美江子さんはこんなふうになったのだったか。仕事柄か、つきあう仲間が悪いのか。
「この会話はどこへ到達するのかな」
「どこなんでしょうね。金子さん、真面目に聞いてくれます? 真面目に応じてくれます?」
「それは俺が言いたい」
「私は真面目ですよ。あのね、乾くんも本橋くんも言ってて、私にはわかりづらかったんですけど、わかりました。金子さんって彼らの言う通りの方だとよくよくわかりました。分身の術」
「俺は忍者か」
「忍者? 金子さんが忍者の扮装をしたら素敵かも。そうでもないかしら。大きすぎて忍者には向かないかもね」
「忍者ってのは小さくないと向かないのか。あなたにならくのいちの扮装が似合いそうだね」
「くのいちのコスプレ? やってみたーい」
 いったいあなたはなにが言いたいんだ、と怒ってみせたとしても、美江子さんにはこたえないだろう。彼女もあんな奴らの面倒を見てきて、三沢や乾の感化を受けたのか、きわめてわかりづらい女に成長している。学生時代には可愛かったのに、と言ったらこちらが怒られそうなので、諦めて仕事の話しに方向転換した。
 仕事の話しとなると有能なマネージャーに変身して、てきぱきと俺の質問に答えてくれる。彼女の口から出た「分身の術」とはなんなのか謎だったのだが、美江子さんこそ分身の術が使えるのだ。女とはそういうものなのだ。
 女に翻弄されるのは男の人生。そんな悟りを開く境地には達していないが、俺の身近にいる女にはこのたぐいが多い。実のところは莢子と音羽の間になにかが起きたのか、それについては確認もしていないのであって、単なる俺の邪心にすぎないのかもしれない。ただ、莢子と音羽はたびたびデートはしている。
「音羽くんとだって同窓生なんだから、お酒を飲んで話したりするくらいはいいじゃない。将一はそんなことまで私を束縛するの?」
「束縛はしないよ。俺には緊縛趣味はない」
「束縛でしょ。緊縛の話なんかしてないのっ」
 莢子も俺をはぐらかす。俺をメジャーデビューさせてくれた恩人の溝渕奈々子にしても、俺を精神的にもてあそぶ。俺も本庄のような男に生まれて、恭子さんのような女性と結婚していたら、心が平穏でいられただろうに、とふとしたおりには考えて、そのくせ否定したがる自分もいる。俺に恋をしてくれた女性の心当たりなどというものは莢子しかいないのだが、というのも欺瞞であって、過去にはいたはずだ。
 過去には俺に恋をしてくれた女性と、ひとときをすごした。そうしてすべて終わった。現在では莢子はなにを考えているのか理解不可能だが、愛理ちゃんはもしかしたら、俺を好いていてくれるのかもしれない。愛理ちゃんと恋をしたら、恭子さんとほどではないにしても、平和な暮らしが得られるのかもしれないとも考え、そしてまた否定したくなる。
 たかが恋、されど恋か。先刻の本橋と乾の議論には、双方にうなずける部分もあり、否定したくなる部分もあった。彼らの言葉が本心から出ているのだと仮定すれば、本橋も乾も学生時代からの俺の観察が当たっていたと、ただひとつ言えるのはそれのみなのだが、当たっていたとしてなんになる。
 想いの中には男も女もあらわれて、俺の思考を混乱させる。だからなんなんだ、それがどうしたんだ、と自問自答を繰り返していると、徳永の声が聞こえてきた。
「本橋、おまえ、俺に言っただろ」
「なにをだ」
「やっぱりそうだな。おまえもなんにも変わってないよ」
「おまえほどじゃないんだよ」
「俺は変わる必要はないけど、おまえはフォレストシンガーズのリーダーだろ。えらそうにリーダー面して、後輩たちを統率してる? ちゃんちゃらおかしいってんだ。ガキ」
「なんだとぉ?!」
「なんだとぉ、だなんて台詞は聞き飽きたんだよ。おまえは後輩の世話を焼いてるつもりなんだろうけど、焼かれてるのはおまえじゃないか。三沢にまで……」
「三沢にまで、なんだよ?」
「なにがあったんだ? 俺はどうだっていいんだけど、おまえと乾がそんなだと、後輩たちがそわそわしちまってて気が散るんだ。うっとうしいんだよ。でしょ、金子さん?」
「似合わないからやめとけ」
