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小説58(Tシャツに口紅)

 ←番外編17(2-2)(ロージートワイライト) →小説59(今日を生きよう)
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フォレストシンガーズストーリィ・58

「Tシャツに口紅」

1

 鏡に映る我が身をじっくり眺めてから、俺は外に出た。グレイの濃淡の縞模様の浴衣に紺の帯、洒落た帯の結び方をしてくれたのは誰だろう。それにどうも、俺は記憶にある俺自身の姿より若く見えた。記憶? 記憶ってなんだ? 俺は十八歳、大学一年生。浴衣を着ているのだから夏なのだろう。おふくろが縫って送ってくれた浴衣? 浴衣を自力で着られたのだろうか?
 浴衣に関しては考えてもわからないのだが、ちゃんと着ているんだからいいだろう。玄関には紺の鼻緒の桐の下駄がそろえてあって、俺はそれを履いて外に出た。
 外は夕刻だった。黄昏どきの涼風がかすかに頬にそよぐ。俺は夕涼みに出かけるつもりであるらしい。どこか自分が自分でないような、足取りもふわふわとおぼつかない気がするのだが、気のせいなのだと決めて歩き出した。あたりは見慣れた景色だ。金沢から上京してきて四ヶ月ばかり暮らしている、ひとり暮らしのアパート近辺。ごみごみした町なのだが、七月の夕暮れは気持ちがいい。ぶらぶら歩いていくと、子供たちの甲高い声が聞こえてきた。
「幸生も章もあっち行けよ」
「そうだそうだ、おまえたちなんか仲間に入れてやんないよーだ」
「俺たちだって、おまえたちとなんか遊びたくないもんねっだ」
 小学校の一年生ぐらいか、痩せた少年が口をとがらせて言い返し、彼よりもさらに小柄な少年も言った。
「幸生が悪いんだろ。おまえがわけのわからないことばっか言うから、仲間はずれにされるんじゃないか」
「だってさ、こいつら、ガキっぽいんだもん」
「おまえだってガキだろ」
「俺はこいつらよりは大人だよ」
 大人なんだったら俺たちとなんか遊んでないで、大人と遊べばいいんだよーだ、と、むこうで子供たちが一斉にあっかんべをしている。幸生と呼ばれた少年は、相棒に言った。
「そんならいいじゃん。俺たちはふたりで遊ぼうぜ」
「それでもいいけど、だったらさ、ビー玉返せよ」
「けん玉も返せよ」
 そんなの知らないよーっだ、と子供たちが言い、俺はいささか驚いた。今どきの子供がビー玉? けん玉? 俺が子供のころにはそういうおもちゃで遊んだりもしたものだが、今の子供はゲーム機じゃないのか。俺が突っ立って眺めていると、幸生は相棒に言った。
「こいつら、ビー玉とけん玉を取り上げるつもりだったんだ。俺たちに遊ぼうって言ったのはそのためで、取り上げたら仲間はずれにしようって魂胆だったんだよ」
「こんたんってなに?」
「章、おまえはなんにも知らないんだな」
「おまえが変な言葉ばっか使うから、変な奴だって仲間はずれにされるんだよ」
 相棒は章というらしい。幸生に章? 胸のどこかを刺激する名前だったが、小学生の友達はいない。気のせいだろう。
「いいから返せよ」
 一歩進み出て子供たちに手を差し出した幸生の胸を、ひとりの少年がどんっと突いた。幸生より格段に身体の大きな少年に突き飛ばされて、幸生は仰向けに倒れた。子供の喧嘩に大人が出るのはよくないと言うが、俺にしたってまだ本物の大人ではない。義を見てせざるは勇なきなり、というばあちゃんの教えを思い出した俺は、歩み寄って幸生を抱き起こした。
「多勢に無勢ってのは卑怯者の所業だぞ。きみらは彼らのおもちゃを取り上げたんだろ。返してやれ」
「誰、兄ちゃん? 幸生の兄貴?」
「いや……」
 否定しかけたら、幸生が俺の腰に抱きついてきた。
「兄ちゃん、こいつらひどいんだよ。章のビー玉と俺のけん玉、面白そうだから貸せって言って持ってって、返してくんないの。兄ちゃあん、怒ってやってよ」
「……そういうわけか。よし、怒ってやろうな」
「うん、さすが兄ちゃん」
 そういうわけか、とは、兄弟の芝居をするつもりか、という意味だったのだが、幸生も素早く察してにっこりした。芝居巧者は幸生の特質だもんな、と考えて首をひねった。俺はなぜにそんなことを知っている? まあいいか。ここは正義の味方、子供の味方を演じるしかない。
「どこに隠してるんだ? 俺の弟のおもちゃを取り上げたのはどいつだ? さっさと出さないとどうなるか知らないぞ。おまえか、出せ」
 もじもじこそこそしている少年を指さすと、彼は真っ赤な顔になった。仲間に目配せされて逃げ出そうとした少年を、俺は数歩走って確保した。子供の足ではいくらなんでも俺に勝てるはずがない。真っ赤になってじたばたしている少年の襟首をつかまえ、俺は誰かのような恫喝口調で言った。
「他の坊主どもも、友達を見捨てて逃げるなんてことはないだろうな。そっちのおまえも持ってるだろ。出せ。出さないのか。そうか、そんなら……」
「うわわっ!! てっちゃん、出してよっ」
 襟首をつかまえたまま少年の身体を吊り上げたら、足が宙を蹴った。その子は地面にばらばらとビー玉をばらまき、章がビー玉を拾い集め、てっちゃんとやらは幸生にけん玉を投げてよこした。
「よし、出したんだったら許してやる。幸生、章、おまえたちはこいつらと遊びたいのか」
「いらないよ、もう」
 幸生が言い、章も言った。
「こんな奴らと遊びたくないよ。さっきさ……ここに……てっちゃんが噛みついたんだ。幸生が生意気だって、なんでそれで俺に噛みつくの? 噛むんだったら幸生にしろよ。痛いよぉ。こんなになってるよぉ」
 か細い二の腕にくっきりと歯型が残っていて、確認したら痛みが増してきたのだろう。章は泣き出し、けっだ、弱虫、とてっちゃんが憎らしい調子で言った。
「生意気言う奴には言葉で対抗しろよな。暴力は最悪だぞ。てっちゃんか。章にあやまれ」
 どこかで聞いた台詞だ。誰かみたいな恫喝口調、などとも考えたのだが、どこで聞いた? 誰かって誰だ? 記憶が曖昧模糊として形にならないので、俺はふてくされているてっちゃんに言った。
「人間の口の中にはスピロヘータだのバクテリアだのってものがいるんだ。章の腕におまえが噛みついたら、そういう奴らが章の体内に回って毒を送り込む。そしたら章は破傷風にかかるかもしれない。そしたらおまえは犯罪者だぞ。パトカーがおまえを逮捕しにくるぞ。父ちゃんや母ちゃんが泣くぞ」
「え? 嘘」
 案外素直な子供で、てっちゃんは俺の脅しに青ざめた。
「俺は嘘は言わない。おまえが章にあやまって、二度とひとに噛みついたりしないと誓うんだったら、俺の持ってる薬を章にやるよ。俺は大学の医学部の学生だから、破傷風を未然に防ぐ薬を持ってるんだ。おまえが意地を張るんだったら、章とおまえを警察に連れていく。章は入院、おまえは逮捕。いいんだな、それで」
 やだっ!! とてっちゃんと章は同時に叫び、てっちゃんは言った。
「章、ごめん。もうしないよ。絶対にもうしないから」
「お兄さん、薬、ちょうだいよ」
「うん、ほら」
 袂を探ったら飴玉が入っていたので、俺は章にそれを渡した。章は疑わしそうに飴玉を見たものの、口に含んで言った。
「甘い薬だね」
「甘いのは嫌いか」
「薬だったらしようがないけど……これで俺、入院しなくてすむの?」
「ああ、大丈夫だ。おまえたち、軽い気持ちでつまらない真似をすると、大変な事態が起きる可能性もあるんだぞ。よく覚えとけ。そしたらもういい。そろそろ夕食の時間だろ。みんな、おうちに帰りなさい」
 はーい、と口をそろえて返事をして、他の子供たちは駆け出していった。幸生と章は残っていて、幸生が俺を見上げた。
「兄ちゃんは嘘はつかないって言ったけど、今の、嘘なんでしょ?」
「嘘じゃないよ。方便っていうんだ」
「ふーん。章がなめてるのはなに?」
「薬だよ。飴玉型の薬だ」
「兄ちゃんってお医者さんになるの?」
「あれは嘘。俺は医者の卵なんかじゃなくて、シンガーの……歌手の卵なんだ」
 やっぱり嘘つくんじゃん、とうなずいてから、幸生は言った。
「兄ちゃん、見慣れない顔だね。なんて名前?」
「乾隆也。おまえたちは帰らなくていいのか?」
「うん、いいんだ。あいつらが言ったじゃん。おまえたちはガキじゃないんだったら、大人と遊べって。兄ちゃん、俺たちと遊ぼうよ」
「なにして?」
