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小説57(サイレントナイト)

 ←小説56(あんなにこんなにそんなにどんなに)後編 →番外編17(2-2)(ロージートワイライト)
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フォレストシンガーズストーリィ・57


 「サイレントナイト」

1

 華美な衣装に異様なメイク、カラーコンタクト、燦劇を目の前で見たときには引いた。章くん以外の四人はロックには疎いというが、それでも音楽を生業とする人種なのだから、私よりはずっと詳しい。私はロックには昔からあまり興味がなかった。ましてビジュアル系ロックなんかは、スタイルを見て敬遠していた。
 ステージ衣装の燦劇は「すごい」のひとことだが、彼らはフォレストシンガーズのみんなになつくようになってきて、私とも親しくなってきている。章くんとはロックの話ができるし、幸生くんは元来誰とでも仲良くできる性格だし、シゲくんはあののほほんとした気性がむしろ彼らを和ませるのか。乾くんはいくぶん怖がられているようだが、本橋くんは年下の男性に対する面倒見がいいので、いつしか頼られていると見える。
 実は乾くんも頼られてもいるようで、世をすねているのかと思っていたロッカーたちも、実際にはごくごく普通の男の子たちなのだとわかってきた。二十歳前後といえば私たちとは年の差もあるけれど、そんなにはちがわないだろう。私たちもまだまだ若者なのだから。
 燦劇の彼らは十九歳から二十一歳までで、私たちとは十もちがわないのだが、彼はあきらかに世代がちがう。十四歳の中学二年生、二十八の私の半分の年だ。山崎数馬、私たちの雇い主のオフィス・ヤマザキ社長の息子である。
「章くんと数馬くんだと十二歳の差だよね。そしたら、数馬くんって龍くんと同い年じゃないの」
 龍くんとは章くんの弟だ。私は会ったことはないが、稚内で中学生をやっている。
「そうなんですよねぇ。龍もあんななのかな」
「会ってないの?」
「長らく会ってません。俺は親父に勘当されてるんだもん」
「章くんのほうから歩み寄りを見せなくちゃ」
「親父になんか会いたくもない。弟もどうでもいい。俺は自分のことで手一杯です」
 そうは言うものの、章くんは数馬くんを横目で気にしている。
 このところばたばたしていたのは、数馬くんが発端だった。出来心だか遊び半分だか知らないが、数馬くんが軽犯罪に手を染めて、父親である社長が強請られて、乾くんが自ら進んで巻き込まれて、乾くんが交通事故で亡くなったという誤報までが飛び込んできて、それから乾くんと幸生くんと章くんが、数馬くんを連れて燦劇のライヴに出かけ……そんなこんなで、燦劇がメジャーデビューしたのは、数馬くんがきっかけだったといえなくもないのだ。
 数馬くんと燦劇、ミズキちゃんにココちゃんにエターナルスノウと、近頃私たちの周囲には年下がふえてきている。私たちが年を取りつつある証拠……いやだけど、三十路がすぐそこに接近しているのだから、世の中とはそういう仕組みなのだろうと考えるしかない。
 同年代のジャパンダックスは解散してしまい、そろそろルッチのおなかも目立ってきているころかしら。ターコ、シブ、ゴンは新しい活動の場を見つけただろうか。同い年の徳永くんもメジャーデビューを果たし、元気にやっているだろうか。金子さんも元気かな。越智さんはどうしてるだろう。
 二年前に相次いで、つきあってほしい、と申し込まれた男性が、金子さんに徳永くんに越智さんだった。三人も一気にじゃなかったらよかったのに、とも思うけど、どっちにしたって三人ともにお断りをした。あれきりぱたっと、私の周囲には恋愛の気配はない。男性はいっぱいいるけれど、恋愛対象にならない男ばっかりだ。
 いいのよ、いいの、私は仕事に生きるんだから、一生独身だっていいんだから、恋より結婚より、フォレストシンガーズを成功させるのが私の絶大なる使命なんだから、と意識を切り替えて、数馬くんに目をやった。
「俺も音楽やりたいな」
 言った数馬くんに、幸生くんが応じた。
「やったらいいじゃん」
「なにをやったらいいのかな」
「なんだっていいよ。歌でもピアノでもギターでも、ハープでも三味線でもコントラバスでも、シタールでもドラムでもハモニカでも尺八でも……楽器の名前を口にしはじめると、さすがの俺も口が疲れるんだよ。音楽やりたいって漠然としすぎてるだろ」
「なにがいいと思う?」
「自分で決めろ」
「決められないよ」
「考えろ。悩め」
「教えてくれたっていいだろ」
「俺たちはこれから仕事なんだよ。俺たちだって練習ばっかりしてるんじゃなくて、ライヴもあるの。聴きにくるか」
「フォレストシンガーズの歌はつまんないからいい」
 小中学生の女性ファンはいるようだが、少数派だろう。小中学生の男性ファンとはお目にかかっていない。あまりにも若い男の子には、フォレストシンガーズの歌は手が届かない。数馬くんには理解しがたい世界を歌っているのだから、わからなくてもいいんだよ、キミは、と私は心で言った。
 おまえは学校へ行け、授業はすんだよ、と幸生くんと数馬くんは言い合い、みんなでライヴ会場へ向かった。小さなホールでも満席にはならないのだが、そこそこファンの方が来てくれていて、発声練習やら着替えやらと、フォレストシンガーズは大忙しのひとときになった。
「俺のジャケット……ここにかけたのに。山田、知らないか」
「本橋くんのジャケット? 自分のものは自分で管理しなさいよね」
「本橋、これじゃないのか」
「おう、あったか」
 シックなモスグリーンのおそろいのステージ衣装のジャケットを乾くんから受け取り、本橋くんが着ようとした。
「きつい。窮屈だ。これは俺のじゃない。章か幸生のだろ」
「章も幸生もシゲもステージの袖にいるよ。それを羽織って大急ぎだ」
「……羽織れといわれても……入らない」
「いいから」
