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小説61(ルシアンヒルの上で)前編

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フォレストシンガーズストーリィ・61

「ルシアンヒルの上で」前編


1

 あの日、乾さんが言ったあの言葉が、俺を揺らめかせたのだ。
「四年になっても本橋も俺も就職が決まってない。内定をもらってる奴もいるってのに、俺たちは呑気に見えるだろ」
「ええ、そういえば」
「おまえは就職するのか」
「そろそろ考えないといけませんね」
「シゲも就職するんだろうな」
「普通はそうでしょ。就職しないでどうするんですか。フリーターなんていやですよ」
「徳永も就職は決まってないんだよ。あいつがどうするつもりかは知らない。あいつは本橋や俺に……それはいいんだけど」
 腹に一物ある、ってわけだろう。ナンバースリーなのだから。徳永さんのような実力と性格の持ち主は、本橋さんや乾さんに素直には接することができない。そこは俺にもわかる。
「ただ風に吹かれるままに、自由でいたい、束縛されたくないからってフリーターになるんじゃなくて、確固たる目標があって、そこに到達するまでの間をフリーターですごすって生き様ならば、人生の一時期を回り道するって意味で……回りくどいな。ヒデ、卒業するまでにはシゲにも打ち明ける。もうひとりふたり、仲間になってほしい男がいるんだけど、彼らにも打ち明ける。おまえにも近いうちにははっきり言う。そのつもりでいてくれないか」
「ちっともはっきりじゃありませんよ。なんなんですか」
「ヒデ、シゲ、本橋、俺、それからあとひとりかふたり、大きな目標に向かって生きよう」
「乾さん?」
「今はそこまでだ。ごめんな」
「……本橋さんに口止めされてるんですか」
「まだ曖昧模糊としすぎてるからだよ。本橋と俺の間では固まってるんだけど、おまえたちには……考えを確定させたら言う。就職活動はまた別の話、って……いいんだろうか。俺もそのあたりは……」
 言葉を濁して、じゃあ、と手を上げて、乾さんはどこかに歩いていってしまった。追いかけてつかまえて、その言葉の続きが聞きたくて、もどかしくてじれったくて、しかし、俺は呆然と乾さんの背中を見送っていた。
 時は流れていくばかりで、気は急くのだが就職活動に本腰が入れられない。夏合宿もコンサートも学園祭も終わり、秋風が吹き、冬がやってくる。同年の仲間たちのあいつが、こいつが内定を決めた、という情報がひとつふたつと耳に入ってきていたが、シゲもまだ就職が決定せず、いささか気持ちがダウンしていたころに、恵に言われた。
「うちの仕事をしない?」
「うちの? おまえんち?」
 溝部さんなんかとつきあわなかったのは賢明な考えだった、と俺が思ったのは、あのころから俺の心になにかが芽生えていたせいだったのか。なんでこんな台風女と、と思わなくもなかったのだが、もののはずみだかなんだか、恵とそういうことになってしまった。恵が就職をしないのは、家業の水産物問屋の事務職につくからだと聞いている。
 茨城にある恵の生家は、わりあい幅広く事業を営んでいて、東京にも営業所を構えている。恵はそちらでOLになるのだそうだ。俺にもその仕事をやれと言っているのだ。
「お父さんに話したの。私にはつきあってる男のひとがいるんだけど、彼は就職を決めてない、って。そしたら彼もうちで働かないか、ってお父さんが言ってくれた。ゆくゆくは……って、お父さんは言いたかったみたいだけど、そこまで考えなくてもいいの。柳本水産に就職するって考えたらいいんだよ」
「……うーん、考えとくよ」
「うちは最後の砦として取っとく?」
 うーん、としか答えられないでいるうちに、恵は立っていった。恵の親元に世話になったりしたら、そうして絡め取られてしまうのではないか。最後の砦? 俺には砦と呼ぶにはささやかにすぎる、か細い綱があるにはあるのだけど、すがっていいものだろうか。悩みに悩んだ末に、シゲの幼なじみの瀬戸内泉水を呼び出した。
 学部もちがい、彼女は合唱部でもないので、泉水とはシゲも含めたグループで遊びにいったりするときに会うか、校内でシゲと三人でメシを食ったりする程度だった。何人かで映画を観にいく約束をしたのに、次から次へとキャンセルが出て、泉水とふたりきりで映画鑑賞に行った。あれから時おり、ふたりきりで会うようにもなった。シゲが邪推するといけないので、彼には話していない。泉水もシゲには話していないようだ。
「ヒデは恵さんと結婚するの?」
「将来はわからないけど、そこまで考えてないよ」
「将来はわかんないんだね」
「将来なんて誰にもわかんないだろ」
「そうかぁ、そうだよね。私もなんとか内定はもらったけど、それだってどうなるかわかんないね。シゲも就職決めてないし、ヒデもシゲもふらふらしてちゃ駄目だよ。じきに四年生になるんだから。早いなぁ。そしたらすぐに卒業して、社会人になっちゃうんだ。学生のまんまでいたいな」
「俺だって……」
 モラトリアム期間の最たるものが大学生という一時期なのだろう。残りがわずかになってくると、しがみつきたくなってくる。しがみつきたい綱は俺にはもうひとつあって、なのに、乾さんはいまだにはっきり言ってくれない。泉水はじっと俺を見てから言った。
「決めるのはヒデだよ。私に口をはさめる問題じゃないよ。だけどさ、シゲは就職が決まらなかったら、故郷に帰ったらいいんだ。ヒデも恵さんの言う通り、柳本水産を切り札に残しておけばいいんだよ」
「切り札か」
 シゲの生家は酒屋を経営している。両親ともにまだ若いし、姉さんもいるし、シゲにあとを継がせようという話は出ていないようだが、故郷に帰って酒屋の親父になるという道は残されている。俺には柳本水産があるってわけか。安心しようと思えばできるのだろうが、そくそくと寒い心持ちになるのはなぜだろう。
「飲みにいこうか」
「いいの? 恋人とじゃなくて私とで」
「いいんだ。ぱーっと飲んで気の晴れる話をしよう」
 ぱーっととも行かなくて、あれやこれやと悩んでいる俺の気分が伝染したのか、泉水も口数が少なくなって、沈鬱気味にふたりで酒を飲んだ。ぽつりぽつりと話をしていてさえも、俺は自己撞着の中に浸り込んでいた。
「恵って奴は気分の波が大きいんだよ。俺も似たところがあるから、四六時中いっしょにいたくないな」
「恋人同士っていつもいっしょにいたいものだろ?」
「そこんとこがちがうから、俺はほんとにあいつが好きなんだろうかって……」
「恋愛ってさ、めらめら激しく燃え盛るとも限らないんだね。私だってそうだもん」
「お、泉水ちゃん、恋人いるのか?」
「いたらあんたとなんか飲んでない」
「なるほど」
 そしたらなんだ、私だってそうだもん、は? 過去の話か。泉水だって二十年も生きてきたのだから、恋人のひとりやふたりは持っていたのだろう。今はいないのか。だから俺と飲んでいるのか。
 勝手にそうと決め込んで、適当に切り上げて外に出た。店の外はつめたい空気に支配されていて、どこか俺の心持ちと似通っている。俺には親切に、うちで働いたら? と言ってくれる彼女がいる。彼女の父親も受け入れてくれている。だが、そうと決めたら彼女の親父に正式に挨拶しにいって、そうとなったら将来の話なんかも出て、そうとなったら本当にからめられてしまう。これは巧妙に張り巡らせられた、親がらみの恵の罠なのか、とまで考えそうになるのだった。
「俺も故郷に帰ろうかなぁ」
 言いながら、となりを歩く泉水の肩を抱き寄せた。
「寒いだろ。下心はないんだよ」
「ないのは知ってるよ。ヒデは私を女だとは思ってないもんね。シゲもだろうけど」