 そうかな、と徳永は得意のニヒルな笑みを浮かべ、乾が口を開こうとした。そんな中に聞こえてきたのは恨みごとめいた低い声。俺、俺が、俺が……と聞こえる。誰が言っているのかと目と耳を集中していたら、部屋の片隅にいる木村だった。俺が……と泣き出しそうな顔をして言おうとする木村を、乾が目で制していた。
「部外者の前では口にできないことか。徳永、はずそうか」
「金子さんがそうしようとおっしゃるんでしたら」
「なんなんだよ、章、言え。金子さんも徳永も内部の人間に近いだろ。言ってもいいだろ。乾は知ってるんだな。章、言え」
 はい、リーダー、とうなだれて下を向いたまま、木村はとぎれとぎれに話した。
 昨日の夜、木村はフォレストシンガーズのスタジオ近くの公園で、ファンの女性に遭遇した。サインと握手をせがまれて応じたものの、彼女はそのあとで言ったのだそうだ。
「木村さん、どこへ行くの?」
 スタジオに行くと言ってついてこられても困る。フォレストシンガーズにもファンが増えてきているのだからして、スタジオの場所を知られて噂が広まって、大挙して押し寄せてこられてはさらに困る。そこで木村は言った。
「どこへも行かないよ。あなたも早く帰れば?」
「もうこんな時間……女の子のひとり歩きって危険なんだよね。乾さんがライヴで言ってたじゃない。昨今は物騒ですから、夜に帰宅するときには女性のみなさまはくれぐれもお気をつけて、できるものなら僕の大切なファンの方々のボディガードをつとめさせていただきたいなぁ、って。乾さんって優しいよね。木村さんも優しい?」
「俺は優しくない。乾さんのだってリップサービスだよ。ファンのひとにいちいちそんなことができるか」
「いちいちはできないんだろうけど、私はここにいるんだもん。木村さんとちょっとだけいっしょに歩きたいな。駅までデートしてほしいな」
「図々しい。帰れよ」
「ああん、ケチ」
 たしかに図々しいといえば言えるが、そのひとと向き合っていたのが乾か三沢ならば、上手に口で丸め込んだのだろう。木村にはそうはできず、ファンの方と言い争いになった。
「フォレストシンガーズの木村章ってそんなにケチなんだ。女の子が夜道を歩いて痴漢に襲われてもいいんだね。今夜のことはブログに書こうかな」
「書いたらいいだろ。信用なんかされないよ。あんたみたいのを襲う痴漢はいないだろうし」
「そう、そういうことを言うんだ。むかつくぅ」
 身をかがめた彼女は、足元の石ころを拾って木村に投げつけた。石は木村の肩に当たり、本橋と同等には怒りっぽいと評されている木村もかっとして、なにをするんだよ、この服は高いんだぞ、となって、彼女の肩を突いた。彼女は細く高いヒールのパンプスを履いていたのだそうで、突かれてころんだ。
「あ、わ、そのくらいでころばなくても……」
「ひどーい。ひどいひどーい」
 警察に行く、と言う彼女に木村が慌てていると、乾が公園を通りかかった。
「それで、乾さんが彼女に手を貸して起こして、すみません、申し訳ない、ってあやまってくれたんですよ。乾さんは口がうまいから、彼女も怒るのはやめて立ち去ってくれた。でね、彼女がいなくなってから乾さんは俺のほうに向き直って、ばばばばばーんって」
「口攻撃か」
「いいえ、リーダー。往復ビンタ十連発」
 うっそだぁ、と三沢は言い、本庄も言った。
「おまえの顔、なんともないじゃないか」
「十連発ったってきつく殴られたんじゃないけど、びたんびったんびったんで、延々と続きそうにほっぺたを張り飛ばされたんです。いいわけもさせてくれないで、俺ばっか悪いんでもないのに、ファンの方になんて真似をするんだ、おまえは、って……それから乾さんはひとりごとを言ってました。もしや警察に言われたらどうする? さあ、どうしよう、って言ってて、俺がなにか言っても返事もしてくれないで、昨日から乾さんは取り越し苦労をやってて、だから今日はこんななんですよ」
「馬鹿野郎。そしたらおまえが悪いんじゃないか」
 本橋が木村を怒鳴りつけ、木村は言った。