 四苦八苦して小さなジャケットを羽織った本橋くんと乾くんもステージに出ていき、私は舞台の袖から見ていた。幸生くんはだぶだぶのジャケットを着ている。本橋くんのはちんちくりんで、客席のそこここから笑いが漏れていた。
「こんばんは、フォレストシンガーズです。挨拶はのちほど改めまして……こら、俺のジャケット返せ、幸生」
「ありゃ? これってリーダーの? そっかぁ、道理で……」
「おまえにはでかすぎるだろ」
「でかすぎるってのか、これを着てると気持ちいいんですよね。いかが? 女性のみなさま。みなさまは愛する旦那さまや彼氏の服を着てみたことってありません? 大きすぎるジャケットやシャツに包まれて、まるで彼に抱擁されてるみたいだわー、って。あるでしょあるでしょ? 僕もそんな気分。真次郎さんのたくましい腕に包み込まれてる気分」
「下らないこと言ってないで、返せ」
「いやん、真次郎さんの意地悪」
 おそらく幸生くんはわざとやったにちがいない。ステージの前振りだろうか。「FSの朝までミュージック」で幸生くんが羽目をはずすせいで、フォレストシンガーズはお客さまを笑わせる必要性が強くなっているらしい。本橋くんは強硬にいやがるのだが、コントめいたやりとりは女性ファンにはなかなか受けるのだ。
「返さないと怒る? じゃあさ、隆也さんのジャケットと取り替えっこしましょ」
「はい、リーダー、まずはお召し下さい」
 幸生くんが脱いだジャケットが乾くんの手に渡り、乾くんがうやうやしく本橋くんに手渡し、本橋くんが着ていたのは乾くんに渡り、乾くんが渡そうとしたら、幸生くんはいやいやした。
「やだぁ、ユキちゃんは隆也さんの服が着たいの」
「それはあとで。な、ユキ? あとであとで。オープニングナンバーを歌わないと、ファンのみなさまもなんのためにライヴに来て下さったのかわからないし、いつまでも駄々をこねてると……」
 乾くんに耳打ちされた幸生くんは、きゃっ、と小声で叫んで頬を両手で押さえた。
「真次郎さんにあとで……隆也さんともあとでね。はあい、ユキちゃん、わがまま言うのはやめるわ。ではでは、みなさま、お聴き下さいませ。歌詞を書いたのは乾隆也ですが、このたび晴れて結婚致しました本庄繁之の想いを、本庄繁之自身の声で歌い上げます。「心さえ天に舞い」です。シゲさん、どうぞーっ!!」
 マイクを手にシゲくんが前列に進み出て一礼すると、本庄さーん、結婚おめでとう!! シゲさん、幸せになってね!! などなどの声が飛んだ。シゲくんは照れている様子だが、歌いはじめると照れも消えた。しっとりと歌うバラードはシゲくんの声にしっくり合って、本橋くんのソロで聴くのとは趣もちがっている。
 毎度のお笑いを繰り広げていた幸生くんもシンガーの顔になり、他の三人は言うに及ばず、シゲくんのリードヴォーカルに絶品のハーモニーをつけていく。なんでこれで彼らは売れっ子にならないんだろ。私にとっては七不思議のひとつのような気がする。歌がどんなによくても、それだけで売れる世界ではないのは知ってるつもりだけど、欠点があるとしたらなに? ふざけすぎ? そこもなかなか受けるんだから、幸生くんのおふざけは欠点ではないはずなのだけど。


売れっ子になるのがいつの日かは不明だけれど、多少は収入も多くなって、シゲくんと乾くんは車を買った。ドライブに行かない? と乾くんが私を誘った。
「私と? 彼女に妬かれそうだな」
「彼女はいません。ミエちゃんが彼に妬かれそうだったらいいけど」
「妬いてくれるひとなんかいなくてよ」
 ほんとかなぁ、とお互いに疑惑のまなざしを向け合って、どちらからともなく笑い出した。乾くんは菜月さんとは破局したのだろうか。シゲくんが恭子さんと結婚する前に、菜月さんと会った話を乾くんにはしていない。彼も菜月さんの話はひとつもしてくれなかった。
 ダークグレイの国産車の助手席にすわって、乾くんの運転で車が走り出す。レンタカーならあるけれど、FSの誰かの自家用車に乗せてもらうのははじめてだ。
「ミエちゃんは車は買わないの?」
「都会暮らしだと車はなくてもいいし、私、短気だから運転すると事故りそう」
「本橋もその恐れがあるね。運転すると人が変わるって人間もいるみたいで、危険性はあるよ、きみたちは」
「本橋くんといっしょにしないで」
 別れてしまったのか……彼女は乾くんとドライブをしたことはないのか。もっと早く車を買えばよかったのに、なぜ? どうしても気になって、言ってみた。
「乾くんは女性には優しいっていうのか、女を対等の人間だと思ってないふしがあるってのか……」
「心外だね。俺は女性を見下ろしたりしないよ」
「乾くんは世の大多数の女より背が高いから、立って向き合うと見下ろす」
「そういう意味でなら……」
「それは冗談だけど、たとえば……うんと年下の子供っぽい女の子だったらどう? ユキちゃんじゃないけど聞き分けがよくなかったり、よその人に対する態度が悪かったり、そういうときって叱る? 叱るって言葉のニュアンスは、目上の者が目下の者に、じゃないのかな。数馬くんやファイは叱ったでしょ?」
 章くんも乾くんにはたびたび叱られている。本橋くんも叱られているのだが、本橋くんはこの際どけておこう。
「数馬くんは子供すぎて相手にもならなかったんだとしても、ファイを蹴ったのはお仕置きのつもりだったんじゃないの?」
「お仕置きねぇ。ファイは中身はガキだけど、俺が見上げる背丈をしてるんだよ。そんな男にお仕置きってのはぴんと来ないな。数馬を叩いたとしたら体罰になるんだけど、それこそ見下ろしてる。俺はそういうのはシリアスにやるのは好きじゃないよ。体罰絶対反対! とは言わないけど、俺にはそんな度量はない」
「度量か。彼女には?」
「説教ってのは叱ると同義だね。俺は説教癖があるんだそうだから、やってるんだろうな」
「女には手を上げないって主義は知ってるけど、乾くんに叱られたら、女の子は泣くでしょ?」
「うん? ミエちゃん、たいそう意味ありげなんだけど、なにを言いたいの?」
「またごまかしてる」