「泉水ちゃんは女っぽくないからな。だからこそつきあいやすいんだよ。つきあうったって友達づきあい」
「いちいち言わなくてもわかってる」
「けど、こうしてるとあったかいな。肩も細いんだな」
 こんなにくっつくのははじめだ。泉水のジャンパーの肩ごしに、彼女の体温と華奢な骨組みの感触が伝わってくる。泉水は背は高いほうだが、骨細でほっそりしているのだと初に気づいていた。
 知り合った当初は泉水とは、シゲのいない場では挨拶をかわすくらいだった。シゲもいる場でだったら、その他大勢の友人たちと同じに気安く口をきき、気安く友達づきあいをしてきた。中学生や高校生のころの同級生同士のようなものだった。ふたりきりで会ってもデートの感覚はなくて、軽口を叩き合ったり、飲んだり食ったり映画を観たり、同級生の延長にすぎなかった。
 それでも泉水は俺には遠慮がちではあるのだろう。シゲとならば時として大喧嘩もやらかす。泉水はぽんぽんとシゲには遠慮会釈もなくものを言い、シゲも彼にしては饒舌に言い返すのだが、むろんシゲは泉水とは口では勝負にならない。シゲに口で負ける女はめったといないだろう。
 シゲと泉水が口喧嘩をしていると、俺は横でいつも笑っていた。俺は激してくると頭に血が上って、女にでも先輩にでもよけいなことを言う。手も出しかねない。乾さんに怒られたり、ひとこと多いと山田さんにたしなめられたりしたのはそのせいだが、シゲにはその心配はない。ひとこと多い俺が言ったのが、シゲと泉水の喧嘩のひきがねになったりもした。
「シゲには彼女はいないんだろ。泉水ちゃんは?」
 三人でキャンパスのベンチで話していて尋ねたら、ふたりともいないと答えた。あれは今年の秋だったか。ベンチのそばのポプラの枯葉が舞っていた。
「そしたら……」
 前々から言いたくて機会を逸していたその台詞を、俺は口にした。
「くっついちまえばいいだろ」
「誰が? シゲと私? 冗談じゃないっての!! 誰がこんなのとっ!」
「俺だっていやだよ。泉水となんか」
 ぼそっとシゲが呟き、案の定というべきか、そこから泉水がまくし立てた。
「泉水となんか? それは私の台詞だよ。シゲとなんかつきあうんだったら、ポプラの樹と恋人同士になるよ。樹とシゲだったら樹のほうがよっぽどまし。シゲはたいしたことは言わないけど、時々憎たらしい台詞をぼそっと言うだろ。頭も口も回らないくせして、たまにずきっと来るようなことを言うの。その点、樹はなんにも言わない。絶対になにも言わない。私がなにを言っても葉っぱが風に揺れてるばかりで、大きくどっしりと受け止めてくれる。私はそういうひとがいいなぁ。シゲなんか死んでもいやだよ。だからシゲはもてないんだ」
「だからってなんだよ? 俺は喋りすぎるってのか」
「シゲが喋りすぎるんだったら、ヒデは口の止まってる時間はないってことになるよね」
「おまえの口も開きっぱなしってことになるよな」
 もっとすごいのがいるぞぉ、と俺が考えていると、泉水は言った。
「気配りもできないし、しゃれた台詞のひとつも言えないし、頭も回転しないし、嘘つきだし約束は守らないし。私はシゲを小学校のころから知ってるんだからね。私と約束しても守ったためしがなくて、男の子の友達との約束ばっかり優先して、私は何度怒ったか。言ってやろうか。あれもこれも私は覚えてるよ」
「……言わなくていい」
「ごめんは?」
「昔の約束を今さらか? ……ごめん」
「気が抜けた。だからシゲってのはぁ!!」
 ポプラの幹に向かって、泉水はキックを入れた。力余ってころびそうになった泉水にシゲが駆け寄り、近頃ではほぼ口から出さなくなった三重弁で、大丈夫か? 足は痛くないか? と気遣っていた。痛くない、と泉水も三重弁で答え、そんな姿はふたりの幼いころを彷彿とさせた。
 三重弁ではどう言うのか、俺の記憶にはそこまでは残っていないのだが、いいカップルになりそうなのにな、と思っていた。近い時期の思い出をよみがえらせていると、泉水が俺のすぐ近くで言った。
「ヒデは故郷に帰ってなにをするの? お父さんはサラリーマンだっけ?」
「市役所勤めだよ、俺の親父は。シゲみたいに継ぐ家業はないし、田舎ったって地方都市ではあるんだけど、最悪、なんとかなるさ。それより俺には……」
「なに?」
「言えない」
「言えない? なんで? 言えよ」
「言えないんだ。はっきりしないんだ。俺はそうしたいんだけど、そうしたいと思ってる俺の望みが、先輩たちが望んでいるのと同じなのかどうかもわからない。だからなんとも言えない」
「先輩? 合唱部の? 乾さんとか本橋さんとか? シゲもよく乾さんや本橋さんの話をする。私も紹介はしてもらったことがあるよ。コンサートで本橋さんや乾さんの歌も聴いた。すごいよね。私も高校までは合唱部に入ってたから、歌ってちょっとはわかってるつもり。本橋さんや乾さんや徳永さんは、プロになってもやっていけるよね。ああ、もしかしたらヒデ……?」
「だからさ、俺の希望的憶測だよ」
 ヒデ、シゲ、本橋、俺、それからあとひとりかふたり、大きな目標に向かって生きよう、乾さんはたしかにそう言った。あとひとりかふたり、というのが誰なのかは知らない。大きな目標がなんなのかも、俺には希望的憶測を抱いているしかない。が、そこにしっかりすがりつきたくて、すがりつきたくてもかわされそうで、焦れているしかなかったのだ。
「本橋さんや乾さんはプロになろうと考えてるんじゃないかって思える。徳永さんもそうなのかもしれない。あのひとたちはそうと決意したらきっとなれるよ。俺の憶測にすぎないけど、乾さんの目標ってそこだろうな」
「ヒデもプロ歌手になりたいの?」
「俺なんかなりたくてもなれないだろ」
 ううん、と泉水は真顔で言った。
「ヒデもシゲも、ちょっとは歌の経験のある私から見ても、たいした歌い手だよ。乾さんに誘われたの?」
「そこがはっきりしないんだよ。気を持たせるようなことは言ってくれたけど、どうせ言うならはっきり言えよ。乾さんってのはこう、なんてのか、お世辞もうまいし詭弁もうまいし、人を丸め込むのもうまいし、冷酷なひとこともずばっと言うし、かと思ったら子供相手にはものやわらかに話を引き出すし、誘導尋問も得意みたいだし、二十歳であれだったら、十年もしたら政治家にもなれるんじゃないかな」
「政治家なんてよくない。乾さんは歌手になるべきだよ」
「まさしくそうだな」
「誘われたのかもしれないし、そうじゃないのかもしれないのか。はっきりしなくて悩んでるんだったら、ヒデから訊いたらいいじゃないか。こういうのは蛇の生殺しっていうんだよ。俺も将来をきちんと考えなくちゃいけない時期なんだから、はっきりして下さいって迫ればいいよ」
「その手もあるな」
「先輩だからっていったって、訊くべきことはしっかり訊きな」
「おし、勇気が出た。泉水ちゃん、ありがとう」
 思わず力を込めて抱き寄せて、泉水の額にキスした。泉水の頬に血の色がさし、くぐもった声を出した。
「友達なんだからそこまでだよ」
「ん、そうだな」
「恵さんと幸せになれよ」
「まだそこまでじゃないって」
 けれど、いずれはそうなるのかもしれない。あの台風女は、土佐の気の強い女たちに通じるところがあって、土佐の男の俺とは合うのかもしれない。そうなってもいいかもしれない。恵自身ではなく泉水が、俺のそんな想いを引き出した。
 もしもそうなるのだとしたら、そのころの俺は……はるかなる茫漠たる望みをたしかなものにするために、乾さんに体当たりしよう。当たって砕けたらそれはそのときのこと。俺自身の望みを確固たるものにしなくては。その礎を固めてくれたのも泉水だ。ヒデもシゲもたいした歌い手だ、泉水のひとことで、綱がすこし太くなったような気がしていた。


