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小説379(甘く痛く……)

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フォレストシンガーズストーリィ379

「甘く痛く……」


1・亜実

 身長だって顔だってセンスだって申し分ないのだから、私がモデルになったのは当然だ。モデルとして人気が出てきたら、ドラマに出たいと思うのだって当然だった。
 女の子の雑誌で特集されるようになって、全国的にも知名度が上がっていたはずのころ、ラジオ番組のゲストに呼ばれた。DJはフォレストシンガーズ。誰だっけ? モデル仲間や業界人の飲み会で、フォレストシンガーズの番組に出るんだよ、と話していたら、横から教えてくれた男がいた。
「フォレストシンガーズってあなたたちのような若い女性にも人気があるんだと思ってたけど、みんな、はっきりとは知らないんですね。僕は彼らの大学の後輩なんですよ」
 彼は音楽評論家の大河内元気と名乗り、フォレストシンガーズについて話してくれた。
「僕が大学に入って、合唱部に入部したときのキャプテン、面白いひとだったんですよ」
 キャプテンの名前は三沢幸生。背が低くて子どもっぽくて、声が甲高くてお喋りで、声帯模写が大得意だった。
「その二年前のキャプテン、本橋さんってのがフォレストシンガーズのリーダーで、乾さんと本庄さんと小笠原さんという先輩も一緒にやってたんです。フォレストシンガーズは当時はアマチュアだったんですけど、三沢さんは本橋さんや乾さんの物まねをする。うちのリーダーの物まね、とか言われても僕らは知らないから、きょとんってものだったんですけどね」
 後に大ちゃんが本橋さんに会ったときに、声は似てないけど調子はそっくりだと感じ入ったのだそうだ。
「卒業してから三沢さんが電話をしてきてくれて、それから交流があるようになりました。僕らの世代にも合唱部出身のプロの歌手はいるんですけど、知らないでしょ」
「誰?」
「綾羅木ミツグ」
 そこにいた女の子たちは全員、知らなーい、と答えた。
「演歌歌手なんですけどねぇ。知らないだろうな。徳永渉さんは? 金子将一さんは? 真鍋草太さんは? 音羽吾郎さんは? 能見夢子さんは?」
 真鍋さんとやらは誰も知らなかったが、歌手の徳永渉、金子将一、俳優の音羽吾郎、ニュースキャスターの能見夢子だったら、たいていのモデルたちが知っていた。
「他にも有名なひとはけっこういるんですよ」
「自慢はわかったけどさ、私がラジオにゲスト出演するときの担当って、乾隆也ってひとらしいんだよね。写真、持ってる?」
「ケータイでも調べられるでしょ」
「面倒だもん。見せて」
「大きな写真……ああ、あった」
 大きなバッグをごそごそ探して、大河内くんはパンフレットのようなものを見せてくれた。
「これがフォレストシンガーズですよ」
 横から覗いたモデル仲間たちは、なんだ、ブスメンばっか、つまんね、ださっ、だとか言って離れていってしまい、私だけが写真をじっくり見た。
 五人の男が立っている。大河内くんがひとりひとり、教えてくれる。右端の赤いシャツが三沢幸生、左端の茶色のシャツが本庄繁之、真ん中の黒のシャツがリーダーの本橋真次郎、オレンジのシャツが木村章。
「小笠原とかいわなかった?」
「小笠原さんは脱退して、デビューしたときから木村さんになってるんです。それから、最後のひとりが乾さんです」
「へぇ、全然いけてないね」
 ブルーグレイのシャツを着たすんなりした体格の男。この男とラジオでお喋りするのか。もっとイケメンだったらよかったのに。
 飲み会が終わるころには大ちゃんと呼ぶようになっていた彼に教わった、乾隆也との初対面はラジオ局。事前の打ち合わせを終えてから、喫茶室でふたりでお喋りをした。写真はステージ衣装だったのか、光沢のある生地のシャツのせいで、コメディアンの服装みたいに見えていた。
 実物は顔も体格も写真のまんまだったけれど、服装がちがっている。さりげなく上質な淡いグレイのシャツを着ているほうが、彼はかっこよく見えた。
「だからね、私には彼がいないのよ。彼氏いない歴何年とかって言い方したら、二十三年だよ。彼氏なんていたことがないんだもの」
「それはつまり、あなたのレベルが高すぎて、釣り合う男がいないってわけだね」
「何度もそう言ってるでしょ」
 そんな話をしている私に、乾さんはちらっと軽蔑のまなざしを注ぐ。お高くとまった女だと思われているのだろう。だけど、私は本当のことしか言っていない。
「もてるんでしょ? 男に告白されたことは何度でもあるんじゃないの?」
「あるけどさ、そりゃあ、何度だってあるけど、下等な男となんかつきあいたくないんだもの」
「下等な男ですか」
 こうして話をしていると、あなたは下等な男なんかじゃないとわかってくるけど、私はあなたから見たら馬鹿なモデルなのかもしれない。
 モデルなんてのは頭が空っぽだと思われがちで、私だって偏差値の低い大学に推薦入学して、まともに勉強もしていないのだからかしこくはないけど、男を見る目はあるつもりだ。話せば話すほど、乾さんだったら私の彼氏にふさわしいと思えてきた。
 また会いたくて、モデル仲間がドラマに出るから、ミュージシャンの話を聞かせてあげてほしいと頼んだり、私もついに念願がかなってドラマに出られると話したりして、会えるようにたくらんだのに。
 どうしても乾さんは私を好きになってくれず、くちびるを噛んだ。
 二十三歳の私には、三十二歳の乾さんはおじさんすぎるよね。年頃からしたら似合わないから、亜実はもっと若いのとつきあうべきだと神さまが言ってるんだと考えておこう。だけど、悔しいな。私のほうから男を好きになって、つきあいたいと思ったのははじめてなのに。
「もうだいぶ前になるけど、乾さんと亜実さんのラジオ、聴きましたよ」
 何度かは乾さんと会って、それとなく言い寄ってみても逃げられてふてくされていたころ、雑誌の編集部で大ちゃんと顔を合わせた。