 それとなく菜月さんに持っていくのは困難かもしれない。乾くんに説教癖があるんだったら、私にはお節介癖がある。たぶん菜月さんと乾くんの仲は終わったのだろうから、訊くのはよそうと決めた。
「本橋くんと乾くんが、プロを目指そうって誓い合った川辺はこのへん? 対岸のクリスマスイルミネーションがきらきらして綺麗。降りてみない?」
「寒いよ」
「今夜はそんなに寒くない。小春日和なんじゃないの? クリスマスが近いわりには寒くないよ。降りようよ」
「ああ、あのあたりに車を駐められそうだね」
 カジュアルな服装もしなくはないけれど、ジーンズやダウンジャケットなどは乾くんは着ない。今日も黒のコートをまとっていて、いっそう背が高く見える。いつの間にやら車は川まで走っていて、恋人同士みたいにベンチに並んですわった。
「センスのいいひとは着やせして見えるんだって。乾くんは着やせはしないけど、プロポーションがよく見えるよね。脚も長いよね」
「長くないよ。ファイなんかは俺よりはるか上に腰がある。七つの年齢差は日本人の体格を変えたのか、あいつが特別なのか。俺は短足ではないつもりだったけど、若い奴らには脚の長さは負けるんだな。エミーは身長は俺と同じくらいだけど、あいつのほうが脚は長い」
「エミーとファイが特に脚が長いんだよ」
「そういうことにしておいたほうが、俺の身のためだね。俺はね、ミエちゃん」
 コートから覗いていたシルクのマフラーを私の肩にかけてくれて、乾くんが言った。
「デビューしたばかりのころには考えてた。あのころは二十四だったか。売れたいっていうのももちろんだけど、三十になるころには、名実ともに大人の男になりたいってね。なれないもんだな」
「乾くんはまだ三十じゃないし」
「そろそろ近いよ。かっこいい大人の男になれるのは、四十路にたどりついてからか。いつまでたってもガキのまんまじゃどうしようもないのに」
「大人じゃないの、乾くんは」
「いえいえ、全然。かっこよくは、五十になってもなれないかもしれないな」
 顔はよくないのにかっこいいと思ってるから、乾さんってのは……と言っていたのは、昔の章くんだった。たしかに乾くんは美青年ではないけれど、涼しげで爽やかで十二分にかっこいいのに。私が言ってもお世辞だとしか思わないだろうけど、もどかしいほどに彼には自覚がないらしい。
 大人かどうかは見解の相違がある。彼自身の考える「大人」がどんなものだかは知らないけど、かっこいい大人の男、を目標に努力する。自分にきびしい乾くんならではの台詞なのかもしれない。章くんは乾くんを、今でもそう考えているのだろうか。他人に向かってばかりきつい台詞を吐く、かっこつけだなんて。私も乾くんには、あんたはかっこいいんじゃなくてかっこつけなの、って決めつけたりもしたけれど。
 きっと章くんにもわかってきてるよね。乾くんは他人にもまあまあきびしいけど、それ以上にはるかにはるかに、自分自身にきびしいんだよ。いつかそれとなく、章くんにも尋ねてみよう。幸生くんは若いころから乾くんの本質を見抜いていたし、シゲくんは乾くんをずいぶん尊敬しているし、本橋くんは根本のところで乾くんに頼ってる。社長までが乾くんに頼ってる。どうしてだか知ってるよね、章くん?
 だからこそ乾くんは、むしろ生きにくいのかもしれない。恋人との仲も長続きしないのかもしれない。弱音も時には吐くけれど、みんなを引っ張ってきた真のリーダーは、乾くんだと私は考えている。なんて言ったら、本橋くんがおへそをまげるかもしれないけど。本橋くんと乾くんがいてこそ、フォレストシンガーズは成り立っているのだけど。ううん、五人がいてこそフォレストシンガーズ、なんだよね。
「私もまだまだ大人じゃないね」
「ミエちゃんは大人でしょ」
「どこが?」
「昔よりは大人になったよ。昔は……俺も昔よりは大人になったかな」
「当然よ」
 そりゃそうだ、昔よりも子供になってどうする、と乾くんは川に向かって言い、いい? とことわって煙草を取り出した。
「肺がんにはご注意下さいね。私ももらっていい?」
「ミエちゃんが吸うの?」
「煙草を吸う女はお嫌い?」
「大好きだよ」
 軽く大好きだなんて言うんだから、恋愛対象にはならない仲なんだよね、今までもこれからも。そんな男友達が何人もいて、私の人生もいいもんじゃないの、と笑いながら、二本分の煙草のけむりを見つめて思い出した。乾くんの言う昔を。
 乾くんとふたりっきりなんて、こうしてふたり並んで川を眺めているなんて、はじめてかもしれない。いつだって私たちの周りには仲間がいたから。乾くんとふたりきりはあまりないけど、本橋くんも含めての三人でだったら、知り合ったころからたまにはこんなふうにした。大学一年の秋の日に、三人でドライブに行ったのは私の運転免許習得祝いだった。
「山田が運転すんのか。俺はいやだ」
 抵抗したのは本橋くんで、乾くんは言った。
「臆病者。怖いのか」
「なんだと……怖くなんかない」
 卑怯者だの臆病者だのと言われるとむっとして、なんだとぉ? となるのが男の習性なのだろう。乾くんの策略だったらしく、大成功、でも、俺は実は怖いから安全運転を頼むよ、と乾くんはあとから私にこっそり言った。
 三人でお金を出し合って借りたレンタカーに乗って、助手席には乾くんがすわった。バックシートには本橋くん。ふたりとも免許はまだだったのだが、男の子は車好きなのが一般的だ。知識は豊富であれこれ口出ししてうるさいったらなかった。その上道路が渋滞してきて苛々して、私は片手で乾くんを突いた。
「あんたたちはうるさいの。無免許のひとは黙って私にまかせてなさい。いつつくかわかんないんだから寝たら? 静かになったらせいせいするよ」
「苛々運転は事故のもとだよ。ミエちゃん、冷静に。気を鎮めて。俺は黙るから落ち着いて。あ、あ、あぶない」
「黙ってないでしょうが。寝なさいよ」
「俺たちが寝たらきみも寝ない?」
「寝るわけないの。目も頭もぎんぎんしてて眠くなんかならないもん。ねえ、ハンドルから手が離れないよ。どうやって離すの? あれれ? くっついちゃった?」
「山田……落ち着け」
「嘘だよーだ」