「前に言ってた、就職しないで生きる道を、俺にはっきり教えて下さい。俺もそこに……」
 泉水のおかげで踏ん切りがついて迫ってみたら、乾さんは言った。
「ヒデも構想に入れてるよ。でないと言わない。夏のコンサートで最終決定をするつもりだった。以前から本橋と相談はしてたんだ。俺たちが二年になった夏だったな。ふたりで多摩川までツーリングをして、話しの流れからそうなったんだよ。俺は一年のころから、本橋とずっとふたりで歌い続けていたいと望んでいた。本橋と俺がデュオを組んだのは、おまえも知っての通りに高倉先輩の抜擢からだったよ。偶然が作用したといえるのかもしれない。前置きが長いけど、聞いてくれてるよな」
「はい」
「偶然が作用したといえばいえるんだろうけど、必然だったともいえる。同じ年に生まれた本橋と俺が、同じ大学に入学して同じ合唱部に入部して出会って、運命の仲となった。本橋は気持ち悪いと言ったよ。男同士は宿命のライバルにはなっても、宿命のデュオになんかならないとほざきやがった。そうかもしれないけど、俺は信じてる。本橋と俺とはこうなる運命の星のもとに生まれ合わせたんだよ」
 これはまちがいなく偶然のいたずらなのだが、本橋さんと乾さんが選んだ五人は全員が三月生まれだ。同じ年の同じ月に数日の差をつけて生まれた本橋さんと乾さん、シゲと俺は、わずかの差で本橋さんが先、俺が先となる。三沢はシゲから一年遅れた三月に生まれている。
 二十一年前の三月に、本橋さんは東京で、乾さんは金沢で生を受けた。十八歳になったふたりは、東京の同じ大学を受験して合格し、同じ合唱部に入部した。金沢から上京してきた乾さんのほうこそ、本橋さんと出会ってこれは運命だとの感を強く持ったのかもしれない。
「そうして一年して、シゲとおまえも合唱部にやってきた。かたや三重県から、かたや高知県からはるばると、東京に来て俺たちと巡り会った。その一年後には三沢もやってきた」
「乾さんは運命論者ですか。本橋さんはともかく、シゲや俺や三沢は……」
「本橋は俺にとっては特別だよ。特別だなんて言ったらまたあいつは、気持ち悪いって怒って俺を蹴ろうとするんだけど、特別なんだから特別だ。シゲとおまえもある意味、俺たちとは切っても切れない縁があったんだと思う。三沢もだよ。だが、そんな甘い考えのみでおまえたちを選んだんじゃない。冷徹な目でも見ていたつもりだ。三沢はほら、あいつが一年のときの、渡辺さんの抜擢による合唱のメインアクトとしての歌があっただろ」
「ああ、「森の静寂と喧騒」ですね」
「三沢のあの声、あの歌、騒々しくも楽しい坊やだとしか思ってなかった俺たちの見る目を変えた。あいつはダイヤモンドの原石だ。磨き上げれば神々しいほどに輝く」
「そこまでですか」
「俺はそうと信じてるよ。ダイヤモンドでは言い足りないほどだな。それに、夏のコンサートでやった歌の中に、三沢の作詞による曲があっただろ。原型は三沢で、みんなで手を加えたんだけど、もとの歌詞にも光るものがあった。歌だけじゃないんだよ。おまえの書いた曲も光ってた。できれば作詞作曲のできる人材がほしくてね」
 すると、作詞や作曲なんかできない、と言ったシゲは? と首をかしげたら、乾さんは微笑んで言った。
「すべてを総合して選んだんだ。男ばかりでヴォーカルグループを結成するとなったら、バスパートは絶対的に必要じゃないか。シゲは基本的にバスだけど、パリトンパートもこなせる。けっこう高い声も出せば出る。あいつは声域が広いんだ」
「そのようですね。喋る声は低いけど、歌うと意外にテナーに近い声も出ます」
「うん。シゲの声域の広さも貴重だよ。おまえのハスキー気味の高い声も貴重だ。三沢のハイトーンは言うに及ばず、バラエティ豊かなハーモニーのつけられる男声の持ち主をそろえた。歌や声だけではない。気が合うってのも大切だろ。シゲやおまえとはなにかとあって気性もわかってきてる」
「三沢ともなにかとあったんですか」
「まあな。あいつはああ見えてさ……」
 詳しくは言ってくれないのだが、乾さんと本橋さんが見込んだのだから、三沢も見た目通りの男ではないのだろう。ダイヤの原石ってほどだとは俺には思えないが、そうなのだと信じておくとしよう。
「やろう。五人でプロを目指して邁進しよう」
 力強く乾さんは言い、俺も心底からうなずいた。
 その後シゲも三沢も乾さんと本橋さんに呼ばれ、三沢は茶々を入れたりもしたものの、五人でブロのシンガーズになるんだ、と誓い合ったのだ。出身大学名にちなんで「フォレストシンガーズ」とグループ名も決めた。
「ださくありません? もっとかっこいい名前に……」
 三沢改め、幸生と名で呼ぶようになった最年少が言った。
「森の合唱団って感じ? 長いし」
「あんまりかっこよくないほうがいいよ。フォレストシンガーズはわかりやすいだろ。略してFS。これだったら長くない。かっこつけすぎの名前は内実が伴わないよ」
 乾さんは言い、幸生は言った。
「FSかぁ。フィクションソング、そっか。歌ってフィクションだもんね」
 俺も言った。
「幸生、フィクションシンガーズでーす、なんて自己紹介すんなよ」
「言ってないのにそんなことを言うと、まちがえて言っちゃいそう。ねえ、いいでしょ? 解禁してもらえますよね。小笠原先輩、本庄先輩」
 ヒデさん、シゲさんって呼んでいいでしょ? だった。幸生が一年生だった夏の合宿の風呂場で、おまえなんかにヒデさんと呼ばれたくない、と俺は言った。幸生は律儀に守っていたのだ。
 先輩たちは卒業し、アルバイトをしながらいつか来る日のためにみんなで公園で練習をする日々となった。シゲも俺も就職はすっぱり捨て、いつか来る日を待ち望んでいる。いつか来る日、フォレストシンガーズがプロとしてデビューできる日だ。俺たちのデビューを待ち望んでくれているひとがもうひとりいる。
「あなたたちがデビューしたら、私がマネージャーになる。学生時代から私は合唱部のマネージメントをやってきた。私には歌の才能はあんまりないから、そっちのほうが向いてたんだよね。今の会社に入ったのもその修行のためだよ。まだろくな仕事もやらせてもらえないけど、修行にはなると信じてやってるの。下積みの下っ端仕事は、マネージャーになったって山積みになるんだろうから、耐え忍ぶのも私の勉強のうちよ」
 二月生まれなので、俺たちのうちでは最年長になる山田美江子さんだ。いつしか美江子さんと呼ぶようになっている彼女も含めて、フォレストシンガーズが始動した。
 現役大学生でもあり、合唱部の上級生でもあり、アルバイトもあるシゲ、俺、幸生の毎日は多忙ではある。けれども充実している。明確な目標ができたらだらだらなんかしていられない。恵に報告するのも先送りになっていたら、電話でせっつかれてデートをした。
「というわけで、俺は就職しない。柳本水産の話もご破算にしてほしい」
「フォレストシンガーズ? プロになるっていうの? そんな実現するかどうかわからない話を……」
「さかしらな口をきくようだけど、俺たち、若いんだよ。なにも現実に縛られなくてもいいだろ。夢ってかなえるためにあるんだ。この歌、知ってるか? かなわない夢だってあるのかもしれないけど、こんなふうになりたくないから、かなえるために努力する。恵、見ててくれないか。俺たちの夢……夢じゃない。希望だ。目標だ。いいや、悲願だよ」
 いつ、どこで耳にしたのだったか。ロックナンバーが耳元に聴こえる。ロックなんだから木村章が歌っていたのだ。今はどこかでロックミュージシャンをやっていると幸生が話していた木村もまた、彼の夢のために努力しているのだろう。俺は覚えていた歌の一部を口ずさんだ。

