番外編

番外編106 「Residence hydrangea」

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番外編

「Residence hydrangea」

1 ・真次郎

 門をくぐって庭に足を踏み入れると、そこここに紫陽花の花が咲き乱れていた。窓から顔を出した乾が花を指さした。
「シンちゃん、その花の名前は知ってるか?」
「紫陽花だろ」
「全部?」
「他の花もあるみたいだけど、他のは知らない。男は花の名前なんか知らなくていいんだ」
「薔薇さえ知ってたら歌詞は書けるもんな」
 あいかわらずイヤミな奴だ。鍵のかかっていないドアを開けると、大音響のロックが耳をつんざいた。
「ロックの勉強してんのか。ダイモスの曲だな」
 ぬーっとあらわれた大きな男を見て、俺は驚いた。
「中畑裕也、なんだっておまえがここにいる?」
「乾さんに誘われたんだよ。俺も休みが取れたから遊びにきた」
「せっかくの休みを乾とすごしてんのか。酔狂な奴だな」
「本橋さん、ジェラシー?」
 馬鹿らしいので返事をしないでいると、乾も玄関にあらわれて、ふたりともこっちに来いよ、と手招きした。入っていった部屋には本格的なオーディオセットが設置されていて、ダイモスの曲はそこから流れてきていた。
「本橋さんこそ、せっかく長い休暇が取れたんだろ? 奥方サービスしないのか? 乾さんのほうがいいの? 仲のよろしいことで。この屋敷ってあんたらの先輩の持ちものなんだってな。すげえゴージャスだな。俺はこんな別荘には縁がなかったから、一度は滞在してみたかったんだよ。いいねぇ、こういう人里離れた場所で浮世離れした生活するのもさ。俺としてはあんたらとちがって、男ばっかってのはつまんないんだけど」
「おまえもよく喋るな」
「そう? でかい男が三人もいても、これだけ大きな屋敷だったら狭くもないよな。乾さんは縦には長くても横は細いけど、あんたは肉体労働者っぽい身体つきしてるね」
「おまえに言われたくない」
 どっちが肉体労働者だ。中畑は乾よりも俺よりも背丈はあるし、筋肉のつき具合もなかなかのものと見た。無駄な肉や筋肉はなく、格闘技でもやっていそうな身体をしている。
「狭くはないけどむさくるしいなぁ。ミエちゃんも連れてくればいいのに」
「俺の女房をなれなれしく呼ぶな」
「ミエちゃんが言ったんじゃないか。よろしかったらミエちゃんって呼んで、ってたしかに聞いたぞ。なんで連れてこない? 俺、彼女ってタイプだ。きりっとした気の強そうな美人、あんたは尻に敷かれてるんだろ?」
「俺たちは休暇だけど、あいつは休みじゃない」
「そうなのか。残念だね。俺も残念だよ」