「大ちゃんって……ああ、音楽評論家だったよね。ここの雑誌になにか書くの?」
「ここではなくて、新しい音楽雑誌が創刊されるんですよ」
「そうなんだ」
 この編集部はファッション雑誌なのだから、大ちゃんの仕事場ではないらしい。大ちゃんにお茶に誘われて、なんとなくうなずいた。
「最近は音楽も「大人のための」と銘打ったものがけっこう出てるでしょ。若いひとはネット配信で音楽を買う時代だから、むしろ中高年がCDを買ったりレンタルしたりするんですね。僕の専門は昭和の歌だから、そういう懐メロを中心に扱う雑誌にコーナーを持たせてもらえるって決まったんです」
「年寄りの雑誌か。つまんないね」
「亜実さんにはつまんないでしょうけどね」
 出版社から近い大きな喫茶店に入ると、大ちゃんが言った。
「ラジオで乾さんと、亜実さんの好きな音楽の話、してましたね」
「相手は歌手なんだし、ラジオって音楽をかけるんだから、質問されると思ったの」
 テレビやラジオのトークでは、ファッションの話をさせられることが多い。私はモデルなのだから当然だし、そっちだったら得意だが、音楽の話となると戸惑った。
「音楽っていうとすごくたくさんのジャンルがあるんですよね」
「ありますね」
「全部、教えて」
「全部?」
 相当に時間がかかりますよ、と言って、ラジオ番組のDJ乾さんは笑っていた。
「あのとき、ジャンルをひとつずつ教えてもらったら、あ、それは好き、それは嫌い、それってどんなの? って返事しようと思ってたの。ラジオではそんなに時間がなかったから、フォレストシンガーズの歌が好きって答えたのね。そしたら、ヴォーカルグループが好みなんですねって言われて……」
 そっか、フォレストシンガーズってヴォーカルグループか。私はヴォーカルグループって音楽のジャンルが好きなのか、そういうことにしておこう。ラジオではそんなふうに話しておいた。
「けど、他にどんなヴォーカルグループがあるのか、私は知らないよ。ってのか、大ちゃんだったら教えてくれる?」
「音楽のジャンルですか。大まかにだったら亜実さんだって知ってるでしょ」
「洋楽と日本の歌?」
「それもまあ、ジャンル分けですが、大きすぎるかな」
 コーヒーにミルクと砂糖を入れて、大ちゃんは言った。
「クラシックは?」
「学校で習ったね。それだけ」
「ジャズは?」
「なんとなくはわかるかな」
「レゲェ」
「……なんてーのか、独特のリズムがあるって感じ?」
「こんな感じですね」
 どこかで聴いた気はするメロディを大ちゃんが口ずさみ、ああ、それがレゲェね、と私は納得した。
 その調子で大ちゃんが並べる音楽のジャンルのほとんどは、なんとなく知ってる、程度だ。唱歌? 学校で習う子どもの歌を唱歌っていうの? 童謡ってのも子どもの歌だよね、などという会話が続いていった。
「好きな歌手ってのはいないんですか」
「……んんと、キララとか」
「ああ、なるほど」
「なによ」
「いや、いいんですけどね」
 レモンティを飲み干して睨みつけると、大ちゃんはてへへと笑った。
「亜実さんの趣味は?」
「お洋服」
「趣味が仕事になったわけだから、幸せですよね。洋服を作ったりもするんですか」
「洋服って自分で作れるもの? ……その気があれば作れるよね。編んだり縫ったりできないから、私には無理だけど」
「他の趣味は?」
「えーっと……」
 はて、私の趣味ってなんだろう? 考え込んでいると、大ちゃんが言った。
「亜実さんは大好きな洋服の世界で仕事をして、ドラマやCMにも進出するようになった。音楽については詳しくなくてもいいじゃないですか。アイドルの歌が好きでもいいですよ。で、旅行なんかは好きですか」
「旅行は好きだよ。奈々っていう十も年下の子役女優と仲良くなって、一緒にどこかに行こうかって話してたの。同じような年の同業者よりも、あんな子どものほうが気楽につきあえるもんね」
「旅行だって立派な趣味ですよ。海外旅行とかは?」
「行ったよ」
 小・中学生のときには親と、高校・大学のときには友達と海外に出かけた。彼氏とは旅行をしたことがないのは、私につりあう上等な男が身近にいなかったからだ。
「僕も旅行は好きです。かつては貧乏旅行をしてました」
「バックパッカーってやつ?」
「そうです。でも、亜実さんと一緒に行くんだったら……」
「あんたとなんか行かないから大丈夫」
「あはは、そうですね、失礼しました」
 背丈は私よりも低いし、髪の毛は少なめだし、おなかがちょっと出ていて格好の悪い身体つきをしている。顔も平凡だし、音楽評論家ってのはまあかっこいいほうだが、有名でもない。
 そんな男は私にふさわしいはずもないのに、それからは会うたびにお茶に誘われ、なぜだかうなずいてしまってデートみたいになって、メルアドやケータイNOも交換して、誘いのメールも届くようになってきた。
「私、乾さんが好きなんだよ」
 あるとき、はっきり言ってやった。
「大ちゃんは乾さんと較べたら、落ちるって思うでしょ?」
「見た目は比較しようもないほどだよね」
「……中身は?」
「負けませんよ。ってのか、乾さんには負けない男になろうと努力します」
 私がはっきり言ったのに勢いを得たかのように、大ちゃんは私の手を握った。
「亜実ちゃんは乾さんとつきあってはいないんだろ」
「つきあってるんだったら、大ちゃんとデートしないよ」
「そうだよね。だったら、きちんと告白するよ。亜実ちゃん、好きだ、俺とつきあって下さい」
「……その顔で、私に向かって告白するの?」
「そうだよ」
 やや広めの額から汗がひと筋。私の手を握る手も汗ばんでいる。あんたみたいな下等な男……お断り、と言えなくなって、二十五歳になっても恋人もいないんじゃみっともないかなぁ、なんて考えてしまって、私も大ちゃんの手を握り返した。
「うん、まあ、いいけどね」
「ありがとう」
 一年くらいも恋人以前のつきあいをしてきたんだから、私は男を見る目はあるんだから、大ちゃんの中身は下等ではないと知ってるよ。さらに努力すれば中等にはなれるだろうから、私のためにもがんばれよ。