 助手席とうしろの席で同時に、脅かすなーっ、うわぁ、参ったー、と声がして私はけたけた笑った。長時間かかってたどりついた目的地は多摩湖。三人で湖畔にすわって水面を眺めた。
「腹減ったな。山田が弁当作ってくるわけないか。そういう女らしいことをする奴じゃないもんな」
「お弁当を作るのが女らしいんだったら、車の運転は男らしいの? 今日は私が男らしいほうを担当したんだから、本橋くんが女らしいほうをやったらいいんじゃないの。本橋くんや乾くんは料理はできるの?」
「俺はひとり暮らしだから、ちょっとした料理はやるよ。下手だけどね」
「本橋くんはお母さまに甘えてて、なーんにもしないんでしょ?」
 甘えてない、とは言ったけど、なんにもしないのは図星だったようだ。私もおなかがすいてきたので、近くの店でお弁当を買ってきて湖畔にすわり直した。
「本橋くんったらふたつも食べるの?」
「こんなもん、ひとつで足りるかよ。おまえたちは足りるのか? 乾はそんなには食わないから足りるんだろうけど、山田はよく食うだろ。足りなかったら分けてやるよ」
「いらないよ。ひとつで充分」
 そう言ったけど食べ終わってももの足りなくて、本橋くんのふたつ目のお弁当に手を伸ばしたら、本橋くんは言った。
「やっぱりおまえもよく食うよな。やせ我慢してないでふたつ買えばよかったんだろ。ほら、食え」
「ちょっとだけでいいの」
「俺は身体がでかいほうだから、よく食うのは当たり前だ。まだ成長してるんだ。背丈も伸びるかもしれない。男は二十歳まで背が伸びるって説もある。女は成長は終わったんだろ。これからは退化の一方……」
「なんだって?」
「いや、冗談だ。おまえは身体も大きくもないし、背は低くはないが高くもない。女のくせにあんまり食うと、ぶくぶくになるぞ。太りたくないんだろ」
「……そう、あんたも食べすぎると太るよね。だったらこれは捨てようね」
「こら、待て、山田」
 頭に来たのでお弁当を取り上げて、空になった残骸とまとめてゴミ箱に放り込んでやった。きょろきょろと私たちを見回していた乾くんが、怒り出しかけている本橋くんを阻んだ。
「食いものごときで怒ると男がすたるぞ」
「なによ、あんたたちってば男だ女だばかり言って。そういうひとたちとつきあうのはやめる。私は帰るから、男のくせに車の運転もできないあんたたちはご自由に。男のくせにさ、男のくせに、男のくせにっ。女心の逆鱗に触れるようなことしか言わなくて、なにが男だよっ。男なんか嫌い」
 無茶苦茶言うなよぉ、と乾くんは嘆いたが、あえて「男のくせに」を連発していたつもりが、知らず知らず本気になっていた。あのころの私は若かったから、とはいいわけだが、気持ちの振幅は今よりはるかに激しかった。
「本橋、おまえのせいだ。ミエちゃんにあやまれ」
「なんで俺が……真実を述べたまでだ」
「太るのぶくぶくのと言われたら、女の子は怒るよ。女心の機微のわからない奴なんだから……」
「おまえはわかるのか」
「わからないけど、そういうものだろ。だからってミエちゃんも食べものを粗末にしないの」
「……ふんっだ」
 あっちをなだめ、こっちを諌め、乾くんも大変だっただろう。本橋くんも私も怒っていて、そっぽを向き合っていた。
「せっかく遊びにきたのに、喧嘩したら台無しじゃないか。本橋、駆け足でもして頭を冷やしてこい」
「頭というより全身を冷やそう」
「おい、本橋……」
「え? 本橋くん?」
 なにを……するつもり? あっけに取られている乾くんと私の前で、本橋くんはTシャツとジーンズを脱ぎ捨てた。その下には水着であろう、濃いグリーンのぴったりしたトランクスをつけていた。
「……まだ泳げるだろうと思って穿いてきたんだ。このほうが手っ取り早いよ。乾も泳ぐか」
「俺は水着なんかつけてきてないよ」
「そのままでも泳げるぜ」
「やめろ。このあたりは遊泳禁止だ。ミエちゃんも止めて」
「勝手にしたら? バッカみたい」
 夏休みに合唱部の合宿で海に行き、本橋くんと乾くんの水着姿は目にしていた。ふたりとも背は高いほうだが、十八歳男子にしては本橋くんはがっしりたくましい身体をしていて、乾くんは年相応にひょろりとしていた。あれからふたりとも大人の男らしく成長しているけれど、基本体型は変わらない。本橋くんはいっそうたくましくなり、乾くんは細身のままで大人っぽくなったと思える。
 そののちも幾度となく、彼らの半裸程度だったら目にしている。水着姿も見たし、地方での仕事の際には宿舎でお風呂上りの姿も目撃した。見るたび大人らしくなっていく男の身体に、私も感慨深くなったりしたものだ。
「いやーん、美江子さんったら、見ないで。ユキちゃん、恥ずかしい」
「見たくないよ、幸生くんの裸なんて」
 全裸ではなかったのだが、幸生くんはタオルを腰に巻いてその裾をひらひらさせてみせた。五人いっしょにお風呂に入って出てきたところに鉢合わせしたようで、本橋くんは言った。
「俺らはおまえが見ててもどうってことない。見たいんだったら見せてやってもいいぞ」
「嫁入り前のお嬢さんがはしたなくない?」
 笑って言ったのは乾くんで、シゲくんはさっさと逃げていき、章くんは言った。
「俺はどうってことなくないよ。リーダーと較べられるのはいやですよ。美江子さん、ご遠慮願います。服を着るんだから」
「そういえば俺もだな。貧弱なガキのボディだって笑われたくないもんね。この胸の厚みの差ったら……これが同じ男か。俺もいずれはこんな体格に……ならないよなぁ」
 身長の差もかなりあるし、体格も相当にちがう本橋くんと幸生くんを見比べて、うんうん、幸生くんの気持ちはわかるよ、私だって女らしい素敵なプロポーションの女と較べられたくないものね、と考えた私は、その場から退散した。
 思い出す時代が混乱している。私は追憶を多摩湖に引き戻した。遊泳禁止だと乾くんに言われた本橋くんは、それでも泳ぐとは言わず、服を身につけて私を見た。険しい表情で私を見つめる本橋くんを見つめ返していたら、ふっと表情がゆるんで彼は言った。ごめんな、だった。にも関わらずまたもや言ったのだ。