 なにをたくらんで乾が中畑と俺をここに招待したのかは知らないが、数日間は中畑と同じ家ですごすことになるらしい。部屋はいくつもあるので顔を合わさないようにするのも可能だろうけど、避けるってのも大人気ない。なるようになれ、とやけっぱちまじりでいると、乾と中畑が話しはじめた。ハードロックをB.G.Mにしてかわす会話としてはまるでふさわしくないのだが、屋敷の浮世離れした雰囲気には合っている。
「あの花ってなにいろなんだ?」
「紫陽花の色か。白もあるな。淡い桜貝のいろ、やわらかな勿忘草の紫、瑠璃いろ、高貴なロイヤルヴァイオレット、つめたく冴えた青紫、牡丹のような赤紫、白から赤へ、青へ、赤と青が溶けた紫へと、千差万別に変化する。紫陽花の花言葉は「移り気」だ。紫陽花の色は土壌が酸性かアルカリ性かによって変わるんだそうだよ。まるでその土地に根づいて心を変化させていくひとのように……」
「乾さん、あんた、ほんとに男か」
「……やっぱりおまえと本橋は同類だな」
 こんな野郎と俺が同類だとは心外だが、中畑の台詞には同感だった。
「乾さんって理系、文系?」
「文系音楽科」
「音楽大学出身じゃないよな」
「大学では日本の古典文学専攻だったんだけど、生まれつき身体には音楽が詰まってるんだ」
「ふーん。俺には信じがたい人種だな」
 そこのところも賛成だ、と言ったら、だから中畑と本橋は同類なんだ、と乾に決めつけられるかもしれない。黙って聞いていよう。
「おまえも音楽系だろ?」
「音楽は音楽でも、俺と乾さんは全然ちがうんだよ。声もまるっきりちがうしな」
「その声のちがいがいいんだよ。本橋、ピアノを弾いてくれないか」
 ピアノがあるのか? と尋ねるまでもなく、乾は言った。
「この屋敷の持ち主は一柳さんだぜ。厳密にいえば一柳さんのおじいさまの持ち物なんだけど、今は一柳さんの代になってる。一柳さんは超一流のミュージシャンだ。この家には音楽に必要なものはたいていそろっていて、いわばミニスタジオのおもむきもあるんだよ。楽器もいろいろと取り揃えてある。ピアノのある部屋に行こうか。裕也もギターぐらい弾けるんだろ」
「弾けなくはないけど、テツの前で俺にギターを弾けってのか」
「テツはいないんだからいいじゃないか」
「乾さんもギターはプロ級だと聞いてるぞ。本橋さんもピアノでメシの食える腕なんだろ。俺は昔、パーカッションをやってたんだ。そんなものはないよな、ここには」
「あるよ」
 えっ、と中畑はたじろいだ。
「いやならさわらなくてもいいよ。俺が今回つくった曲は、ピアノの伴奏でしっとり歌うのが似合う。本橋、頼む」
 手渡された楽譜は、「Residence hydrangea」。レジデンスはわかるが、あとの単語はなんだ?
「あじさい館ってとこかな。弾けるだろ」
「まあな」
 この屋敷に俺を招いた理由のひとつは、俺にピアノを弾かせようというくわだてだったのかもしれない。