2・奈々

 好きなひとが振り向いてくれないからって、亜実は彼女よりも背の低い大ちゃんとつきあうようになり、千鶴は誰かにバージンをあげたらしい。亜実は二十六歳なのだから焦るのも無理はないし、千鶴だって十九で処女とは、焦りたくなるのかもしれないけど。
 あたしはまだ十五歳。焦る必要なんかない。別に乾さんじゃなくていいんだから、本当に好きなひとと恋人になって、その気になったらベッドにだって入るかもしれない。
 別に好きなわけでもないのに、乾さんには時々会いたくなる。フォレストシンガーズも出るア・カペラグループジョイントライヴに出演するひとたちのリハーサルをやっている場所は知っていたので、あたしも行きたくてマネージャーにせがんだ。
「奈々ちゃんが行くと迷惑にならないの?」
「騒いだりしないんだったら来てもいいって、乾さんも言ってたよ」
「明日の休憩時間にだったら……僕は行けないけどいい?」
「いいよいいよ」
 岡田さんは来ないほうがいいから、あたしとしては嬉しかった。
 翌日のお昼前後はわりと長い休憩時間になって、タクシーに乗って乾さんに聞いていたホールへ行く。ア・カペラライヴでいちばんいばっているのはおじさんグループで、フォレストシンガーズよりもキャリアの長い、ダーティエンジェルズだとも聞いていた。
「ああ、知ってるよ。解散したんだよな。再結成か。私も聴きたいな。お母さん、コンサートに行こうか」
 ママが再婚したあたしの新しいパパが言っていたから、ダーティエンジェルズとは、おじさんやおばさんには有名らしい。
「こんにちはーっ」
 ホールに入っていくと最初に会ったのは、そのダーティエンジェルズのおじさん。シゲさんみたく声の低いこのおじさんの名前は知っていた。
「奈々です。ロクさんでしょ。よろしくお願いします」
「おー、奈々ちゃん。来てくれたんだ。ようこそ」
 どうぞどうぞ、とロクさんが言ってくれて、みんながリハーサルをやっている場所へ連れていってくれた。
「奈々ちゃんはア・カペラって好き?」
「ア・カペラって伴奏なしで歌うってことでしょ?」
「そうだよ。リズム楽器は使ったりもするけどね」
「……あたしはロックのほうが好きだなぁ。グラブダブドリブのファンなんです」
「ああ、そうなんだ」
 がっかりポーズをしてみせるロクさんに、両親はダーティエンジェルズが好きみたいですよ、と言ってあげた。
「奈々ちゃんのご両親っていうと、いくつぐらい?」
「ママが乾さんや本橋さんと同い年。パパはロクさんに近い年頃かな」
「ほぉ。若い奥さんでいいなぁ」
「ママは子連れ再婚なんです」
「あ、そうなの」
 十代で結婚して二十歳であたしを産んだママは、パパに死なれて大苦労をした。乾さんが住んでいたアパートの隣の部屋にあたしとママが住んでいて、それであたしは乾さんと仲良しになった。そんな話をロクさんにしていると、知らないおじさんがロクさんを呼びにきた。
「ロクさん、ちょっとこの音、聴いて下さいよ」
「おう、行くよ。奈々ちゃんは適当に見学してて。今日はフォレストシンガーズは来てないけど、そのうちには誰かが来るかもしれないからね」
 なんだ、乾さんも来てないのか、とは思ったものの、ロクさんがどこかに行ってしまうと、あたしはあちこちで話をしていたり、打ち合わせをしたりしている人たちの間を縫って歩いていった。
 あ、奈々ちゃん? と言ったのは若い女性がひとりだけで、他には誰もあたしの名前を知っているようにない。ヴォーカルグループってメジャーな存在は少ないんだよ、と乾さんが言っていた通りで、あたしにもひと目見て、あ!! と思うような顔はなかった。
 まだ有名だとはいえない、やっと子役ではなくなりつつある女優が、有名ではない歌手たちの間を歩く。時々立ち止まって歌の練習をしているのを聴いた。
「……綺麗」
 テレビドラマとCMの仕事がほとんどのあたしは、女優やタレントという人種と頻繁に会う。女優が綺麗なのは当たり前だと思っているし、あたしのほうが大人になったら綺麗になるもん、だとか、あたしのほうが若くて肌がぴちぴちだもん、だとか思うので、女優の美貌になんか感動しない。
 たった今、感動したのはハーモニーにだった。
 女性がふたり、男性がふたりで、小学校で音楽鑑賞の時間に聴いた覚えのあるメロディを歌っている。英語でもなさそうな外国語の歌詞はまるでわからないけれど、女声と男声のハモリは最高に美しく耳に響いた。心にも響いた。
「レベルが低いな」
 なのに、あたしの横で悪口を言う男がいた。
「ドイツ語の発音は滅茶苦茶だし、女性のほうの音が半音、ずれてるね」
「ドイツ語なの?」
「ん?」
 ひとりごとみたいに呟いていた背の高い男が、あたしを見下ろした。
「この曲、知らない?」
「聴いたことはあるけどさ」
「シューベルトの「菩提樹」だよ。常識だから覚えておきなさいね」
「……あんた、あたしを知ってる?」
「いや……」
「女優の奈々。常識だから覚えておいてよね」
 傲慢な口調にむかついたので、それだけ言って歩き出したら、彼が追っかけてきた。
「だったら、きみは僕を知ってる?」
「あんたなんか常識じゃないから、知らないよ」
「井村健輔と申します。Ich brauche jetzt Ihre Hilfe gut von darauf」
 ますますむかむかっ。足を速めてホールの外に出ていっても、彼はついてきた。
「僕らのグループ名は日本語でも、きみには意味がわからないかもしれないね」
「わからないようなことは言わなくていいよ」
「glanzend、わかる?」
「なに語なのかもわかんないよ」
 色が白くて憎たらしく綺麗な顔をしている。あたしよりは六つ、七つくらい年上だろうか。すらーっと背が高くて、あたしの通う女子校にこんな教師がいたら、もててもてて困るんじゃないかと思えた。