「そうですよ。俺が悪いんですよ。だから俺が悪いって言ってるでしょ。けど、あの女だって悪くない? 俺ばっか悪いんですか。俺の彼女ってのはいつもいつも気が荒くて暴力的だったけど、ファンの子まであんななんだ。リーダーだったらファンの子に石を投げられたらどうするんですか」
「石を投げられるようなことは言わないよ」
「駅まで送ってって言われたら?」
「うーん、送っていって……」
「フォレストシンガーズの誰かに気軽に送っていってって頼んだら、送ってくれるよ、ってファンの間に広まって、夜毎待ち伏せされて送らされてもいいんですか。今どきはインターネットってのがあるんだから、噂はすぐに広まるんですよ」
「うん、そうだな」
 言い負かされてしまいつつある本橋に、乾が言った。
「そのあたりの事情を説明すれば、良識あるファンの方はわかって下さるよ。昨日の一件は章の言う通りだ。彼女は乱暴なところはあったけど、良識はあるんだろうから、俺が詫びたら許してくれた。それでも俺は気がかりだった。それで気持ちが揺らめいていて、おまえに八つ当たりしてしまったんだな。本橋、ごめんな」
「いや、俺も……なんだけどさ、俺にはなんにもないけど、乾、ほんとに往復ビンタ十連発ってやったのか」
 やられました、と木村は言い、乾は苦笑まじりに言った。
「往復ビンタじゃないだろ、あんなのは」
「あんなのじゃありませんよ。痛いけど跡は残らないって、乾さんって、なんか変なテクニックを身につけてます?」
「変なテクニックってなんのだ」
「なんのだろ。拷問とか」
「乾さんの拷問はくすぐり。あとはね」
 三沢が口をはさんだ。
「足の裏がいいらしいよ。足の裏をどうにかしたら激痛が走り、なんであっても口を割ってしまうんだって」
「幸生、今度おまえにやってやろうな」
「きゃああ、乾さん、勘弁してーっ!!」
 けたたましい悲鳴を上げてから、三沢は真顔になって木村に言った。
「それですんだんだったらいいんだけど、よくはないけど、解決したんだったらまだいいよ。だけど、やっぱり木村章は許せないとなって、そのひとが警察に訴えたらどうする? 木村章、暴行罪で起訴処分、章、おまえの人生は……」
「そんなのないよ」
「あるかもしれないじゃないか。昔から乾さんに説教されてたのに、女に対するおまえの態度もちっとも変わってないんだよな。留置されるのもおまえには薬になるかもしれない。幾夜かを留置所ですごしてこい。さしいれはしてやるから」
「ないって……ないよ。ない……ありませんよね? あるの? そんなのないよぉ」
「ないとは言い切れない。心を入れ替えたら更正はできるだろうから、俺たちも協力してやるよ。章、心を入れ替える? あれぇ? 泣いてる?」
「だって……」
 まるっきり子供のように、木村は洟をすすり上げ、ややあって顔を両手で覆った。抑え切れないかのごとき嗚咽が漏れていて、三沢は頭をかいた。
「乾さん、告訴されるってのはないんですよね」
「私も石なんか投げたんだから、おあいこですよね、と彼女は笑ってた。いいえ、章が悪いんです、と俺が言ったら、私、やっぱり乾さんがいちばん好き、と言ってくれたよ。あの様子からすると、警察に駆け込んだりはしそうになかったな。だが、気が変わったとしたら……」
「乾さん、勘弁して下さいよぉ」
 テーブルに突っ伏してしまった木村は、嘘泣きではないのだろう。うえっく、ひくっ、と泣きじゃくっている。今や盛大に泣いている。俺は顎に手を当てて思案顔の徳永に言った。
「涙には浄化作用があると言う。徳永、おまえもたまには泣け」
「金子さんも泣くんですか」
「比喩としてなら……」
「女に泣かされて? おーお、言ってくれますね」
「言ってないが?」
「言いたいくせに」
 いわば人気商売であるのだから、我々の稼業にはファンの方への応対のむずかしさもつきものだ。ここにいる七人のファンは女性が大多数を占めるであろうとは想像に難くない。ファンもまた女性。フォレストシンガーズのもめごとの原因は判明したものの、実際、男の人生は女に振り回されるのである。俺も彼らのために、我が身にもいつか降りかかってくるかもしれない可能性のためにも、そのひとが気を変えないようにと、心で手を合わせていた。
 

