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小説60(The song and you are my lives)

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フォレストシンガーズストーリィ・60


「The song and you are my lives」


1

「ひとつ ひと目で魅せられて
 ふたつ 再びよろめいて
 みっつ 見るたび恋をして
 よっつ 横須賀不埒な恋が
 いつつ いつまで続くやら」

 なんだなんだ、これは、と、譜面を見せた幸生を見返すと、こともなげな返事をよこした。
「横須賀数え歌」
「横須賀になんの意味があるんだ」
「意味はないんだけど、よっつ目が浮かばなかったんだよね。よっつあなたに横恋慕、にする? 横恋慕を先に持ってこないと数え歌として成立しないんだろうか」
「知らないよ。俺は作詞はできないんだから。それよりなんなんだよ、この歌詞は」
「シゲさんとライラさんのために書いたんですけど、お気に召しませんかしら?」
 ライラさんとは、先だって俺が初にフォレストシンガーズから離れて、女性シンガーとデュエットしたときの相手女性歌手だ。美しい声で歌う美しいひとだった。そこそこは売れている歌手なので、俺は彼女を知っていたが、彼女ははじめまして、と挨拶してから言った。
「ニューアルバムに男性シンガーとのデュエット曲を一曲入れようって話になって、事務所サイドで探してくれたのよ。本庄繁之さんって誰? って思ってたんだけど、素敵な声をなさってるのね。よかったわ」
「はい、どうも」
「本庄さんとの仕事が決まってから、情報収集したのよ。フォレストシンガーズって、みなさん、ソングライターの才能もお持ちなんですって? アルバムの中には本庄さんの作詞作曲した歌が見当たらないけど、あなたはなさらないの?」
「は……はあ……」
 一瞬の逡巡ののちに、しなくもないのですが、と言ってしまったのは、見栄以外のなにものでもない。そうよねぇ、とライラさんは言った。
「今回の曲はいただいてるんだけど、本庄さんがどんな曲を書かれるのか、拝見したいわ。私のために歌を書いていただけると嬉しいな」
「はい、やってみます」
 なんたる見栄っ張り、なんたる馬鹿、なんたるアホ、と後悔はしたのだが、なんとか書かないと格好がつかないではないか。デビュー間もないころに、うちにはソングライターが四人もいるのだから、俺は歌を書く必要はない、下手くそ以前の作詞作曲は断念しようと決めた。が、ためしに書いてみたことはある。
 駄作も駄作も駄作のひどいものではあったのだが、まったく書けないわけでもないのだから、それからは必死で取り組んだ。俺には詩人の魂はないのだからして、作曲だ。曲さえなんとかなったら、乾さんか幸生が詞を書いてくれるだろう。死にそうになるほど夢中になって、妻の恭子には散々心配をかけたあげく、どうにかひねり上げた曲を乾さんに見せた。乾さんは譜面を検討してから言った。
「シゲ、気づいてるか?」
「なににでしょうか」
「やばいよ、これは」
「やばいですか?」
 やばいとは、近頃の若者が肯定的な意味で使う場合もある。まさか乾さんはそんなふうに「やばい」を使わないであろうと思っていたら、まさかが当たっていた。
「このフレーズ、なにかにそっくりだろ。ここも、ここも」
 ここも、ここも、と口ずさんだそのフレーズは、なるほど、どこかで聴いた覚えがあった。
「全体を通して聴けば、オリジナルの形はなしてる。しかし、ひとつひとつのフレーズはどこかで聴いたものばかり。既成の曲の寄せ集めだ。こんなものを発表するな」
「……はい、すみませんでした」
 ぽんぽんと俺の肩を叩き、譜面を俺に返して、乾さんは背中を向けた。
「……シゲ……ええ?」
「乾さん、振り向かないで下さい、俺は自分が情けなくて……見栄っ張りの馬鹿野郎が歌を書くとこのざまなんですね。走ってきますから」
「そうか。行ってこい」
 スタジオの周囲をひと回り走って戻ると、乾さんと本橋さんが話していた。俺はドアの前で聞き耳を立てた。
「……はー、そういうわけか。おまえも手厳しすぎるんだよ。もうちょっと言いようがあるだろ」
「ないよ」
「あるだろ」
「だったらなんて言えばいいんだ? 上出来だってか」
「シゲはシゲだけが作詞や作曲をできないってのが、コンプレックスになってるんだろ。せっかく書いたのに、おまえにそんなふうに決めつけられたんじゃ……泣いてたのか?」
「わずかに涙声だったよ」
 おまえが悪いんだぞ、と本橋さんが言い、ああ、俺が悪いんだよ、と乾さんが言い返し、ふたりのムードが険悪になってきた。時としてこのふたりは、すわ、喧嘩か、といった雰囲気になる。俺がドアを開けると、やめて下さい、と言う前に乾さんがにっこりした。
「シゲも美人には弱いんだよな」
「ふむふむ、そうなんだな」
 本橋さんもにやにやし、俺は言った。
「俺には妻がいるんですから、美人かどうかなんて……なんなんですか、ふたりそろって。変な目つきで見ないで下さい。ライラさんが美人だからではありません。ともに仕事をすると決まった相手の女性がですね、本庄さんの書いた歌を見せてほしいと言った。俺だって書けなくもないかな、と……いいえ、書けません。書けませんよ。乾さんに言われて目が醒めました。ライラさんにも潔く本当のことを話します」
「本橋、おまえも美人シンガーとデュエットしたいだろ。次はおまえに話しが来るかな」
 なんで次は俺なんだ? と本橋さんが問い返し、乾さんは言った。
「章や俺の声は女性シンガーとデュエットって感じじゃないだろ。幸生はむしろシゲタイプの声の男性シンガーとデュエットしたほうが似合う。そうするとおまえだよ、次は」
「そうか。まあ、やってみたいけどな」
 と、そこに幸生がやってきた。
「リーダーは荒っぽいって評判が鳴り響いてて、女性には敬遠されるんじゃありません?」
「どこに鳴り響いてるんだ」
「業界に」
「俺たちはそこまで有名じゃねえよ」
「そうだなぁ、早くそんなふうに、フォレストシンガーズのリーダーは荒っぽいって評判が鳴り響くほどになりたいね。フォレストシンガーズのシゲは特別製のベースマンで、章は特別製のハイトーンヴォーカリストで……」
 乾さんの台詞を、幸生が横取りした。
「乾さんとユキちゃんは、特別製のお喋り男だってかぁ。ちゃんちゃん」
 いつものごとく虚脱しそうな幸生の〆台詞が出て、俺のコンプレックス云々も、本橋さんと乾さんの口論も立ち消えになった。そこへ今度は章がやってきて叫んだ。
「部屋の掃除をしてたら、こんなものが出てきたんですよーっ!!」
 こんなものとはデモテープだった。
「ジギー時代に作ったやつ。売り込み用に作ってばらまこうとしたけど洟もひっかけてもらえなくて、頭来るからって捨てたはずだったんですけど、残ってたんですよ。聴いて下さい」
 ラジカセにセットされたデモテープから、二十歳にもなっていなかったころの章が作曲したという、ぎんぎらぎんに派手なロックナンバーが流れてきた。天まで突き抜けるような章の歌も、バックの女の子たちの演奏も聞こえてきた。章は十代のころにここまでの歌を書けたのだ。俺にははなっからそんな才能は与えられていない。必死で書いたら盗作もどきのていたらく。そのとき俺は芯から、俺はベースマンに徹しようと決意した。
 かたや幸生には、アメリカ人シンガーのデューク・スミスとのデュエットの仕事が入った。乾さんが予想した通りに、男性シンガーとだ。俺以上に声の低いデュークがフォレストシンガーズの歌を聴き、たったひとりいる女性とデュエットしたいと言い出した。彼女ではなく彼? ならばなおさらだ、とデュークが言って、仕事が決まったと聞いている。
 その仕事に入ってからは、幸生は憔悴して見えるほどにがんばっている。なのに、冗談半分でこんな歌詞を書くのだから、特別製の口もまちがいないにしろ、特別製の才能も持っていると言っていい。
「それで、なにか? これをどうしろって言うんだ?」
 「横須賀数え歌」の譜面を示すと。幸生はうふふふっと笑った。
「これはシゲさんの心情をあらわしたってーか、ちがう?」
「……おまえも乾さんが言ってたようなことを……」
「美人に弱いシゲさんって? そうだよね。シゲさんって面食いなんだもん。そのわりに結婚したお方は……っと、なんにも言ってませんよ」
「恭子は美人じゃないか」
「はい、まさしく」
 はー、よかったよかった、なにをっ、となったらどうしようかとびびっちゃったよーっ、と言いながら、幸生はぴょこぴょこと跳ねていってしまった。その意味はわかるような気もしたのだが、俺にとっては恭子は美人なのだから、俺は面食いだと言われても否定できないのだから。
 恋人と名づけていい女性は、あとにも先にも恭子ひとりだ。片想いだったら何度もあるし、俺が一方的に恋人だと思っていた女性やら、互いに好きだったのかもしれないけれど、さよならするしかなかった女性もいた。記憶の彼方にいる彼女たちも、みんなみんな美人だった。けれど、恭子が一番だ。
 両想いとなって恋人になった恭子と結婚して一年がすぎ、結婚記念日も祝った。そんな俺がたとえどれほど美人であろうとも、仕事仲間のライラさんによろめくわけがないではないか。
 ヨーロッパ人の血が四分の一入っているというライラさんは、俺よりすこし年上だろう。素晴らしくプロポーションもよくて、華麗なる美貌と美麗なる声を持ち、シャンソンを得意とする。いささか高慢の気味はあったが、美人につんけん命令されるのもそれはそれで……いや、仕事はすでに終わったのだから、いつまでもライラさんを思い出していたら、みんなになにを言われるかわからない。
 今日は我々と合流して、きゃーははっ、お久し振り、と愛嬌をふりまいて、久し振りでもないだろ、と本橋さんを苦笑させている幸生を見やり、おまえはいつだって元気なんだから、他人との仕事だってへっちゃらだよな、と俺は口の中で呟いていた。しかし、手元に残された「横須賀数え歌」はいったい? どうすればいいのだろうか。
 それから数日後、その日は早めに仕事が終わって帰宅し、恭子とテレビを観た。今夜、幸生がデューク・スミスとテレビ出演をする。結婚祝いにと美江子さんが贈ってくれたソファに並んですわり、テレビをつけた。
「シゲちゃんはテレビには出ないの?」
「出たことはあるよ。きみだって知ってるだろ」
「最近は?」
「ほとんど出ないな」
「テレビ出演拒否?」
「そんなかっこいいもんじゃなくて、出て下さいって言われないからだよ」
 昔々はテレビは断固拒否のミュージシャンもいたのだそうだ。今でもいるのかもしれないが、俺たちは拒否なんかしない。事務所の社長はなんでもいいから俺たちをテレビに出させたいようで、バラエティ番組に出たこともある。これからはじまるヒット曲番組には縁がなかったので、幸生が初出演というわけだ。
「今夜のスペシャルゲスト、デューク・スミスさんでーす」
 やがて、画面にデューク・スミスが登場してきた。堂々たる体躯の黒人ソウルシンガーのそばにいる幸生は、まるで中学生に見える。司会者はデュークに愛想よく話しかけていて、幸生は無視されているようにも見えたのだが、しばらくするとデュークがなにか言い、通訳さんが日本語に訳した。
「こんなに小さくて少年のような青年だが、彼はあふれるガッツと歌心の持ち主だ。ユキオ、自らアピールしなさい」
「はいはーい、待ってましたっ」
 実に実に嬉しそうな顔をして会釈した幸生は、一息にまくし立てた。
「フォレストシンガーズの三沢幸生と申します。フォレストシンガーズをごぞんじの方も、テレビをごらんになってるみなさまの中にはいらっしゃいますよね。いらっしゃると信じております。そうです。三沢幸生は歌心とガッツには自信を持っております。体力だって負けてませんよ。デュークはきわめて歌にはきびしいのですが、褒めてくれるときには賛美の言葉を雨あられと注いでくれます。僕は英語が不得手ですので、一部しか理解できておりませんが、たとえばトレビアン、トレビアンって抱きしめてくれて……デュークは力が強すぎて身体のあちこちが複雑骨折してるんですけど、慣れてますからね。フォレストシンガーズには五人のメンバーがおりまして、みんな荒っぽいんですよ。僕はリーダーに蹴られて骨折したって雄々しく立ち直るんだし、乾さんに口で苛められて魂が傷ついてもほどなく蘇生するし、シゲさんに投げられて一度は死んでも生き返るし、章に跳びかかってこられても超人並にはねのけられるし、慣れって恐ろしいってのか、トレビアンって言うのか、ですよね。ユキちゃんってほんとにトレビアン。で、ただ今名を上げましたうちの仲間たち……」
 おい、誰か止めてくれ、と俺は言いたかった。恭子も口をあんぐり開けて幸生に見とれていたが、吹き出したかと思うと大笑いになり、画面の中でも通訳さんが、幸生の言葉を英語にするのに四苦八苦の様子でいる。デュークも大笑いしていて、司会者は凍りついているように見えた。が、ついにそこで幸生を止めた。
「はい、三沢さん、そのあたりで……歌っていただきましょうか」
「僕は喋り足りないんですけど……」
 ちょんと幸生をつついたデュークが彼の耳元でなにやら囁き、幸生はこくんとうなずいて、ふたりしてスタンバイの姿勢に入った。そうして流れてきたのは、デュークが英語、幸生が日本語でのデュエットだった。
 彼らが歌うは「時のすぎゆくままに」。この身体と肺活量がなくては出せないのではないかと思われるデュークの重低音が、アンニュイな響きを帯びて、情感たっぷりに流れていく。軽く美しく抑えた声で、幸生が女声のハーモニーをつける。幸生が女みたいな声を簡単に出すのはよくよく知っていたが、こうして視聴者として聴いていると、改めて驚嘆するしかない歌になっていた。
「……三沢さんって……すごい」
 ふたりのデュエットがおしまいになると、恭子がテレビを消した。
「……他の歌は聴きたくない。どうせ下手くそなアイドルとかが歌うんだから」
「アイドルの歌ばかりがヒットするわけでもないけどさ、うん、ほんとだ。幸生はすごい」
「すごいよねぇ。もっと聴きたいな。生で聴きたいな。デュークと三沢さんがライヴをやったらいいのに」
「その話は聞いてないけど、アルバムが出たら何度でも聴けるよ。まあ、歌はたしかにすごい。幸生の才能には今さらながらびっくりした。しかし、しかしだよ。その前は?」
「その前? あのお喋り? やだ、思い出しちゃったじゃないのっ」
「いて」
 思い出すと笑えてくるらしくて、恭子は俺の背中をどんどん叩いて笑い転げている。俺も幸生の台詞の内容を思い出した。
「……恭子、痛いって。いいけどな……なんて言った、あいつ? 本橋さんが荒っぽいって評判を鳴り響かせようとしてるのか……痛いよ、恭子。ええとええと……俺もか? 俺が幸生を投げた? テレビでなんてことを言うんだよ。あのアホ……覚えてろ。明日はどうなっても知らないからな。恭子、痛い!」
 笑いころげる恭子に背中を叩きまくられて、俺もソファからころげ落ちた。あのアホ幸生、とはいうものの、思い出せば思い出すほど笑えてくる。それぞれに家でテレビを観ているはずの本橋さん、乾さん、美江子さん、章も笑っているだろう。みんなでいっしょに笑っている気分で、俺も笑い続けていた。
 笑いながらも、想いが漂っていく。みんなでいっしょに……同じ場所にはいなくても、俺にはみんなと呼べる仲間がいる。かたわらには妻もいる。すこしずつフォレストシンガーズも上向きになっていて、幸生と俺には個別の仕事が入った。まだまだ有名とまでは行かなくても、今の俺は幸せだ。これ以上を望まなくてもいいとまで思ってしまうほどに。
 そのみんなの中にヒデがいてくれたら、本当にそれ以上はなんにも望まない。ヒデはどこでどうしてる? 幸生を見たか? 見ていたとしたら、あいかわらずだな、って笑ってるか? 幸生はあいかわらずだよ。他のみんなもちっとも変わらない。なのに、ヒデ、おまえはいない。
「どうしたの、シゲちゃん? 急に黙っちゃって」
 笑いやんだ恭子のとなりにすわり直して、俺は言った。
「こういうときってどうしても、ヒデを思い出してしまうんだ」
「小笠原のヒデさん?」
 恭子と知り合ったころにはヒデはいなかったけれど、話はした。大学に入学して合唱部の部室で知り合って、ヒデがフォレストシンガーズをやめてしまうまでのさまざまなエピソードを、思い出すままに話した。その後のヒデは俺も知らないのだから話せる道理もないが、恭子は俺が口にしなかった想いまでを知ってくれている。
「裏切られたみたいな気持ちだった? そんなはずないよ。私にもヒデさんの事情はわからないけど、きっと彼も思ってる。シゲちゃんに会いたいなって。忘れるわけないじゃない。私もヒデさんに会いたいな」
「会わせたいな。気性は荒くて感情的で、どことなく章にも似てるし、本橋さんにも似たところがあるんだ。あいつがいくなっちまってからは、たしかにそう思ってたよ。俺は親友だって考えていたのに、ヒデはそうは考えてなかったんだ。あいつはフォレストシンガーズなんか忘れて、楽しくやってるんだって。楽しくやってるんだったらいいんだよ。だけど、そうじゃないから連絡もしてこないのかとも考えられるだろ。どうなんだろうな。知りたいよ」
「私も知りたい」
「……でも、あいつは探られたくないんだ。いろんなふうに考えると、どうしていいのかわからなくなるよ」
 幾度もそんな話をして、恭子は遮らずに聞いてくれた。今夜も静かになった部屋で、恭子とヒデの話をした。
「ラジオに出てもライヴをやっても、たまにテレビに出ても、ヒデがどこかで見てるかな、聴いてるかな、って、心の隅では思ってる。ヒデのことばっかり考えてたらファンの方には失礼なんだけど、レコーディングをしてても、新曲が出たらヒデが聴いてくれるかなって。今夜もそうだったよ。幸生は誰とでも親しくなる奴なんだけど、ヒデとも仲がよかった。元気に楽しくやってるんだったらいいんだ。いいんだけど……」
「会いたいね、ヒデさんに」
「うん」
 会えるといいね、ヒデさんに、と繰り返す恭子の腕が、そっと優しく俺を抱きしめてくれた。