「GOOD BYE 俺たちのちいさな傷跡と
 かなうはずのない夢に乾杯さ
 ルシアンヒルの上で置き去りにされた
 SWEET LITTLE MEMORY」

 ルシアンヒルとはいずこかにある丘の名前か。俺たちの夢のはじまりは、丘ではなかった。合唱部の部室とそこを取り巻く芝生や校庭。やがてなつかしい場所になるはずのその付近の風景を噛み締めて、俺は小声で歌っていた。木村、おまえもひとかどのロッカーになれ。俺たちも負けない。名の売れたロッカーとヴォーカルグループとして、再会できる日を信じて進もう。
 RED・WARRIORS「ルシアンヒルの上で」。もと歌は俺は知らないけれど、木村が歌っていた記憶が鮮やかに蘇り、彼の高い高い声までもを思い出した。ロックには小笠原さんの声も合いそうだな、と木村が言っていたのまでが思い起こされる。恵はなにか言いたそうに、なのになにも言わず、歌っている俺を見つめていた。


 アマチュアではあるけれど、フォレストシンガーズに初仕事が舞い込んできた。些少ながらギャラも出るという。五人で出向いたのは、幸生の故郷からは近い神奈川の辺鄙な町だ。神奈川といえば、横浜や鎌倉や幸生の出身地である横須賀、日本全国津々浦々まで知られている街ならば、俺も知っている。こんな片田舎もあるのだとは認識していなかった。
「地図には載ってるけど、俺も知らなかった。神奈川って丸ごと都会じゃないんですよ。横浜にもチベットがあるんだし」
 含み笑いをしている幸生に、俺は尋ねた。
「横浜のチベット?」
「そう言うんですって。横浜の僻地で、温泉があるとかないとか」
「天然温泉か?」
「俺もあんまり知らないんですよ。横浜ったらさ……」
「おまえのナンパの本拠地だろうが」
「やーね、ヒデさんったら。ヒデさんもナンパはしたんでしょ?」
「しなくもないけど……おまえほどはしてないぞ。シゲに止められたりしたな」
 ナンパなんかしたことはない、と本橋さんと乾さんは口をそろえる。幸生に言わせると、たとえどれほどもてようとも、可愛い女の子を見たら声をかけたいのが男の本能だとなる。本橋さんも乾さんも欺瞞が得意だとも幸生は言うのだが、シゲはナンパ経験はゼロだろう。俺が誘っても断固拒否した。
「シゲさんって男っぽい外見してるのに、中身は男の本能不足なのかな」
「おまえはまるきり男っぽくないのに、中身は男の本能のかたまりか」
「ヒデさんはどうかな。外見の男っぽさはリーダーやシゲさんほどじゃないね。中身はなんたって土佐男なんだから、酒も強いし、土性骨でできてるんでしょ。土佐っぽっていうの?」
「あるかなぁ、そういうところは。性格は本橋さんに似てるらしいよ」
「似てますね。見た目は乾さん寄りだけど」
 土性骨とは罵り言葉であるはずだが、ど根性だと言い換えてもいいだろう。根性なくしてこんな仕事がやれるか。もっともっと根性がほしい。シゲの石頭でぶつかってこられても折れないほどの根性がほしい。
「ヒデさん、どうしたの?」
「まだまだ足りないんだよ」
「なにが? ねえねえ、ステージではどうやって並ぶんですか? 身長順?」
 あてがわれた宿の近くを散歩していたら、小高い丘にたどりついた。幸生は地面に絵を描いた。身長順か。本橋さん、乾さん、俺、シゲと順々に背が低くなる。幸生はシゲよりだいぶ低い。身長順もなだらかな丘になりそうだ。
「俺は最年少だからいいんだけど、いちばんちっちゃいって惨めだよぉ」
「しようがないだろ。生まれつきなんだから」
「ハイヒール履いてもいいですか」
「こけるぞ」
「シークレットブーツとか?」
 ギャラが出る以上は、セミプロだと考えてもいいのかもしれない。世に認められてはいなくても、俺たちの初ステージだ。合唱部時代には、五人だけでステージで歌った経験はあるが、あれは学生の歌だった。
 真ん中にちびの俺がいてもいいかも、などと幸生は、地面の絵を描いたり消したりして、些細なステージ構成に頭を悩ませている。
 村おこしの一環なのか、地元特産の野菜などなどの即売会場にしつらえられた仮設ステージで歌う仕事は、乾さんがアルバイトをしている酒場のママさんの口ききで飛び込んできた。
 乾さんはあいかわらず、年上にも年下にも女性にもてているのであるようだ。もててるんじゃなくて、予算が少ないからアマチュアシンガーズに声がかかったんだろ、と乾さんは言っていたが、まあ、なんだっていい。仕事として歌えるのは実に喜ばしいのだから。
「明日は天気になあれ」
 間もなく入梅を迎える季節だ。幸生はそう言って、照る照る坊主を取り出した。
「ってのはいいけど……枝が高い。俺には届かないよ。ヒデさん、吊るして」
「おまえは男の本能に満ち溢れてるかと思ったら、そんなふうにガキなんだよな。照る照る坊主なんか吊るさなくても、天気予報のお告げでは明日は晴れだ」
「吊るしておきましょうよ。おまじないなんだもん。そだ、ヒデさん、てるてる坊主って土佐弁ではなんと言うんですか」
「土佐弁でも同じじゃ」
「同じ?」
 そうちや、と久し振りに土佐弁を使ってみせると、ちやちやのちゃちゃちゃ、と幸生が口真似をする。横須賀弁ではなんと言うがや? と尋ねると、がやがや坊主じゃない? との返答だった。
「おまえは……横須賀弁なんてのはあるのか?」