「泳ぐだなんてよく言うよ。風がつめたくなってきたじゃないか。このへんは東京より気温が低いんだろ。陽がかたむくと冷えてくる。ミエちゃん、寒くない? おまえの上着を……」
 長袖のシャツを腕まくりして着て、ピンクのコットンパンツを穿いていた私は、上着は持ってきていなかった。本橋くんのパーカーを乾くんが私に渡そうとすると、本橋くんが言ったのだ。
「山田は脂肪が多いから寒くなんかないだろ。俺のほうが寒いんだ」
「……おまえはまた……」
「なんだよ? 一般にそうだろうが。女は皮下脂肪が多い。俺は少ない。寒さがこたえるのは俺のほうだ」
「俺はもう知らないぞ」
「なにが?」
 ダイエットするからね、私は、と私は言った。無駄だ無駄だ、やめとけ、と女心に疎すぎる奴はせせら笑い、多少は女心を知っているほうは言った。
「無理なダイエットなんかしたら身体をこわすよ。可愛い女の子がなんでもおいしそうにぱくぱく食べるのを見てるのは、男としては楽しいものだよ。ミエちゃんはそのぐらいがいちばん」
「乾くんにいちばんって言われてもね」
「そうだろうけど」
「言ってほしいひとは……」
 恋人がいたのにそのひととデートもせず、男友達とドライブなんていう休日をすごしていたのは、そのひとと疎遠になりかけていたからだった。そのひとを思い出して切なくなって、私は言葉を途切らせた。そのあたりのいきさつもいくらかは知っている乾くんも黙り込み、本橋くんは私の全身を見た。
「率直に言っておまえは細くはないよな。だからって決して太ってはいない。うん、そのぐらいでいい」
「あんたに言われてももっと嬉しくないよっだ」
 そこから連想してそののちの本橋くんの話も思い出した。
「前にもなぁ……脚が太いとか言ってな……」
「誰に? 彼女に? ひっぱたかれたんじゃないの?」
「おまえじゃあるまいし。泣かれて参ったよ」
「女に太いは禁句だよ。覚えておくように」
「ああ、そのようだな。なんだってそう太いって言葉に激烈な反応を示すんだか……理解できないよ」
「理解できなくてもしなくちゃいけないの。でないとふられっぱなしになるよ」
 うるせえんだよ、と言い返す本橋くんを見て、私は考えていた。相手は誰かな。ゆかりは脚は細かったから、そのあとの彼女か。私は本橋くんの彼女を何人かは知っているけど、すべては知らない。お互いさまであって、彼も私の恋人を何人かは知っていてすべては知らない。学生時代からの友人はそんなものだろう。それはそれとして、そのときの本橋くんはうなずいて言った。
「そんなら黙るよ」
 ごめんな、ともう一度言ってから黙ってしまった本橋くんは、私にパーカーを着せかけた。寒くなんかないからいらない、と言って、私はパーカーを放り出した。可愛くねえ女、と呟いた本橋くんの声がよみがえってくる。
 あのころと較べたら私も大人になっただろうけど、乾くんはあのころから、本橋くんや私よりは大人だったよ、と言わずに考えて、対岸を見た。じきにやってくるクリスマス。私にはイブをともにすごす恋人はいないけど、フォレストシンガーズと仕事があるからいいの、こんなふうに考えるのも何度目かなぁ、とも考えていた。


2

ほどなく十二月が訪れる川べりにすわっていたらさすがに寒くなってきて、車に戻ったら乾くんがヒーターをつけてくれた。このまま帰るのはすこし惜しいなぁ、と言おうかどうしようか、迷っていたら乾くんのほうから言った。
「メシ食って帰る?」
「……乾くん」
「いやなら無理にとは申しませんよ。ミエちゃんのアパートに帰る?」
「いやじゃないの。ただね、メシ食うって言葉は乾くんには不似合いだなって」
「だったらなんと言えと? 食事をしてから帰りましょうか。ごはんを食べて帰りましょうか。お嬢さま、なにをお召し上がりになりますか?」
「そうですわね……執事、あそこにファミレスの灯りが見えてましてよ。あちらであたたかいものをいただきませんこと? やだ、舌がもつれてきそう」
「安上がりなお嬢さまでいらっしゃいますな」
 車がファミリーレストランの駐車場へと向かっていく。さほどに混んでいるようでもなく、乾くんは車を駐めて助手席に回り、うやうやしくドアを開けてくれた。
「乾くんって恭しいのが得意だよね。乾くんだと板についてるけど、私はこんなの苦手だよ。普通に戻ってね」
「わたくしはこれが普通ですが……」
「いいからさ、普通に戻って。私だってなにも、乾くんが上品な男だと思ってるわけじゃないのよ。上品にすればできるけど、仲間うちでいるときにはけっこう乱暴な口もきくじゃない」
「さようでございますかね」
「もうやめてったら」
 車から降りると、乾くんは真顔になって私の肩を引き寄せた。
「どうしたの?」
「こういう場所にはああいう奴らがいる場合が間々ある。目を合わせないほうがいいよ」
「ああいう奴ら?」
「だから、見るなって」
 見たくはないけど見えてしまった。ああいう奴らとは、駐車場の隅にたむろしている男の子たちか。地元の不良少年たちででもあろうか。五、六人の男の子が地べたにすわって、ひそひそ話をしていた。
「目を合わしたらいけないの? 野犬の群れみたい」
「似たようなものかもしれないよ。行こう」
「そうだね」
 そそくさとレストランに向かおうとしたのだが、そのうちのふたりが近づいてきた。ずいぶんと背が高い。最新流行のファッションに身を包んで、不良少年には見えない。モデル? ふたりともにハーフっぽい顔立ちの美少年……というよりも、年齢からすると美青年だろう。二十歳は越えていると見えた。
「乾隆也だろ」
 ベージュのジャケットの青年が言い、乾くんは私を背中に押しやった。
「俺をごぞんじだとは……喜んでいいのかな。ファンの方ですか」
「誰がおまえなんかのファンなんだよ」
「ちがうんですか。ならばどうして俺の名前を? 俺はそこまで有名人だったかな」
「おまえなんか有名人じゃないよ。俺たちのほうが有名なんじゃないのか。この顔、知らない?」
「生憎……すみません。アイドルシンガーの方? その身長からするとモデルさん?」