 多忙な身の上のデュークは疾風のように訪れて去っていき、幸生の単独仕事も終了した。東京が冬に突入した時期に、我々は沖縄に赴いた。今回は那覇での仕事なのだが、沖縄というと思い出すひとがいる。台風の夜に俺の腕の中にあったやわらかな身体の感触。あのころはフォレストシンガーズも現在よりもっと売れていなくて、章が騒動を引き起こして、気分的にも嵐の只中だった。だけど、楽しかった。
「久し振りだよね、沖縄は」
 想い出の中のあのひとは、沖縄本島から船で渡る離島の民宿の娘さんだ。幸生も覚えているのだろう。意味ありげに俺を見た。
「沖縄って亜熱帯なんだよね。まだ暑いくらいなんだ。ねえねえ、シゲさん、なにを思い出してるの?」
「沖縄名物ゴーヤチャンブルー」
「あの苦い料理?」
「上手に作ったらそんなには苦くない。ポークなんとかの入った卵焼きってのもあったな」
「弁当に入ってたね」
「……ソーミンチャンプルーってのもあるし、沖縄そばもうまい。腹が減ってきた」
「はいはい、食い気のシゲさんは結婚してもそのまんまね」
 結婚したからじゃないか。過去のささやかな触れ合いとはいえ、リエさんをなつかしむなんて、恭子に対して不貞ではないか。リエさん、と名前まで思い出してしまって、苦笑いしつつ言った。
「海を見晴らす食堂で昼メシにしよう」
「そうしましょう」
 沖縄なのだから当然だが、沖縄料理の店が周囲にはたくさんある。景色のいい店を選んで幸生とふたり、窓辺の席に腰を下ろした。仕事は明日からなので、他の三人は沖縄音楽を聴きにいくと言って、別行動になっていた。
「おまえも行けばよかったのに」
「シゲさんはなんで行かなかったの? 追憶に浸りたかった? 俺がいると邪魔?」
「そんなんじゃないよ。明日からは自分たちの音楽でいっぱいになるんだから、今日は音楽はなしでもいいからだ」
「……三線だっけ。聴こえるよ」
「この程度はあったほうがいい」
 店内にも沖縄音楽が流れていて、心地よいリズムに身をゆだねて食事をはじめた。
「シゲさんは泉水さんとも親友?」
 なぜか、幸生がいきなり泉水の名を口にした。瀬戸内泉水、小学校から大学を卒業するまでいっしょにいた、俺の幼馴染だ。
「前にも言わなかったか。泉水は女だけど、親友ったら親友だな。むこうは喧嘩友達だと思ってるのかもしれないけど」
「本橋さんと乾さんと美江子さんも親友だよね」
「そうなんだろ」
「親友が恋人に変わるってのもあるのかな。でも、シゲさんと泉水さんはずっと親友で、シゲさんは泉水さんとは別のひとと結婚した。泉水さんも一旦は別のひとと結婚した。そういうものなのかな」
「そういうものってなんだよ?」
「男と女はずっと親友でいられる?」
「いられる場合もあるし、いられない場合もあるんじゃないのか」
「そりゃそうだ。人による」
「なんなんだよ。真面目くさった顔して」
「いいえ、別に。こんな話はシゲさんにしかできないからね。章はシゲさんとはちがって……」
「俺にしかできないって?」
「うん、いいんだ」
 泉水は俺の女の親友。本橋さんと乾さんと美江子さんも、男と女の親友同士。幸生や章には女の親友はいないから、俺にしかそんな話しができない? そう考えればいいのだろうか。だが、だからなんなのかがさっぱりわからない。
「覚えてるんでしょ? 料理の話に変えてそらしたけど、リエさんを忘れてないよね」
「忘れてないよ」
「好きだった?」
「好きだったよ」
「そっかあ、会いたい?」
「うーん……」
 船に乗っていかなくてはならない、那覇からでも遠い島に、リエさんは今でも暮らしているのだろうか。お母さんとふたりして、民宿を営んでいるのだろうか。あれは四年も前なのだから、リエさんも結婚したかもしれない。リエさんはお母さんになり、リエさんのお母さんはおばあちゃんになったのかもしれない。
 互いに好きだったのかもしれないけれど、さよならするしかなかった女性、とはリエさんだ。四年前に仕事で訪れたあの島で、俺は彼女に恋をした。台風が島に上陸した夜には、雷を怖がる彼女を抱きしめた。さよならする前の日にキスした。たったそれだけの淡い恋だった。
 東京に戻ってからも、時おりは思い出していた。きゃっ、雷っ、と小声で叫んで抱きついてきた、腕の中のやわらかな身体、髪の香り、海辺で見た水着姿、本庄さんの声が好き、と言った声、シマアザミとやらを差し出して微笑んだ顔。思い出せば今でもありありと浮かぶ。
 プロポーズしていたらどうなっただろう。もしもリエさんがうなずいてくれて、東京についてきてくれていたとしたら? けれど、彼女は民宿のあととり娘で、お母さんとふたりっきりだった。俺は島にとどまれなかったのだから、連れて帰ったりはできっこない。恋をしているのかどうかもわからない、と考えていた気もするけれど、あれはまぎれもなく恋だった。彼女も俺を好いていてくれた。
 なつかしんだら不貞だなんて、恭子は怒ったりしないよな? 過去なんだもの。遠い遠い、すぎた想い出のひとこまなんだもの。きっと恭子にだってあったはずの、昔の恋なんだから。
「会えるんだったら会いたいけど、そんな偶然なんかないだろ」
「ないかな。ないだろうね」
 そりゃそうだね、ともう一度言った幸生がなにを考えていたのか、どうもよくわからなかったけれど、乾さんや幸生のような複雑な人間の脳の中を推測するなんてのは、鈍い俺には無理なのだととうに諦めている。リエさんは過去とも言えないくらいの淡い過去のひとだけど、俺にとっては決して過去ではない、ヒデにだったら会いたいと、そう言われても幸生も困るだろうから、内心で言うにとどめておいた。