「今夜は花火大会があるんだよ。連れてって」
 浴衣で花火大会、これまたどこか覚えのあるシチュエイションなのだが、それらの記憶はなにもかもが混沌としていて、明確な形にはならないのだった。こんな時刻に見知らぬ子供を、親の承諾もなしに連れ出していいのだろうか、ちらっと頭をかすめた疑問も、ま、いいか、となった。
「あっちの川に行くとよく見えるんだって。章も行きたいだろ」
「行きたいけど……薬をなめても痛いよ。俺、破傷風にかかってない?」
「かかってないって。ほんとはあれも嘘だ。てっちゃんには効果的な脅しだったんだろうけど、おまえには気の毒だったな。おまえがなめてるのはただの飴玉だよ。念のために洗っておこうか。そしたら病気になんかかからない。こら、泣くな」
「だってだって……」
 近くに見つけたよその家の水道を拝借して、章の傷を洗ってやった。章はしゃくり上げていて、これで完璧、と言った俺に抱きついて改めて泣き出した。
「悔しいよぉ」
「悔し泣きか。泣くのはよくないけど、悔しいって気持ちは大切だよ。あんな悪ガキに噛まれて泣いてるおのれが悔しい。そう思うんだったら強くなれ」
「強くなれる、俺?」
「精神力だ、ガッツだ。人間は気のもちようで強くも弱くもなる。おまえはちっちゃいけど、心と身体を鍛えたら強くなれるよ。いつかは恋人なんてものができて、そのひとをすべての面で守るためにも……まだこんな話は早いか。章、泣くのはそこまでだ。泣きやめ。こら、泣くな!」
 一喝したらびくんとして、章はいっそう泣き出した。章だもんな、あの章のガキ版だからこんなもんだな、と思って、俺は何度目かに首をかしげた。あの章、ってなんだ? が、考えてもまるきりわからない。
「章、痛くて泣いてるんじゃないの? 悔し泣きなんだね」
「そもそもおまえたちが仲間はずれにされたってのは、さしづめこうか。章があいつらに苛められて、幸生はその口で言い返し、生意気だってますます苛められた。おまえたちらしいな」
 自分で言って自分で首をかしげる台詞の連続だったのだが、幸生はうなずいた。
「そんなとこかな。兄ちゃんが来なかったら、俺たち、無茶苦茶されてたかもしれない。ねえねえ、花火がはじまっちゃうよ。章、いい加減泣き止めよ」
「う、うん。でも……」
「そんならこうしよう。章、おぶされ。俺の背中で泣きたいだけ泣いて涙が止まるころには、川にたどりついてるだろ。しかし幸生、この近くに川なんかあるか?」
「犀川があるじゃん」
「犀川? ここは金沢か」
「そうだよ」
 東京じゃなかったのか。ま、いいか。ま、いいか、ばかり出てくるのも不思議だったのだが、俺は章を背負って、幸生が示す方角へと歩き出した。
 初対面のはずなのによく知っているようにも感じられる子供がふたり。ひとりは俺の背中におぶさって、俺の肩越しに花火を見ている。もうひとりは俺の胸元あたりで、目を丸くして花火を見上げている。高校生のころまではたびたび見た犀川の花火大会。俺は大学生になって東京にいるつもりだったのに、ちがっているのか。
 大学生? ちがうだろ。俺はそんなに若くない……え? なにかが胸の奥から湧き上がりそうになっては、つかまえようとしたら遠ざかる。ふと我に返ると、幸生が立っているのとは反対の俺のとなりで、低めの女の声がした。
「乾くん、綺麗だねぇ。私、金沢ってはじめて来たんだけど、花火大会に来合わせてラッキーだったな」
「……ミエちゃん?」
「どうしたの? 私がいると意外?」
「いや、そしたら本橋は……シゲは……幸生は章は……」
 つい先刻まで、俺の背中と横にいた子供たちは誰だった? 子供たちなんかいたか? 俺はかたわらに立っているミエちゃんを見つめた。紫陽花模様の浴衣をすらりと着こなして、赤い帯が可愛らしく揺れていた。
「それって誰? 私の知らない乾くんの友達?」
「知らない? 本橋を知らない?」
「知らないよ。乾くんったら無粋だよね。こんなときに友達を思い出してるの。どうでもいいから花火を見たら?」
「うん、そうしよう」
 夜空に大輪の菊花が開いた。色とりどりの光が描き出す見事な花に、ミエちゃんが歓声を上げる。周囲に人影はなく、花火よりも俺は彼女が気になって……
「あ、今度は花火の飛行機雲みたい。素敵」
「きみのほうがもっと素敵だ」
 花火の上がる轟音にかき消されて、俺の声は彼女には届かなかった。
「今度はなに? わー、いくつもいくつもちゃっちゃいのが……光のシャワーだ。なんて綺麗なんだろ」
「きみはもっと綺麗だよ」
「なあに? 聞こえない。あとで言ってね」
「あとでは言えないんだよな」
「なんで? これはなに? トロピカルフラワーみたい。凝ってるんだね」
「俺は花火なんかよりも……」
「なに? あとにしてよ」
「いやだ。今でないと……」
「ちょっと、乾くん」
 抱き寄せたら彼女の声と顔が変化した。
「……まゆりちゃん?」
「どうしたの、乾くん? やだ」
 頬を染めて俺を見上げているのは、なつかしいひとだった。高校時代にはじめてつきあった彼女だ。浴衣も変わっている。赤い朝顔の花模様の少女らしい浴衣を着てピンクの帯を締めて、まゆりは目を閉じた。
「そうだったね。俺にはきみがふさわしいんだね。まゆり、好きだよ」
「私も乾くんが好き。ね、乾くん?」
「しっ、静かに」
 くちびるを合わせながら考えていた。金沢で俺のかたわらで花火を見ているひとは、まゆりこそがふさわしいのだ。
「いつまでもそばにいてくれる? 遠くに行ってしまったりしたらいやだ」
「行かないよ。俺は死ぬまできみのそばにいる。きみもだよ」
「指きりしよう」
「きみの小指と俺の小指は、赤い糸でつながってるんだよね。足の指だっけ?」
「どっちだったかな。そうだよね、乾くんの指と私の指……見えたらいいのになぁ」
「俺には見えるよ」
 なんて幼くもいじらしい恋だったんだろう。俺はまゆりとの約束を果たさずに、東京に出ていった。それっきりまゆりとは会っていない。同い年のまゆりも二十九歳になっているのだから、とうに結婚して子供のひとりやふたり、いるんだろうか。ん? 二十九? そうだよな。俺は高校生でも大学生でもなくて、二十九歳のいい年した男だったんだ。
 そこに思い当たったら、身体がふわりと浮いた。天から見えない腕が差し伸べられて、俺を掬い上げてさらっていく。俺はひとりではなかった。空に向かって飛翔していく俺の身体の横に、もうひとり誰かがいた。女だ。誰、きみは誰? 顔を見せて。願っても顔は見えず、声も聞こえない。もどかしくてじれったくて、俺は空で身をよじっていた。
 いっこうに正体の判明しない女とふたり、はるか高みまで見えざる手に掬い上げられて、すぐそばで花火が上がった。その拍子に俺は空から墜落した。墜落して地面に激突……眼が覚めたらベッドから墜落していた。
「……夢か」
 夢オチだったのか。なんだ、馬鹿馬鹿しい。俺は自宅の床にあぐらをかいて腕を組んだ。
「浴衣じゃないな。浴衣を着て寝る習慣はないもんな。なんだ、今の夢? いろいろと登場人物がいたよな」
 幸生に章にミエちゃんに……幸生と章は子供だった。子供になって俺の夢に登場してきた理由は、俺が彼らを子供視、弟視しているからなのだろうか。俺は心理学者ではないのだから、夢分析しても仕方ない。あいつらはどうでもいいとしよう。ミエちゃんはどうでもよくはないが、いつだって近くにいるのだから、彼女が出てきたとしても不思議はない。
 それから遠い過去のひと。俺のファーストキスの記憶がそのまんまあらわれていて、思い出すと面映い。まゆりはどうしているかなぁ。幸せに暮らしてる? 約束を破ってごめんね、とも言えずにいる俺を、きみは許してくれるだろうか。許してもらえなくてもいいけど、幸せになっていてほしいと心から祈ってる。
 そしてそして、ラストシーンにいたひとは、俺の未来のひとだろうか。なにひとつはっきりとは見えなかった女性だったけど、優しい気持ちが伝わってきたような……あなたを愛してる、って? あなたは聞こえない声で俺にそう告げてくれていたのだろうか。
 乾くんってもしかしたら、いまだに純愛に憧れてない? と言って笑ったひとがいたけど、たしかにそうだよ。憧れてるよ。たかが夢だけど信じておく。ラストシーンは予知夢だったんだ。俺にはああして寄り添ってくれる女性があらわれる。近い将来だか遠い将来だか、きっときっとあらわれると信じられる夢だった。