 モデルのほうだよ、ともうひとりの黒いジャケットの青年が言った。
「モデルったらさ、思い当たる女がいるんじゃないのか、あんた」
「さっきからあんたを見てたんだ。あんたは早くも別の女とドライブかよ。こんな野郎になんだって……まったくよぉ、そうやってるあんたを見せてやりたいよ」
「はじめっからその女ともつきあってたのか」
 思い当たる女……私にはいる。彼らはその名前を口にしないものの、まちがいないだろう。乾くんにももちろん思い当たっているのだろうけど、黙って彼らを見返していた。
「こんな奴に惚れちまって、馬鹿だぜ、彼女は」
「ほんとだよな。彼女はこいつの声が好きだって言ってたけど、どうってことのない声をしてるじゃないか。顔もたいしたことないし、なんだかかっこつけてやがるけど、次から次へと女に手を出してるだけの、どうしようもない奴なんじゃないのか」
「二股どころか、女はいっぱいいるんじゃないの? そこのお姉さんも、こんな奴とつきあうのはやめたほうがいいよ」
「彼女はあんたがどこの誰だかは教えてくれなかったんだけど、調べようと思ったら調べられたんだよ。彼女とあんたが歩いてるのを見かけたって奴もいたし、俺らにも情報網ってのはあるんだからさ」
 口々に言うのを総合してみると、おおざっぱにはこんなところだった。
 菜月さんであろう「彼女」には、昔からの取り巻きの男の子が大勢いた。モデルやタレント、学生、ファッション業界の男性、そういった人種が彼女を囲んで、常にわいわい楽しくやっていた。彼女はその中の誰ともまともにつきあおうとはせず、仲間の中心的、アイドル的、お姫さま的存在であったらしい。
 そんな彼女にあるとき、恋人ができた。それ以来彼女は仲間たちの集まりにほとんど出てこようとせず、たまに出てきても恋人の話をするばかりでじきに帰ってしまう。
 恋人とはどんな奴だ? 俺たちのアイドルをかっさらっていった奴はどいつだ? となって、彼らは菜月さんの恋人について調べた。やがてフォレストシンガーズの乾隆也だと判明したのだが、だからといって菜月さんの恋人に手は出せない。決まった男ができてよかったんじゃないの、ちぇっちぇっ、と言いかわしているしかなかったのだった。
 なのに最近、彼女は彼と別れたと言う。仲間の集まりにも出てくるようになって、あんな男と別れてさっぱりしたよ、と笑っていた。が、そう言っているくせに時として沈んでいる。わざとらしく彼の悪口を吐き散らしてみたり、度がすぎるほどにはしゃいでみたり、お酒を飲んで荒れてみたり、あげくは有志をつのって、大人数でハワイへ行って散財してきたりもしたのだそうだ。
「俺たちも行ったんだよ」
 彼らが互いに呼び合っている名前は、ベージュがルイ、黒がテリー。芸名なのかもしれないが、ハーフっぽいルックスにはつりあった名前だ。テリーが言った。
「彼女は思い切り楽しんでるように見えた。だけど、ひとりになったら寂しそうにしてるんだ。飲んで騒いだ翌朝は、泣いたあとみたいな顔をしてた。二日酔いだよぉ、って言ってたけど、泣いてたんだよな、あれは」
「そうに決まってる。彼女はあんたを忘れてないんだよ」
「なのにあんたは、けろっとして他の女と遊び歩いてる。許せない」
「たまたまさっきあんたを見つけて、どうしてやろうかってテリーと相談してたんだけど、どうしていいかわからなかった。あんたらが車に乗ったから尾けてきたんだ」
「むこうの彼らは?」
 ようやく口を開いた乾くんに、ルイが激しい口調で応じた。
「あいつらは関係ない。別の友達だ」
「俺たちは男ばっかり五人で、仕事帰りに遊びに出かけようとしてたんだ」
「ちょっとばかり飲んでたから、酔いを醒まそうと川辺に降りたら、あんたがいたんだよ。その女とベンチに……」
「どうしようかと思ってるうちに、あんたらは車に乗っちまったから……」
「話はわかったよ。きみたちは彼女のナイトってところだな」
「ナイトなんかじゃねえよ。俺はハワイで彼女と寝た。俺の彼女になってくれ、って言ったんだけど……あたしはもう決まった男となんかつきあわない、ってさ……あんたのせいじゃないか」
「あんたのせいで菜月はあんなになっちまったんだよっ」
 やっぱり菜月さんだった。聞かなくてもわかってはいたけれど、私に口出しできる問題ではない。私はいないほうがいいのでは……と思って言った。
「乾くん、私は先に帰ろうか。タクシーもつかまえられるだろうし、そのほうがいいよね」
 帰るなよ、と言ったのはテリーだった。
「あんたもちゃんと聞いとけよ。こいつはそんな男なんだぜ」
「……誤解してるみたいだから言うけど、私は彼の恋人じゃないのよ。ただの友達」
「ただの友達になんか見えなかったよ。嘘なんかつかなくていいだろ。ルイ……」
「んん?」
 頭と頭を寄せてなにやら言いかわし、テリーが私の腕をとらえようとした。その手を払いのけ、乾くんが私を再び背後に押しやった。
「彼女に手を出すな」
 静かな口調に凄みが漂い、私は肩をすくめ、ルイが言い返した。
「なにが彼女なんだよ。俺たちはみんな、菜月が好きだ。好きだからって言ったって、みんなで楽しくやってる仲間なんだから、誰かが菜月を自分のものにするなんてできなかった。抜け駆けはなしだぞ、って言い合ってたんだよ。それをあんたが……好きな女の子をよその男に変なふうにされちまう気分なんて、あんたは知らないだろうが」
「知らないよ。知りたくもない。彼女は俺の恋人ではなく、彼女も言った通りに昔からの友達なんだけど、そういうひとだっていやだね。きみらがなにを考えてるのか想像はつくんだけど、想像したくもないよ。俺の話を聞いてくれるか」
「話なんか……」
「聞け」
 ぴしりと言われて、ルイとテリーは不満げに乾くんを見つめた。
「たしかに俺はきみたちのアイドルたる彼女とつきあってたよ。だけどね、ふられたのは俺だ。はじめは彼女は俺を好きになってくれたんだろう。俺も彼女が好きだった。だけど、恋なんてものはいずれは醒めていくものだろ。彼女が俺を嫌いになって、だったら別れようとなった。彼女に嫌われた原因は俺にあるんだろうけど、恋してつきあって別れるなんてのは、どこにでもここにでもころがってる話じゃないか。彼女はもはや俺の手の届かないひとだ。あとはきみたちにまかせるよ。彼女を元気づけてやってくれ。俺にはそうしか言えない。よろしく頼む」