2

 いいないいな、とわざとらしくうらやましがる幸生の耳を本橋さんが引っ張り、ひとり者は悲しいね、とわざとらしく言い合っていた乾さんと章も、一足先に東京に帰っていった。
 プロテニスプレイヤーの恭子は、テニス以外にもたまさか別の仕事をしている。今回は恭子の故郷である長崎のローカルテレビに出演し、足を伸ばして沖縄へやってきた。我々も東京に帰ったら休暇を取れる予定だったので、恭子も休みにして那覇で落ち合ったのだ。午後からレンタカーを借りて、沖縄の名所旧跡を車で走った。
「シゲちゃん、ホテルは?」
「……あ、忘れてた。昨日まで泊まってた宿は引き払ったんだよ。まずったな。今からホテルが取れるかな」
「シゲちゃんらしいね。ねえね、そんならさ」
 助手席の恭子が、こそっと耳打ちした。
「ラヴホテルに泊まってみない?」
「そんなところがいいのか」
「沖縄のラヴホテルってどんなのか、見たいんだもん」
「きみがそうしたいんだったらいいけど……」
 突然だからまともなホテルは空いてないんじゃない? と恭子が言い、そうかもしれないということで、恭子の提案を呑んだ。しかし、なんとなく気恥ずかしい。なるべく地味な外観のホテルに決めて、部屋に入ると、恭子はぐるっと見回して言った。
「シーサーはいるけど、どこもそんなに変わりないんだね」
「……恭子、こういうところに来たことあるのか?」
「あるよ。シゲちゃんはないの?」
「……ない。いや、ある」
 見栄を張るとぶざまな羽目になるのは経験ずみだが、妻があると言っているのに、夫がないと言ってはだらしないではないか。これは見栄を張っていると言うのか、実は本当にあるのだけど、あると言ってよかったのか、悩んでいる俺を、恭子は横目でじろっと見た。
「へええ、あるんだ。誰と、いつ、どこのホテル?」
「きみにだってあるんだろうが。ない奴なんかいないよ」
「ふーん、そう。あるんだね」
「恭子にもあるんだろ」
「あるって言ったじゃない。あるよ」
 衝撃の告白なのだったら聞きたくなかったのだが、恭子はベッドに腰かけて話しはじめた。
「私は横浜のラヴホテルに泊まったことがあるの。いくつのときだったかな。二十歳くらいだったっけ。友達と横浜、鎌倉、あたりに遊びにいったのね」
「男友達とか」
「テニスはやってたけど、まだプロじゃなかったんだ。アマチュアの試合が東京であって、負けちゃったから、ついでに遊んでいこうよって、おんなじように負けた友達とドライブしてたの」
「テニス仲間か。金持ちの都会の男?」
 だんだん俺の声のトーンは落ちていっていたが、恭子はかまわず続けた。
「ホテルは東京で取ってあったんだけど、渋滞に巻き込まれて遅くなって、くたくたになっちゃって、車も動かないから、近くで寝ようって決めたの」
「寝よう……ね」
「しゃれた綺麗なホテルだったよ。国道沿いのホテルなんだから、普通のホテルじゃないんだよね。私はそのころは長崎の田舎の子じゃないの。そんな綺麗なホテルがラヴホテルだなんて思いもしなかった。世間知らずだったな」
「すると、恭子……だまされて連れ込まれたのか」
 が、恭子は取り合わずに言った。
「長崎にだってラヴホテルはあるけど、そこがそうだとは知らなかったの。なーんか変だな、と思いながらも、疲れてたし、ここでもいいよね、って感じで、そしたら部屋は、うん、ここに似てた」
「誰だ、恭子をだましてそんなところに連れ込んだ男は……」
「けど、お風呂は広かったな。部屋の中を調べたら、おかしなものもあったの。あ、もしかしてここ、ってふたりして思い当たって大笑い。広いからいっしょに入ろうか、ってお風呂に入った」
「……もういいよ。続きは聞きたくないよ」
「バブルバスだったんだ。面白かったよ」
「もういいって言ってんだろっ」
 思わず荒い口調で言ったのだが、恭子はやめてくれなかった。
「お風呂で楽しく遊んで、冷蔵庫のビールを飲んで……」
「そこまでにしろ。聞きたくないよ」
「なんで?」
「おまえは俺を苛めて楽しいのか」
「なに怒ってんの?」
「怒るよ。言うな」
 耳を両手でふさいで、ソファに横たわった。恭子はバスルームを見にいったらしく、バスタブに湯を満たす音が漏れ聞こえてきた。ラヴホテルに泊まろうと言ったのは、俺にそんな話を聞かせて楽しむためか。おまえはそんな女だったのか、と壁を蹴飛ばしていると、恭子がそばに来た。
「シゲちゃんが力まかせに蹴ったりしたら、壁が崩れるよ」
「うるさい」
「そうやって怒ってるシゲちゃんってはじめて見た」
「怒らせて楽しいのか」
「もとから低い声が一段も二段も低くなってる。素敵な声」
「からかうな」
「だからさ、なにをそんなに怒ってるの?」
「怒るのが当たり前だろ」
 そりゃあ、俺にだってあるのだから、恭子にないはずはないとは思う。二十四歳で結婚した女が、独身時代になんにもしてこなかったとしたら、そのほうが変なのかもしれない。けれど、聞きたくなかった。
「なんでだよ。なんで今夜……こうやって、仕事の続きとはいえ、ふたりっきりで旅行してるんだろ。そんな夜になんだって、昔の男の話なんかするんだよ。俺を妬かせたいのか」
「男の話なんかしてないよ」
「してるじゃないか。思い切りしたじゃないか。いっしょに風呂に入って……ああっ、聞きたくないっ!」
「誰が男だって言った?」
「男友達だろ」
「ちがうよ」
 ふさいでいてもしっかり聞こえていたのだが、耳から手をはずして恭子を見返した。
「男だなんてひとことも言ってないじゃない。遊びにいったのは女友達」
「……えと……あの……」
「言っとくけど、彼女と恋人だったんじゃないからね。私は女の子に恋をする趣味はないから」
「だよな。すると……ええ?」
 シゲちゃんらしいね、とため息をついてから、恭子は言った。
「女友達とドライブしてて、渋滞に巻き込まれて車が動かなくなって、しようがないから適当に泊まったホテルがラヴホテルだったの。女の子同士でお風呂に入ったんだよ。男と泊まったんだったら、言うわけないじゃない」
「……そっちも……」
 あるのか? と訊きたかったがやめておいたら、恭子はまたまた俺をじろっと見た。
「シゲちゃんにもあるんだよね。女性と?」
「あるなんて言ったか。嘘だよ、ないよ」
「それこそ嘘なんじゃないの? さっきはあるって言ってたけどなぁ……」
「見栄を張ってみただけだ。見栄を張ると仕返しされるんだな」
「そうみたいね。シゲちゃん、ごめんね」
「……うん、ああ、びっくりした」
 飛び起きて、こらえかねたように笑い出す恭子を抱きすくめた。これだから女ってやつは……と生涯幾度目かの感慨が浮かんだが、追及されたら俺のほうの話もしてしまったかもしれないので、まずはよかった。俺なんかはきわめて経験は乏しいけれど、あるにはあるのは事実なのだから、恭子がごまかされてくれてよかった、ととにかく安心していた。