「あんた、日本人でしょ」
「日本人だけど、ドイツ語圏の国で育ったんだよ。ルクセンブルグやリヒテンシュタインにも住んでいたことがある。祖父がそういう国々から輸入した雑貨を扱う商社の社長で、両親は祖父の意向でドイツ近辺に派遣されていた。僕と妹も両親とともにヨーロッパで暮らしていたんだ。英語とドイツ語だったらおまかせ」
「で、なんてグループ?」
「レイロー」
 なんだ、そりゃ?
「……いいよ、乾さんに教えてもらうから」
「乾さん? ふーん」
 妙な表情になって、井村くんはあたしをじろじろ見た。
「あの男は若い女をたぶらかすのがうまいんだな。若い女なんてのは頭がぱーなのが尋常だから、ああいう男には簡単に参ってしまうんだ。前に僕の仕事仲間が言ってたんだけどね」
 乾さんが仕事で手を出した女が、このホールに遊びにきた。その女はだらしのない奴で、男の色目にはいたって弱いらしい。井村くんの仕事仲間というのだから、レイローのメンバーなのか。その男に色っぽく囁かれると、すぐにとろんとなってそいつにしなだれかかった。
「こんなところでは駄目だと言われても、さわってほしい、キスしてほしいってねだって、彼に抱きついて離れなかったんだそうだよ。乾さんってのはそっちのテクニックが相当なものなんだろうね。その女も乾さんに抱かれて色情狂にされてしまったらしいし、ばあさんまでもたぶらかすらしいし。乾隆也ってのは希代の色事師なんだそうだよね」
「……やめろよ」
 低い声で言ってみても、井村くんはやめてくれなかった。
「きみもあいつに抱かれたの? 目元が潤んでるね。僕がこう言っただけで濡れてきてる? きみは何歳だっけ? 十八歳未満だろ? そこまで若いと犯罪だよね。生憎だけど、僕はきみを抱くわけにはいかないから期待しないで」
 色事師ってなに? なんて問い返すと、きみはなにも知らないね、と馬鹿にされそうだ。ニュアンスはわかる気もするから質問はせずに、その女って誰だろ? と考えた。
 若い女が乾さんにふらっとなるのはあたしだって知っている。乾さんを好きだと言っている女の子はいっぱいいて、あたしが仕事で知り合った女優にだっていた。あの声、好き、奈々ちゃんは乾さんと仲良しなの? 紹介してよ、と言っていた初心者から、乾さんとは共演したことがあるというドラマにも出る歌手やら、プライベートでも知り合いだという女やら。
「私、フォレストシンガーズの大ファンなんだ。奈々ちゃんって五歳のときから乾さんに可愛がってもらってたの? いいないいな」
「前に歌番組に出たときに、フォレストシンガーズに入れてもらって一緒に歌ったの。三沢さんが、肩を抱いていい? って言うから抱かせてあげたけど、乾さんのほうがよかったな」
「あたしなんかカラオケで乾さんとデュエットしたよ。あの声には酔っ払ったみたいになっちゃって、思わず抱きついちゃった。あとで、あたしの歌、どうだった? って訊いたら、もうすこし勉強しようね、って言われたけどさ」
「乾さんにだったら抱かれたい」
 そこまで言う女もいたし、あたしの知り合いにだっている。
 亜実? 多香子? ミルキーウェイ? 他にもいるけど……誰だろ? 井村くんはまだいやらしいことを言っているので、聞かないためにも考えていた。
「僕に恋なんかしても無駄だよ。僕はきみのようなちんぴらタレントとつきあっていい男じゃないんだ。なんだよ、その目は? さわってあげるくらいだったらいいけどね」
 伸びてきた手を叩き落として、その勢いで膝蹴りを食らわせてやった。
「うっ!! な……なにを……」
「最低!!」
 あたしの膝が当たった自分の太腿を抱えて、井村くんが呻いている。だーっと走って人が大勢いるところに来てから、あたしは千鶴にメールをした。
「千鶴はア・カペラライヴのリハーサル会場に見学にきた?」
 メールを送信して息を整えていると、むこうから顔を知っている女のひとが近づいてきた。
「えーと、奈々ちゃんでしょ? あたし、モモちゃん」
「ああ、モモクリのモモちゃん? はじめまして」
 挨拶をかわし合ってから、モモちゃんが尋ねた。
「奈々ちゃんも乾さんが好きなのかな?」
「嫌いだよ」
「そおお?」
 暇だったのか、千鶴からの返事が届いた。ちょっと待ってね、とモモちゃんにことわって、千鶴と短いメールのやりとりをした。
「行ったよ」
「レイローって知ってる?」
「玲瓏でしょ。知ってるよ。あそこのリーダーの村木って大嫌い」
「あたしもレイローなんか大嫌いだ」
 それだけのメールで、井村くんの言っていた女とは千鶴なのだろうと決めた。
「ごめんね、モモちゃん。メールはもうおしまい。玲瓏ってどういう意味だか知ってる?」
「社長が教えてくれたから知ってるよ。光り輝く玉のような、って意味なんだって。そのくらい綺麗で輝いてて、高貴なイメージまであるみたいよ」
「ふーん、高貴の反対ってなに?」
「えーとえとえと……クリちゃん!!」
 クリちゃんとはモモちゃんの夫だとは、あたしも知っている。モモクリ、正式にはフルーツパフェは夫婦デュオで、フォレストシンガーズと同じ事務所の後輩ユニットだ。
「ああ、奈々さん? こんにちは。高貴の反対語は卑俗とか卑賤とかじゃないの? それがどうかしたの?」
「なんだかむずかしいけど、そうなんだって、奈々ちゃん」
「そっか。だったらクリちゃん、レイローの誰かに会ったら言っておいて。あんたたちって卑賤だよねって」
「は?」
「奈々ちゃん、玲瓏となにか?」
「……ま、いっか。モモクリの歌を聴きたいな」
「うんうん。聴いていって」
 ぽけっとしているクリちゃんを促して、モモちゃんがマイクを持つ。クリちゃんもマイクを渡されて、フルーツパフェのデュエットを聴かせてもらった。
 