「この街で暮らして、この街で恋をした
 この街のひとを愛して、この街のひとになった
 あなたの愛が私を変える
 私の愛があなたを変える
 ちょうどこの紫陽花の花のように

 清廉無垢な純白
 淡く揺れる桜貝
 勿忘草の薄紫
 ひとつひとつの花びらに
 水のいろを映す青
 空のいろに溶ける青

 赤紫は牡丹花
 つめたく拒む青紫
 妖精の羽は瑠璃のいろ
 赤から紫、紫から青へと
 移り気な花の心のように
 私の想いもうつろう」
 
 なるほど、さきほどの台詞は乾のこの詞を反映していたのであるらしい。俺にこんな歌を歌えってのかー、と中畑は抵抗していたが、俺がピアノを弾きはじめると、低く太い声と透明な美声のハーモニーがはじまった。俺も低くコーラスをつけた。中畑と俺の声には似た部分があるのだが、中畑は俺以上にダイナミックな声をしている。
 繊細な曲調に抒情的歌詞がぴたりとはまって、乾の声にはまたとなく似合う歌になっていた。乾にしてもその気になれば歌声はパワフルにもダイナミックにもソウルフルにもなるのだが、囁くように静かに歌えばそれはそれで、これじゃあ女が放っておかないよな、としみじみ感じてしまう。
 ああ、そういえばこれ、乾が大学生のときに書いた歌だな。ピアノを弾きながら歌っていると、しっかり思い出されてきた。
「俺にはこんな歌は合わない。本橋さんと乾さんで歌え。俺は聴いてるよ」
「嫌いか、このタイプの歌は」
「嫌いじゃねえよ」
 ロッカーはこのたぐいの歌は鼻であしらうのかと思っていたのだが、そうでもないらしい。中畑は目を閉じて腕を組み、乾と俺のデュエットに聴き入っていた。
「たいしたもんだとか、歌がうまいねだとか、本橋さんのピアノはすげえなだとか、そんな台詞が色あせるよな。眼福って言葉はあるけど、耳福ってのはあるのか、乾さん? みみふくか、じふくか」
「福耳だったらあるけどね」
「福耳はちがうよな。なあ、乾さん、そんだけ色の名前を知ってるんだったら、あんたらの声を色にたとえてみられるだろ」
「ああ、できるよ」
 それには俺も興味がある。乾も目を閉じ、並べはじめた。
「本橋の声は濃いブルーだな。エーゲ海かカリブ海か。その深い部分だ。シゲはダークヴァイオレット。章はサンセットオレンジ、ゴールドを含んだ太陽のいろ。幸生はピンクだろ。ただし単色ではなく、どの声にもグラデーションがつく。基本はそうだってだけで、その色から近いところへと変化していくんだ。幸生なんかはかなり遠いところへまで変化するよな。ピンクがいきなり浅葱色になったりして」
「おまえの声は?」
「ピーコックグリーンかな」
 青に紫にオレンジにピンクに緑か、乾は前にもこんなことを言っていたが、まったく、こいつの頭はどんな構造になっているのだろう。俺と同じ形の脳みそをしているとは信じられない。
「じゃ俺は? 言わなくていい。焦げ茶だろ」
「ラムレーズンいろだよ。焦げ茶の混ざった葡萄いろ」
「……ものは言いようってやつだな」
 隆也と裕也……兄弟然とした名前ではある。似ても似つかぬ兄弟ではあるが、このふたりは馬が合っているらしい。性格がずいぶんちがうせいか、それを言うなら乾と俺もか。
 白のシャツにオリーヴいろのコットンパンツの乾は、軽く色を抜いた長めの髪を束ねている。三人の中ではもっとも背は低いが、すらりと細身で、中畑や俺といると異彩を放っている。一方の中畑は、派手派手金髪ロングヘア、色とりどりのTシャツにブルーの半パンと、服装が幸生のお喋り並にけたたましい。腕も脚も筋骨隆々で、さぞかし体重もあるだろう。俺はこのふたりのちょうど中間ってところだ。
「本橋は普段着となるとしゃれっ気がなくなるね。ダンガリーのシャツなんか今どき着るか? な、裕也、これでもこいつはステージじゃダンディなんだけどな」
「仕事のときは無理してるから、普段着なんかは面倒なんだろ」
 当たっている。
「いい体格してるし、大人の雰囲気持ってるし、かっこつけたらそれなりにかっこいいから、スーツもよく似合うんだよな。肩幅も広いし胸も厚いし血も熱いし、うらやましいよ」
「俺は暑苦しいとでも言いたいんだろ」
「なに言ってんだよ。褒めてほしいのか」
「あんたに褒めてもらっても嬉しくない」
 女への美辞麗句が得意な乾なのは知っているが、男への褒め言葉まで達者なのか。俺もそんなものは聞きたくないので、言ってみた。
「メシの支度は誰がするんだ」
「俺俺。俺、料理は得意なんだよ」
 意外にも意外にも、である。中畑は台所に引っ込み、手早くカレーライスをこしらえた。なんだ、カレーか、と思ったのだが、自宅で仕込みはすませてきたのだそうで、本格的なチキンカレーだった。
「ほぉ、うまいな」
「だろ? 音楽でプロになれなかったら、インド料理店のシェフになるつもりだったんだ。乾さん、言わなくていいよ」
「なにを?」
 尋ねたのは俺で、乾はそ知らぬ顔をしている。中畑は辟易のていで答えた。
「いずれにせよ、その道をきわめるのは並大抵ではない、とかなんとかだよ」
 こいつも乾の説教癖には悩まされているらしい。シゲも章も幸生もだよなぁ。俺はまだしも、うるせえんだ、おまえは、で乾を退けられるからいいようなものの、後輩たちは苦労してきたはずだ。中畑、おまえもか、と考えると、ここに来てから薄らぎつつあった嫌悪感が、なお薄らいでいくのを感じた。
 