「ありますよ。あるじゃーん。じゃんじゃん坊主かな」
「ふむ、よし、そんならじゃんじゃん坊主を吊るしてやろうか」
 背伸びしてようやく届く高さの枝に、幸生の命名によるじゃんじゃん坊主を吊るした。宿に帰って歌の練習をして、五人でいろんな話をした。合唱部時代の思い出話、シゲも俺も知らなかったころの話やら、幸生は知らないころの話やら、本橋さんや乾さんの知らない現在の合唱部の話やら、そこから展開した未来の話やら。
 照る照る坊主はこの時刻にも、ひっそりとあの丘の木の枝で揺れているのだろうか。俺たちがはじめて金をもらって歌うステージの近くにあるあの丘を、俺はひそかにルシアンヒルと名づけようか。そんなことも考えつつ眠った。
「うわぁ、霊験あらたかの正反対!」
 幸生の声に眼が覚めた。一両日は上天気だと天気予報は告げていたのだが、予報が大はずれで、翌日は朝から雨だった。雨天決行は即売会ならいいけれど、歌には聴衆が集まらない。まばらな客が点在するのが見える中、俺たちはステージに整列した。バスのシゲが右端に、そのとなりはバリトンの本橋さん、中央に乾さん、その左は俺、小柄な幸生が左端に位置を占め、身長順とはならない順番になって、本橋さんが我々の紹介をした。
「みなさま、ようこそ我々のステージにお越しいただきました。篠つく雨の中をまことにありがとうございます。右から本庄繁之、ひとり飛ばして乾隆也、小笠原英彦、三沢幸生です」
「ひとり飛ばしたのは我らがリーダー、本橋真次郎です。五人そろって……」
 せえのっ、と幸生が言い、フォレストシンガーズです、と声をそろえたのだが、拍手もまばらだ。雨が激しさを増してきて、拍手の音が聞こえない。これほど雨が降っては楽器に支障を来たすとなって、バンドの連中はほうほうのていで引き上げてしまい、急遽、ア・カペラの歌になったのだった。
 どしゃ降りの雨と競って歌っていたのだが、しまいには客席が空っぽになった。去年作った紫陽花の歌を、乾さんがソロで歌っている。雷鳴が轟いて、身の危険までを感じてきた。雨に紫陽花は似合いだろ、と笑っていた乾さんは、全身ずぶ濡れで声を出している。幸生が乾さんに近づいてなにか言ったようだったが、乾さんは軽くかぶりを振って歌い続けた。
 聴衆が皆無になっても、本橋さんも中止にしようとは言い出さない。とうとう主催者サイドから、これでは無理だとストップがかかるまで歌っていた。
「お空の馬鹿ぁ」
 ステージも仮設ならば、控え室も仮設だ。五人でそこに戻り、スタッフが抱えてきたバスタオルに包まれて顔を見合わせていると、幸生が言った。
「悔しいな。ね、先輩たち、雨にたたられるだなんて、責任者出てこーい、って叫んだって、空から雷神さまが舌を出して笑うのがオチですよね。だけど、僕ちゃん、負けないもんね。だって、こんなに強い先輩たちがついてくれてるんだもん。リーダーも乾さんもシゲさんもヒデさんも、ついでにユキちゃんも、水もしたたるいい男になっちゃったじゃん。乾さん、ギター持ってるんでしょ? 即売所にはテントもあるし、お客さんも来てるから、流しのギター弾きシンガーやりません? 歩いて歌いましょうよ」
 主催者と話していたリーダー本橋さんは、幸生の提案を彼に打診した。それもいいけどなぁ、と主催者は言い、しかしなぁ、と続ける。乾さんが言った。
「これでは収入も少ないでしょうね。我々はアマチュアなんですから、金はいいんです。ギャラはいりません。歌わせて下さい」
「流しのギター弾きで金をもらうのか?」
「そんなことはしませんよ。歌いたいんです。聴いていただきたいんです」
「きみらがそれでいいんだったら、やるのはかまわないよ。だけど、そんな格好では風邪を引く。着替えてから行きなさい」
「よし、お許しが出た。行こう、みんな」
 おーっ、と答えて、大急ぎで服を着替えて、五人で雨の中に飛び出していった。乾さんは言った。
「ごめんな、俺の一存で金はいらないなんて言っちまったよ。ギャラをあてにしてたりしないか?」
「おまえたちがギャラをあてにしてたんだったら、俺が払うよ。ただし、分割にしてくれよ」
 本橋さんが言い、幸生も言った。
「ほしくないって言ったら嘘になりますけど、リーダーと乾さんにおごってもらうからいいんです。ヒデさんは?」
「いちばんのガキのおまえに言われて、俺が言えるか。俺はギャラがほしい? なくてもいいよ。シゲもだろ」
「どんなふうにだって、俺は歌えたらいいんです。プロになったらそうも言ってられないでしょうけどね」
「うん、これもいい経験だよ。こういうのも今後の俺たちの糧になる」
「乾、かっこつけてんじゃねえよ。行くぞ」
 ありがとう、みんな、と乾さんは、胸にしみ渡りそうな微笑とともに言った。みなさーん、流しのギター弾き&歌うたいが来ましたよぉ、リクエストはありませんかぁ、と幸生が大声で叫び、小さな女の子が叫び返した。
「森のくまさん、歌って!」
「はーい。リクエスト第一号ね。お嬢さま、ありがとうございます。お母さまでいらっしゃいますか。もちろん無料ですのでご安心をば。僕らは森の歌うたい。森のくまさんを歌いまーす」
 ある日、森の中、くまさんに出会った、と歌い出し、シゲが熊のポーズをしてみせると、女の子がきゃっきゃっと笑う。初仕事は散々だったけど、歌っていられれば楽しかった。