2

ややあってから徳永が小声で言った口調には、無数の棘が感じられた。
「ふーん、俺たちは部外者じゃないんだそうですよ」
「部外者だよ。徳永、俺たちは先に帰ろう」
「そうですか、金子さんがそうおっしゃるんでしたら従いますけどね」
 いいんです、俺が刑務所に入ったらいいんです、と木村は意地を張っていて、そうそう、乾さんは優しすぎるんですよ、情けは人のためならず、と三沢が言い、乾、その格言の正しい意味を幸生に教えてやれ、と本橋。幸生は正しい意味を知ってて言ってるんだ、と乾。えええーえーっ!! 正しい意味って? と三沢。学生時代と変わらぬ騒ぎを繰り広げている後輩たちをうっちゃって徳永と外に出ると、本庄もついてきた。
「あの、先日は……」
「先日っていつだよ」
「徳永さんには関わりのない先日です。俺は金子さんに言ってるんです」
「先日がどうした?」
「徳永さんも聞いておられるんでしょうね」
 横目で俺を見る本庄に、話していないと目で告げたつもりだったのだが、本庄には伝わらなかったらしい。
「だからね、俺はしつこいんでしょうけど、そういうようなことがいくつもあって、そういうわけで頭がごちゃごちゃしてまして、こともあろうに大先輩に手を上げかけて、まことにまことに、何度お詫びしても足りないほどだと……」
「木村はファンの女性に手を上げる。本庄は大先輩に手を上げる。本橋はいつでもどこでも誰にでも手を上げかねない。おまえらはヴァイオレンス派のグループなのか」
「そういうわけでは……」
「三沢はやらないだろうけど、乾だって木村に手を上げたんだろ。危ない奴らだな」
「危なくはありません。乾さんは絶対に危なくなんかありません」
「あいつがもっとも危ないんだぜ」
 煙草に火をつけてもったいぶって、なかなか続きを口にしない徳永を、本庄が見つめている。徳永が言わないので俺が言った。
「暴力というものは一旦箍がはずれると暴走する恐れがある。乾のような自制心の強い男が、なにかがひきがねになって荒れ狂うと危険きわまりなくなる。おまえはそう言いたいのか、徳永?」
「金子さんの論ではそうなりますか。そうすると金子さんも危険だな」
「俺が?」
「本庄の頭がごちゃごちゃになったっていう一因はあれですよね。ある日、あるとき、なにかが起きて金子さんの暴力衝動に火がつく。あなたのそばにいる女が……かな。男かな。俺としてはじれったいんですよね。女を問い質して口を割らせて、金子さんの疑惑が正しかったら?」
「男だとしたら?」
「さて、どちらがより危険なんだろうな」
「おまえだったらどうするんだ」
 質問に質問が返ってきた。
「なにに縛られてるんですか。彼女、よほどいいんですか。金子さんもなんだろうし、あのいけ好かない野郎もなんですかね。まあ、そういうので互いを縛り合うってのも、男と女の仲にはよくある話なんでしょうね。俺も彼女とためしてみたいな、なんて言ったら……ほらほら、金子さんの表情が……」
 あの、なんの話ですか? と本庄が遠慮がちに口をはさみ、徳永に黙殺されて、下を向いて頬を赤らめた。
「そんなのって……そうじゃないでしょう。そりゃあね、そりゃあ……」
「わかってるんじゃないか。で、そりゃあね?」
「徳永さん、そういう話はやめて下さい」
「おまえだって好きだろうが。男なんだろ」
「男ですけど……俺はそういうあからさまな話題は苦手です。金子さん、これ」
 俺のポケットになにかを押し込んで、本庄は逃げていってしまった。
「あからさまになんか言ってないだろ。そういうのだとかしか言ってませんでしたよね。今どき、女子中学生だってあんな話で赤くなったりしませんよ」
「純粋培養天然記念物……月並みだな。なんだ、これ?」
 ポケットに入っていたのは封筒で、中身は金と一筆箋だった。手紙らしいので読んでみると、こう綴られてあった。
「先日は本当にすみませんでした。正確な金額がわかりませんので、本庄と相談してとりあえずこれだけお返しします。足りないようでしたら言って下さいね。これからも夫をよろしくお願いします」