「近頃あの娘がとてもきれいになったのは
 あなたに夢中だからって
 噂はよく聞くけど 知らんぷりしよう
 どうして誰にもそんなに優しくなれるの
 気まぐれは淋しいよ
 だけどそれも魅力よ
 空回り……」

 そういえば千鶴、会うたびに綺麗になってるよね。そのうちにはあたしのライバルになるかも。
 あたしのほうが千鶴よりも若いのだし、プロポーションもいいし、十五歳で十九歳にルックスでは勝っているのだから、将来はあたしのほうが上等の女優になるに決まっている。だからあたしのほうが余裕。
 それでも千鶴は嫌いなのは、乾さんが可愛がっているから。
 でも、あの井村の言ったことは嘘だよね。誰だか知らないけど、レイローの誰かが千鶴にいやらしいことでも言って、千鶴も言い返した程度のことなのだろう。千鶴はあたしのようには、男を蹴飛ばしたりはしないはずだ。
 フルーツパフェが歌っているのは片想いの歌? 千鶴もあたしも乾さんに……ううん、あたしは乾さんなんか嫌い。なのに会いたいのは、ここに来てくれたらいいのにな、と思うのはなぜなんだろう。


3・まりあ

 本意ではない職業に就いているひとなんかいくらでもいる。私はアルバイトとはいえ、編集下請けプロダクションに入れたのだから、ラッキーなほうだ。
 正社員の代理で責任のある仕事をまかされ、張り切りすぎて公私混同して、馬鹿な恋をしてあっけなくもふられた。しかし、だからってめげなかったから、社長にはかえって見直してもらえた。
「田沼はけっこう気骨があるんだな。うん、もうちょっとがんばったら正社員に登用するよ」
 社長がそう言ってくれたから、準社員のような形にしてもらえて給与も多少はアップした。
 あんな恋、しなかったらよかったのに、とも思っていたけれど、恋をしてよかったことは他にもある。学生時代にフォレストシンガーズのマネージャーさんと知り合って、彼女にライヴチケットを手配してもらって、ライヴの楽屋にまで招いてもらった、その縁が復活したといっていいのだろうか。
 失恋話を学生時代の友達にして、その友達、翼と耕太がフォレストシンガーズの本橋さんと乾さんに伝え、乾さんが私に会ってくれた。
 「ソフィア」というバーで乾さんの胸に抱かれてこぼした涙は蜜のように甘くて、あれから私は時々、乾さんと私が主役の妄想で楽しんでいる。恋なんかしなくていい、私はこうして乾さんと妄想の中で愛し合っていたらそれでいいの。
「まりあ、彼氏はできたか」
 なのに、翼や耕太はお節介を焼きたがる。かわるがわるに電話をかけてきては、失恋の傷は癒えたのか、おまえも恋をしろよ、と言いたがる。
「翼にも耕太にも彼女はいるんだよね」
「俺にはいるよ。耕太もいるって言ってたな」
「自分たちは恋をしてるから、私が幸せじゃないと気になるの? 私は恋人なんかいなくても幸せなんだからほっといてよ」
「おまえがそれでもいいんだったらいいけどさ……そうだ、だったら、俺の職場の友達でやる飲み会にまりあも来いよ」
「合コン?」
「合コンってほどじゃないよ。みんなで賑やかに飲むんだ」
 私の職場は食事会や飲み会をやるような雰囲気ではないので、そういった行事に参加する機会はめったにない。私はもともと女友達が少ないので、飲み会なんて絶えて久しくやっていなかった。
 大衆的な居酒屋の広間を貸切にしてもらって、翼が働いているweb関係の会社の社員やその友人たちが飲んでいる。若い世代の多い職場だから、私の職場とはずいぶんと空気がちがって感じる人々が大勢いた。
「ひとりで来たの?」
 声をかけてきたのは、丸っこい体型の男性だった。
「西岡翼の大学時代の友達なんです。西岡くんに誘われて……」
「ああ、そうなんだ。僕は横手学。ここ、すわっていい?」
 広い部屋なので翼の姿は見えず、私は曖昧にうなずいた。
「まりあちゃんっていうの? 可愛い名前だね どんな字を書くの?」
「ひらがなです」
「女の子の名前はひらがなってのも可愛いな。西岡と同じ大学?」
「ええ」
「だったらなかなかの秀才だよね。西岡は頭、いいもんな」
「それだけに理屈っぽいでしょ?」
「言えてるかな」
 共通の知り合いである翼を肴にして盛り上がり、話題が広がっていった。
 横手さんは二十六歳。企業のホームページを作る部署の主任だそうだ。翼よりは先輩で、わりに親しいらしくて翼の性格などもよく知っていた。
「まりあちゃんの趣味ってなに?」
「音楽を聴くのが好き。特にフォレストシンガーズの歌が大好きなんです。私ね……ううん、内緒」
「内緒だなんて言われると気になるよ。教えて?」
「駄目。内緒」
 内緒内緒ともったいぶったせいなのか、飲み会がお開きになると横手さんに誘われた。
「内緒話を聞きたいな。まりあちゃん、二次会に行かない?」
 遠くのほうに姿は見えていたものの、まったくそばには来なかった翼がやってきた。
「横手さんはこれからどうするんですか」
「俺はまりあちゃんとふたりっきりになりたいんだから、おまえは邪魔だよ」
「……今日、はじめて会ったばかりでしょ? ふたりっきりはまだ早い。俺が阻止します。まりあ、送っていくよ。帰ろうぜ」
「こらぁ、なんのつもりだ」
 怒っている横手さんをそこに残して、翼が私の手を引っ張る。横手さんは追ってはこず、私は翼の手を振り払った。
「なんなのよ、強引だね」
「おまえ、横手さんに惚れたのか?」
「私はそんなに気が早くないの。惚れるわけないでしょ」
「そうだよな。むこうは惚れたのかもしれないけど、そう性急にことを運ぶのはよくないんだよ。焦らされると男は燃えるんだから、焦らせてやれ」