「きみがいた夏は遠い夢の中
 空に消えてった打ち上げ花火」

 心に浮かんだ昔の流行り歌のフレーズを口ずさんで、俺はベッドに這い上がって再び目を閉じた。できるものならあの夢のラストシーンの続きが見たい。あなたは誰だったの? 目を閉じて夢とうつつのはざまを漂っていたら、そのひとの輪郭がおぼろげに見えてきた。
 ほっそりしたやや小柄な可愛いひとが、俺の名を呼んでいる。乾さん……乾さん……会いたいな、と聞こえる。あなたは誰? 俺の未来のひと? 半ば眠りの中にいる俺の考えは、確固とした形にはならずにたゆたっていた。


「しつこい奴だな、おまえは。そんなら言ってやるよ。ゆかりにも乃理子にも俺がふられたんだ。そのあとも何度もふられてる。満足か」
「おまえがふられたからって俺が満足する必要もないんだけど、そうだよな。おまえの持論だった。男はそうして大人になるんだ。よかったね、本橋くん、おまえもそうして大人になった」
「やってらんねえよ」
 女をふった経験ならあっても、ふられた経験はないのか? と過日の質問を蒸し返すと、本橋は不機嫌顔で話した。話してから質問し返した。
「おまえがふられた話はなんべんか聞いたけど、恋愛遍歴は何度になるんだ?」
「忘れた」
「忘れるほど多いのか。さすがにもてる男はちがうな」
「おまえは、乾、てめえはイヤミな野郎だな、って言うけど、そっちはもっとイヤミだね」
「イヤミで言ってるんじゃないぞ。心から感嘆してるんだ。俺はおまえほどもてないからな」
「なにをおっしゃる真次郎さん」
 ゆかり、乃理子という名は、本橋の大学生初期の恋人である。俺も彼女たちを知っているのだが、本橋がふられた顛末はよく知らない。ふられたときには落ち込んでも、時がすぎれば甘い追憶に変わるのだから、本橋も彼らしくもなく、時にはそんな想い出を夢に見たりするのだろうか。
「この間、夢を見たんだよ」
 言ってみたら、本橋は訊き返した。
「どんな夢だ?」
 正直に話すと笑われるだろうし、夢の記憶は薄れつつあるので、出まかせで応じた。
「おまえと取っ組み合いする夢だったな」
「現実にはやったことないだろ。やってみるか」
「けっこうです」
「なんでおまえはそうなんだよ。喧嘩じゃなくてゲームってのか、腕相撲と似たようなもんだよ。それでもいやなのか」
「いやだよ」
「負けるに決まってるからだろ」
「はいはい、しかとその通りでございますですよ」
 なんだって取っ組み合いなどしたいのか謎なのであるが、本橋は時おり俺を挑発する。学生時代からしばしば本橋は俺に喧嘩を売り、俺は断じて買わなかった。
「売られた喧嘩を買わないなんて奴は、男じゃねえんだよ。俺は買うぞ」
 そう言われても俺は買わない。本橋ではない男だったら、時と場合によっては、正当な理由でもあれば買うにやぶさかではないのだが、本橋と喧嘩をするつもりはない。実際は寸前まで行ったことはなくもないのだが、決まって止めに入る奴がいた。そいつがやってきて、今日も言った。
「本橋さん、乾さん、なにかもめてます?」
「もめてないよ」
 夢が発端になって、それがどうしたわけか、ふられたなんて話になって、そうしてまたもや、俺の想いは過去へとさすらっていくのだった。