喧嘩ってのは暴力沙汰にならないんだったらやったほうがいいんだよ、と言っていたのは乾さんだった。乾さんは独身だが、さすがに女性経験豊富だからだろうか。本当にそうだった。恭子とはめったに喧嘩はしないし、したとしても恭子がひとりで怒って、俺は逃げの一手を打つのが常だ。
 沖縄では俺が腹を立てた。喧嘩両成敗ともいうけれど、どちらが悪かったのかなんてどうでもいい。恭子はごめんと言ってくれたし、おかげで以前よりも仲が良くなったような……そんな気分が顔に出ていたようで、東京に帰った翌日、スタジオに集合したら幸生に言われた。
「なににやけてんの、シゲさん? 恭子さんと素敵な素敵な休暇をすごせたから?」
「にやけてないよ。ま、雨降って地固まるってやつだな」
「沖縄は雨だったの? あ、わかった。そうですか、ごちそうさまでした」
「なにがわかったんだ」
 いえいえ、そろそろ冬なのに暑いわねぇ、アチアチアチ、かき氷が食いたくなってきたー、とひとりで喋りながら歩いていった幸生が、むこうから来た美江子さんにぶつかりそうになった。
「おっと……美江子さんは憂いを含んだ表情が色っぽいわね。なにかお悩みでも?」
「便秘」
「は……はあ、それはそれは……お大事に」
 さしもの幸生も返す言葉がなかったようで、そそくさと逃げていった。憂いを含んだ表情? そう言われてみればそうも見えなくない。幸生は沖縄でも妙なことを言っていたし、なにかあったのだろうか。美江子さんは俺には声をかけずに、戸棚から取り出したファイルを調べている。そこに乾さんがあらわれたので、俺は乾さんの顔を見た。
「どうかしたか、シゲ?」
「んん……便秘と言われてしまうとそうなのかな、とも……」
「誰が便秘? おまえ、便秘症だっけ?」
「女性の……えと……自分で言って……しかし、俺が言っては……」
「言ってるじゃないか。そういう事情なんだったら……」
「乾さんでもですか」
「女性の体調ってのは、男には伺い知れないものなんだよ。沖縄ではどうだった? シゲは嬉しそうな顔をしてるから、楽しかったんだよな」
「嬉しそうじゃありませんけどね」
「ミエちゃんが気になるからだろ。ここへ来たときには嬉しそうだったぞ」
「そうですか」
 ええ、楽しかったですよ、と応え、いいねぇ、と乾さんが言い、そうしていると本橋さんがやってきた。
「幸生は?」
「はい、ここにおります」
「社長が呼んでるってよ。事務所に行ってこい」
「ええ? 説教? 悪いことなんかしてないのにな」
「したじゃないか」
「してませんよ」
 テレビ出演での幸生の口舌には、社長は苦笑いしていたものの、特に説教はしなかったらしい。あれはあれでフォレストシンガーズのPRになったのだから大目に見たのだろう。今回はなんだろう、とみんなして議論を戦わせていたら、スタジオに戻ってきた幸生が話した。
「ドラマ出演の話が来てるんですって。来春の新番組で、時代劇なんですよ。音羽吾郎さんが主役で、江戸太平の時代のお気楽な若い侍役。その友人の役で、音羽さんの役柄以上にお気楽な若い侍役が俺だって。ちょい役なんですけどね。無理にとは言わないけど、おまえは芝居が好きだろ、やってみないか、って社長が……どうしよう」
 ラジオドラマに出演したのが、テレビ番組製作会社の印象に残ったらしい。フォレストシンガーズ全員と金子さんがメインキャストだったのだが、まちがいなく幸生がもっとも芝居が達者だった。それゆえの誘いだったようなのだが、幸生は迷っている。音羽吾郎さんは俺たちの大学の演劇部出身で、金子さんと同年だ。金子さんが以前に、屈託がなくもない口調で音羽さんの話をしていた。
「音羽さんに会わせてやろうって社長が言うんですよ。音羽さんとは俺は会ったことないんですよね。リーダーと乾さんはあるんでしょ? シゲさんは?」
「話したことはないけど、演劇部ではスターだったから見たことはあるよ。俺も会って話してみたいな」
「そう? そんならシゲさん、いっしょに行こうよ」
「行ってもいいよ」
 シンガーとならば仕事で同席して話す機会もあるが、役者の世界のひととはほとんど縁がない。俺も好奇心はあったので、音羽さんと面談するという幸生についていくことにした。
「小柄でほっそりしてて腕力がなくて、剣術も達者じゃなくて、男らしくないからって悩んでる武家の次男坊か。これって章じゃん」
 当日、夜になって音羽さんが指定してきたバーに向かうタクシーの中で、幸生が言った。
「シゲさん、章のほうが向きそうじゃない?」
「章には役者志向はないんじゃないのか。おまえにはあるんだろ。正式に芝居がやってみたいんじゃなかったのか。引き受けたらいいじゃないか」
「うーん、やってみたくはあるけど、むずかしそう。現代ドラマでさ、シンガー志望の美青年とかいうんだったら素のままやれそうだけど、時代劇はねぇ……俺には芝居の素養はあるようなないような……」
「おまえだったらゲイの役とか……」
「ゲイでもいいんだけど、性別不明のアニメキャラの声優なんかのほうがいいかも」
 いわゆる「アニメ声」とは可愛らしく高い女の子の声をさすようなのだが、男性アニメ声なら幸生タイプの声ではないだろうか。歌う際にはさまざまに声を変化させられるのだから、話す際にも幸生は声をころころ変えられる。女声芝居をするときには、美少女になり切っていると本人が言っていた。
「この声で武士ってのはね……うへえ、むずかしすぎ。やってみたーい、でも、むずかしすぎそう」
「音羽さんに相談してみればいいよ」
 シンガーにしてもルックスはいいほうが得なのだろうが、俳優はさらにそうだろう。役者にもいろいろなスタンスのひとがいるのだろうけど、主役を張るクラスの男優といえば、おおむね二枚目と相場が決まっている。
 俳優にも顔ではなく演技で勝負するひともいる。ルックスがよくなければ俳優にはなれないわけでもないのだろうが、音羽さんは実力もありルックスもよしで、プロとなった当初から人気があった。彼は渋い二枚目といっていいだろう。名の知れたスター俳優の音羽さんは、オーラをまとって見えた。
「おまえたちのデビュー曲を買ったんだよ」
 時間にも几帳面であるようで、約束通りの時刻にやってきた音羽さんは、挨拶をかわし合ってから言った。
「金子からも聞いてるか。「あなたがここにいるだけで」だったよな。CDをかけたら、本橋の声が聴こえてきた。乾の声も聴こえてきた。あの夏のイベント以来、俺は数年ぶりかで聴いたんだけど、耳の奥に焼きついていたんだな。やっぱりこいつらも世に出たんだ、って思ってさ、それからずっと俺はきみたちのファンだよ。今回、三沢に俺のドラマの話が行ったのは偶然なんだけど、フォレストシンガーズの三沢が俺に会いたいって言ってるって聞いて、二つ返事で出てきたのはそのせいもあったんだ。本橋や乾は俺を覚えてくれてるかな」
 覚えてますよ、と幸生が言った。
「忘れられるはずがないですもん。僕には俳優さんの知り合いはいないけど、やっぱ人種がちがうなぁ……ってか、この僕が無口になっちゃって、見とれちゃうんですよね。本橋さんと乾さんになんでしょうけど、フォレストシンガーズにそんなにも関心を持ってくださっていたとは、光栄の至りも光栄の至りでございます。ありがとうございます」
「……面白い奴なんだな、おまえ」
 ちっとも無口じゃないじゃないか、と俺は思っていたのだが、音羽さんは寛容に微笑んだ。
「生きてる世界がちがってるから、関心はあってもきみらに会う機会はなかったんだよな。せっかくこうして知り合えたんだ。三沢がドラマの仕事を受けるかどうかは別にして、ぜひ一度みんなで飲もう。みんな俺の後輩なんだろ」
 多忙な人気俳優との遭遇は短時間で、音羽さんと別れると、幸生が言った。
「やっぱ魅力ありますよね。音羽さんの脇で演技するなんてのにはそそられるけど、俺には無理だって気もする。プライベートで飲みにいくってのを楽しみにして、芝居はお断りしようかな」
「自信喪失したのか」
「はじめから芝居の自信なんかありませんよ。遊びでやるんじゃないんだから」
「おまえもたまには真面目になるんだな」
「いつだって俺は真面目です。あれ? シゲさん……音羽さんがいるよ。お忍びでデートかな」
「詮索するな。失礼だ」
「気にならない?」
 気にはなるので、俺もついつい見ていた。先に帰っていった音羽さんが店に戻ってきている。次の仕事に向かったのだろうとばかり思っていたのだが、彼は女性連れだった。小柄な美人が長身の音羽さんの背中に隠れるようにして、ふたりはほどなく店から出ていった。ふたりがいなくなると、幸生がため息まじりに言った。
「さっすが、彼女もとびきりの美人」
「うん……美人だったよな。ええとええと……俺はあの女性に見覚えがあるような……」
「女優さんじゃないの? 俺は知らないけどね」
 はっきり見えたわけではないのだが、横顔は見た。年頃は俺たちと同じくらいか。女優さんだったとしたら、幸生のほうが俺よりも詳しいのではあるまいか。幸生は知らなくて俺は知ってる女性? 同窓生か。そういうのもあってもおかしくはない。同窓生だとすると、音羽さんと同い年の女性となるはずだ。その年齢以下の女性だったら幸生も知っている。
 いや、そうとも限らない。うちの大学は学生総数がたいへんに多いので、幸生は知らなくて俺は知っているひと、あるいはその逆のひとも数限りなくいるだろう。たとえば学部のちがい。
「おまえには見覚えはなかったか」
「ぜーんぜん」
 幸生が断言するところを見ると、俺と同じ史学部出身か。もしくは合唱部の音羽さんと同年の女性か。いやいや、そうとも限らない。詮索しては失礼だと幸生をたしなめたのは俺だったのに、詮索しているのは俺ではないか。しかし、どうもひっかかる。誰だ、あの女性は誰だ。たしかに記憶にある。
「……印象的な美人だもんな」
「シゲさんはやっぱ美人に弱いんだから」
「そうじゃなくて……」
 それもあるのかもしれない。うーん、誰だっけ誰だっけ、と記憶を掘り起こしている俺のかたわらで、幸生は「横須賀数え歌」を口ずさんでいた。
 その日は思い出せないままだったのだが、数日はしつこく記憶を探っていた。どうにも記憶が鮮明にならないので諦めかけていた数日後に、ラジオ局で徳永さんに会った。大学一年の年に合唱部で知り合った徳永さんは、あのころもあれからも、本橋と乾は大嫌いだと公言している。二年後に入部してきた幸生も大嫌いなのだそうだが、ヒデと俺は大嫌いではないらしい。章はどうでもいいらしい。
「よ、本庄、おまえもラジオの仕事か」
「はい、今日はひとりで、ライラさんの番組にゲスト出演させてもらいました」
「俺も打ち合わせがあったんだけど、仕事はすんだよ。飲むか」
「徳永さんがよろしいんでしたら」
「よくなかったら誘わないよ」
 どうも徳永さんといると気ぶっせいなのだが、先輩に誘われていやとは言えない。ラジオ局近くの飲み屋に腰をすえて、なんの気なしに幸生のドラマ出演の話をした。
「幸生は断ると言ってるんですよ。シンガーは歌が本分だと言ってますけど、自信がないのが本音でしょうね。徳永さんは音羽さんとはお知り合いですか」
「金子さんに紹介してもらって、二、三度は会ってるよ。いけ好かねえ男だな」
「そうですか。いいひとに見えましたけどね」
「ナルシストだろ、あれは」
「徳永さんが……」
「俺がなんだって?」
 いえいえ、とごまかした。ナルシストっていえばあなたにもその傾向が……とは言えないでいると、徳永さんは毒のある口調で言った。
「音羽って二枚目だよな。どことなく俺の兄貴に似てる。俺は兄貴に似てる奴はみんな嫌いだ。溝部って覚えてるだろ。あいつも俺の兄貴に近かったんだ」
「覚えてますけど、先輩を呼び捨てってのは……」
「いけ好かない奴は先輩だとはみなさない」
「はあ、そうですか」
 本橋さんも乾さんも幸生も二枚目ってほどではないのに、だったらどこに彼らを嫌う要因があるのだろう、と俺が考えていると、徳永さんは言った。
「二枚目なんだし売れてる役者なんだから、女に不自由なんかしてねえだろ。他人の女に手を出すな」
「音羽さんが、ですか」
「乾からは聞いてないのか。乾もはっきりとは知らないのかな」
「……音羽さんには彼女はいるんでしょ。幸生と三人で会った夜に偶然にもデートしているらしき姿を見たんですけど、美人といっしょでしたよ。その女性に俺は見覚えがあったんですけど、思い出せなくて」
「大野莢子?」
「ん? あ!」
 やっと記憶がつながった。徳永さんに言われて思い出した。あの女性は合唱部の先輩だ。金子さんと同時期に女子部キャプテンだった大野さんではないか。幸生が知らないのは道理、幸生が入部してくる前の春に彼女は卒業しているのだから。
「そうか。大野莢子か」
「大野さんだとなにか問題が? 幸生は彼女に見覚えがないと言ってましたけど、音羽さんと大野さんも同窓生なんですから、以前から知り合いだったとしても不思議でもありませんよね」
「三沢が大野莢子を知らないって? 嘘をつけ。会ってるじゃないか」
「いつですか」
「俺のデビューを祝うだなんて席を、金子さんが設けてくれた夜だよ」
「そのときに大野さんがいらしてたんですか。そしたら幸生は忘れたのかな」
「忘れたふりか。三沢って奴は妖怪だもんな」
「……はあ、妖怪じみたところはたしかにありますが、で、徳永さん、大野さんがなにか?」
「いいよ。おまえも忘れろ」
 大野さんは徳永さんの恋人? 音羽さんが徳永さんの彼女である大野さんに手を出した? だとしても、幸生が忘れたふりをするとは解せない。俺には推測をめぐらせにくい展開になってきて、酒の味が感じられなくなってきた。乾さんにそれとなく質問してみるってのも、俺にはむずかしいし、質問していいのかどうかも……と悩みつつ横目で見ても、徳永さんはポーカーフェイスで酒を飲んでいるばかりだった。