「焦らすとかそういうんじゃなくて、私にはそんなつもりはないの」
「いい感じだったじゃないか」
 話していると楽しかったけど、惚れたのなんのではない。
「……私には好きなひとはいるんだから」
「いるのか? 俺の知ってる男?」
「翼には関係ないの。ほっといてよね。じゃ、バイバイ」
「待てよ、送っていくって」
「そこに駅が見えてるから、大丈夫だよ」
 待てよってば、と叫んでいる翼に手を振って、地下鉄の駅へと駆けていった。
 好きなひととは妄想の世界でたわむれているだけでいい。彼ははじめて会ったころよりも有名になって大きくなって、俺はスターにはほど遠いよ、と本人は言うものの、私から見たら遠い世界の住人なのだから。
 休日のベッドの中、半覚醒状態で、まりあ、おまえがほしい、なんて彼が囁いてくれる幻覚を見る。そんな楽しみだけで十分だった。
「おまえがやけにミステリアスに見えたらしいんだな。西岡さんに催促されてるんだ。まりあちゃんともう一度会わせろって」
 またまた翼が電話をしてきた。
「フォレストシンガーズとか言いかけて、内緒だから言わないって言ってたのってなんなんだ? おまえはあれから乾さんに会ったんだろ。乾さんとなにかあったのか」
「うふっ……あったの」
「なにがあったんだよ」
「だーからー、内緒」
 うふうふっともったいつけて笑って、ほっといてよ、と言って電話を切った。
「まりあ、横手さんがおまえに直接、電話したいって言ってるよ。いいだろ?」
「……電話くらいだったらいいけどね」
 その次の電話で翼が言ったので、渋々承諾した。
 承諾したら毎日のように横手さんから電話がかかってくる。メールも再三届く。彼との会話は楽しくなくもないし、メールも楽しいのだが、心がはずまない。
「おまえさ、誰かと横手さんを較べてないか?」
「誰かって?」
 別段、翼が横手さんと私をくっつけようと目論んでいたのではないと言う。飲み会に私を誘ったのは、まりあも若い奴らと楽しくやるべきだと思ったからであって、恋をしろよ、と私に言っていたのとは別問題だという。
 たまたま横手さんが私を気に入って話しかけ、話してみたらいっそう気に入った。西岡、おまえは本当にまりあちゃんと友達なんだな? と確認されて、まちがいないと答えたら、それからは相談を持ちかけられるようになった。
 学生時代の友人だからと気を使って、まりあに関することは翼を通さないといけないと考えていたらしい。翼も西岡さんに気を使って、それからも電話をしてきてあれこれ尋ねた。
「誰かって言ったらわかるだろ。おまえに好きなひとがいるって言ってたのは、彼じゃないのか?」
「翼に似た男性?」
「似てはいないよ。そりゃあ、耕太よりは俺のほうが似てるだろうけど、彼は大人だ。考え方も深い。彼自身は、俺なんかはまだ青二才だって言うけど、あなたが青二才だったら俺は赤ん坊だよって言いたくなる。俺もあれから彼とはたまに同席させてもらうんだけど、尊敬するひとのひとりになったよ」
 好きなひとが誰なのか、翼は明確にわかっているようだ。
「彼は背が高くて……特別な長身ではないけど、高いほうだよな。服装の趣味もよくて、なにを着ていても決まってる。ちょっと気障に見えるところも、女から見たらかっこいいんだろ。細身のところもまりあの好みだよな」
「だからなんなのよ。知ってるよ」
 すべては妄想なんだから、好きだと言っても片想い以前なのだから、そのつもりで言った私の意図を知っているのかいないのか、翼は続けた。
「あのひとはかっこいい大人の男だよ。まりあが好きになるのは俺にだってわかる。だけど、高嶺の花っていうのか……うまくは言えないけど……」
「知ってるってば」
「横手さんは背も高くないし、ころっとした愛嬌のある身体つきをしていて、顔にしても面白いほうだよな。俺は体重は重いけど人間に重みがない、なんて言ってたよ。性格は決して悪くはないし、うちの会社でも有望なポジションにいる。昨今は社会全体が安定していないから、出世はまちがいなしだとは言わないけど、きちんとした社会人だよ」
「……」
 なにが言いたいのよ? とも切り返せず、私は無言になった。
「較べるな。現実を見ろよ」
 わかってるんだから、言わないで。私の甘い妄想を砕かないで。心で反発して、私は黙っていた。沈黙が長くなり、翼が口を開いた。
「まりあ、泣いてるのか?」
「泣くわけないでしょ。なめんじゃねーよ」
「……おまえらしい台詞だな。だけど、乾さんの前でそんな口、きくなよ」
「横手さんにだったらいいの?」
「彼は面白がりそうだ。ああ、しかし、俺もお節介がすぎるな。まりあだってガキじゃないんだから、決めるのはおまえだ。ただ、現実を見ろって言いたかっただけだよ」
「……うん」
「じゃあな」
 時期がよくなかったのかもしれない。妄想なんて虚しいと本気で思うようになり、本気で現実を見たくなり、結婚も考えられる相手とつきあいたいと思うようになってから出会っていたら、横手さんとの交際を考えていたかもしれない。
 だけど、私はまだ二十代半ばなんだし、結婚したいわけではなくて、仕事に夢中になりたい時期だ。疲れ果てれば乾さんが妄想の中で、私を甘やかして癒してくれる。
 たしかにルックスも中身も、乾さんは私の理想に近くて、横手さんは遠い。そういう意味では較べてしまうけど、そんな理由で横手さんと現実の交際をしたくないと言うのではない。時期がよくなかっただけ。
「うん、まあ、ちょっとはあるけどね……」
 横手さんがもうすこしかっこよかったら? そしたらどうするかなあ、と考えそうになって、そんなの関係ないっ!! と首を横に振ってみた。