 末尾には、恭子、とサインがある。本庄の奥さんだ。
「なんなんですか」
「いいんだよ。まったく夫婦そろって律儀というか野暮というか。徳永、飲み直しだ。行くぞ」
 封筒を突き返すのは野暮の骨頂であろう。単純すぎて意表をつく作戦に出たというわけで、受け取っておくしかあるまい。徳永と歩き出しながら言った。
「おまえ、二、三日休みが取れないか」
「二、三日だったら取れますけど、なんですか」
「旅に出よう」
「……金子さんと? 俺が? 金子さん、宗旨替えですか」
「なんのだ。馬鹿」
「馬鹿、馬鹿野郎で話を終結させようとするのは、本橋のレベルですよ」
「おまえのレベルよりはましだよ。誰がおまえとなんか旅に出るか。言ってみただけだ」
「言ってみられるだけでも気味が悪い」
 手近の酒場に入ると、徳永が言った。
「真相を知るのが怖いとでも? 金子さんも惚れた女の前ではそうなるんですか。惚れてるんですよね」
「そう思ってたよ」
「過去形?」
「いや、惚れてるよ」
「惚れてでもいなければ、あの金子さんがこうなるはずはない、とね。最初からややこしい女だったのに……いいですよ。俺がお節介を焼く筋でもないんですし」
「充分に焼いてるじゃないか。おまえもおまえらしくないんだよ」
「そんな金子さんを見てると俺も殴りたくなるもんでね。みっともねえ」
「なんとでも言え」
 そんな女、蹴り出したらいいんですよ、と言っておいてにやっとして、挑戦的に俺を見据える。先刻からやたらに徳永は俺を挑発しているようなのだが、喧嘩でもしたいのだろうか。
「おまえもなにかあったのか。暴れたいのか。ガキはおまえじゃないか」
「そういうことにしておきましょうか」
 肩すかしを食らわせておいて、徳永は言った。
「本橋が金子さんの立場だったとしたら、どうするんでしょうね」
「あいつはその手の話しにはシンプルにぶつかるんじゃないのか。はっきり言えと女に迫って、返答次第では別れる」
「あいつはなんにだってシンプルですよ。乾ならば?」
「乾は考えすぎて憔悴しそうだな」
「金子さんのようにね」
「俺は憔悴はしてないよ。あとの三人は……」
「あとの三人はいいんですよ」
「そうなのか。で、おまえは?」
「俺がどうするかを聞くと参考になるんですか」
「そうか、それが言いたかったのか」
 回りくどい奴だ。こいつがシンプルではないのはとうにとうに知っているが、近頃ではなおいっそう歪んできた。
こっちのプライベートは突っ込むくせに、自身のプライベートとなるとくらげみたいに身をかわして逃げていく徳永と飲んでいるのも疲れてきたので、適当に切り上げて帰る途中のタクシーの中で、携帯電話が着信を告げた。
「金子さん、どうしましょうか」
 合唱部時代の五年後輩、ただいま二十六歳のDJ、酒巻國友の声は焦り気味だった。
「沢田さんと食事をして、すこしお酒をってことになって飲んでたんですけど、沢田さんは弱いんですよね」
「強くはないみたいだな」
 沢田愛理、彼女は俺の一年後輩、酒巻よりは四年年上だ。学生時代には酒巻と愛理ちゃんはすれちがいだが、アナウンサーとDJという職業柄、現在では親しくしている。ふたりが食事をしたり酒を飲んでいたりしても、別段不思議はないのだが、酒巻はなにを焦っているのだろう。常の低音がなおさら低くなっていた。
「ずいぶん酔っちゃったみたいで、送っていきますよって言っても、帰りたくないって」
「口説かれたいのかな」
「誰が誰を口説くんですか」
「おまえが口説くんだよ」
「誰を?」
「誰をって……間抜け」
 はあ? 間抜けですか、と言ってからしばし無言になり、酒巻は口調を改めた。
「金子さんがなにをおっしゃってるのか意味がわかりませんが、沢田さんが言い出したんですよ。酒巻くんは金子さんのマンションを知ってるんでしょ? 連れてってよって」
「俺のマンションか」
「沢田さんはごぞんじないんですか」
「俺の部屋に愛理ちゃんが来たことはないよ」
「そうなんですね。ええとええとええと……僕では沢田さんをなだめられません。金子さん、後生ですからお願いします」