 
3

 あの女性が誰なのかは判明したのだが、音羽さんと大野さんの関係、そこに徳永さんがどう関わってくるのか、そのあたりはいかようにも想像できる。想像はできるものの、俺のイマジネーションは貧困なので、想像が的を得ているのか否かがわからない。乾さんに尋ねてみるべきか、幸生を問い質すべきか、そうしていいのかどうかもわからない。
「俺には無関係なんだけどさ、徳永さんと幸生の態度が変だから気になるんだよ」
 そう前置きして、帰宅してから恭子に話してみた。
「音羽吾郎さんに会ったって話は聞いたよね。かっこよかったんだよね。私も会ってみたーい、ってのもそのときに言ったよね。それはまあいいんだけど、音羽さんに恋人らしき女のひとがいて、そのひとは合唱部の先輩で、三沢さんはとぼけてて、徳永さんは意味ありげなことを言ってた。そういうわけね? 徳永さんの彼女を音羽さんが横取りしたって感じでもないんだよね」
「そうじゃないと思うけど、俺がそうじゃなさそうだと思っても、そうなのかもしれないし……」
「そうだよね。シゲちゃんからの又聞きではわかりにくい」
「うん、だよな」
 知り合ったばかりのころから、恭子には先輩たちや仲間たちの話をしてきた。恭子は俺の友人たちについてはおおよそ把握しているので、その人間関係を頭の中で整理してみている様子だった。
「三沢さんがとぼけてたっていうのが、私には特に気になるな」
「幸生がか。単に忘れてただけとも考えられるよ」
「三沢さんってそういうのは忘れなくない?」
「そう言われればそうかもしれない」
「だからだよ。んんとんんと……本橋さん、乾さん、木村さんはそこには無関係だよね?」
「だと思うよ」
「そしたら金子さんは?」
「金子さんか」
 徳永さんと話していたときには、金子さんは一切考えに入れていなかった。女の直感とは男には及びもつかないのだと乾さんが言っていたが、もしかしたら金子さんか。大いに考えられる。
「金子さん、高倉さん、徳永さん、今でもシゲちゃんたちと関わりの深い先輩たちって、そのくらいでしょ。徳永さんは金子さんと仲がいいんだよね。音羽さんが他人の女に手を出したみたいに、徳永さんは言ってた。そうすると金子さんじゃない? うーん、だからってシゲちゃんとは関係ないといえば、全然関係ないんだけどね」
「うーん、そうだよな。俺が気にする問題でもないし、恭子のも推測だろうし」
「そうだよね。私も気にはなるけど、あれこれ考えてもどうしようもないんじゃない?」
 恭子の推測に従ってみると、大野さんは金子さんの恋人だとなる。金子さんの恋人である大野さんを、音羽さんが横合いからかっさらったのか。だとしたら俺には許せない。人の感情には義憤というものがあるではないか。俺の気持ちはまさしくそれだった。だが、恭子の推測が事実だと断定できるわけでもない。
 事実だったとしたら、俺はどうすりゃいいんだろうな。どうする必要もないんだろうか。などなどと思い煩っているうちに日がすぎて、仕事で徳永さんと金子さんに会う機会がめぐってきた。
 地上波放送のテレビにはめったと出してもらえない我々なのだが、昨今はケーブルテレビも隆盛になってきている。ケーブルテレビのほうではマイナーっぽい歌番組もあって、そのひとつの番組のプロデューサーが、我々の母校の先輩だったのだ。金子さんが入部した当時の合唱部副キャプテン、田中さん。こんなところにも大先輩がいたとは、我々も知らずにいた。
 どこかしらでつながっているシンガーたちを発掘してきて、一堂にそろえるという番組だ。今回は我が母校の出身シンガーたちがそろう。そうなると金子、徳永、フォレストシンガーズが出演者となる。ロック同好会出身の柴垣さんのバンドもあるのだが、彼らはマイナーすぎるのか、パンクバンドだからなのか、参加はしていなかった。
 その録画撮りのために、七人がテレビ局のスタジオに集合した。いまだに反目し合っているというのか、というよりも、徳永さんが一方的に本橋さんと乾さんを嫌っているというのか、ではあるので、待ち時間の控え室では徳永さんは本橋さんと乾さんには冷淡だった。幸生がとりなそうとしても、金子さんが苦笑まじりの小言を言っても、徳永さんは黙殺を貫いていた。
 が、仕事となると徳永さんも態度を一変させて、よそゆきの顔になった。女性司会者が会話をリードしてくれて、合唱部時代の逸話なども披露した。むろん各々の持ち歌も歌い、録画撮りが終了すると、自然に飲みにいこうということになった。
「なあ、幸生、おまえはどうしてとぼけたんだ?」
 いやそうなそぶりありありの徳永さんを、強引に金子さんが引っ張ってきて、金子さんの行きつけの店に腰を落ち着けた。徳永さんは隅っこでひとりで飲んでいる。金子さんは乾さんと話している。本橋さんと章はふたりで話している。俺は幸生に内緒話をしかけた。
「知ってたんだろ。大きな声では言えないようだけど、音羽さんの連れの女性だよ」
「しっ! こんなところで言ったら駄目だって」
「駄目だと言うってことは、非常に問題ありってわけだな。こんなところで言ったらって……ってことはつまり……」
「シゲさんはそんなのなーんにも気にしてないのかと思ってたけど、気にしてたの?」
「おまえには言わなかったけど、徳永さんがさ……恭子もさ……」
「んん、んん、困ったな。なんでこんなところでその話を持ち出すんだよぉ」
 この言動からすると、幸生はあきらかになにかを知っている。幸生はテーブルの紙ナプキンになにやら走り書きをして俺に手渡し、ちょっと失礼、とことわって席を立っていった。
「時間差で出てきて。中庭にいるから」
 紙ナプキンにはそうしたためてあったので、しばらくしてから俺も席を立った。居酒屋には広い中庭があって、幸生を見つけて近寄っていくと、幸生はぶるっと震えてみせた。
「今夜は冷えますね。それにさ、金子さんも乾さんも徳永さんも敏感なんだから、なにかしら察して見にくるかもしれないよ。話せば長くなるんだから、手早くすませるってのも無理なんだよね。話は後日にしません?」
「込み入ってるのか」
「俺にもすべてがわかってるんでもないんだよ。超ややこしいんだから」
「超……それって成人男子の語彙か」
「そんなのどうでもいいでしょ。ほら、シゲさんがよけいなことを言い出すから、乾さんが登場しちゃったじゃん」
 どうした、気分でも悪いのか、と聞こえた声は乾さんで、姿も見えた。
「幸生が出ていったと思ったら、シゲまでだろ。なんとなく妙な感じだったから俺も出てきたんだよ。夕涼みって気候じゃないのに、なんだよ、ふたりしてしかめっ面して」
「乾さんはよーく知ってるんじゃありませんか」
「シゲさん、しっしっしってばっ!!」
 しっしっしっ、とは、追い払っているのではなく、黙れと言いたいのだろう。乾さんは幸生と俺を見比べて首をかしげた。
「もうっ、シゲさんってばシゲさんってば……そんなふうに言ったら一巻の終わりじゃん。乾さんが疑念を抱いてる。こうなったらごまかせないよ」
「幸生はごまかしたいのか。シゲは?」
 大野莢子さん、と俺がひとこと口にすると、乾さんもしかめっ面になった。
「おまえたち、音羽さんに会ったんだよな。そして大野さんの名前が出た。シゲ、おまえらしくもないお節介はやめろ」
「……これだけで乾さんにはわかるんですか」
「わかる気はするよ。おまえたちがなにをどこまで知ってるのかは知らないんだけど、シゲや幸生が首を突っ込む必要はまったくない。関知するな」
「関知するなと言われましても、なにがなんだかわかるようなわからないような……」
「わからないままにしておけ。幸生は?」
「だって……」
 口答えしかけた幸生を、乾さんはぎろっと見た。
「つべこべ言うな。その件については口出し無用だ」
「金子さんが……」
「黙れ」
「……だってさぁ、乾さんったら、なんだってそんなに怖い顔……きゃああ、怖いよぉ。シゲさん、助けて」
 幸生は俺の背中に隠れ、乾さんはふっと表情をゆるめた。その目は幸生と俺を素通りして、俺たちの背後を見ていた。
「深刻ぶる必要もないのかな。俺が勝手な憶測をしてるにすぎないんでしょうかね」
 誰に向かって話しかけているのかと振り向いたら、金子さんが立っていた。
「金子さんはどのあたりから聞いてらしたんですか」
「乾が叱責口調で喋ってる。相手は三沢かと思ったんだ。三沢が乾に叱りつけられてるなんてのは珍しくもないけど、本庄もいるんだな。内容までは聞こえてなかったよ。寒いのになにをやってるんだ。中に入れよ。本橋も言ってたぜ。あいつら三人そろって、腹でもこわしたのかな、だってさ」
「本橋らしい台詞ですね。内容は聞こえてませんでしたか」
「聞こえなかったよ」
 背の高い金子さんと乾さんの視線が、俺たちの頭上でからみ合った。視線と視線がなにを語り合っているのか。俺にはまるきり読めないのだが、恭子の推測は当たっていたのだろうか。だからこそ乾さんは、幸生と俺を叱りつけたのか。
「そうなんだとしたら、俺には許せませんけどね」
「シゲさん、いいからさ。黙ってってば」
 必死になって俺の袖を引いている幸生の手を払いのけて、俺は言った。
「友達の恋人を奪うだなんて、そんなの絶対に許せない」
「ああ、シゲはそう思ってたのか」
 乾さんが言い、金子さんも言った。
「ふむふむ、この台詞は本庄らしいじゃないか。な、乾?」
「……らしい? まったく金子さんときたら……らしいと言えばその通りですね」
「なあ、本庄?」
 呼びかけられて見つめると、金子さんは言った。
「俺には許せるんだと言ったら?」
「……信じられません」
「そうか。まあいいさ。中に入ろう。本橋まで出てくるぞ」
 先に立って金子さんが戻っていき、乾さんは俺の肩を叩いてから金子さんに続いた。幸生はふたりを見送ってから呟いた。
「あれって大人の台詞? 俺はガキ?」
「あんなの大人じゃないよ。自らを欺いてるんだ」
「男ってのは誰もがシゲさんのようにまっすぐではない」
「まっすぐだと悪いのか」
「悪くないよ。俺はそんなシゲさんが大好き。だけどさ、あんな乾さんも好きだし、金子さんは金子さんで……ああ、ああ、うう、あうう、あわわ……」
「なにを言ってるんだよ、おまえは」
「いいよ。シゲさん、俺たちも戻ろう。ね?」
 関知するなと乾さんに命じられたのだから、これ以上関知するのはよそう。だが、音羽さんが金子さんの恋人である大野さんを奪い取ったのだとしたら、俺はどうしたって音羽さんを許せない。その気持ちは変える気にもならないのだが、まちがいなくそうなのかと自問してみたら、答えはあやふやなのだった。