2・裕也

 もうひとつ、乾さんに言ってほしくないことがあった。
 うちの父親なんぞは酒好きで、男は酒!! 甘いものは食わんものだ、と言っていたので影響を受けたのか。その上、乾さんも本橋さんも実際に甘いものは嫌いだそうなので、俺はケーキも好きだよ、パティシェの勉強もして、スイーツだって作れるんだよ、とは言いたくなく、そうと知っている乾さんにも言ってほしくなかった。
 甘いものは食わないなんて言う奴らなのだから、ケーキを焼いてやっても無駄だ。俺はカレーのあとはデザートがほしいなぁ、などと思いながらも我慢して、昼飯をすませた。
 皿洗いは乾さんがやると言うのでまかせて、俺は庭に出ていった。
 メタルやハードロックが好きな俺だが、乾さんの作った紫陽花の歌は最高だった。この曲は乾さんが二十歳くらいのときに書いたのだそうで、作詞や作曲はできない俺には驚異的な才能に思える。もっとも、俺たち「ダイモス」には誰ひとりとしてソングライターはいなくて、そのおかげで乾さんと親しくなったのだからいいのかもしれないが。
「紫の陽の花か。花の漢字って誰が決めたんだろ。花言葉ってのもあるんだよな」
 ひとりごとを言って、紫陽花の花びらに触れてみる。そうしているとガキ心が起きて、花びらをひきちぎったらうしろから頭をごちーんとやられた。
「いてぇなっ!! やんのかよっ!!」
「これだけ花が見事に咲いてるところで、俺たちが暴れたらひどいことになるだろ。おとなしくしてろ」
「くそ」
 頭をごちーんとやったのは、もちろん本橋真次郎だ。
 この山荘は大ベテランドラマーの一柳さんの持ち物だそうで、俺だってそこまでのベテランとなるとちょっとは尊敬している。一柳さんは気さくなおっさんだから特に遠慮はしていないが、庭を破壊して弁償しろと言われると困るので、本橋さんの言うことを聞いておいた。
「紫陽花っていい匂いはしないのな」
「そうだっけ?」
 手についた青紫のしみを振り払いつつ、紫陽花の匂いを嗅ごうとしている本橋さんの膝のあたりを蹴ってやろうとしたらかわされた。
「予測はしてたよ」
「くそぉ」
「なんだっておまえはそう暴れたいんだよ」
「本橋さんだって好きだろ」
「好きじゃねぇっての」
 三十代ともなると、もとは暴れん坊だった男も大人の顔をしたくなるものなのか。やだやだ、おっさんにはなりたくないね。美江子さんは好きだけど、俺は結婚もしたくない。だけど、男ばっかってつまんないな。美人が接待してくれたらいいのにな。
「そこらへんの花のお姉さんたち、人間に変身しろよ」
「なにを下らないことを言ってんだよ。紫陽花ってのは浮気者なんだぞ」
「浮気なキャンディガールだろ。いいじゃん」
「紫陽花模様の浴衣をまとった美女はいいかもな」
「あんたのほうが浮気者だろ。美江子さんに言いつけてやろっと」
「妄想なんだからいいだろうが。幸生みたいに言うな」
 紫や青の花は大人の美女で、白やピンクだと美少女だ。この庭には青っぽい紫陽花が多いので、年増美女の集団。それも悪くないかもしれない。
「乾さん、なにやってんの?」
 台所の窓から、乾さんが顔を覗かせた。
「うん、一柳さんにお礼の品を作ってるんだ」
 持ち上げてみせたのは、籠に入った青い実だった。
「梅酒?」
「そうだよ」
「飲みたいな」
「一年待て」
 あいつ、俺たちが喧嘩をしないかと心配してるんだ、と本橋さんが笑う。梅の実はどこかで買ってきたのか、これから仕込みをするのだろう。マメだってのは知ってたけど、さすがばあちゃんっ子の乾隆也、であった。