2

「乾くんって合唱部にいるんだよね」
 当時の院生で、文学部教授の助手といった立場だった女性が話しかけてきたのは、俺が大学一年生になってたいした日もたっていなかったころだった。彼女は日米ハーフで、里中アリスという本名を持っていた。
「私も合唱部にいたのよ。乾くんよりは六つ上だから、高倉くんと同い年だね。とはいっても高倉くんは三浪だから、学年では私は高倉くんの三年上。高倉くんが入部してきたときの女子部のキャプテンだったの」
 三浪の高倉さんはただいまの男子部キャプテンなのだが、三浪なので計算が複雑になる。すると、現在の四年生たちは里中さんを知っているわけだ。
「私は卒業後も院に残ってるから、合唱部には注目してたのよ。いい男がふえてきたね」
「里中さんから見ると、いい男にランクインするのはどなたですか」
「星くん、金子くん、皆実くん、徳永くん」
「……やっぱり……」
 女性が即答したのだからまちがいない。男子合唱部の面々の中でのルックス抜群の男は、年齢順に並べれば、星丈人、金子将一、皆実聖司、徳永渉となる。彼らは顔も姿もよすぎたし、加えて歌唱力でも卓越していたから、水準よりやや上といった程度ではランク外にはじき出されてしまうのだ。
 身長は徳永と皆実さんが同じくらい、金子さんと星さんも同じくらいか。四人ともに筋肉質の体格で、男にもナイスバディってやつがあるのだとしたら、全員がそこにあてはまる。
 顔立ちでいえば、星さんは凛々しく彫りが深く鋭角的、金子さんは華麗で優美、皆実さんは理知的、優秀な頭脳と意志の強さが顔にも反映していた。徳永は陰翳のある美貌の持ち主だ。俺が一年生だった当時は、男子合唱部に同年の徳永と、三年生の金子さん、皆実さん、四年生の星さんがまさしく夜空の星のごとくきらめいていた。
「学部生の女の子たちも騒いでるんだろうけど、女性教授たちだって言ってるよ。演劇部だとか古典芸能を演じるサークルだとかにも、顔のいい男の子はいるよね。音楽関係のサークルにも他にもいる。でも、それでも合唱部の星くんや金子くんは最高だわ」
「里中さんの好みからすると、星さんや金子さんなんですか」
「徳永くんは若すぎるし、皆実くんは堅物に見えるのよね。金子くんは遊び人っぽいし、私は星くんがいちばんの趣味よ。私ももうすこし遅く生まれればよかったな」
「星さんとだったら三年差でしょう。三年くらいの年齢差はどうってこともありませんよ」
「そうかしら。乾くん、取り持ってくれる?」
「……え」
 話をそこへつなげたかったのか。よけいなことを言ってしまったのか。一年生の俺が四年生の星さんに女性を紹介するなどとはおこがましくて身震いが起きそうだった。しかし、里中さんは期待にあふれた瞳で俺を見ている。いやとは言えなくなって、星さんに話してみます、と返事した。
「あの、あのですね、星さん」
 昼食どきに学内を探し回ったら、うまい具合にひとりでいる星さんを見つけた。里中さんのためにはうまい具合なのだろうけど、俺は内心で怖気づきつつ言った。
「えと……あの……」
「おう、乾、昼メシはまだか。おごってやるよ。ついてこい」
「いえ、あの、おごってもらうなんて、そんなつもりでは……」
「なにを言ってるんだ。一年生とメシ食ったら、俺がおごるのは当然だろ。カレーは好きか」
「好きです」
 合唱部には慣れたか、友達はできたか、勉強はどうだ? 先輩らしい気遣いを示してくれる星さんについていくと、学校の外のカレーショップに連れていってくれた。
「おまえはひとり暮らしか。カレーなんて飽きてるかな」
「いえ。ひとり暮らしですけど、カレーってそんなには……うちは祖母が料理をしてましたんで、和食が多かったんですよ」
「金沢出身だったな。外食には慣れてないのか」
「昼メシはたいてい学食ですし、夜は自炊してます」
「感心だな。ま、食ってみろ」
 たまさか祖母がこしらえてくれたカレーライスは、黄色くて甘かった。星さんに勧められたカレーライスは濃い茶色をしていて、口に運んだらたいそう美味だったのだが、ふた口目を食べようとしたあたりで口の中に炎が燃えそうになった。
「か、からっ……なんですかっ、これはっ。口の中が火事ですっ」
「男がカレーごときでうろたえるな。食え」
「全部?」
「食いものを残すな」
「……はい。うへ、からっ、水……からぁっ」
「うるさいな。うまいだろ」
「ひと口はうまかったんですけど、からすぎて味もなにも……東京のカレーってこんなのですか。ばあちゃんのカレーは優しい味だったのに」
「世の中は優しくも甘くもねえんだよ」
「はい」
 うまいじゃないか、と星さんは平然とカレーを平らげつつ、にやっとした。
「それは辛味のレベル2だぞ。俺のは5だ。ここは10まであるんだよ。今度は10に挑戦しろ」
「10なんて……口がしびれます」
「弱音を吐くな。食え」
 何度も水をおかわりしてようやく食べ終えると、本題に入らなくてはいけなくなった。このチャンスを逃すといつになるかわからない。しかし、どう切り出せばいいのかとうろたえて、ついつい煙草をくわえたら、ほっぺたにびしっと来た。
「いてっ」
「これしきのどこが痛い。未成年がなんだ、煙草とは」
「ああっと……すみません」
「レベル2のカレーでひいひい泣いているガキが、煙草とは生意気なんだよ。箱ごとよこせ」
「はい」
 店の人たちも、叱られている俺を見て笑っている。殴られるなんて何年ぶりだろう。ガキのころにはばあちゃんにこうやってほっぺたを叩かれたけど、中学生になるころには手を上げなくなっていたから、六年か七年かぶりだろうか。大学生になると悪いことをすると先輩に叱られて殴られるんだ。殴られたといってもたいしてきつくもなかったし、悪いのは俺なのだから、ひたすら頭を低くしていた。
「高校くらいから吸ってるのか」
「……いえ、吸ってません」
「嘘つけ。乾、忠告しておいてやるよ。煙草はこっそり隠れてやれよ。俺は先輩として、成人として、今はおまえの保護者みたいなものなんだから、堂々と煙草を吸ってるのを見逃すわけにはいかないけど、おまえがこっそりやってるのまでは知らないもんな。誰もいない場所で吸え」
「わかりました」
「痛かったか。泣くのか」
「痛くなんかありませんから泣きません。でも、星さんだって吸ってるのに」
「馬鹿野郎。俺は二十歳はすぎてるんだよ」
 すこしばかり頬はひりひりしていたし、俺から取り上げた煙草に火をつけている星さんを見ていると腹が立たなくもなかったのだが、男の先輩の後輩に対する優しさってこうなのかな、とも思っていた。
「乾、俺になにか話があったんじゃないのか」
「星さんが一年生のときに女子部のキャプテンだった、里中アリスさんをごぞんじですよね」
「ハーフの美人だろ。知ってるよ」
「俺、学部でお世話になってるんです。こうなったら単刀直入に言いますが、里中さんは星さんが好きだそうです」
「ほお、三つ年上のあんな美人がか。嬉しいね」
「里中さんに、つきあってほしいって言って下さいますか」
「あのな、乾、そういうときにはまずは、星さんには恋人はいないんですか、と質問してからだぜ」
「ああ、そうか。いるんですか」
「今はいないよ」
「昔はいた?」
「当たり前だ」
 当たり前だろう。こんないい男に彼女がいなかったはずがない。星さんは食後のコーヒーを飲みながら言った。
「大学に入ってから何人かな。両手の指でも足りないな」
「そんなに?」
「足の指も足したらなんとか足りるか。ついこの間まではほら、フレンチロックの女性シンガーが来日してただろ。彼女にひとめ惚れされて口説かれて、いやだと言ってるのに襲われてさ」
「え? あの来日していた? 星さん、そんなことを話したらいけませんよ」
「いけなくないだろ。終わったんだから。それから、ニュースキャスターのあの女……うちの大学の先輩。知ってるだろ」
 うちの大学の先輩女性ニュースキャスターは、ひとりしかいないはずだ。俺は星さんの話に引き込まれ、呆然といくつもの女性にまつわるエピソードを聞いていた。
「すげぇ。星さんだったらありますよね。そんなにもてるんだ。だけど、やっぱりそういうのってあまり話さないほうが……」
「いいじゃないか。嘘なんだから」
「嘘?」
「俺の好みのタイプの有名人を並べ立てたんだよ。あるわけねえだろ、バーカ」
「……星さんだったら信憑性があるんですよ」
「ねえよ。ガキだな」
 いいようにからかわれて笑われて、なんとか対抗しようとしてもどうにもならなくて、むっとした顔になっていたのだろう。星さんはそんな俺を面白そうに見ていた。
「ま、女は何人かいたけど、清算したよ、みんな。今は好きな女の子がいるんだよ」
「そうなんですか」
「里中さんには会ってもいいぜ。一夜だけだったらつきあってくれますか、って言うよ」
「……好きなひとがいるのに?」
「里中さんもそれでもいいって言うかもしれないだろ」
「女のひとはそんなふうには言いませんよ」
「おまえは女を知らないな」
「知ってます。高校時代には彼女もいました」
 高校時代か、とせせら笑ってから真顔になった。
「おまえはなんでも本気に受け取るんだな。一年生なんてそんなもんか。うん、いや、俺は彼女に操を立てる。彼女に断られたら、改めて里中さんを口説くよ」
「そんなの、里中さんはいやがりますよ」
「さあね、どうだろうね。おまえもいつまで女に幻想を抱いてられるのかな」
「……幻想ですか」
 有名人女性との艶聞は嘘だったそうだが、星さんがかつては何人もの女性と交際していたのは本当だったのだろう。そんな星さんがそのときに好きだった女の子とは、山田美江子だった。
 四年生の星さんと一年生のミエちゃんは短期間交際して、星さんが卒業する数ヶ月前に別れた。ミエちゃんは彼を二度目のひとと呼び、私は二度目の恋にいまだに、と、何年後かまでは呟いていた。仕事の関係で星さんと思いがけなくも再会したのは、俺たちフォレストシンガーズのデビュー翌年だった。ミエちゃんは俺たちのマネージャーになっていた。
 あの日、星さんとミエちゃんがなにを話し、ミエちゃんの心がどう揺れてどう落ち着いたのかは、むろん俺は知らない。だが、ミエちゃんはあの日に星さんとの過去を完全に払拭したのだろう。星さんを語る際のミエちゃんの表情はそれからは明らかに変わって見えた。
 その日から時が流れて、俺は二十九歳になった。ふたつ年上の金子さんもプロシンガーとなっていて、時にはいっしょに飲んだりもする。
 今夜、俺は金子さんと星さんとともにいる。海にほど近い土地での金子将一ライヴにお邪魔したら、星さんも来ていて酒になったのだ。
 二年先輩の金子さんと三年先輩の星さんに囲まれると、俺は大学一年生に戻ってしまった気分になる。フォレストシンガーズでは年長者だから先輩面をしているけれど、金子さんと星さんにはいまだにガキ扱いされるのだから。
「皆実は普通にサラリーマンになったんだよな」
 星さんが言い、金子さんが応じた。
「俺がようやくデビューしたころに、皆実は結婚しましたよ。式にも参列しました」
「徳永もデビューしたよな」
「彼はさらにようやくです」
 あのころの美形カルテットが出そろって、俺は言った。
「星さんは三十二、金子さんは三十一ですね。男としてはまだ青いとも言えるんでしょうけど、あいかわらずかっこいいな。このおふたりにミエちゃんがね……」
「金子、おまえ、俺が卒業したあとで、美江子さんになんかしたんだってな」
「美江子さんに? なにもしてませんよ」
「聞いたぞ。キスしようって言って……断られたのか」
「キスしようだなんて言いません」
「いいんだけどな、しかし、腹が立つ」
「とうに別れた彼女に俺がなにを言おうと、なにをしようと、星さんには関わりもないでしょう。俺はなんにもしてませんけど、腹が立つんでしたらどうぞ。要するに八つ当たりですね」
「てめえはあいかわらず生意気な野郎だな。その形のよすぎる鼻をへし折ってやろうか」
「無抵抗で折られるつもりはありませんが、やりたいんでしたらどうぞ」
 やめましょうよ、物騒な、星さんと金子さんみたいな大柄な男がバーであばれたりしたら、店の調度品がこわれて店が無茶苦茶になりますよ、と俺は言ったのだが、聞こえていないのか聞きたくないのか、ふたりはクールに見つめ合っていた。
「星さん、金子さんは今や大人なんですから、生意気ってのはふさわしくないですよ。金子さんの形のよすぎる鼻か。そういえば徳永もですね。俺の知ってる美形四人が……皆実さんは関係ないから、そのうちの三人か。ミエちゃんって……」
「なに? 徳永もか」
「乾、おまえの口は……」
「うわっと、金子さん、ごめんなさい」
 首をすくめて言った。
「俺の鼻は形よくありませんから、俺にしません? またまた俺の口が災いを呼びそうになってますから、両側からびしびしっとやって黙らせて下さい」
 冗談を真に受けられたのか、実際に両側からびしっ、びしっ、とやられた。
「うへ……いてぇ。酔いが醒めた。痛いよぉ、って泣いてもいいですか」
「泣けよ」
「俺はおまえをこそ泣かせてやりたいよ、金子。乾は一年のころから可愛げもあったけど、おまえには可愛げなんてのはひとかけらもなかったもんな。どうやったら泣くんだ?」
「俺が一年のときでしたよね。星さんにきびしく叱られて殴られて、部屋に戻って泣いてたんですよ。合宿での夜でした。皆実と同室で、声を殺して泣いてたのに気づかれて、わけを話したら皆実にも殴られましたよ。おまえはそれでも男か、そんなことで泣いてる奴は出ていけっておっぽり出されて、おもてに立たされた。雨の夜でしたよ」
 このふたりは軽い虚言癖があるようなので、信じてはいけないだろう。金子さんの作り話の腕前はいかに? と質問してみた。
「なにをして泣くほど叱られて殴られたんですか」
「自由時間にひとりでキャッチボールをしてて、近くの家の窓ガラスを割ったんだ。星さんがその家の奥さんに詫びてくれて、そのあとで叱られた」
「小学生じゃあるまいし。星さん、本当ですか」
「俺は男を殴ったことなんかないよ」
「星さんまで嘘つきなんだから。俺は殴られましたよ。二、三度」
「覚えてないな」
「俺は男も女も叩いたことはありませんが」
「金子さんもまったく嘘つきなんだから。俺は金子さんにも星さんにも殴られましたよ。あれしきは殴ったうちに入らないんでしょうけど、今だって殴ったじゃありませんか」
「殴ったか、金子?」
「撫でたんですよ」
「そうだな。気持ちよかっただろ、乾?」
 はい、とっても、と答えるしかなくて、ふたりの先輩の前ではやっぱり、俺はガキなんだよな、と苦笑いしていた。
 二十九歳の俺が十八歳の俺に乗り移れたとしたら、金子さんは二十歳、星さんが二十二歳だったあのころに、そうやって戻っていったら、俺は彼らになにを話そう。二十歳と二十二歳の男の前に立てば、今の俺は大人だ。ふたりとも俺より背は高いけど、なんと言ってやろうか。楽しいような苦いような想像が浮かんで、瞼を閉じた。
「乾、寝たのか?」
「寝かせてやれよ。疲れてるんだろ」
「星さんもお疲れでしょう。エリートビジネスマンは大変ですよね」
「うちの大学はエリートビジネスマンを養成するほど、レベルが高かったかな」
「大学は関係ありません」
「あるんだよ。ビジネスマンの世界には……」
 そんな会話を聞きながら目を閉じて、俺は妄想とたわむれていた。