「愛理ちゃんはべろべろか」
「歩けるかどうかも……」
「そんなら背負ってタクシーに乗れ。俺の部屋に連れてきてもいいよ。あとは俺が引き受けるから」
「背負って? ええーっ!! そんな無茶なっ!!」
「どこだ? 行くよ」
 言わされてしまって、タクシーを酒巻の告げた店に回してもらった。店の入り口付近に酒巻が立っていて、俺を見て力が抜けそうな安堵の表情を浮かべた。
「ここで待ってて下さいね」
 タクシードライバーに言い置いて車を降りると、酒巻が寄ってきて俺の手を引いた。引っ張られて連れ込まれた小さなバーの隅のボックス席に、愛理ちゃんがしどけなくすわっていた。
「あられもない。なんですか、その格好は」
「あ? 金子さーん。もっと飲みましょうよ」
「なに言ってるの。帰るよ」
「歩けないもん」
「スカートが短いね。肩にかつぐとまくれ上がるかもしれない。抱き上げてもおぶってもさらにあられもない姿になるかもしれない。それでもいいのかな」
「抱っこがいいな」
 脅してもこたえていないのは酔っているせいだろう。仰せの通りに抱き上げると、酒の匂いが鼻を打った。
「酒巻、ついてこい」
「はい、お世話をかけます」
 うふっ、うふっ、とセクシーにも少女っぽくも見える笑みを漂わせて、愛理ちゃんは俺に身を預けている。酒巻のほうが恐縮して、彼女の荷物を抱えてついてきた。
「酒巻、先に乗って抱き留めろ」
「は、はい。でも、僕、沢田さんに潰され……」
「酒巻くん、なんてこと言うの? 私は酒巻くんを潰すほど重くないよ」
「うわー、ごめんなさーい」
 バックシートに乗り込もうとしている酒巻の背中に、愛理ちゃんがパンプスのヒールを食い込ませた。酒巻はいでぇーっ、と歯を食いしばり、俺は彼女の靴を脱がせた。
「愛理ちゃん、きみはいくつ?」
「十八」
「ああ、そう。十八のお嬢ちゃんなんだね。十八だったらそれなりの扱い方をするから、そのつもりで。いくつ?」
「十八歳よ。金子将一さんと出会ったばかりの大学一年生。金子さんの勧誘に乗せられて、沢田愛理は合唱部の後輩になりまーす。金子さんは十九? 二十歳? それにしたら老けてるね」
「なぜだか俺は年齢をワープして、三十一歳になってしまったんだよ」
「やだ、おじさん」
「おじさんで悪かったね」
 どうにもならないので、先に乗った酒巻の膝に愛理ちゃんの頭を乗っけるようにして、彼女の身体を車に押し込んだ。俺は助手席に乗り、いやそうな顔をしているドライバーに言った。
「もうすこしお待ち下さい。愛理ちゃん、きみのマンションは?」
「いっつも来てるじゃないの」
「学生時代には送っていったことはあるけど、引っ越したって言ってたじゃないか。知らないよ、現在のきみの住まいは」
「そうだっけ? ありゃあ、私も住所を忘れちゃった。酒巻くん、重い?」
「いいえ。軽いです。金子さん、とにかくひとまず金子さんのマンションに……後生ですから」
「おまえは後生ですからが口癖か。わかったよ」
 やむを得ず俺のマンションへと頼むと、ドライバーも安堵の表情になった。うしろでは愛理ちゃんにからまれた酒巻が困り果てている。重い? いいえ。正直に言いなさい。正直に言って軽いです。これでも? 沢田さん、膝小僧が砕けますよぉ。などなどとのやりとりを聞かないふりをしているうちに、タクシーが俺のマンションにたどりついた。
「すみません。騒々しくて。愛理ちゃん。出ておいで」
「動けない」
「いい加減にしないとひっぱたくよ」
 きゃっ、と悲鳴を上げたのは酒巻で、ドライバーも俺を非難のまなざしで見る。愛理ちゃんはバックシートから這い出してきて、俺を睨み上げた。
「金子さんって女の子をひっぱたくの?」
「十八の女の子だったらやるかもしれないよ」
「私はリリヤちゃんじゃないもん」
「リリヤだったら予告なしでひっぱたいてるよ」
「なによ。昔は……なによなによ。金子さんが私の彼になにを言ったのか、私は覚えてるよ。あんないいかっこ言っておいて、実は金子さんってそんな男なんだ。いいもん、私、帰る」