 
2

 たやすくプロのシンガーになどなれるはずはない。俺たちにも覚悟はできていた。息子よりは世間を知っている親たちもこぞって反対し、誰もが親と半ば喧嘩をして意志を押し通した。
 本橋さんは両親とふたりの兄さんに猛反対され、それをきっかけに家を飛び出してひとり暮らしをはじめた。乾さんは金沢の旧家の出身だと最近知ったのだが、ひとりっ子の跡取り息子でもある。家の主はお母さんであるらしく、五年たってもものにならなかったら金沢に帰って、お父さんのあとを継げと厳命されて、執行猶予期限つきの身だ。
 シゲも跡取り息子といえばいえる。シゲには姉さんがいるのだが、両親からも姉さんからも甘い甘いと決めつけられて、しかし、俺はやる、と宣言して家族と決裂した。幸生も両親とは断絶状態になったようだが、彼にはふたりの妹がいて、お兄ちゃん、がんばれ、と激励してくれているらしい。
 俺も当然のごとくに親には反対された。妹も弟も、兄ちゃんは馬鹿がやないがか、と言っていたが、家族なんてのはどうとでもなる。どうにもならないのは恵だった。
「いよいよ卒業だよね。歌手になりたいって言うヒデの気持ちはわかってるつもりだけど、とりあえずでも就職したら?」
「決意が中途半端になるから就職はしないんだ。何度も言っただろ」
「うちの会社だったら融通もきくよ」
「甘い考えは持ちたくない」
「頑固者」
 そうや、俺は土佐のいごっそうやきに、と心で言い返して、けれど、内心では焦れていた。幾度かコンテストにもチャレンジしたのだが、合格はしなかった。シゲも俺も卒業し、恵が親の会社で働くようになってからも、俺たちは依然としてアマチュアのまんまだったのだ。
 親元の広い家でのびのびと成長し、大学時代も親元から通っていてなに不自由ない生活をしていた本橋さんも、一旦は就職したのに、私もあなたたちといっしょに苦労したい、と言ってフリーターになってしまった美江子さんも、金沢に帰れば老舗の和菓子屋の若旦那としておさまっていられる身の上の乾さんも、その気になれば故郷で酒屋の親父になれるシゲも、決意を変えてはいない。
 ただひとり現役大学生である幸生は呑気ではあるけれど、彼とて大学四年生だ。俺が昔考えた通りに、今年の合唱部男子部キャプテンに選ばれて、当人がもっとも驚いていたようだが、それはそれとしても、むろん幸生も普通に就職するなどとは意識の外であるらしい。
 親の家とは似ても似つかぬみすぼらしいアパート暮らしになった本橋さんの住まいの近くの公園で、週に二、三度、俺たちは歌の練習をする。筋トレもする。そんなときには他愛もない会話をしているのだが、プロになるんだと誓い合ったあの日から一年以上の間に、実にさまざまなできごとがあった。
 大学生になってから、俺の知っている限りでは二度目の恋に破れたシゲ。幸生も恋に破れたのか、詳しくは知らないけれど、乾さんと言い争いをしていたこともあった。本橋さんも美江子さんも、その間に恋もしたのかもしれない。俺も恋はしている。泉水が言ったように、恋とはめらめらと激しく燃えるものばかりではない。それでも俺は恵を愛していた。
 そう言った泉水も就職して、会うおりもなくなった。去っていく者とは疎遠になるのが世の常だ。俺もシゲもフリーターの仲間入りをして、プロへの道はなんと険しくも遠いのだろうと嘆息している反面、時にはアマチュアとしてステージに立ったり、暇さえあればみんなで集まって練習をしたりの日々をすごしていたころ、恵が言った。
「できたかもしれない」
「……赤ん坊か」
「そう」
「……避妊してただろ」
「してたはずだけど、失敗だってなくもないんだよ。失敗してできた赤ちゃんなんてかわいそうだよね。堕ろすから」
「恵、そんなこと言うな。結婚しよう。産もう」
「ヒデ……」
 たったの二十二歳の身空で親父になるのか。先行きも定まらないフリーターが親父になって、生活していける道理がないではないか。こうなってしまった以上は恵の父親の勧めに従って、柳本水産に職を得るしかない。就職しても歌は続けていけるだろうか、とも考えたけれど、断ち切ろう。断腸の想いとはこれだったのだろうが、俺には親父になるという責任が生じたのだ。いつまでもモラトリアムはしていられない。
「本橋さん、話があります」
 常と同じに本橋さんのアパートに集合して、さて、練習しようか、と本橋さんが言い出す前に、俺は膝をそろえて正座して言った。乾さんの顔色がさっと変わった。
「ヒデ……本橋だけにか?」
「いいえ、乾さんもシゲも幸生も聞いて下さい。俺、結婚するんです。フォレストシンガーズは脱退させて下さい。俺は彼女を愛してる。愛してるからこそプロポーズしました。そしたら彼女が言うんですよ。結婚はしてもいいけど、プロのシンガーズになりたいだなんて、実現不可能な夢ばかり追っかけてる男にはついていけない。あなたが正式に就職してくれるなら、って条件つきでOKしてくれたんです。プロになれるなんて保証はないけど、彼女と俺の間にある愛情はたしかなものです。俺はたしかなものを選びます」
「歌を続けていく余地はないのか」
 本橋さんが問い、乾さんも言った。
「彼女の言い分はよくわかるよ。おまえの気持ちもわかる。だけど、歌をやめなくてもいいだろう」
「中途半端はいやなんですよ。結婚しちまったら、俺は歌に身が入らなくなる。彼女をないがしろにしたくないし、歌も半端にはしたくない。どちらかを選ぶしかないんです。そしたら俺は彼女を取る」
「その程度だったのか、おまえにとっての歌は」
「はい。本橋さん、そうです」
「説得の余地もないのか」
「ありません。俺が自分で決めたんだから」
「しかし……」
 乾さんは俺の目を見つめ、考え直せ、今はおまえの頭は結婚と彼女でいっぱいなのかもしれないが……と言葉をつくしてくれたが、俺はほとんど聞いてもいなかった。真剣に聞くと想いが揺らめく。
「乾さんは人を説得するってのも大得意ですよね。乗せられて俺もフォレストシンガーズに入ってしまったけど、後悔してますよ。夢ってのは所詮夢なんだ。かなわぬ夢って、この世にはどこにもここにもころがってて、それで人生誤って、なんて話もありふれてるじゃありませんか。俺は現実世界に帰ります。止めないで下さい」
「そうか、なら、しようがねえ」
「本橋、そう言うのは早計にすぎる」
「こうやって凝り固まっちまった奴には、おまえがどれだけその口を回転させても無駄だよ。おまえがさっきから夢中になってヒデの心を覆そうとしていたのは、シゲも幸生も俺も聞いてた。この乾隆也にして一世一代の長広舌だったよ。俺は感心して聞いてたんだけど、当のヒデはなんにも聞いちゃいなかった。そうだろ」
「はい。もはや乾さんにはたぶらかされませんよ」
「出ていけ。おまえがそんな奴だとは思ってもいなかった。おまえの面を見てると、この手が勝手に動き出しそうだ」
「殴ってもいいですよ」
「てめえなんか殴ったら、俺の手が痛いだけだよ」
「本橋、もうすこし……」
 うるさい、もうなにも言うな、と本橋さんは乾さんに言い、俺は立ち上がった。シゲは茫然自失のていで、幸生はただただ黙りこくっていた。
 二度とこの部屋を訪ねることもないだろう。二度と彼らに会うこともないだろう。ふたつにひとつのひとつを選んだのだから、もつれてからまった未練の糸は断ち切る。それができなくて、なんのためにフォレストシンガーズをやめたんだ。未練にとらわれるくらいだったら、俺の大切な大切なものを捨てようとはしない。