 見上げれば夜空からこぼれ落ちんばかりの星。頬をなぶる潮風。鼻腔には潮の香りまでが流れ込んできて、潮騒の音も聞こえる。煙草に火をつけて吸い込んで煙を吐き出すと、味もしっかり感じた。
「乾さん、ここにいらしたんですか」
 男の声に振り向くと、金子さんが立っていた。
「あ、えと……すみません」
「すみませんって? 乾さんは喫煙なさるんですね」
「いえ、あの、これはですね……ん? 乾さん?」
「乾さんでしょう。なにを慌てておられるんですか」
「んんっと……未成年が先輩の前で煙草なんか吸って、見つけられたんだから申し開きのしようもありません。すみません。やって下さい」
「やってってなにを? 乾さんは二十九ですよね。二十九って未成年ですか。先輩って、乾さんの先輩がどこかに?」
「あ、ああ、いや、いささか頭がぼけてたんだよ」
 どこかしらなにかしら変な気もするのだが、そうだ、俺は二十九だ。この浜辺にいるのは後輩たちであって、先輩はいない。俺は合唱部のOBとして合宿にやってきて、後輩たちに歌唱指導をすると決まっている。俺はフォレストシンガーズの一員であり、プロのシンガーだ。
「今年のキャプテンは?」
「女子部は坪井さん、男子部は高倉さんです」
「一年生に乾と本橋ってのはいますか」
「いませんよ。乾さんには弟さんでもいらっしゃるんですか」
「いないのか。そうだよな。本橋にも兄貴はいても弟はいないんだ。シゲとヒデと幸生と章はまだ高校生か。今年は何年?」
 念のために質問してみたら、俺が大学に入学した年だった。
「十八の本橋や乾がいたらややこしいよね。すると、きみは二十歳か。俺より九つも年下なんだね。星くんは?」
「星さんはいますよ。乾さんにいろいろとお話しを聞かせていただきたくて、みんなで探してたんです。みんなを呼んできてもよろしいですか」
「合唱部全員集合。話をしよう」
 はい、では、と丁寧に会釈して、金子さんが駆け戻っていった。俺自身にも俺がなにを言っていたのか、もうひとつ理解しがたかったのだが、つまりはそういうことなのだから、それでいいのだろう。煙草をもみ消して砂浜に埋めていたら、ひとり、またひとり、ふたり、三人と連れ立った後輩たちが浜にやってきた。
 若いなぁ、子供だなぁ、とつくづく思う。十八歳から二十二歳まで。高倉誠は二十四歳だが、彼以外はその年頃だ。初々しく瑞々しい大学生の男女が、思い思いの服装で俺を囲んですわった。
 当然であるようなのだが、本橋はいない。他は見覚えのある顔ばかり。十八歳だった俺から見ればおじさんに近く映った高倉さんも、綺麗な大人の女性に映っていた女子部の先輩たちも、こうして見れば若い男女だ。ミエちゃんもいる。十八のミエちゃんは少女に近く見えた。
「乾さん、どうかなさいましたか」
「いやだな、高倉さん、高倉さんにさん付けで呼ばれるなんて……」
「失礼しました。乾先生とお呼びすべきでしたか」
「いや、いやいや、先生だなんて呼ばれると恥じ入って消えてしまいたくなりますよ。俺はさっきからなにを言ってるんだろ。乾さんでいいんだよ、高倉くん」
「はい」
 いつだって精神的には見上げていた先輩たちにこんな口のききようをしているとは、なにやらむずむずする。先輩たちを相手にOB面をするとは、どんな態度でいればいいのだろう。いくつもの注視を浴びて、咳払いしてから言った。
「まずはみんなで歌おうか。フォレストシンガーズのセカンドアルバムの一曲なんだけど、知ってるかな。混声合唱にも似合う曲だよ。なんだと思う? そこのお嬢さん、答えられる?」
 ひいきしてはいけないのだが、長い髪をポニーテールにしたミエちゃんを指名した。二十九歳のミエちゃんは大人になって美しい女性に成長しているけれど、十八のミエちゃんはたまらないほど可愛くて、星さんが恋したのも当たり前だな、と頭の片隅で納得していた。
「はい。「風を追いかけて」ですよね」
「正解。では、歌いましょう」
 あとでふたりで話そうよ、などとこの場で言ったら、乾さんってそういうひとなの、とばかりに後輩たちの顰蹙を買いそうだ。ふたりきりになるチャンスがあるといいな、なんて考えつつ、ざっとパート分けをして、俺がリードを取って歌い出した。さすがは俺の後輩たち……いや、先輩たちか、いずれにしても、素晴らしい歌声を聞かせてくれた。
「ありがとう。最高だったよ。きみたちの中にもプロになりたいひとはいる? 金子くんや徳永くんはなりたいんじゃないのか」
「どうしてごぞんじなんですか」
 あのニヒルな一匹狼も、十八歳ならばこの程度だったのだ。徳永が不思議そうに聞き返し、金子さんも言った。
「そんな話を乾さんにしましたか」
「なんとなくはわかるんだよ。俺もプロだから、大人数のコーラスの中でも、プロになりたいと考えているひとの歌声を聞き分けられるとでも想像しておいて下さい」
「じゃあ、他にもいます?」
 この質問はミエちゃんだった。
「うーん、なんとなくはね。山田さんもプロになりたい?」
「乾さん、私の名前をごぞんじなんですか」
「知ってるよ。全員の名前は覚えた。顔とも一致する。俺の特技なんだよ。きみたちの出身地だって当てられるよ。高倉くんは広島、渡嘉敷くんは沖縄、星くんは新潟、金子くんは東京、皆実くんも東京、徳永くんは埼玉だろ」
「そのような資料はお渡ししていませんよね」
「貰ってないよ、坪井さん、あなたは山梨でしょ。山田さんは栃木だよね」
 すっごーい、とみんなして驚いている。これってずるいよな、とは思ったのだが、種明かしをしようにも、俺にもはっきりとはわかっていないのだからどうしようもない。曖昧に微笑んでおいた。
「話をしていないひとの出身地までは当てられないから、当ててほしいひとは発言して」
 手を上げているのは八幡さんだった。八幡早苗、シゲに……と連想がそこへ行く。それは未来に起きる出来事であって、八幡さんはまったく知らないのだ。にも関わらずなんだかむしゃくしゃして、八幡さんを見ないふりをした。次から次へと手が上がり、指名した彼や彼女と短い会話をかわし、次から次へと出身地を当てた。
 俺は本橋ではないのだから、標準語で話している人間のわずかななまりなんぞでは出身地はわからない。相当になまっていても、地方によってはわからない。今、当てているのは記憶にあるからだ。すべてのメンバーたちが、当たり、すごい、なんでー? と応じて、彼らを欺いている自分が恥ずかしくなってきた。
「そういう特技ってどうしたら身につくんですか。すごいですよね。飲み会でのアトラクションなんかにはぴったり」
「熱意だよ、ミエちゃん。人の言葉遣いにしっかり耳を集中させるんだ。もちろん、日本って国についての知識も必要だね。こういうことはうちのリーダーに教えてもらったんだよ」
「本橋さんですよね。そしたら……」
 ちょっと、美江子、と八幡さんがミエちゃんの袖を引き、耳元でなにか言った。ミエちゃんはむっとした顔で言い返した。
「なにを言ってるのよ、八幡さんは。そんなはずないじゃない」
「だって、変だよ。乾さんったら山田さんをミエちゃんなんて呼んだじゃないの。山田さんと乾さんにはなにかあるの?」
「あるわけないよ。今日、はじめてお会いしたのに」
「ほんと? 怪しいな。山田さんったらさ……」
 こそこそ、こそこそっ、と八幡さんが周囲にいる女の子たちに耳打ちする。耳打ちの輪が広がっていくのを見て、どうしようかと悩んでいると、俺の近くにいた金子さんが星さんに言っていた。
「星さん、いいんですか」
「俺がなにか言うのも変だろ。おまえに考えがあるんだったら言えよ」
「……止めてきましょうか」
「頼む」
 立ち上がった金子さんが八幡さんに歩み寄っていく。金子さんに小声でなにか言われた八幡さんはびくんとした様子だったが、果敢に男子部の先輩に食ってかかった。
「だって、そうに決まってるんだもん」
「根拠はないんだろ。やめないつもりだったらおいで」
「いやです。根拠はあるんだから」
「なにを言ってたのかは知らないけど、そういうことを言い触らすと人間性を疑われるよ。やめなさい。やめるね?」
「……だって、乾さんったら山田さんばっかりえこひいき……」
 ああ、やはり気づかれていた。八幡さんはひっくひっくとしゃくり上げはじめ、金子さんは重ねて言った。
「乾さんに失礼だよ。八幡さん、こっちに来なさい。子供じゃないんだろ。泣かないで」
「だってだって……」
「女の子がこうなるとどうしようもないな。乾さん、あなたも……」
 こらこら、と言いつつ、星さんも立っていって金子さんに言った。
「乾さんになにを言うつもりだ。八幡さん、もういいから。泣くのはやめて」
「星さんだって……どうせ山田さんを……」
「山田さん、八幡さんにとりあえずあやまれよ」
「私はなんにも悪いことなんかしてません。星さんったらなんでそう……」
「おまえも意地っ張りなんだから」
「こんなところでおまえって呼ばないで」
 今度は星さんとミエちゃんがもめていて、金子さんが星さんのシャツの袖を引っ張っている。八幡さんは泣いている。俺があやまればいいのだろうか。無視してごめんね、と? そうするとますます話しがややこしくなるのではないだろうか。なんで無視するんですか、と詰問されても、返答のしようがないのだから。
「乾さんにはきみが見えてなかったんだよ」
「視線は来てました」
「きみの気のせいだよ。八幡さん、いいからこっちにおいで」
 泣きべそ顔の八幡さんを連れて、金子さんは輪から抜け出して歩いていった。星さんはふくれっ面のミエちゃんに言い聞かせていた。
「きみも初対面の大先輩に遠慮がなさすぎるよ」
「そうかなぁ」
「そうなんだよ。山田さん、きみもおいで」
「だって……」
「だってじゃない。おいで」
「えらそうに……」
 不満げに見上げていたものの、ややあってミエちゃんも星さんについていって消えてしまい、高倉さんが息を吐いた。
「あいつらはやっぱり……」
「女性慣れしてますね」
「そうなんでしょうね。申しわけありませんでした、無作法なところをお見せしまして」
「いえ、俺が悪いんですから」
 やはり彼らは後輩なんかじゃなくて、先輩なんだ。俺は彼らから一歩下がって見上げているのこそが似合う。星さんや金子さんよりも年上になって、いっぱしの口をききたいとは無謀な試みだったらしい。こと女性に関しては特に、星さんと金子さんにはかないっこないのだから、脱帽するしかないのだった。
 妄想が頭を侵食して、現実離れした世界へと迷い込んでいたらしい。乾、寝てるのか? と金子さんに顔を覗き込まれて、眠気覚ましの酒を飲んでごまかし笑いをしておいた。