3・真次郎

 しなやかな背中から薄い着物をすべらせると、青と紫の淡い紫陽花の花が浮かび上がる。ああ、おまえは紫陽花の精か。人ならぬものなのだから浮気には当たらないな、それでも美江子は怒るか? 
 妻の面影は振り払って美女の裸身を抱く。人ならぬものなのだから刺青だとも言わないのか、白い背中に淡いいろの花はとてつもなくエロティックで、強く抱きしめて背中から尻へと愛撫していった。人ならぬものだとしても女だ。あえかな喘ぎをもらして崩れそうになった彼女を抱き上げて褥へと運んでいった。
「背中が綺麗だ。よく見せてくれ」
 うつぶせに寝かせた彼女のうしろ姿は、眩暈がしそうに美しい。透明な布地に紫陽花を染め出した着物をかけたような背中、絶妙なカーブを描くふたつの丘、すらりと伸びた脚。
 背中に覆いかぶさって、手を前に回す。彼女は言葉を発せず、俺の荒い吐息と彼女のあえかなため息が溶け合う。俺は彼女を奏でるミュージシャン。こんなときの美女の声は官能的な音楽のようで、肩先から鎖骨へとなぞるくちびるが、彼女を歌わせる。
「本橋さん、なにを悶えてるんだ?」
「艶夢でも見てるんじゃないのか」
「エンムってなんだよ?」
「なまめかしくつやめいた夢」
「うわ、ドスケベ」
 そんな俺たちを邪魔するのは、ふたりの男の声だ。俺を引き戻すな、現実に連れ帰らないでくれ。
 贅を尽くしたかのごときひとときに酔いしれていたいのに、裕也はドスケベだの、女房に言いつけるだのと言っている。乾のほうは、見てて不気味だな、などとほざいていた。
「こんなの見てるよりは、ケーキを焼こうかな」
「大丈夫か? 酔ってるんだろ」
「酔ってたって平気だよ。慣れてるもんな。乾さんも食う? って、訊くだけ無駄か。甘いものは嫌いだって男は親父みたいで可愛くねえんだよな」
「俺はもう腹がいっぱいだよ」
 半分だけ現実に戻った頭が思い出す。たいしてすることもない山の中なので、早くから夕食の支度にとりかかった。俺は料理は苦手だから、夕食を作ったのは乾だ。あらかじめ食料品も買い込んであったようで、ばあちゃんに教えられたという和食をしこたま作ってくれた。
 和食には日本酒ってことで、地酒も買ってあってしたたか酔った。俺は料理も片付けもせず、食って飲んでここで寝てしまったのだろう。
 俺の手は美女を愛撫していたはずなのに、感触が遠ざかっていく。床に寝っ転がっている感覚が戻ってきて、くしゃみが出た拍子に目が覚めた。
「起こすなよ。いいところだったのに」
「どんな夢を見てた?」
「裕也の妄想が形になった感じだったな」
「紫陽花の美女か? 俺にも分けてくれよ」
 どうやって夢を分けろと言うのだ。馬鹿か、おまえは、と呟くと乾が言った。
「裕也、本橋に抱きついて寝たらいいんだよ。頭と頭をくっつけたら紫陽花の美女がおまえのほうへも来てくれるかもしれないぞ」
「ほんとか? けどなぁ、それが絶対に本当だとしても、本橋さんに抱きつきたくないよ。うーん、どうしよ」
「マジで悩むな」
「幸生だったらやるだろうな」
「乾、変なことを思い出させるな」
 目が覚めてしまったものはしようがないので、夜風にあたろうと窓を開けた。
「おっ、本当に紫陽花の精がいるっ!!」
「えーっ?! ほんとかよっ!!」
 窓に裕也が駆け寄ってきた。
「いや、外灯の光が当たってできた影だった」
「くそ、走って損したよ」
 できるものならば俺も本物を見たいよ。だけど、本物があらわれたりしたら脱がせたくなって、シャレにならないかもしれない。こんな荒くれ男がいるところに、人ならぬものとはいえ、美女が出てきたら大変だ。紫陽花の精が裕也に襲われそうになったら……と俺も妄想する。
 人間じゃないんだからいいじゃないか、って、俺も……いやいや……乾だったら相手が妖怪でも、美女だったら守りたがるんだろうか。乾が裕也や俺を阻止しようとするんだろうか。
「おまえ、単純だよな、俺以上かもな」
「本橋にそう言われるようでは、相当なものだよ、裕也」
「うるせぇんだよっ」
 夜空に浮かんだ月が紫陽花を照らし出す。夜に咲く紫陽花は花のままでも妖しくもなまめかしくも美しかった。