4・ミルキーウェイ

 はじまりはストリートミュージシャンだった。
 路上で歌ってもお金にもならなかったけど、バックで演奏していた男の子たちはみんな、あたしに恋をしていて、「ミルキーウェイ」のメンバーの座は争奪戦になっていたのだ。「ミルキーウェイ」とは当時はあたしのバンドの名前だった。
 メンバーの座やあたしの彼氏の座を奪い合って喧嘩になったりもしていたから、バックのメンバーはたびたび変わった。
 何代目かのミルキーウェイを従えて、大きな駅の歩道橋の上で歌っていたらスカウトされて、あたしは歌手になることになった。
「バックの男の子たちも一緒なんだよね」
「そのつもりだったんだけどね……」
 所属すると決まった音楽事務所の担当者が言った。
「ドラムの竜也……あいつ、とんでもないことをしてたんだよ。あいつがいてはきみの経歴にも傷がつく。だからね、きみはソロでデビューしよう。バックバンドはこっちで探すから、楽器の男たちは切り捨てろ」
「竜也はクビにして、ドラムだけ別の男の子ってわけにはいかないの?」
「他の奴らもなにをしてるかわかったもんじゃないし、危険だよ。こっちで厳重に調査して、瑕疵のないミュージシャンを選ぶから」
「そしたら、あたしの芸名、ミルキーウェイにしようよ」
「そうか。相談してみるよ」
 事務所で相談して、あたしの名前にバックバンドの名前が残った。
 もちろんあたしには本名はあるけれど、デビューしてからは誰もがミルキーと呼ぶ。デビューしたら途端に売れて、歌手ってこんなに甘いもんだったんだ、楽勝だね、と笑っていたころ、札幌で開催された歌のショーに出演した。
 アイドルグループやらソロシンガーやらと共演した中に、フォレストシンガーズの木村章がいた。木村は北海道出身だそうで、フォレストシンガーズを離れてひとりで出演していた。
 三十歳をすぎたちびのおっさんのくせして、ドあつかましくもあたしに告白して、そんなのは慣れすぎて倦んでいるあたしは、返事もせずにせせら笑ってやった。そんな出来事を根に持ったのか、後にフォレストシンガーズ全体と共演することになって楽屋に挨拶に行くと、陰険な仕返しをされた。
 陰険なのは乾隆也。彼は木村とはちがって背も高く、おっさんなのは変わりないとはいえ、見た目も悪くはない。だけど、性格は大嫌いだ。乾とだったらセックスくらいはつきあってやってもいいと思ったのも、煙草を吸うと知って取り消しにした。
 とにかくあたしは煙草は大嫌い。音楽をやる男には喫煙者は多いものだが、あたしの前では絶対に吸うなと命令したら、みんな苦笑いして言うことを聞いた。
 なのに乾隆也ときたら、あたしの命令なんか聞きはしない。
 ほのかに好きだなと思っていたのまでが悔しくなって、あいつをひどい目に遭わせてやりたくてたまらなくなってきた。
 ギタリスト志望の哲司をペットにして、哲司が乾とは知り合いだと知って、使えないかと考えてみたのは空振りに終わり、木村の弟と同じくフォレストシンガーズの三沢幸生のいとこを誘拐してみたのも見破られた。
「俺はあなたとは係わり合いになりたくないんだ。俺にかまわないで下さい」
 あのひややかな声と空気と態度。逆にあたしはかーっと熱くなる。この熱さはなに? 情熱だの恋愛感情だのではなく、憎しみの炎なのか。
「ミルキーはいつだって醒めてるのに、乾さんのこととなるとくちびるを噛みしめるんだよね。心の底では彼が好きだとか?」
 歌手としては数少ない友達の、彩花が尋ねる。馬鹿馬鹿しい、と吐き捨てて、けれど、だったらあたしのこの感情はなに? 憎悪するほどの交流があったわけではなく、中途半端にちらほらと触れ合ったにすぎないのに。
 乾隆也の周囲の人間も気になって、彼と親しくしているひとに接触したくなる。俳優でもありシンガーでもあり、大スターといってもいい桜田忠弘とも寝た。桜田がフォレストシンガーズとは親しいからという理由でそうしたくなったのだ。
 それから、佐田千鶴。
 ふとしたことから乾隆也のマンションを知り、駐車場に行ってみた。乾の車を発見したら傷でもつけてやろうかと釘をバッグに忍ばせ、もうひとつの小道具も携えていったら、見つけたのは車ではなく、佐田千鶴という女だった。
 そのときには名前も知らなかった千鶴は、女優の卵。背はかなり低くて細いあたしよりは高いが、小柄なほうで、気持ちの悪い色気のあるぽっちゃり女だ。なにもかもが気持ち悪く思える千鶴はやけに女っぽい言葉遣いで、良家のお嬢さま然とした態度であたしに接した。
 今から思えばあれは芝居だったのだろうが、あたしは彼女が何者なのかも知らなかったのだから、引きかけていた。
 そこにあらわれた乾が千鶴を叱り、あたしにはいつもとまったく同じに冷ややかに言った。乗りなさい、送っていきます、と言われて断れなくなって、千鶴もともに車に乗って、釘ではなく、もうひとつの小道具を使った。
 大嫌いな奴を陥れてやりたくて準備した、マリファナ入りのセブンスター。警察に調べられたらあたしもアウトだけど、それがまたスリリングだった。
「……乾隆也の車に乗せてもらったら、変なものがありましたよ」
 警察に密告してやろうか。それをやるとあたしも巻き込まれるか。やめておいたほうがいいな。
 そう判断してそれっきり放置したあの一件はどうなったのだろう。乾はたまにあたしに会っても会釈する程度で、冷ややかな態度を崩さない。なんの反応も見せない。
 その後にもいくつかの接触をした。しまいには乾の故郷を調べて、彼の父親には隠し子がいるかも? というようなネタも発覚した。そのことについても乾に告げはしたものの、はかばかしい反応は得られなかった。
「結局、あたしはなにをしたいの? 乾がどう反応したら満足なの?」
 自問してみると、あたしの中のあたしが返事をした。
「あたしはあいつが嫌いだよ。大嫌いな奴にかまうのは、あいつを慌てふためかせてやりたいからかな。あいつはちょっとやそっとでは動じない。そんな奴をパニクらせるにはどうしたらいいか。あれこれ考えるのは楽しいの。知的ゲームっていうんじゃない?」
 この言葉では完全には言い表せていないのだろうが、気分は近い。
 はじめてあいつに会ってから、あいつがあたしの心につけた傷。その傷は小さなものばかりだけど、積み重なってひりひり痛む。心に痛みがあるのはシンガーとしてはいいことのはず。バンド「ミルキーウェイ」のベーシストで、彼だけはずっとあたしと一緒にやっていたランに言ってみた。
「ニューアルバムの歌を作って。あたしの気持ちを歌にして」
 ランは哲司と似たバイセクシャルだ。男とも女ともセックスは可能なくせに、ものすごく好みがうるさくて気に入った相手としか寝ない。おまえは俺の趣味ではない、と言うから、あたしは彼と寝たことはない。
 別にあたしもランなんかと寝たくないからいいんだけど、あたしのどこが趣味じゃないんだろ。変な奴だ。
 そもそもはランと知り合ったから、あたしは歌手としてデビューできたのだろう。彼と会っていなかったら、あたしは今ごろは母と喧嘩をしながら、飲み屋の姉ちゃんをやっていたかもしれない。はじめて会ったあの日には、あたしはランと寝たかったような記憶があるのだが、記憶違いだろうか?
 いずれにしても、ランには裸は見せてあげたものの、寝てはいない。恋人になったことは一度もなかった。
「こんな気持ち……」
 心の傷の話をすると、ランが歌を書いてくれた。
 