3

 ひとつのイベントが終了すると、別の浜辺で別のイベントが開催される。今回は金子さんも共演者だ。明日から仕事がはじまるという日に宿舎に到着して、本橋と金子さんはイベント会場の下見に出かけた。金子さんは俺たちよりは人気度が上なのだが、じゅっぱひとからげとでも言おうか、六人で一室の扱いだ。
「金子さんは平然としてらしたけど、待遇がよくないですよね」
 残った四人でステージの打ち合わせをしていると、章が言った。
「俺たちはいつでもこんなもんだから慣れてるけど、金子さんはむかついてないのかな」
「金子さんはおまえじゃないんだから、簡単にむかつかないんだよ」
「なんでおまえにそう言えるんだ、幸生? おまえだって金子さんってよくは知らないだろうが」
「章よりは知ってるもん」
「……どうせそうだよ」
 どうせ俺は中退してるんだもんな、とでも言いたいらしいので、俺は章に言った。
「幸生だって金子さんとはすれちがいだったんだから、おまえと同じで学生時代の金子さんは知らないんだよ。俺にしたって知ってるつもりだけだ」
「それより章、ここのパートだけどな……」
 シゲが章の気持ちをそらしてくれ、打ち合わせに集中していると、本橋が部屋に入ってきた。
「浜辺で馬鹿どもが小競り合いをやっててな」
「……参加しなかったのか」
「するかよ。乾、おまえは俺をなんだと……」
「なんだと思ってるって? うちのリーダーだよ。はい、続けて」
「そいつらの近くに女の子がいた。小競り合いの側杖を食って突き飛ばされたみたいで、金子さんがその子を送っていったよ」
「綺麗な子でした?」
 目を輝かせて幸生が尋ね、本橋はつまらなそうに言った。
「ガキだよ。金子さんの胸のあたりまでしか頭が届かない、ちっちゃな子だった。小学生かもな」
「なーんだ」
 なーんだ、と章までが言ったのだが、日が暮れたころに金子さんが女の子を宿舎に連れてきた。章と幸生ははっと息を呑み、シゲも見とれていた。本橋は浜辺での彼女をきっちり見ていなかったのだろう。彼もまた驚きの表情を浮かべていた。彼女はたしかに小さいが、目覚しいまでの美少女だったのだ。
「村瀬野乃花さん。十六歳の高校一年生だそうだ。彼女には事情がある」
 小学生ではなかった。ノノちゃんと呼んでいいんだそうだよ、と言ってから、金子さんはノノちゃんから聞いたという話をしてくれた。彼女はこの近くの別荘に滞在しているのだが、ひとりでいるのだと言う。それにもわけがあった。別荘まで送り届けた金子さんに、彼女は訴えた。
「ノノ、ひとりぼっち。ひとりぼっちになっちゃった。おばあちゃんは死んじゃったんだもん。パパもママもあたしがちっちゃいころに死んで、ノノはおばあちゃんに育ててもらったの。おばあちゃんは大学教授だったから、お金は持ってたんだよ。おじいちゃんもとっくに死んで、子供はママだけだったから、おばあちゃんもひとりぼっちになって、ノノとふたりで暮らしてたの。なのにおばあちゃんも死んじゃった。東京にマンションはあるけど、夏休みがすんだら学校にも行かなくちゃいけないけど、ノノは……ノノも死んでしまいたい」
「なにを言ってる。おばあさまはノノちゃんが強く生きていくように願ってらっしゃるよ。ここでいい?」
 ダイニングルームに入ると、ノノちゃんは金子さんにしがみついた。
「おばあちゃん、交通事故だったの。元気だったのに、夏休みになる前に車に撥ねられて死んじゃって、あたしはそれからずーっとぼーっとしてた。お葬式やらなんやらでごたごたしてて、だけど、そんなのなんにも手がつけられなくて、弁護士さんにまかせてあたしはただただぼーっとしてた。夏休みになってからここに来たの。おばあちゃんが大好きだった海の別荘。あたしもここが大好きで、夏休みはいっつもここにいた。このまんま死ぬまでここにいるの」
「今はそうしか考えられないんだね。おばあさまはどちらの大学で教鞭を?」
 大学名を聞いた金子さんは目を見張った。
「俺の母校だよ。すなわち、俺の後輩たちの母校でもある。ママの母上だと言ったね。お名前はなんとおっしゃるの? どこの学部の教授?」
「渥美ゆり。おばあちゃんは百合で、ママがすみれで、あたしは野の花。理学部の教授で、宇宙科学の権威だったんだって。あたしにはそんな血は流れてないみたいだけど」
「渥美教授は存じ上げてるよ。本橋の恩師じゃないか。そうか、そうだったんだ」
「知ってるの?」
「俺は言語学部だから直接の指導は受けていないけど、お話しする機会もあったよ。お孫さんとふたり暮らしだと聞いた覚えもある。ここでこうしてノノちゃんと関わったのもなにかの縁だな。及ばずながら俺たちが力になるから、元気出して」
「元気なんか出せない」
 それでも、泣いたり喋ったりしているうちにすこしは落ち着いてきたノノちゃんが尋ねた。
「金子さんってなにしてるひと?」
「知らないんだろうな。シンガーだよ。本橋、乾、本庄、三沢、木村って男がいて、彼らはフォレストシンガーズ。全員が同じ大学の出身で、合唱部出身でもある。俺が三十一、本橋と乾が二十九、本庄は二十八、三沢と木村が二十七。さきほどのイベントに明日から出演する予定で来てるんだ」
「ふーん、知らないな」
「さして売れてないからね」
 元気を出してもらうためにも、渥美教授のためにも、俺たちもノノちゃんの力になろう、と金子さんは言った。そのために彼女を伴ってきたのだろう。俺は渥美教授とは縁がなかったのだが、本橋は当然知っている。俺も本橋から、恩師が亡くなったとは聞いていた。 
「本橋、ノノちゃんは渥美教授のお孫さんだ。ご逝去の報は聞いてなかったのか」
「聞いてます。ご葬儀にも参列しました。ああ、そういえばいたかな。喪服の美少女が泣いて……いや、その話はのちほど。ノノちゃん? このたびは……本橋真次郎です。きみのおばあさまにはお世話になりました。このたびはまことに……そうか、大変だったんだね」
 沈鬱な表情で本橋が言い、俺も言った。
「乾隆也です。ノノちゃん、元気出すんだよ」
「うん」
「本庄繁之です。渥美教授はお名前しか知らないけど……なんと言えばいいのか……」
「三沢幸生です。よろしくね」
「いつになくおとなしい自己紹介だな。木村章です」
「改めまして、金子将一です。そろそろ晩メシどきだろ。庭で七人で食うか」
 小さな民宿だが庭は広い。民宿の従業員のひとたちが庭に出したテーブルに料理を並べてくれ、幸生と章も手伝って、ビールを運んでくる。賑やかにテーブルを囲んで食事が進んでいくころには、ノノちゃんの頬が薔薇いろに染まり、笑い声を立てるようになっていた。
「こんなに楽しいのって久し振り。ノノもちょっぴりビール飲んでいい?」
「十六なんだろ。駄目駄目」
 ケチィ、と俺に言い返したノノちゃんを、金子さんがたしなめた。
「酒は怪我にもよくないんだよ。やめなさい」
「怪我ってほどじゃないもん。もう治ったよ」
「治ったとしても、十六の女の子が酒なんてもっての他だ」
「ビールなんかお酒じゃないよ。飲んだことあるもん。飲ませてくれないの? 三沢さん、それ、ちょうだい」
「勘弁して下さい。ノノちゃんにこれをあげたら、殴られるのは俺なんだからね」
「殴られるの?」
 もっちろん、と幸生は真面目な顔になった。
「リーダーにも金子さんにもぼかぼかやられてるし、乾さんも後輩を叱るとなるとすこぶるきびしいし、シゲさんも時には投げ飛ばすし、章は飛びかかってくるしで、俺、いつだって満身創痍なんだよ。ノノちゃんにビールを飲ませたりしたら、明日の仕事ができなくなるかもしれない」
 口をとがらせていたものの、ノノちゃんはそれ以上は言わなかった。その夜は金子さんがノノちゃんを再び別荘に送り届け、翌日からのライヴをノノちゃんも聴きにきてくれた。幾度か宿にも遊びにきてはしゃいでいた。