 部屋から出て、振り向かずに歩き出した。最後に思い出だらけの公園にも別れを告げようと足を向けると、ものかげから幸生が俺を呼んだ。
「血の出そうな声だったな」
「誰が? 乾さんか」
「誰でしょうね。シゲさんには相談したんですか」
「してないよ。あんな奴はクソの役にも立たないんだから」
「ヒデさんらしくもない。そういうのは偽悪的っていうんじゃありません?」
「聞いたふうな口を叩くな。おまえはプロになれると本気で信じてるのか」
「信じてますよ。でないとやっていけないもん」
 あやかしい、と呟いたら、土佐弁ですか、どういう意味? と幸生が問い返す。その声音はなにごともなかったかのようにのほほんとしていて、俺は言い直した。
「俺の分まで……なんて言う資格は、俺にはないんだよな。あやかしいってのは馬鹿馬鹿しいって意味だ。俺もそうと信じないと……やめよう。幸生、元気でな」
「はい、ヒデさんも」
 そうして俺の青春は終わったのだ。
 できちゃったってのは早とちりだったみたい、と後日、恵がけろりと言った。だからって結婚までやめるわけにはいかない。あれよあれよって間に恵の両親が話を取りまとめ、茨城で式を挙げた。フォレストシンガーズの仲間たちを呼べるはずもなく、俺の側は家族のみが出席し、恵の両親の意向のままに式は終わった。
 東京営業所勤務と聞いていた当初の約束は反故にされ、恵ともども茨城の本社で働いた。婿養子じゃないんだからね、とは言われたけれど、俺の気分はまさしくそうだった。恵の親父の片腕みたいにされて、これで将来安定だね、と誰も彼もに言われ、俺の親にしてみたところで、プロのシンガーになるだなんて馬鹿な倅よりも、このほうがよほどいいと考えたのだろう。さしてくちばしははさんでこなかった。
 そうこうしているうちに俺は本当に親父になり、俺の周囲をひたすらに時が通りすぎていった。めまぐるしく時が移り変わったある夜、寝静まったマンションに帰ってテレビをつけると、衝撃的な映像が目に飛び込んできたのだった。
「こんばんは、はじめまして、と挨拶したほうがよろしいでしょうか。フォレストシンガーズです」
 こんばんはーっ、と他の四人が本橋さんの挨拶に唱和する。フォレストシンガーズがデビューしたのだ。知らなかった。注意深く見ていたら、気がついていてもおかしくはなかった。俺は見たくなかったのか。知りたくなかったのか。テレビを消したい衝動に駆られたが、思いとどまって見続けていた。
 深夜に近い時間帯のトーク中心の番組。出演はフォレストシンガーズのみ、司会者はいない。しかも生放送だ。「今週の注目アーティスト」と銘打った番組だ。なぜだか本橋さんがそこでうぐっと絶句してしまい、乾さんがにこやかに引き取った。
「紹介させていただきます。リーダー、本橋真次郎。続きまして右から、本庄繁之、木村章、三沢幸生。そして私、乾隆也です。視聴者のみなさま、僕たちの顔と名前を覚えて下さいね」
「このたび、ファーストアルバムを発売しました」
 続けて言ったのは幸生だった。
「タイトルは「フォレストシンガーズ・恋から愛に」。カープの鯉ではありません。わざとの故意でもありません。顔が濃いでもないし、こっちに来いでもない」
「幸生くん、説明しなくていいからね。シャレはいりませんよ。ラヴの恋と言えば……って、言わなくてもわかります」
「そうですかー、乾さん。僕らのファーストアルバムを買って下さった方も、番組をごらんになってる方の中にはいらっしゃいますよね。そのアルバム、大切にして下さいね」
「いつかプレミアがつくかもしれませんよ」
「そうだ、乾さん、いいこと言う!!」
 そんな具合に乾さんと幸生がイニシアティブを取って、会話がスムーズに流れはじめた。本橋さん、上がってる。乾さんと幸生はあいかわらずだな。俺のかわりには木村章が入ったのか。シゲ、シゲ、どうしてなにも話さない? 見たくない、と一瞬思ったのは忘れて、俺はテレビを凝視していた。なつかしすぎるあの高い声で、幸生が言った。
「デビューしてから一年以上になる僕たちなんですけど、なんと、テレビ出演ははじめて。遅ーい、きゃっはは、なんて笑ってる場合じゃありませんね。CDジャケットの写真はちっちゃいから、ファンのみなさまは僕らの顔をじっくり見たことなかったりするんじゃありません? こんな顔です」
「やめなさい、幸生くん、カメラマンの方が引いてらっしゃいますよ」
「乾さんったら、んなこと言わないでぇ。みんなでドアップにしてもらいましょうよ。章、特に章、この顔だとカメラも引かないでしょう。リーダーは控えめにね」
「なんでそうなるんですか。僕の顔も写してもらわなくちゃ。シゲも写してもらえよ」
「はい、シゲです。よろしくです」
 シゲ……シゲ……泣いてしまいそうだ。俺が鼻をすすっていると、木村が発言した。
「僕は実は、一度だけテレビ出演したことがあります」
「え? 章、ほんと?」
「僕はかつてはロックバンドにいまして、アマチュアだったんですけど、その当時にインディズの番組に出ました。あのころの僕は二十歳前の紅顔の美少年でした」
「どの口が言ってんの? 厚顔無恥の少年のなれのはてが……」
「幸生、あとで覚えてろ」
「こらこら、幸生くんも章くんもつつしみなさい」
 はーい、と幸生と木村は、乾さんの言葉に応じてカメラに向かって頭を下げ、本橋さんは言った。
「僕らは同じ大学の合唱部出身で、学生時代からだと乾くんとは七年近くもいっしょにやってるんですよ。最後に入った章とでもブランクを除くと三年になるかな。章は一時はロックバンドのメンバーだったんですけど、歌の心は同じです。みんな顔はこんなだし……わかった、章、おまえはちがうと言いたいんだろうけど、言わなくても見ればわかる」
「なにも言ってませんよ、俺は」
 テレビ局のスタジオは若い男のいささか乱雑な部屋ふうにしつらえられていて、思い思いにくつろぐ格好で話していた。昔と変わらずシゲがもっとも口数が少なかったのだが、幸生に内緒話をしかけられて発言した。
「みんな顔はこんなもんですが、歌は顔を裏切っていると自負してます」
「顔を裏切ってる? いいほうにね。うんうん。シゲさんの声は顔を裏切ってないけどね」
「幸生くんはなにが言いたいんでしょうか?」
「やだなぁ。さっきっから先輩たちったら、幸生くんだなんて呼んで。ここらへんがむずむずしてきちゃう。普段はこんなんじゃないんですよ、みなさま。幸生、てめえ、この野郎、うるさい、黙れ。そこで僕はリーダーにぶっ飛ばされて、はるか彼方まで飛んでいくー。なんでみんな反応なしなの?」
 はいはい、いいからね、と応じて、乾さんが立ち上がった。木村も立っていき、そろってギターを抱えて戻ってくる。今夜の歌は乾さんと木村のギター伴奏でという趣向なのだろう。乾さんがぽろんとギターを鳴らして言った。
「後半は嘘ですからね、幸生くんのでたらめですから信じないで下さいね。章くん、OK?」
「はい。では、リーダー、曲紹介をお願いします」
「ファーストアルバムから一曲、「メイプル・マイラヴ」です。作詞は木村章、作曲木村章&本橋真次郎。聴いて下さい」
 五部合唱の歌がはじまった。