 深く頭を下げた乾くんが顔を上げると、テリーがこぶしを振り上げた。
「やめて」
 思わず言った私を、乾くんが制した。
「それで気がすむんだったらやってもいいよ。どうぞ」
「くそっ、いい格好しやがって……」
「てめえなんか殴っても……その女を……」
「彼女には絶対に手を出すな。出したら……」
 怒っていると他人には見える演技をするのが乾さん、と言っていたのは幸生くんだったか。今もその演技をしているのか。乾くんは低い声音で言い、怯みかけたふたりに声音を変えて言った。
「逃げないからすこし待ってて。車のキーを渡しておこうか。運転免許も人質にしてもいいよ。すぐに戻るから」
 そんなもんはいらないけど……とふたりは曖昧にうなずき、乾くんは私を促した。
「あなたは車にいて。中からしっかり鍵をかけて、なにがあっても出てこない。彼らには常識はあるようだから、無茶はしないだろ。ちっとやそっと殴られたって俺の自業自得なんだから気にしないでいいよ。俺が運転できないほどになったら、あなたがしてくれるよね」
 私の名前を彼らに教えたくないからか、乾くんは口にしない。だって、無茶はしないなんて保証はないでしょうに、と抵抗しようとしたら、乾くんは怖い顔になった。
「あなたがそばにいると邪魔になるんだよ」
「ああ、そうなの。私は足手まといってわけだね」
「そうだよ。俺の言った通りにするね。約束するね」
「……」
「返事をしなさい」
「……」
「返事しろ」
「……わかった」
 えらそうに言わないでよっ、と反抗することもできなくなって、私は車に乗った。
「乾くんこそ、無茶しないでよ」
「しませんよ。ごめんね、いやな思いをさせて」
 むこうには三人の男の子がいて、テリーとルイの友達だそうだけど、近づいてはこない。それをして彼らには常識はある、と乾くんは言ったのか。無関係の友達は引き入れず、テリーとルイだけが乾くんに対していたから。にしたって、あんなに背の高い男の子ふたりに暴力をふるわれたら、乾くんはどうなってしまうんだろう。
 気がかりでたまらなくて、そのくせ私はなんにもできなくて、車の中から三人を見ていた。暗くて距離もあるのではっきり見えない。三人はその後もしばらく話していたが、急にもみ合いになった。なにをしているのかが明確には見えない。いっそう焦れていたら、数分後にルイとテリーは友達のいる場所に歩き去っていき、その数分後に乾くんも戻ってきた。
「大丈夫っ!?」
 窓を開けてかみつきそうな勢いで訊くと、乾くんは車にもたれて言った。
「なんともないと言うと強がりになるけど、とりあえずなんともないよ。一服していいかな」
「何服でもして。中に入ったら?」
「ここで吸いたい。夜風がいい気持ちだ。顔は殴られてないからね。腹にどすっと、脛にどかっと、それだけだよ」
「骨折してない?」
「そこまでの攻撃でもなかった。背は高くても細い坊やたちだから、本橋に蹴られるよりはましだろ」
「呑気なんだからっ!!」
 こっちは身もだえしそうに焦れていたのに、乾くんは煙草に火をつけてのんびりした声を出した。
「煙草ってのは副流煙の問題を考えに入れなかったとしたら、精神的には益になるんだよね。喉や肺には害になるけど、心が落ち着く。気持ちがのどかになる。こんなときの一服はまたとなく心にしみ渡る。そもそも嗜好品なんだから、外野からそうやいのやいのと攻め立てられるほどのものじゃない」
「副流煙が大問題なんでしょ。私はそんなのへっちゃらだけどね。煙草の煙以上に害になるものに取り囲まれて生きてるんだから。たとえば……」
「たとえば?」
「心配ばっかりさせるあなたたちよ。昔からそんなのばかりじゃないの。男は殴られたってどうってことないって」
「どうってことないよ」
 ますますのんびりと、乾くんは言った。
「殴られる痛み、殴ったこっちの手の痛み、物理的なそういう痛みを経験するのは、人生勉強のひとつになるんだよ」
「私は大人になってから……んんと、誰かを叩いたことはなくもないけど、叩かれたことってないな。人生経験不足?」
「女性は誰にも殴られなくていいんだよ」
「だから、それが……もうっ、乾くんの詭弁には勝てない」
「お嬢さま、食欲のほうはいかがでいらっしゃいますか?」
「食べる気なんかなくなった。帰ろう」
「承知いたしました。お嬢さまの仰せのままに……」
 こんなときまでふざけていられる乾くんの精神構造は理解できない。菜月さんとの仲がどうなってどう終わったのかは知らないけど、自分ばっかり悪者になって、菜月さんの取り巻きの男の子に殴られて、私はあくまでもかばおうとして……車に乗り込んできた乾くんを睨み据えたら、おっとっと、と身を引いた。
「私が運転する」
「大丈夫だよ。ミエちゃんの運転のほうが怖い。寿命が縮まる」
「乾くん、私もあなたを殴りたいんだけど」
「あとにして下さいね。運転中は事故のもと。お静かに願います」
「……勝手にして」
「はい、勝手に運転しますよ」
 まったくもう、まったくもう、とひとりで怒っていたら車がスタートし、乾くんは笑顔で言った。
「三十年近くも生きてると、なにかとあってね。無関係なミエちゃんまで巻き込んで悪かったよ。ごめんなさい」
「そんなんで怒ってるんじゃないの。そりゃあなにかとあるよ。私にだってあったし、本橋くんにもいろいろあるんでしょ。そんなのを根掘り葉掘り訊く気はない。だけど……乾くんってどうしてそうなの?」
「そうとは?」
「前言は取り消す。乾くんは地上最大の、史上最大のかっこつけだよ」
「前言ってなんだろ。まあね、たしかにね、俺はかっこつけなんだな。前々からミエちゃんにもよく言われたし、自覚もあるよ。だからって三十年近くも生きてたら、今さら性格も変えにくいんだよ。どうやったら俺のかっこつけ性格が治る?」