 金子さんは十年以上前の実の妹、リリヤちゃんとノノちゃんを重ねて見ているのだろうと俺は思っていたのだが、明日でイベントが終わるという日の朝、浜辺を散歩していたら、ノノちゃんの声が聞こえてきた。ちっちゃなノノちゃんは金子さんに片腕で抱えられて運ばれていた。
「甘えんぼ。ノノは甘えんぼなの。だってね、だってね……ううん、言わない。言ってもなんにもならないから言わない。言いたいけど言わない。言わないけど……」
 黙って歩いている金子さんの首にしがみついた、ノノちゃんの素足が揺れていた。
「金子さん、大好き。お兄ちゃんみたいだから大好き」
「そう言われると叱れなくなっちまうよ。女の子ってのは得だね」
「もう叱られたもん」
「そうだったか。そういうことにしておこうか。俺はもうじき帰るんだから、男をなめてからかったりしたらいけないよ。おまえは可愛いんだから、男に目をつけられやすい。おまえに隙なんかはなくても、狼やハイエナが狙ってる。可憐な容姿に生まれついた女の子の宿命なのかもしれないな」
「ほら、お説教。ノノってそんなに可愛い?」
「可愛いよ」
 ん? 少々危険ではないのか、と俺は感じた。なにがあったのかは知らないが、ノノちゃんが狼やハイエナのたぐいの男に狙われて、金子さんが救ったのか。ノノちゃんの声には世にも甘い響きが含まれていた。
「お兄ちゃまって呼んでいい?」
「おまえのその愛らしい声で、お兄ちゃまだなんて呼ばれるとぐっと来るよ。もっと言って」
「お兄ちゃま、だあい好き」
「甘えんぼのノノ。おまえに甘えられるのは楽しいよ」
「うん、いっぱいいっぱい甘える。今日も仕事? お仕事の時間まで抱っこしてて」
「腕が使いものにならなくなりそうだな」
「弱虫。歌には腕は使わないでしょ」
「マイクが持てなくなるよ」
「マイクってノノより重いの?」
「おまえは羽のように軽いから」
 距離を置いてついていくと、宿舎の庭から幸生の声も聞こえてきた。
「お、ノノちゃん、おっは。今朝も可愛いね。金子さんに抱っこされてる姿は泰西名画の一枚のようだよ。タイトルはさしずめこう? 「兄と妹」像」
「そうだよ、三沢さん。三沢のお兄ちゃま」
「お、お、俺、ノノちゃんのお兄ちゃま?」
「金子さんがいちばんのお兄ちゃまで、二番目が本橋さんで、三沢さんはいちばん下のお兄ちゃま」
「いちばん下は章じゃん。数日は俺のほうが年上だよ。なんだっていいからお兄ちゃまって感動だな。ノノちゃんもいっしょに朝メシ食う?」
「食う」
 こーら、女の子が食うって言ったらいけません、と言いながら、俺も出ていった。
「おはよう、ノノちゃん。俺も腹が減ったよ。今朝も庭で食おうか」
「乾さんも食うって言った」
「食うは男言葉。女の子は食べると言いなさい」
「乾さんもお説教ばっか」
「愛らしい声の愛らしい姿の女の子は、愛らしい言葉遣いをするといっそう愛らしい。女の子らしさも時には大切だよ。そうしていると女の子そのものなんだから、過剰な女らしさは不必要だけどすこしは……いてえな。なんで殴るんだ」
「ぐだぐだ言いすぎなんだよ、てめえは」
 うしろから俺の頭をぽかっとやったのは本橋で、ノノちゃんにはにっこりした。
「おはよう。だいぶ元気になったな。ノノちゃんも食うんだろ。抱っこされて食うのか」
「抱っこされて食うの」
「食うって言うなよ」
「食うんだもん」
 俺たちといると悪影響を受けるかな、とシゲも言った。
「メシじゃなくて朝ごはん、食うんじゃなくて食べるね。幸生、章、支度は整ったか。俺も腹ぺこだぞ。腹じゃなくておなかか」
「男のひとは朝メシ食うって言ってるほうが、男らしくて素敵かも」
 話せるじゃん、ノノちゃん、と章も言った。
「さあ、朝メシ準備完了。食いましょう」
 庭に出したテーブルに、トーストやサラダやオムレツが並んでいる。ミルクにジュースにバターにジャムにママレード、ナイフにフォークにスプーンの色彩が、朝の陽射しにきらきらしていた。
「ノノ、トマト嫌い」
「好き嫌い言ってると大きくなれないよ。ノノちゃんはちっちゃいのが可愛いんだけどさ。俺ってちびじゃん。内緒だけど、でかい女は苦手」
「三沢さん、誰に内緒?」
「でかい女のひとに。でっかい女に見下ろされて、なんだって? って睨まれたらびびっちゃうもんね。リーダーの威圧感と、大柄な女性の威圧感には別種の怖さがあるんだ」
「威圧感ね。金子さんにもあるの?」
「精神的にはあるね。リーダー以上だ」
「ふーん」
 ほい、と幸生がフォークに突き刺したトマトを、ノノちゃんの口元に持っていった。
「いらない。食べない」
「食べなさい」
 フォークを奪い取った金子さんが、トマトを食べさせようとした。
「はい、お兄ちゃま」
「ノノ、まずくないだろ?」
「まずーい。でも、食べたもん。ノノはいい子?」
「いい子だね」
「お兄ちゃまが褒めてくれるんだったら食べる。もうひとつちょうだい」
「う、ミルクが煮えたぎってきた。気温が上がってきた」
 ジュースも沸騰したきたぞぉ、と章が言って、本橋にこづかれている。ノノちゃんは金子さんにはやけに素直だ。これすなわち、なのか。だが、金子さんはノノちゃんを妹としか見ていないのだろう。おまえ、ノノという呼び名は、妹視のあらわれだと俺には思える。
「仕事は明日でおしまいだよ。帰るのはあさってだから、明日の夜は花火でもするか」
 本橋が言い、章と幸生が賛成し、金子さんは優しいまなざしでノノちゃんを見た。
「ノノも来るだろ」
「うん、お兄ちゃま、誘いにきてね。今日も明日もステージを聴きにいくから、今夜は別荘でお勉強するから。遅れてたのを取り戻さないといけないもんね。ノノも勉強して、お兄ちゃまたちの大学に入るの。合唱部にも入る。歌の勉強もしようっと」
「感心だね。ノノちゃん、がんばれよ」
 シゲも言い、章も言った。
「ノノちゃんはメゾソプラノだろうな。ノノちゃんが入学すると、男どもが大騒ぎしそうだね」
「おまえももう一度入学し直す?」
「俺にはその手があるんだ。幸生、いいこと言うじゃん。真面目に考えようかな」
 いいかもしれないな、と俺が笑っていると、ノノちゃんは言った。
「ノノ、フォレストシンガーズと金子さんの大ファンになる。CDもみんな買う」
「買わなくてもプレゼントするよ」
「乾さん、そんなふうに言うと売り上げがアップしませんよ」
「幸生は現実的だな」
「ノノ、俺たちにできることがあったら相談しておいで。力になるよ」
 金子さんも言い、他の五人もうなずいた。
「大丈夫だよ。おばあちゃんの遺産もあるし、親戚のひともいるし、えらい弁護士さんもいるんだもん。ノノはひとりで強く生きていくの。まずは大学受験だね。本橋さんたちの大学って偏差値高いの?」
「全然」
「幸生、あっさり言い捨てるな」
「だって、シゲさん、ほんとじゃん」
 だったらあたしにも合格の可能性はありそう、と舌を出してから、ノノちゃんは晴れやかな表情で言った。
「楽しかった。ノノ、嬉しかった。ううん、きっとまた会えるよね。乾さん、サインもらいにいっていい?」
「サインさせていただきましょうか」
「色紙持ってくるからしてして」
 させていただきますよ、と俺が言うと、みんなもうなずき、ノノちゃんは言った。
「ね、ノノだけに六人で歌って。金子さんのソロもフォレストシンガーズの歌も聴いたけど、ここで六人のコーラスを聴かせて。ノノの独占ライヴ。聴きたーい」
 いいよ、なにを歌う? とシゲが尋ねた。
「Tシャツに口紅」
 ア・カペラだな、と本橋が言い、俺は指を鳴らしてリズムを取り、金子さんが歌いはじめた。