 放映当日は恭子が留守にしていたので、恭子のために録画しながら、ひとりでテレビを観た。ヒデの住まいはケーブルテレビを観られる環境にあるのだろうか。観られるのだとしたら観てくれているだろうか。金子さんも徳永さんも、ヒデにとってもなつかしい先輩だろうから。
「金子さんがいちばん年上でいらっしゃるんですよね」
 司会の女性が言い、カメラが金子さんをアップでとらえた。
「そうです。僕が三年生の年に徳永、乾、本橋が入学してきました。四年生の年には本庄が入学してきたんですけど、三沢と木村は僕が卒業してからの入学になりますね」
「金子さんはキャプテンをつとめておられたんでしょう? 新入生だったころの他のみなさんって、どんな少年だったんですか」
「今の彼らを十年分若返らせた感じですかね。中身もそんなには変わっていません。人間性はひとことでは言いあらわせませんけど、あなたの第一印象ではいかがですか」
「私ですか」
 ざっと打ち合わせはしてあったのだが、進行にはアドリブも混ざる。司会者の女性はフリーアナウンサーなのだそうだから、アドリブも得意なのだろう。我々を見回して言った。
「年齢が下の方から順に言わせていただきますと、そうですね。三沢さんは可愛らしい感じ? 大人の男性に可愛らしいなんて言ったら失礼でしょうか」
「いえ、僕は可愛いのが持ち味ですから、感激です。ユキちゃん、感激っ!」
「ご本人がそうおっしゃるんでしたらいいんですね。次は木村さん……木村さんはもとはロックをやってらしたという先入観があるからでしょうか。斜め目線にぞくぞくっ」
「ぞくぞくっ、ですか」
 言われた本人はくすぐったそうにしていて、司会者の視線が俺に向いた。
「続いて本庄さんですね。どっしりと落ち着いてらっしゃる」
 どっしりなんかしてないんだけどね、と俺は思っていたのだが、そうですかぁ、と頭をかいておいた。
「徳永さんはニヒルなムードですね」
「よく言われます」
 徳永さんの返答はまさにニヒルで、司会者は本橋さんと乾さんを見た。
「でしょうね。乾さんは優しそう。本橋さんは男っぽくてかっこいいですね」
 第一印象ならば妥当なセンだろう。俺が本橋さんと乾さんにはじめて会ったときの第一印象は、このひとたちか、かの有名な本橋乾デュオは、であって、外見はさして気にかけていなかった。気にかけたとしたら、ふたりとも背が高いんだな、程度だったはずだ。徳永さんは怖そうだったし、金子さんはキャプテンだったのだから、雲の上のお方だった。
 幸生はしょっぱなから、なんとよく喋る奴だ、だった。章はどうだっただろう? なんと高い声をしているんだ、だったか。ヒデは……いや、ヒデはここにはいないのだ。俺はテレビに出ているのだから、意識でよそ見をしていてはいけない。司会者が言っているのに耳を集中させた。
 テレビを観ているのも俺、なのに俺が映っている。観ている俺と出ている俺が混乱してきそうで、同一人物感が希薄になってきそうな気もしていた。
「それから最年長金子さん。粋で大人って感じかしら。大人なのは当たり前ですよね」
 うんうん、と他の全員はうなずいたのだが、金子さんは複雑そうな笑みを浮かべていた。でも、と司会者は言った。
「この番組のプロデューサー氏は金子さんが合唱部に入部なさった当時の副キャプテンだったんだそうでして、いろいろとエピソードを聞きました。話してもよろしいでしょうか」
「酒がほしくなってきましたね」
「お酒は番組がすんでからごゆるりと。みなさんはごぞんじなのかしら。こんな話を聞いたんですよ」
 金子さんが一年生のときの話なのならば、他のみんなはリアルタイムでは見聞きしていない。みんなして身を乗り出した。
「金子さんは楽器にも堪能でいらっしゃる。幼いころからピアノを弾いておられたそうなんですけど、歌とピアノは別だとの認識をお持ちでして、合唱部ではその話はなさらなかったそうです。あるとき、プロデューサー氏と同年の合唱部の四年生が、オーケストラからハープを借りてきた。誰かハープを弾ける者は? と質問された合唱部の男子部員たちの中に、金子さんのお友達がいらしたんです。金子さんはまだ部室には来られてなかったんですが、そのお友達が、金子さんだったら弾けるのではないかと言い、やってきた金子さんにキャプテンが尋ねた。最初は弾けないとおっしゃっていた金子さんは、先輩方に弾けと命じられて渋々ハープの弦を爪弾いた。なんとも美しいしらべが流れ出し、みなさんはうっとりと聴き惚れていたと。それからなんだそうですね。ピアノ以外の楽器にも興味を示されるようになったのは」
「まあ、そうですね」
「楽器にも開眼なさったんですね。金子さんはハープの練習を積んで見事に弾きこなせるようになって、それからはさまざまな笛に手を伸ばした。金子さんが部室で笛を吹いておられたときの話しです」
 この番組のプロデューサー、当時は男子部副キャプテンだった田中さんは、部室のドアを開けようとして笛の音に気づいた。当時のキャプテンは奈良林さんといい、彼がうしろにいるのも気づいた田中さんは問いかけた。
「誰だ、この笛は?」
「金子だろ。練習してたのは俺も知ってたよ。あいつ、楽器の才能もたいしたもんだな。笛ってそう簡単に吹けるものじゃないだろ。横笛なんかだと音を出すにも苦労する。すかっ、ぽすっ、ひゅっ、ひょっ、だよ」
「だよな。いい音を出してるじゃないか。俺も吹いてみたくなってきたよ」
 キャプテンと副キャプテンは部室のドアを開け、中で大きな縦笛を口に当てていた金子さんに、奈良林さんが言った。
「金子、俺にもやらせてくれよ」
「それ、なんていう笛だ?」
「オーボエです。おふたりとも吹いてみられたいんですか。笛って口で吹くんですよ」
「そんなの知ってるよ」
 貸せよ、と手を伸ばした田中さんに、金子さんはかぶりを振った。
「悪いけどお断りします。笛は他人に貸すものではない」
「なぜ? いいじゃないか」
「キャプテン、やめて下さい。お断りします」
「ケチだな」
「ケチでもいいんです。いやです。失礼します」
 断固としていやだと言い張った金子さんは部室から出ていってしまい、先輩たちは首をひねっているしかなかったのだそうだ。田中さんの記憶にはくっきり残っていたその一幕を聞いたという司会者が語り終えて、どうしていやだったんですか? と金子さんに質問を向けた。
「唾液がね」
「唾液?」
「いくら先輩でも男ですよ。男と男の唾液が混じり合うなんて気持ち悪いでしょう」
「ああ、そうだったんですか」
 真っ先に乾さんが吹き出し、徳永さんも笑っていた。幸生もくすくす笑い、章もつられたように笑い出し、司会者も笑い出してしばし笑い声が響いていた。本橋さんも苦笑していたが、俺は心からは笑えなかった。俺が金子さんの立場だったとしたら、先輩に楽器を貸せと言われたら断れなかっただろう。唾液に思い当たったとしたら、あとで洗ったかもしれない。あれ? 笛って洗ってもいいんだっけ、と考えていると、金子さんが言った。
「僕の話はこのくらいでいいでしょう。本橋と乾と徳永が入部してきたころの話に変えましょう。三人もの逸材が入部してきたというので、先輩たちは歓喜の渦に包まれていたんですよ」
 歓喜ばかりではなかったようで、嫉妬もひがみも渦巻いていたのだとは、俺も知っている。徳永さんが先輩だとは見なさないと言ってのけた溝部さんを代表とする一派が、暗躍していたのも知っている。そんな負の部分は誰もが口にせず、金子さんを中心にして楽しいエピソードが繰り広げられていった。
「ありがとうございました。ファンのみなさまにも興味深く聞いていただけそうなお話しでしたね。では、歌っていただきましょうか。まずはフォレストシンガーズのみなさん、よろしくお願いします」
 シゲさんももっと喋ったらいいのに、と幸生。テレビとなるとシゲさんはいつも以上におとなしいね、と章。後輩ふたりにそんなふうに言われつつも準備を整えて、五人で歌った。新曲の「Tree of paddy」。日本語では「もみの木」。三沢幸生&乾隆也作詞、本橋真次郎作曲のクリスマスソングでもあり、ダンスミュージックでもあって、俺の苦手な振り付けつきだ。

「レディ、お手をどうぞ
 レディ、ためらわないで
 レディ、この胸においで

 この腕で抱き寄せて 
 この胸に頬を伏せて
 僕の鼓動に耳をかたむけて
 僕の想いを受け止めて」

 最初は幸生、次のフレーズは乾さんのソロで、残る三人は英語のハーモニーをつける。英語部分の詩は乾さんが書いた。

「To the way of the star that twinkles in the top of the Christmas tree.
 Love glitters in your mind.
 Love overflows in my mind. 」

 一生懸命レッスンしても不器用な俺はダンスっぽい動きは大の苦手だ。ダンスに気を取られると歌がお留守になりそうで冷や汗かきかき、どうにか無事にこなして席に戻った。次なる歌は徳永さん。徳永さんは作詞も作曲もしないのだそうで、他人の書いた歌だった。タイトルは「その日までは」。

「果てしなき想い、そんなものはないのだから
 果てもなきふたり、あり得ないさ、あり得ないよ
 いつか終わりがくると知って
 知っているからこそ
 さよならを告げるその日まで」

 なんだか俺たちのラヴソングを真っ向から否定されているような気もするが、徳永さんらしい歌だともいえる。こちらはブルースで、徳永さんのハスキーヴォイスには素晴らしく似合っていた。トリを取るのは金子さんで、これまた金子さんらしいというのか、ボードレールの「悪の華」に「祝涛」という詩があって、金子さんがその詩に曲をつけたのだそうだ。