「ハートについたちっちゃな傷がかさぶたになる
 あたしはそのかさぶたを剥がしてしまう
 生々しい傷から小さな血がしたたって
 あたしはその真紅に見とれる
 甘くて痛い心の傷は
 あたしが生きてるって証なんだろうか」

 この歌詞にしてもあたしの気持ちを完全には表現し切れていないけれど、近いのかもしれない。心のリストカットか。
「いいね。うん、マインドカットってタイトルにしようか」
「ミルキーは乾って奴を嫌いだと言ったけど、それだって屈曲した恋の形なんじゃないのか?」
「ちがうよ」
「おまえは俺が好きだろ」
「……嫌いではないね。ランは歌も書いてくれるし、なにかと便利な奴だからさ」
 その感情をおりたたんでこうしてああして……ランは折り紙でもするような手つきをした。
「そうすると、乾への感情になるんじゃないのか? おまえは意外と、おまえと寝たがらない男が好き……好きっていうのか、気になってしようがない相手になるんじゃないのかな」
「勝手に他人の精神分析をするな。この歌はもらうから、おまえはどっかの男でもナンパしてきな」
「ああ、そうするよ」
 恋なんてものは飽きたというか、実はあたしは恋なんかしたことはないというか。
 どっちだかは自分でもよくわかっていないけれど、恋ではない感情とつきあって分析してみたりするのは、あたしにとっては格好の暇つぶし。そのためにはこれからも乾隆也を使わせてもらおう。

END




 


 
 
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~ Comment ~

NoTitle

余談な話ですが。
音楽評論家っていうのはすごい職業ですよね。
それで食っていける人は何人いるのでしょうね。
音楽を文章にして人に伝える。
どれだけ難しいかは文章を書いている私でも分かることですが。

LandMさんへ

ほんとですよね。
なにに関しても好き嫌いでしかものを言えない私ですので、「評論」ができるのはすごいことだと思います。

反面、自分でできないくせにえらそうに言わないで、とも思わなくもなく……むにゃむにゃ(^o^)

あ、でも、音楽評論家はたぶん、自分でもなんらかの形で音楽をやってるんでしょうね。でないと不可能な気もします。

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