「夜明けだね、青から赤へ
 色移ろう空、おまえを抱きしめて」

 続くは本橋。

「別れるのって、真剣に聞くなよ
 でも、波の音がやけに静かすぎるね」

 ここは六人のハーモニー。

「色あせたTシャツに口紅
 泣かないきみが、泣けない俺を見つめる
 カモメが驚いたように埠頭から飛び立つ」

 それから俺。

「つきあって長いんだから、もう隠せないね
 心に射した影
 みんな夢だよ
 今を生きるだけで、ほら、息が切れて
 明日なんか見えない」

 そして章。

「黙ったきみが黙った俺を叩いた
 子犬が不思議な顔して
 振り向いて見てたよ」

 俺たちでさえもあまり聴けない、シゲのソロ。

「朝日が星を塗りつぶす
 俺たちを残して」

 幸生も歌った。

「これ以上きみを不幸に、俺、できないよとぽつりと呟けば
 不幸の意味を知っているのなんて
 ふと、顔を上げて詰るように言ったね」

 最後は再び六人のコーラス。

「カモメが空へ飛び立つ
 動かない、動かない
 俺たちを残して」

 ノノちゃんは涙ぐんでいた。
「……いい声だなぁ。素敵だった、ありがとう」
 そして翌日、ノノちゃんは花火に歓声を上げていた。敢えてなのか、金子さんには近づかずに、幸生や章とはしゃいでいた。本橋やシゲだって、もちろん章や幸生だって、当人の金子さんだって、ノノちゃんの気持ちには気づいていたのだろう。けれど、金子さんはノノちゃんを妹として扱った。金子さんの心の底の底は、俺には見えるはずもなかったけれど、十六歳の女の子を三十一歳の男が、他にどう扱えばいいというのだ。それに、金子さんには恋人がいるはずだ。
 質問するまでもない。俺がノノをどう思ってたかって? 妹だよ、と金子さんは応えるだろう。幸生や章と楽しげに笑いさざめているノノちゃんを、微笑んで見やる金子さんのTシャツの背中に、ピンクの口紅がかすかについていた。


END


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