「春だというのに枯葉がちらちら
 ちらちら、ちらちら
 心の中にも想いがはらはら
 はらはら、はらはら
 涙じゃないよ、泣いてはいない
 
 泣いてなんかいられない
 歩き出さなくちゃ
 ゆらゆら、ゆらゆら
 きらきら、きらきら
 さらさら、さらさら
 僕の想いは、去っていったきみに届くだろうか」

 最高音の木村から最低音のシゲまで、五人のコーラスがスタジオに流れていった。幼さのある歌詞だが、ちらちら、ゆらゆら、と歌う幸生の声と、好きだよ、好きだよ、と囁くシゲの声、だけど今さら……と乾さんの声も重なり、本橋さんと木村がスキャットで声をかぶせていくと、彼らの背後で拍手が起きた。
「ごらんになっていただきまして、ありがとうございました」
 涙があふれてきて、昔日の追憶が胸にあふれてきて、画面を正視できなくなっていた俺は、本橋さんの折り目正しい挨拶に我に返った。テレビの中では乾さんが、昔よりもかっこよくなった姿で微笑んで言っていた。
「これを機会に我々を覚えて下さいね。フォレストシンガーズ、略称FSです。では、いつの日か再びめぐり会える日を楽しみに、おやすみなさい。はい、シゲくんもご挨拶しなさい」
「ありがとうございました。おやすみなさい」
「でーは、おやすみなさーい」
 木村も頭を下げ、幸生は子供じみた仕草で手を振った。
「ばいばーい」
 おやすみなさーい、と五人が声を合わせる。最後の挨拶は見事にハモっていて、涙が止まらなくなった。
「……あやかしい、あやかしいにも程がある。アホか、おまえは」
 耐えて久しく使わなくなっていた土佐弁が口からこぼれた。馬鹿馬鹿しくても思ってしまう。あそこにいたのは俺だったはずだ、もうすこし我慢していたら、恵の奸計に乗せられたりしなかったら、俺がフォレストシンガーズの一員として、むこう側にいたはずだなんて、言ってなんになる。けれど、どうしても考えたくなる。
 根性が足りなくて弱すぎた俺が悪いのに、恵のせいにして。裏切ったのは俺なのに、俺が切り捨てられたような錯覚を起こして。木村は俺のかわりに参加してくれたのに、俺のかわりに努力してくれたのに、なぜおまえがそこにいる、と逆恨みして。あれから三年がたっている。考えてみれば俺はまだ二十五歳だ。なのにもはや人生に疲れた風情を漂わせているのではないか。鏡を覗いて自問自答してみた。
「おまえ、すっかりおっさんじゃきに。それに引き換え、本橋さんも乾さんもかっこよくなってたよな。ふたりとももとからあんなにもててたんだし、女の子から見たらそこそこかっこいいって言われてたけど、今じゃほんとにかっこいいじゃん。シゲはあいかわらずもさっとしてて、幸生は昔以上に口が回ってたっぺ。木村って奴はちびだけど、綺麗な顔してやがんの。歌もうまいんだ。作詞も作曲もできるんやな。俺なんかより木村のほうが人気が出るべ。馬鹿やないがか。泣くな。ドアホ」
 日本全国から集まってきた学生たちがいた大学時代には、各地の方言を耳にしていた。聞きかじって覚えた方言をごちゃ混ぜにしてひとりごとを言って、未練は断ち切ったつもりだった。
 断ち切ったつもりが切れてはいなかったのだろう。翌日にはCDショップに寄って、フォレストシンガーズのファーストアルバムを買った。エロ本でも隠すかのように、妻の目に触れない場所に死蔵して、妻の耳のない時刻にひとりで聴いた。果てしなく暗い、楽しみともいえない時間になった。


 機械的に無感動に、時だけが流れ去っていった。俺の唯一の暗い楽しみは、フォレストシンガーズと触れ合うひととき。彼らはなかなか売れないようだが、なに、プロにはなれたんだ。それだけでも……と俺は……そう、まぎれもなく妬んでいた。
「パパ、探してるのってこれ?」
 その夜も深夜近くに帰宅して、ウィスキーグラス片手に暗鬱なひととき、それでいて複雑な感情も起きる刻に耽ろうとしていたら、寝ていたはずの恵が、CDを手に立っていた。
「捨てたんじゃなかったの? いつの話? パパがフォレストシンガーズにいたのって」
「さあね。忘れた」
「忘れてないじゃないの。パパは今のパパに不満があるの?」
「ないよ。俺は幸せだ。いい女房と可愛い娘に恵まれて、仕事も順調だし、我が世の春を謳歌してるよ。売れないシンガーズにしがみついてなくてよかったってな。俺は奴らを哀れんでだな、せめてCD売り上げに貢献してやろうと思ったんじゃないか」
「知ってるんだから」
 CDを手にしたまま、恵は言った。
「夜中に帰ってきては、パパはヘッドフォンで音楽を聴いてる。私と結婚して以来、パパは音楽は一切聴かなくなったよね。それだけでも思ってた。未練があるからこそ、音楽とはなんの関わりもない生活を送ろうとしてるんだろうって。気の毒な気もしたけど、パパは一家の主としての責任に目覚めてるんだから、いいことだとも思ってたよ。パパは私と瑞穂のために生きてるんだものね。私もパパと瑞穂のために生きてるんだから」
「うん。いい夫婦だよな」
「……だけど、このごろ気配に眼が覚めるようになったの。覗いてみたらパパがヘッドフォンで音楽を聴いて、涙ぐんだりしてるんだ。ぎょっとしちゃった」
「泣いてないよ」
「嘘。泣いてたよ。浮気でもしてるのかと思っちゃった」
「浮気ってなぁ、おまえも変わらないね」
「そのほうがましだったかも。フォレストシンガーズ……なによ、こんなの!!」
「……いいよ。好きにしろ」
 ファーストアルバムとセカンドアルバムが、恵の手でゴミ箱に叩き込まれた。拾い上げる気にもならず、俺はウィスキーに逃避した。
「つめたい目つきだね。私を嫌いになった?」
「大好きだよ。愛してるよ。恵ちゃん」
「ヒデ、変わったね」
「おまえは変わりもなく美人だよ」
 娘が生まれてからはパパとしか呼ばなくなった恵が、ヒデと呼んで俺を見つめた。
「後悔してるんだ」
「なにをだよ。後悔してようとしていまいと、あとの祭りってやつだろ。後悔先に立たずとも言うよな。俺が選んだ俺の道だ。後悔してたらなんだって言うんだよ。うだうだ言ってないで寝ろ」
「後悔してるんだね」
「しつこいな。ああ、してるさ。してちゃ悪いか!」
 土佐弁なんてものとも、若かったころの血の気の多い土佐っぽの俺とも、とうに訣別していたはずだった。なのに久し振りに頭に血が上って、俺は怒鳴っていた。
「おまえのせいだなんて言わないよ。夢を捨てたのは俺自身なんだから、誰のせいでもないんだ。俺がフォレストシンガーズにとどまってたら、むしろあいつらはデビューもできないまんまだったかもしれない。俺なんかはいなくなってよかったんだ。CDも捨てる。こいつも捨てる!」
 ラジカセを持ち上げて床に叩きつけたら、恵は怯えた表情になった。
「私、うちに帰る」
「おまえのうちはここだろ!!」
「そんな乱暴するひとのそばで、瑞穂は育てられない」
「別れるってのか。ああ、望むところだ。このマンションだって、おまえの親父が金を出して買ってくれたようなもんだろ。出ていくのは俺だな」
「そうは言ってないよ」
「言ってないのか。だったら帰るな」
「……明日ね。頭を冷やそう」
 瑞穂の泣き声が聞こえて、恵は身をひるがえして寝室に戻っていった。その一夜が、俺がたったひとりで放浪の旅に出る発端となったのだった。
 

後編に続く 
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~ Comment ~

NoTitle

音楽やってるひと就職って切実な問題ですよね。
やっぱりバイトになっちゃうし、バイトも融通きくとこじゃないと大変だったり。
かといって働かないわけにもいかないし。

私がしってるひとはみんなバイトでした。
結婚して家族のためにほとんと歌わなくなった人もいます。
音楽で食べていくって難しい。

「あそこにいたのは俺だったはずだ~…」のところは切なすぎます。
やっぱり考えてしまいますよね。
結婚しなきゃあの場にいたれたかもとか、あのときこうしてたら、とか。

この61話はとにかく切なくなってしまいます(><

ハルさんへ

切ないと言っていただけて嬉しいです。
この時期のヒデは書いてて一緒にどよよんとしそうなほどに暗いのですよね。ヒデ~つらかったよね、って。

私の知っている音楽関係者さんは数少ないですが、たしかに別のバイトをしてらっしゃいますね。
よほどでなかったら、演劇にしても音楽にしてもそれ一本では食べていけませんよね。
芸能人といえば華やかですが、そうとも名乗れない程度の売れない音楽家や演劇人、いっぱいいるんですよねぇ。

タラ、レバはよくないと言いますが、人間、考えてしまうものですよね。
ハルさんからご感想をいただいて、私もつくづく、そうだなぁと思いました。
ありがとうございました。
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