「至上の神の命令一下して
 「詩人」がこの退屈な世に生れ出た時、
 生んだ母親は喫驚仰天、拳を固め
 悪口雑言、哀れとおぼす「神」さえ怨んだ」

 そのあとはフランス語になるので言葉すらわからず、日本語からして高踏すぎて高尚すぎて、俺は頭を抱えて苦悶したくなった。ボードレールなんてありきたりだろ、と金子さんは言っていたが、ありきたりだと言えるのも金子さんならではではないのだろうか。
「ファンのみなさまには、フォレストシンガーズ、徳永渉さん、金子将一さんのそれぞれの歌は、それぞれに心の琴線に触れたのであろうと、私にもわかりました。みなさまの心にいつまでも残る、素敵な歌をありがとうございました。今夜はこれで……」
 しめくくりの言葉を口にする司会者のアップに、金子さんのフランス語がかぶさっていく。エンドロールも流れていく。この歌詞にしては意外に軽快なメロディラインが、俺の心にも残っていた。
「金子さんってわけわかんないよな。俺にはむずかしすぎる」
 この番組の録画撮りのあとでの、乾さんや幸生や金子さんの言動などなども思い出し、テレビを消した俺はひとりごちた。
「乾さんにでもわかりづらいひとなんだそうだから、俺には無理だよ。お手上げだよ。だからさ、金子さんの恋愛問題なんてものも、俺にはわからない。だから知らん振りしていたほうがいいんだろうな。でも、ヒデだって許せなくないか? ああいうの、ヒデにだったらわかるのか? わかるはずないがかやーっ、だよな。おまえも単純……そうでもないのか? 俺にはおまえもわからないよ。おっと、幸生じゃあるまいし、ひとりごとを言ってるとあいつの病気がうつるよな。恭子、そろそろ寝るよ。おやすみ」
 恭子も俺を思い出して、おやすみって言ってくれてるかな。恭子はオーストラリアにいるんだから、時差があってまだ寝ないのかな。シドニーは何時だろ。声を聞きたいけど、集中力の邪魔をしたらいけないからやめておくよ。恭子、試合、がんばれよ。ひとりごとはそこまでにして、恭子の夢を見られたらいいな、と思いつつベッドに入った。
 
 
4

 シリアスな顔をして、ヒデが俺の前にすわった。
「なあ、シゲ……言いたくなんかなかったんだけど、苦しいんだよ」
「なにが? 便秘か?」
「……だあーっ、だな。ほんとにおまえはだーっだよ。このだーっ男!」
「だーっ男ってなんなんだよ。便秘じゃなかったらなにが苦しいんだ」
「言っていいのか」
「言えよ」
 一分間程度も口ごもってから、ヒデは口を開いた。
「好きになったんだ」
「好きな子ができたのか。そんならなにもそんな顔をしなくてもいいじゃないか。誰?」
「言っていいのか」
「言えって言ってんだろ」
「俺のこの顔でわからないのか」
「わかるわけないだろ。おまえの好きな女の子なんて……俺の知ってる子なのか」
「ああ、よーく知ってる子だよ」
「合唱部の子?」
「そうじゃない」
 言いたいのか言いたくないのか、はっきりしろ、と迫ったら、ヒデは言った。
「テニス部の子だよ」
「テニス部か。そしたら恭子も知ってる子なんだろ。ヒデが告白しにくいんだったら、恭子に手筈をつけてもらったらどうだ? 恭子に話してやろうか」
「いらないよ」
「自分で言うのか。そのほうがいいな」
「言わない。言えない」
「言わない? おまえ、前には俺に言ったじゃないか。告白もしないで諦めるなんてだらしないってさ。そんなのヒデらしくないぞ。好きになったんだったら彼女に言えよ」
「言っていいのか」
「俺の許可はいらないだろ」
「実は……言ったんだよ。告白はしたんだよ」
 なぜかヒデは悲しそうな顔になった。
「彼女も言ってくれた。私はヒデくんが好きだよって」
「そんならなんにも悩まなくてもいいじゃないか」
「悩むんだよ」
「なぜだよ。全然わからない」
「……おまえはだーっ男だもんな。言っていいのか」
「なんだよ、さっきから何度も何度も……」
 言っていいのか、ばっかりだ。言えよ、と促すと、ヒデはぽつりと言った。
「恭子さんだよ」
「え?」
 ヒデがなにを言ったのか、しばらくは理解できなかった。理解できた次の瞬間、頭の中も心の中も真っ白けになって、ヒデと見つめ合った。先に目をそらしたのはヒデだった。
「恭子さんが言うには、私はシゲちゃんも好きだけど、ずっとヒデくんも好きだった。ヒデくんも私を好きだと思っていてくれて嬉しい。だけど、私はどうしたらいいの? って泣きそうな顔をするんだよ。言いたくなんかなかった。恭子さんにもおまえにも言いたくなかったけど、苦しくて苦しくてたまらなかったんだ。シゲ、どうする? 殴るか」
「……そんな……人を好きになる気持ちってのは……うまく言えないけど、そんなの……だったら俺が……俺が恭子と別れたら丸くおさまる……のかな?」
 そのとき、うしろからがっと両肩をつかまれた。
「シゲちゃんったらかっこいいこと言っちゃって、私の気持ちはどうなるの?」
「恭子……だけど……恭子はヒデが好きなんだろ」
「シゲちゃんも好きだよっ!!」
「そんなぁ。俺にはそんなややこしいのは無理だよ。俺はいいからさ、恭子はヒデが好きなんだったらヒデと……ヒデはそのほうがいいんだろ」
 馬鹿っ!! と怒鳴られて頭を殴られた。そのはずみで眼が覚めた。
「……夢? ああ、よかった!」
 ベッドに起き上がった俺は、心底心底心底からの安堵の吐息をついた。
 昨夜は夢で恭子に会いたいと念じて眠った。ヒデに会いたいともずっと考えていた。そんな願望がミックスされて見た夢だったのだろう。それにしても内容がひどすぎる。俺を殴ったのはヒデか恭子か? どっちでもいいけど、おかげで眼が覚めてよかった。寝直したらもっと楽しい夢が見られないものかと、再びベッドに横たわって目を閉じた。
「勝ったほうが恭子さんと結婚するって、オス猫かよぉ、ヒデさんとシゲさんは」
 呆れ果てた表情で言っているのは幸生で、本橋さんも言った。
「そうしか決着のつけようがないんだったらやれよ。ヒデとシゲの喧嘩ってのは見ものでもあるよな。俺はいっぺん見てみたかったんだよ。ただし、死なない程度にしろ」
「そんな、リーダー、そんな呑気なことを言ってる場合ですか。シゲさんもヒデさんも喧嘩は強そうですよ。壮絶になるんじゃないんですか」
 章も言い、乾さんも言った。
「オス猫の喧嘩か。しかし、まあ、この際はしようがないんじゃないか。ね、ミエちゃん?」
「暴力って嫌いだけど、女心をそそるシチュエイションではあるね。恭子さん、どう?」
「えー、私、どっちを応援したらいいんだろ」
「どっちをより以上に好きなのかによるね」
「美江子さんったら……どっちをって……どっちも好きだし……」
 おろおろと恭子が言っているうちに、ヒデと俺が立っている場所がボクシングのリングのような舞台になっていた。ヒデも俺も羽織っていたマントを脱ぎ捨て、手にはグローブをはめている。シゲちゃんっ、がんばれっ!! と恭子の声援が聞こえた。
「俺は相撲のほうが得意だし、相撲にしないか、ヒデ?」
「真剣勝負だぞ、これは」
「おまえと殴り合いってはじめてだよな」
「そうだったな、なにがどうなってこうなったんだっけ?」
「忘れたよ。でも、みんなが見物してるんだし、やらなくちゃどうしようもないんじゃないか。殴り合うんだったらこんなのはずして素手でやろう。正式な試合じゃないんだろ」
「おーし、異種格闘技にしようか。俺はプロレス技、おまえは相撲の技」
「うん、それがいいな」
 つかつかと寄ってきたヒデが、俺の頭をがんっと殴った。そのはずみに眼が覚めた。
「……あ、またまた夢か。最初の夢よりは面白かったような……もう一度寝よう」
 ひとりごとを言って目を閉じたら、三たび沈んでいった夢の国にもヒデがいた。本橋さんも乾さんも幸生も章も美江子さんも恭子もいて、七人で芝生にすわっていた。
「徳永さん、こっちに来ません? ヒデさんが帰ってきたんですよ」
 幸生が呼びかけると、徳永さんもやってきた。乾さんは金子さんを呼んだ。
「金子さーん、みんなで飲みましょう」
「小笠原か。元気そうだな」
 金子さんもやってきて、今度は高倉さんを呼んだ。
「キャプテン、こうやってみんながそろうなんて珍しいんですから、飲みましょうよ。酒巻、いいところにいるじゃないか。ビールを買ってこい」
 高倉さんも仲間入りして、柴垣さんを呼ぶ。酒巻は金子さんから受け取った金を持って駆けていく。安斉も実松もいる。田中さん、渡辺さん、溝部さん、酒巻、鈴木、俺の記憶の中に住んでいる先輩たちも後輩たちも、同い年の仲間たちも、合唱部ではない泉水も、女のひとたちも加わって大きな輪になって、ビールを飲みながらみんなで歌った。ヒデも歌っている。音痴の恭子も歌っている。恭子もヒデも無邪気に笑っていた。
「これ、なんの歌だ?」
 自分の歌っている歌がなんなのかわからなくて誰かに尋ねたら、答えを聞く前に眼が覚めた。
「……ああ」
 ベッドにすわって頭を振った。頭を振り振り長いことぼーっとしていた。
 夢の中ではありがちだが、眼が覚めたと思っていても実は寝ている。俺も殴られて目を覚ましたつもりが、本当は夢の続きだったのだろう。殴られる都度シーンが変わって、今度は実際に目覚めたのだ。三度目のシーンがいちばんよかったけど、最初のも二番目のも覚えていた。
 一番目、ヒデは恭子を知らない。ヒデがいなくなってから俺は恭子と知り合った。なのだから、あのようなことはあり得ない。金子さんと音羽さんと大野さんのいわゆる三角関係が形を変えて夢になったのか。
 二番目、あれは一番目の続きだった。口論だったらしばしばしたけれど、ヒデと殴り合いをした経験はない。だが、ヒデも俺も格闘技は好きだ。ふざけて取っ組み合いをしたことならあるのだから、それが夢に変な形で出てきたのだろう。シゲちゃん、がんばれっ、と恭子は言ってくれた。やっぱり恭子は俺がいいんだよな、と夢にも関わらず嬉しかった。
 そして三番目、あれは実現してほしい。現実では先輩も後輩も年代もごっちゃになった大勢が集まるのは無理がありそうだが、最初の七人がああして芝生にすわってビールを飲むんだったら、実現不可能だとは思えない。予知夢だったらいいのになぁ、だった。
 三番目の夢の中で歌っていた歌も、記憶に残っていた。残ってはいるのだが、目覚めてもなんの歌だったのかがわからない。俺はベッドから抜け出してギターを手にした。夢の破片が消えてしまわないうちに、メロディを書き留めておきたかった。
 幸い今日は休みだ。恭子がいないのは寂しいけど、たまにはひとりきりもいい。パジャマを着替えもせずに下手くそなギターで夢の中のメロディを再現して録音し、譜面に起こし、適当にメシを食って、そうしていたらあっという間に休日が終わってしまった。
 翌朝、俺は完成させた譜面を抱えて家を出た。スタジオに行くと乾さんが来ていたので、半ばおずおずと譜面を見せた。乾さんは無言で譜面を見てから俺に顔を向けた。
「これは?」
「夢で聴いた歌なんです。やっぱり盗作ですか」
「いや、どこかで聴いたフレーズだとは思えないよ。夢の中でインスピレーションが湧いたんだな。インスピレーションの産物なんだから、シゲのオリジナルだよ。おめでとう。やったな、シゲ」
「夢で聴いた曲ですよ」
「夢ってのはある種、自らの創造物だよ。その夢の中でシゲの頭に浮かんだ曲だろ。聴こえてきた曲にしたって、それが既成の曲ではないんだったら立派におまえのオリジナルだ。詩は?」
「詩はさっぱり覚えていません」
「そうか。だったら俺が詩を書こうか」
「お願いします」
「どんな夢?」
 譜面を見せたらたぶん乾さんは、どんな夢を見たんだ? と訊くだろう。忘れてしまわないように、乾さんに話せるようにメモにしてあったので、翌日になっても記憶はとどまっていた。
「細かいところは覚えてませんけど……大雑把に言えばこんなのでした」
 一番目から三番目までの夢の中身を話すと、乾さんは言った。
「そんなに気にしてたのか」
「……大野さんですか。乾さんに叱られたんですから、気にしないようにしようと思ってました。それでも気になってたんですね。詳しい事情も知らずに言ったらよけいに叱られそうですけど、俺は許せませんから」
「シゲだったらそうなんだろうな。なのに夢ではヒデに譲るって? 現実だったらどうだ?」
「仮定の空想なんかできません」
「ふーん。二番目の夢が現実に近いんじゃないのか。たとえライバルがヒデであろうとも、恭子さんを略奪されるくらいだったら闘う。その気持ちがそんな夢になったんじゃないのかな」
「夢は夢ですよ」
 許せないとは音羽さんか。大野さんもか。深く突き詰めると頭の中が渾然としてくる。ただ、三角関係なんて許せない。許せないのはそうすると金子さんもか。いっそう頭がごっちゃになってきたので、俺は言った。
「そういうのは許しがたいとは思うんですけど、二番目の夢はヒデとの遊びです。闘う前に目が覚めたんですから。そもそもあり得ないんですから」
「そうだな。おまえにはあり得なくて幸せだよ」
 言っておいて言い直した。
「あり得ないのは恭子さんの心の揺らぎもだよな。恭子さんはあんなにもおまえを愛してるんだから」
「あんなにもって……いえ、それはいいんですけどね」
「よくないだろ」
 こほんと咳払いをして話題をそらした。
「三番目はいい夢だったなぁ。あんなのもあり得ませんか」
「あり得るよ、きっと」
 乾さんにだって確信は持てないであろうに、きっぱりと言い切ってくれた言葉が無性に嬉しかった。