「タクシーは行っちゃったよ。すぐには新しい車は来ないから、俺の部屋で酔いを醒ましてから帰りなさい。怒ると脚が動いたようだけど、ふらふらじゃないか。十八歳のちっちゃなお嬢ちゃん、さ、おいで」
「……いや」
「酒巻、ついてこいよ」
「はい」
 駄々をこねている愛理ちゃんをかまわず抱き上げ、おろおろしている酒巻を従えて今度はエレベーターに乗った。
「金子さん、すみません」
「酒巻があやまらなくていいんだよ」
「僕ではどうにもこうにも……沢田さん、寝かけてます?」
「そのようだな。寝てくれたほうがおとなしくしててくれていいだろ」
「すみません」
「いいって」
 しきりにあやまっている酒巻に生返事をしていると、頭をかすめた。今夜は莢子は来ないだろうか。キーは渡していないので、俺の留守に入り込んでいる恐れはないはずだが、気まぐれにやってこられては困る。莢子は俺と同い年で同窓生で合唱部にいた。すなわち、莢子と愛理ちゃんは女子合唱部の先輩と後輩だったのだから、互いをよくよく知っているのだ。
「金子さん、どうかしました?」
 問いかける酒巻にかぶりを振って、部屋の様子を窺った。人の気配はない。安心して愛理ちゃんを運び込み、ソファに横たわらせると、酒巻が水を持ってきた。酒巻は幾度も俺の部屋に来ているので勝手はよく知っている。
「女の匂いがする」
 ソファで目を閉じたまま、愛理ちゃんが鼻を蠢かせた。
「そりゃあいるよね。でも、細かい話は聞きたくないの。私は金子さんのただのファンなんだもん。ただのファンが部屋にまで通してもらって、それだけで幸せだよ」
「沢田さんは金子さんのファンっていうよりも、合唱部の後輩じゃありませんか」
「十八だったらそうだったよね。そうだった。私は十八歳の愛理ちゃんなんだった。酒巻くん、思い出させてくれてありがとう」
「沢田さん、今夜は変じゃありません?」
「今夜の私が変かどうか、どうして酒巻くんにわかるの? そんなに深いつきあいでしたっけ」
「いいえ。ごめんなさい」
「酒巻くんってそればっかりだよね。身体が小さいからって気まで小さくてどうするの? ちっちゃくってもてないって嘆いてるけど、心がちっちゃいからもてないのよ」
「それもありますよね」
「それもじゃなくてそればっかりなの」
「……すみません」
 蚊の鳴くどころかアメーバが囁くような声で詫びている酒巻に、愛理ちゃんはなおも言った。
「酒巻くんとなんて飲んでたってつまんなかったのよ。話題も乏しくて、僕はもてないんですよ、って情けない顔をするし。子供みたいな身体で大人みたいな声出して、きわどい話をすると赤くなるし。あんたこそ、いくつ?」
「二十六です」
「そんなんでよくもDJなんてやってられるよね」
「愛理ちゃん、口がすぎるよ」
 口をはさむと、目を開かずに、愛理ちゃんは反抗的に言った。
「酒巻くんなんてつまんないんだもの。つまんないからつまんないって言ってるの」
「金子さん、本当ですから……」
「おまえは黙ってろ」
 はい、としょぼくれて酒巻は口を閉じ、俺は愛理ちゃんのかたわらに膝をついた。
「金子さんっていまだにリリヤちゃんに恋してるんじゃないの? 溝部くんだったかな。リリヤちゃんと将一さんは怪しいって、あれってほんとだったの? この女の匂いはリリヤちゃん?」
「リリヤはとうに結婚して子持ちになってるよ」
「知ってる。そのくせそうなんだったら、不倫のきわみじゃないの。リリヤちゃんの旦那さまは知ってるのかな」
「きみは酔うと心にもないことを言うようになるんだね」
「心にあるから言ってるの」
「……もう一度言う。いい加減にしろ。黙れ」
 ぱっと目を開け、俺をじーっと見つめ、それから愛理ちゃんは黙って泣き出した。涙があとからあとから、頬を伝って流れる。酒巻は恐慌を来たした様子で立ち上がってうろうろしはじめた。
「金子さん、金子さん、きつい調子で叱らなくても……」
「愛理ちゃんは十八の女の子になってるんだろ。分別がない年頃なんだから、すこしは叱らないと。おまえまで泣くなよ」
「泣いてませんけど……」
「べそかいてるじゃないか。女の子をひっぱたくなんてのは言ってるだけだけど、おまえだったらひっぱたいてやってもいいんだぞ。泣くな。酒巻、泣くな」
