別小説

ガラスの靴37

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「ガラスの靴」


     37・失恋


 暗い表情の男性を連れて帰ってきたアンヌは、なんともいいようのない顔をしている。笑いたいのか怒りたいのか、そんな顔をしたアンヌは、その男性を僕に紹介してから消えてしまった。
 シャワーを浴びてくるから、おまえが彼の相手をしていろ、だそうだ。

「おなかすいてる?」
「いえ、別に……」
「飲んできたんでしょ。もっと飲みたい?」
「飲みたくはないです」
「お茶漬けでも食べる?」
「おかまいなく」

 酔うとお客を連れてくるのがアンヌの癖だ。僕たちのマンションは広くて部屋数もたくさんあるので、酔っ払いが多少大きな声を出しても、眠っている胡弓の邪魔にはならない。胡弓は寝つきが良くて寝たら起きない、赤ちゃんのときから熟睡型のやりやすい子なので、そういう意味でもお客は邪魔にはならない。

 三歳の息子を寝かしつけると、僕は暇になる。ロックバンドをやっているアンヌが帰ってこない日もよくあるから、ひとりの夜はテレビを見るくらいしかすることもない。なのだから、アンヌがお客を連れてくるのは大歓迎だ。大歓迎なのだけれど。

 ダイニングテーブルについてうつむいて、ひたすらに暗い顔をしている彼は、新津義孝、二十八歳、既婚。ただいまアンヌたちのロックバンド、「桃源郷」のもっとも大きな仕事である、総合ブライダル産業PRプロジェクトで関わっている、広告代理店の社員だそうだ。

 広告代理店ってどんな仕事をしてるの? 奥さんはどんなひと? 子どもはいるの? 質問したいことは多々あれども彼が暗すぎて尋ねられない。しようがないのでウィスキーとミックスナッツと、夕飯の残りのミートボールやポテトサラダを出した。

「どうしたの? すごーく暗いよね」
「そうなんです。暗いんです」
「アンヌには話したの?」
「ええ。聞いてもらったんですよね。そしたら、アンヌさんったら絶句して、その話を笙さんにも聞かせてやろうって言って、ここへ連れてこられたんです」

 実は話したかったのだろう。水を向けたら饒舌になった義孝くんは、切々と語った。

「結婚してから一年くらいだから、子どもはまだいません。僕はほしいんだけど、妻はあまりほしくないみたい。彼女は仕事が好きだから、主婦としてではなく仕事人間として生きたいんですよね。僕はそんな彼女が好きなんだから、不満はありませんよ。彼女も僕と同い年なんだから、子どもは三十歳くらいになってから作ってもいいんですものね」

 妻の名は野菊。芽愛紅だの摩丁香花だのという名前と較べれば平凡なほうだろう。野菊さんは女性雑誌の編集者なのだそうで、トレンディな仕事をしているカップルというか、なんだかバブルっぽいというか……いずれにしても僕とは縁のない仕事だ。

「のんちゃんって呼んでるんですけど、このごろ、彼女が元気ないんですよね。どうしたの? って訊いても、ヨシには関係ないからって話してくれない。言いたがらないのを無理やり聞き出したところによりますと……」

 失恋したのよ、だったのだそうだ。
 は? 失恋って義孝くんに? 僕も耳を疑ったが、夫の義孝くんはさらにだった。

「誰に?」
「仕事で知り合ったライター」
「……そのライターとつきあってたの?」
「ちょっとだけね」
「それって不倫でしょ?」
「そうなるかしらね」
「……そうなるかしらねって……」

 呆然としてしまった義孝くんの気持ちはわかる。アンヌの交流関係には、互いに浮気公認の夫婦は何組かいる。別の相手に恋をしたほうが新鮮味が持続するだとか、本当の愛があれば浮気ごときでは揺らがないだとか、パートナーを交換してセックスして楽しむだとか。

 夫婦双方が納得しているんだったらいいけれど、僕はいやだ。義孝くんもいやなのだろう。そのほうが普通の人間である。

「彼のこと、好きだったのよ。ヨシはヨシとして嫌いじゃないけど、いつもお米のごはんばっかり食べてたら、たまにはパンが食べたいって思うじゃない。人間としては当然の欲望だよ」
「そ、そうかなぁ」
「だからね、彼とちょっとだけつきあってみたの。いくら結婚していたって、人を好きになるのは人間として当然の感情でしょ? 誰にも迷惑はかけてないんだから、悪いことじゃないよね」
「僕には……」

 迷惑かけてるんじゃないの? と義孝くんは言いたかったらしいのだが、野菊さんに押し切られてしまった。

「それでつきあってたんだけど、ふられちゃったのよ。私が結婚してるからってわけでもなくて、潮時だろって言ってた。まあね、私だってヨシと離婚して彼と再婚したいってほどでもなかったし、あくまで遊びだったんだからかまわないと思ってたの。だけど、私、けっこう彼にはまってたんだな。痛手だったの。だから元気がなくなってるの。お願い、そっとしておいて」
「……わかったよ」

 わかったらいけないじゃないかぁ!! と僕は思うのだが、義孝くんは完全に野菊さんのペースに巻き込まれ、妻の失恋の痛手が癒えるまではそっとしておくと約束したのだそうだ。

「妻はまだ失恋から立ち直っていないので、僕とベッドに入る気になんかなれない、キスもいやだって言います。仕事が忙しい時期だからめったに顔も合せないんですけど、休みの日なんかもため息ばかりついていて、仕事をしていたらいっときは忘れてられるけど、暇だと思い出すわ、つらいわ、なんて言ってるんです」
「義孝くんみたいな暗い顔をしてるわけだ」
「そうなんですよね。僕にも妻の暗さが伝染してるんですよ」
「で、どうするつもり?」
「のんちゃんの失恋の傷が癒えるまで、待つしかないでしょ」
「あ、そ」

 はあっ!! と大きな吐息をついて、義孝くんは頭を抱える。僕はなんともいえない気分になる。人の気配に振り向くと、濡れた髪をしたアンヌがうしろに立っていた。

「それでアンヌ、変な顔をしていたんだね」
「聞いたか? たまんねえだろ。アホかって笑ってやろうかと思ったんだけど、ヨシは深刻だし、野菊って女もマジに落ち込んでるらしいんだよ。笙の感想は?」
「そうだなぁ」

 頭の中がぐるぐるする。野菊さんに会ってみたいような、会ってその話をして、僕が人の道を説いたとしても、言いくるめられてしまいそうにも思える。苦々しい顔をして義孝くんを眺めているアンヌに言ってみた。

「夫婦っていろいろだよねぇ」
「うん、まさしく」

 僕ら夫婦の意見は一致していた。


つづく







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