 へえーっ、シゲさんの作曲? と幸生と章がびっくり顔を見合わせ、本橋さんは言った。
「シゲは大器晩成なんだから、曲を書くにも時間がかかるんだよ。歌いはじめて以来、シゲの心の中では曲が醸造されてたんだ。そいつが熟成されて、何年ものだとかいうようなスコッチのごとく完成した。乾、聴かせろよ」
「うん。シゲ、悪いんだけどところどころ手直しさせてもらったよ。俺の書いた歌詞が乗るようにした」
「悪くありません。よろしくお願いします」
「ほおほお、リーダーもうまい表現するじゃん。シゲさん手作りのスコッチね。乾さん、早く歌って」
 幸生はそう言ってから首をかしげた。
「ちょっと待って。スコッチを自家醸造するって違法じゃないの?」
「またそういう下らない方向に頭を回す。リーダーの台詞は比喩だろ。比喩に違法もなにもあるかよ」
「違法の比喩ってないのかな。ないよな。うん、章、おまえもたまにはいいことを言う。乾さん、どうぞ」
 それはもうもう俺のギターなんぞより数倍は達者なセルフギター伴奏に乗せて、乾さんの歌声が響いてきた。

「仮定の空想をしてみようか
 もしもこの世に「歌」というものがなかったとしたら
 俺たち、めぐり会っていなかった
 頭も心も別々の方向に回るおまえと俺が
 こうしてめぐり会えたのは
 同じ夢を見るようになったのは
 この世に歌があったからさ

 もしもこの世に「歌」というものがなかったとしたら
 花々の彩りも雨だれのモノローグも
 夜空の星の輝きも
 潮騒の囁きも船の汽笛も
 枯葉の落ちる気配までもが
 黙りこくって世界が無口になってしまう
 
 もしもこの世に「歌」というものがなかったとしたら
 愛の告白さえもが色あせて
 恋人たちは虚しくなって
 口づけさえもがモノクローム
 子守唄も消え失せて
 赤ちゃんたちは眠れない」

 タイトルは、うん、タイトルは、と幸生と章が声をそろえた。
「もしもこの世に歌がなかったら?」
「それだとストレートすぎるな」
 乾さんは言った。
「愛しき歌ってのは?」
「演歌っぽくありません?」
 幸生が言い、章も言った。
「英語のタイトルにしましょうよ。song of mindってどう?」
「シゲはどんなタイトルがいい?」
 本橋さんに尋ねられて、俺は一歩引いた。
「え……えと……俺には歌のタイトルをつける頭はないんですから、乾さんにおまかせしますよ」
「シゲが作曲したんじゃないか。タイトルを考えろ」
「そんな……本橋さん、そこまでは……だいたいからして俺が作曲したってことになるのかな。夢に出てきた曲なんですよ。乾さんはそれも俺のインスピレーションの産物だと言ってくれましたけど、どうも心もとなくて……ヒデが書かせてくれたのかな。乾さんの詩のおまえと俺っていうのも……恋人同士じゃなくて……」
 章の前ではヒデの話は……と気にしていると、その章が言った。
「ああ、そっか。ヒデさんとシゲさんなんですね。そうかぁ、みんなそんなにもね……」
 そこで章は口を閉ざし、幸生が言った。
「おまえと俺って、歌の好きなすべてのひとですよね。本橋さんと乾さんだったり、金子さんと徳永さんだったり、章と俺だったりもするんでしょ。どこの誰だか知らないけど、歌が大好きなどこかの誰かさんと誰かさんだったりもする。そしたらあなたと私でもよくない、乾さん?」
「歌を書いたのは男なんだから、おまえと俺でいいんだよ」
「ふむ、なるほどぼとぼと」
 なるほどと言うたびによけいなものをくっつけたがる幸生は、今日もぼとぼとをくっつけてうなずき、本橋さんも言った。
「歌はどこからともなく湧いて出てくるんだよな。俺も詩や曲を完成させるには時間がかかるんだけど、タイトルだったらけっこう先に出てきたりもするぞ。シゲ、いいタイトルを考えろよ」
「タイトルが先に出るんですか」
「そういう場合もある。そのほうが詩はうまくまとまる場合もあるよ。タイトルってのは詩の内容とマッチしてるものだろ。タイトルが先に浮かんで、そこからもやもやっと情景が浮かぶって場合もあるな。幸生はどうだ?」
「俺はタイトルは詩を書いてからです。乾さんは?」
「俺は両方だな。章は?」
「俺は詩は得意じゃないし、曲のタイトルってのは適当につけてるかな」
 他の四人は作詞作曲談義をはじめ、俺はない知恵を夢中で絞っていた。
 曲を完成させる発端になったのは夢だ。夢を見る発端になったのは、金子さんと音羽さんと大野さんとヒデと恭子。脳みそを整理整頓してみればそうだったと思える。金子さんたちの関係は当人たちにまかせて関知しないと決めたのだから、そうすると恭子とヒデか。せっかく乾さんが詩をつけてくれたのだから、恭子とヒデにこの歌を捧げたい。
「うーん、けど、それにしても許せないな」
 関係ないのについつい、許せないが出てしまう。幸生がきょとんと俺を見た。
「なにが、シゲさん? んん? 歌のタイトルから気持ちをよそにそらしていてはいけませんよ。ひらめいた?」
「まだだよ。幸生、えらそうに言うな」
 おそらくは本橋さんと章は知らないはずだが、乾さんと幸生は俺がなにを許せないと言っているのか知っているはずだ。乾さんは聞こえないふうをよそおってはいるが、聞こえているにちがいない。
 許せないのは許せないけど、俺が憤ってみてもどうなるものでもあるまいに、もう考えるのはやめよう。何度目かに決心して、俺は頭をタイトルに集中させた。恭子とヒデ、ふたりに捧げる歌にふさわしいタイトルは……? 浮かばない。乾さんの手元にある譜面を借りて、歌詞を睨んでなおも考えた。
「俺が無口じゃないのは……ってどうですか?」
 歌詞の一部をタイトルにするのはよくある。ようやくひらめいて言ってみたら、幸生が応じた。
「この歌は誰がリード? 乾さんかな? シゲさん? どっちだとしても、ファンの方がんんんってなりそうなタイトル……俺もんんん。むふふ」
「むふふってなんだよ。おかしいか。俺もそんなに無口じゃないだろ」
「そんなに無口ではないな。乾と幸生と章が喋りすぎるんだ。シゲや俺くらいがちょうどいいんだよ。恭子さんとだったら話題に途切れ目はないんだろ」
「はあ、まあ。本橋さん、恭子は……」
 関係なくはない。なくはないので途中で黙って、もっともっと考えた。
「歌があるから、これもストレートすぎるか。あの夢の中では……」
 みんなで歌っていたのだが、「みんなで歌おう」ではガキっぽいだろう。乾さんの歌詞によると、モノクロームの世界を歌がカラフルに変えていく。歌と恭子は俺の命。あれこれ頭を悩ませながらも、ここにヒデがいたら完璧なんだけどな、といつかも考えたことを、ヒデを省いて言ってみた。
「俺、ここまで来られたら満足ですよ。充分に幸せです。これ以上は望まなくてもいいかなぁ、なんて」
 なにを言ってるんだ、と本橋さんに怒られた。
「おまえの私生活は幸せいっぱいなんだろうけど、この程度で満足しててどうするんだ。俺たちはさらにはるかに上を目指すんだろ。な、幸生、あいつを見返してやるんだよな」
「デュークと出たテレビ番組の? そうです。その心意気です。シゲさん、タイトルはまだぁ?」
「……ええと……ああっと……」
 歌こそ我が命、ださすぎる。俺の我が命は歌だけではない。ほとんど自棄になって英語で言った。
「The song and you are my life」
「lifeじゃなくてlivesだな。The song and you are my lives。歌とあなたが僕の人生、だね。いいんじゃないのか」
 乾さんはそう言ってくれて、幸生も言った。
「英語にするとなかなかかっこいいよね。シゲさんも英語は得意だった?」
「まちがってたから乾さんが訂正してくれたじゃないか。得意じゃないよ」
 いいんじゃないか、と本橋さんも言い、章も賛成して、俺の初の作曲が歌になった。よし、レコーディングしようと本橋さんが言う。乾隆也作詞、本庄繁之&乾隆也作曲とクレジットされるのか。幸生じゃないけど、シゲちゃん、感激!! だなんて言いたくなったりして。いや、言わないけど。
 恭子が帰ってきたら歌ってやろう。恭子もきっと驚くだろう。シゲちゃんが作曲したの? と目を丸くして、素敵っ、とキスしてくれる。ヒデに再会できる日がきたとしたら、ヒデにはありがとうと言おう。おまえのおかげもあって俺にも曲が書けたんだと言おう。
 男と女ってのはややこしくてお手上げだけど、俺にとっては「女」であり「妻」である恭子がいたらそれでいい。先輩にお節介を焼くのはほんとのほんとにやめておいて、でもやっぱり許せないけどそれはそれで気を鎮めて、俺はこれからも歌おう。歌い続けていこう。
 そうしていたらヒデにも届く。恭子にはもちろん聴こえる。The song and you are my lives」。俺の人生はまさしくこのタイトルの通りなのだから。

END


 
 
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