「泣いて……ませんっ。金子さんったら八つ当たりだよぉ」
「なんだと。こら、誰に向かって言ってるんだ」
「きゃああっ!! 許して下さいっ!!」
「酒巻くんったら……三沢くんそっくりの悲鳴」
 見ると、愛理ちゃんは涙をこぼしながら笑っていた。
「そっくりじゃないでしょう? 僕は三沢さんみたく声は高くないですから」
「調子はそっくりだよ。酒巻くん、ごめんね。八つ当たりは私のほうだった」
「いえ、そんな。僕は慣れてますからへっちゃらですよ」
「そんなのに慣れたら駄目じゃないの」
「はい、すみません」
 酒巻はうなだれ、愛理ちゃんは半身を起こして俺を見つめた。ハンカチを渡すと、それで鼻をかんだ。
「金子さん、思い出しちゃった」
「なにを?」
「誰だったかな。後輩の女の子が言ってたの。彼女は金子さんに恋をしていたようで、他の女の子たちと金子さんの噂話をしてたのよ。私は立ち聞きしてた。そしたら彼女が言ったの。いっぺん金子さんに駄々をこねてみたいな、そしたら金子さんはどうするかな、って」
「ふむふむ」
「他人ごとみたいな顔してる。金子さんの噂話だよ」
「続けて」
「彼女がそう言ったら、別の女の子が言ったの。金子さんって女には優しいって評判だけど、年下の女の子が駄々をこねたりしたら、リリヤちゃんとおんなじ扱いするんじゃないの? ぴしっと叱られるよ」
「ふーん」
「そしたら、金子さんを好きな女の子はね、金子さんにだったら……その先は忘れたけど、当たってたね」
「どれが?」
「私、金子さんにびしっと叱られたの、はじめて」
「びしっとってほどだったかな。リリヤにだったらあんなじゃないよ」
「そうなの? 叱られて酔いが醒めたわ。心にあったんじゃないよ。駄々をこねてみたかっただけ」
 ソファにすわり直して、愛理ちゃんは軽く頭を下げた。涙は乾いているようだった。
「ごめんなさい。ぶたないでね」
「冗談じゃないよ。そうしてると愛理ちゃんは大人の女性なんだから、手を上げるわけがないでしょ。そういうのも三沢がやってるな。本橋に向かって」
「きゃああ、リーダー、ぶたないでーっ!! って?」
「沢田さんのほうが似てますね、やっぱり」
「三沢くんに似てるって言われても……酒巻くん、怒ってない?」
「僕がなにを怒るんですか。金子さんだって怒ってませんよね」
「当然。じゃあ、タクシー呼ぼうか。ひとりで帰れる?」
「もちろん」
 送っていかないんですか、と酒巻が囁いたが、そのほうがいいんだと俺は決めていた。やがてタクシーがやってきて、マンションの前まで愛理ちゃんを送っていき、酒巻とふたりで部屋に戻った。
「おまえは泊まっていくか」
「よろしいんでしたら。金子さん……」
「んん?」
「いいんです。ああ、びっくりした」
 びっくりしたとはなににだろう。酒巻との交流も深くなるにつれて、彼も勘の鋭い男だと読めてきている。かつては星さんやら高倉さんやらの先輩、そしてフォレストシンガーズの五人やら、徳永やらの後輩やら、俺は周囲の男たちを観察していたものだが、酒巻をも観察するようになっているのであるらしい。
 女は観察したところで、変わり身が得意なのだから奥底なんて読めやしない。男だったら一部は読める。読めたつもりのみにしたって、そうはずれてもいないはずだ。その観察からすると、酒巻もなかなかに聡い。したがって、彼の言うびっくりの中には、さまざまな要素があるのだとも察せられた。
「僕はあんまり飲んでなくて、酔ってもいないんで眠れなくなっちゃいましたよ。金子さん、合唱部時代の昔話を聞かせてもらえませんか」
「そうだな。おまえと臥所をともにするってのもぞっとしないし、語り明かそうか」
「ふしど……それより語り明かすのがいいです」
「俺の一年のときからはじめようか」
「お願いします」
 男同士で男の話をしようか。俺は語りはじめた。

後編に続く

 
 

 

 

 

 
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