4・裕也

 庭の真ん中の石畳の上にごろんと大の字になる。俺はどこででも寝られるのだから、いささか肌寒いここでだって寝られるだろう。
「本橋さんの夢の追体験したいな」
 紫陽花の刺青を背中にほどこした美女、白い背中とそこから続く尻がことのほか色っぽかった、と本橋さんが話してくれた。聞いているだけでぞくぞくして、おまえは若いなぁ、と乾さんにからかわれた。
 目を閉じるとうしろ姿の女が見える。あの肩を抱き寄せて、あの尻をこの手で包みたい。昼間だっていいじゃないか。来いよ、俺のところに来い。眠りの中に漂っていきそうでいて、正気も残っている俺は手を伸ばす。脚が動かないから、あの女をつかまえにいけない。
「……中途半端だな」
 昼間なだけに、梅雨の合間の晴天の太陽が、つぶったまぶたごしに感じられる。晴天はいいから性典ってやつの体験がしたい……じれじれしている俺の瞼の裏側から、美女の背中が遠ざかっていく。待てよ、と叫びたくても声も出せなくて、苛々してきた。
「こんなところで寝ると毒だよ、裕也、昼寝するんだったら部屋で寝ろ」
「乾さん? 俺はここで寝たいんだ。紫陽花の花に囲まれて寝たら、俺の夢の中にも美女が来てくれるだろ」
「この別荘だったらどこにいても、紫陽花の精が来てくれるよ」
「ここでいいんだ、ほっといてくれ」
 邪魔すんなよと言っているってのに、乾さんはしつこい。頭に来てその手を思い切り振り払うと、がつんと脛を蹴られた。
「力のないキックだな。さすがに乾さんは弱いからてんで痛くねえよ」
「これでもか、起きろ」
「痛くもなんともないけど、寝たいんだからほっといてくれよ」
 がんがん蹴られて寝ていられなくなって、俺は飛び起きた。なんとなく身体がふわふわして感じられる。いくら非力な乾さんでも蹴られたら痛いだろうに、すべての感覚が夢の中みたいだった。
「やるのか?」
「そんなにやりたいんだったらやってやるよ」
「乾さんが喧嘩に乗ってくるなんて、珍しくも嬉しいね。どこからでもかかってきていいよ。ってのか、できたら本橋さんのほうがいいんだけどな」
「俺も一度はおまえとやってみたかったんだよ」
「へぇぇ。そうなんだ、泣くなよ」
 楽しくなってきて、俺のほうから躍りかかった。身長は俺よりも十センチほど低く、体重は二十キロ以上少ないであろう乾さんをねじ伏せるのは、まさしく、赤子の手をひねるって具合だ。腕をねじり上げて脚に脚をからめて地面に身体を引き倒し、フォールした。
「参った?」
「おまえ、そういう趣味があるのか?」
「そういう趣味って……美女に変身してくれる? もしかして乾さんじゃなくて、紫陽花の精の男なのかな? 女に変われよ」
「乾隆也はおまえと喧嘩なんかしないってか」
「しないだろ」
 しかし、顔は乾さんだ。変われ変われ、変身しろ、と念じていても顔は乾さんのままで、どこからかなにかが飛んできて俺の首を鋭くつついた。
「くすぐったいな。小鳥? 三沢さんか?」
「幸生が変身して俺を助けにきてくれたのか。そのくちばしに攻撃されても痛くないんだろ」
「痛くないよ」
「じゃあ、こうするしかないかな。俺は苦しくなってきたよ」
「こうするって?」
 顔を上げると紫陽花が見える。大きな青紫の花のひと群れが、ぼわっと霞んで見える。目をこすったら手がお留守になって、下になっていた乾さんにはじき飛ばされた。
「……綺麗だなぁ。おいで、おいでおいで、俺んところに来いよ」
 望みがかなおうとしている。紫陽花の花が美女に変身しようとしている。そりゃあ、乾さんが変身した姿よりはこっちがいい。もとが乾さんだとしたらどれほどの美女でも抱く気にはならない。ふと我に返ったら、突き飛ばしてしまいそうだ。
 セクシーに俺を誘惑しようとしている紫陽花美女に近づいていこうとしたら、さっきの小鳥が俺の頭のてっぺんをつついた。頭をえぐられそうな痛みに襲われて、俺は悲鳴を上げた。
「うぎゃーっ!!」
 あれ? 目が覚めた。
 夢が見たくてこんなところで寝ていたのだから、今のが夢だったのは当然だと思える。しかし、フォレストシンガーズの奴らってなんだってこう俺の邪魔ばかりするんだ? 半身を起こして見上げると、鮮やかなオレンジいろの小鳥が、樹の上で首をかしげているのと視線が合った。
「おまえだろ。ほんとに三沢幸生が小鳥に変身して俺の邪魔をしにきて、夢にまで入り込んできたんじゃないのか? あんたの先輩たちと俺が一緒にいるからって妬いてんのかよ? 鳴いてみろ、そこの小鳥」
 言葉が通じるはずもないのに、小鳥がぴーっと鳴いた。その声はまったく、三沢幸生に似ていた。


END



 
 

 
 

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