「きっと死んでも治らない」
 そうかぁ、とがっくりしてみせる乾くんを見てため息をつくと、世間話みたいに言い出した。
「あれでなかなかいい奴だよ、あの坊やたちは」
「どこがいい奴? 暴力をふるうのはいい奴じゃありません」
「ミエちゃんには異論もあるだろうけど、俺はどこかしら、彼らが好きだよ。うん、やっぱり腹が減ってきた。ミエちゃんの食欲は減退しっぱなし?」
 この話はこれでおしまい、って意味なのかもしれない。うん、私もおなかすいたかな、と言うと、よしよし、それでなくっちゃ、と乾くんは、車を別のファミレスの駐車場へと進めていった。


 あんな事件があっても、乾くんは菜月さんについて詳しく話してはくれなかった。根掘り葉掘りは訊かないと言った以上、私も訊けない。菜月さんと出会った話も私はしなかったし、乾くんはFSのみんなにも、あの夜の一件は話していないようだ。今日はスタジオに集まったみんなが、近頃よく出る話題に花を咲かせていた。
「ニーナさんものらりくらりしてますよねぇ。どれが真実の話なのか、張本人の乾さんが教えてくれないからぜーんぜんわかんね。美江子さんはどう思います?」
 リーダーはこう、シゲさんはこう、章はこう、俺はこう……ってえか、俺のはほぼ俺の作り話だけど、と幸生くんが話してくれた、ニーナさんのライヴでの乾くんとのエピソードだ。章くんが聞いたのがいっとうはじめで、二番目の幸生くんは先走ってニーナさんの話を横取りした。つまり、幸生くんの話は考えに入れなくていいわけだ。
 三番目に聞いたシゲくんの話は、章くんのと微妙にずれがあり、最後に聞いた本橋くんの話は、異次元空間へと行ってしまったのだそうだ。本橋くんは詳細にはニーナさんの話を口にしないのだが、言いたくもない乾の台詞の連発、いわゆるロマンス小説の次元だ、と言っていた。
 今日も乾くんは他人ごとみたいな顔をして澄ましていて、幸生くんが腕組みをして悩みつつ、私に尋ねた。私はニーナさんから聞いてはいないのだが、ふと思いついて言った。
「私もニーナさんから聞いたよ」
「美江子さんも? なんてなんて?」
「私は幸生くんほど記憶力がよくないから、この通りだったかどうか確信は持てないけど、こんな感じ」
 千葉でのニーナさんのライヴに、乾くんがカサブランカのブーケを抱えて訪ねていった。カサブランカダンディ? とわけのわからない突っ込みを入れる幸生くんを黙殺して、私は続けた。
「とっても高価なカサブランカの大きなブーケを手に、乾くんはニーナさんの楽屋を訪問しました。ニーナさんはカサブランカに負けずとも劣らない華やかな微笑で、乾くんを出迎えたの」
「ブーケは花屋で買うものですもんね」
「幸生くんは黙ってて」
「はあい」
「ニーナさんは煙草を取り出したの。そしたら乾くんが言った。ニーナさん、煙草は身体によくありませんよ、俺みたいにたまさか吸う程度だったらいいんですけど、ニーナさんほどのへヴィスモーキングはいけませんね、お控えになったほうがいい、本数を減らしなさい、って」
 乾さんだって吸うんだから、その説教は……と章くんが口をはさんだ。
「あんたに言われたくないわよ、ってなったんじゃありません?」
「そうそう、章くん、そうなのよ。ニーナさんは温厚な方だけど、乾くんの差し出口にはむっとなさったのね。そこから口論になって、乾くんのあまりにも生意気な言動に腹を立てたニーナさんは、思わず手を上げた」
 おまえじゃあるまいし、と呟いたのは本橋くんだったが、それも黙殺した。
「乾くんはやんわりその手を押しとどめ、ニーナさんの耳元で囁いた。殴られる痛み、殴ったこっちの手の痛み、物理的なそういう痛みを経験するのは、人生勉強のひとつになるんですよ、ただし、それは男に限られた人生勉強であって、女性にとっては暴力は害にこそなれ、益にはなりません、無益な手はお下げ下さい」
「乾さんらしい台詞かも」
「でしょ、幸生くん? それから乾くんはこうも言った」
 あなたのように美しく優雅な女性が男を殴るなんて、ふさわしくなさすぎる。しかし、あなたは俺に憤りを感じていらっしゃるんですね、では、こうしましょうか、と乾くんは言い、ニーナさんの鏡の前にあったヘアブラシで、力を込めて自らの手をひっぱたいた。
 我が手で我が身を殴っても、さしたる痛手にはなりませんが、これならば痛い。申しわけありませんでした、ニーナさん、若造が大先輩のあなたに向かって、身の程知らずな口をききました、お許し下さい、許していただけますでしょうか。
 真っ赤になった乾くんの手を握り、ニーナさんは言った。そこまでしなくてもいいのに……私こそ、私こそごめんなさい……乾くん、あなたってなんて……なんてひとなの。
「ってわけで、ニーナさんは乾くんにほのかな恋心を抱いたのね。そういう顛末。乾くん、これが真相でしょ?」
「ミエちゃんの話は芸が細かいね。幸生の先走りとは大違いだ」
「ごまかさないで。真相はいかに?」
「どれも真相ではない」
 そんな話が真相であるもんか、と本橋くんが割り込んできた。
「いくら乾でも、そんな意味もねえ真似はしないんだよ。おまえのも作り話だろ」
「本当の話よ。だからこそ微に入り細にうがってたんじゃないの。でなかったら私にできる? 殴られる痛みや殴った手の痛みがどうこうって話は、私の経験では言えない話なんだもの」
「言えるだろ。おまえだって……」
「私は他人を殴ったことも、殴られたこともないよ」
「嘘をつけ」
「なにが、どこが?」
「とにかく、乾はおまえのも嘘話だと断言しただろ。な、乾?」
 その通り、と乾くんはうなずいた。その表情には私にだけ読める色がある。ミエちゃんはうまく俺の台詞をアレンジするね、だと読めた。
「そら見ろ。第一、おまえはいつ、ニーナさんから話しを聞いたんだ」
「女同士は男の知らないところで、話す機会もあるのよ」
 なかったはずだけどなぁ、とシゲくんまでが言い、疑わしさのありったけをみんなが私に向け、本橋くんは勝ち誇ったように言った。
「おまえのも嘘だ。乾も幸生もニーナさんも、嘘をこしらえるのがうまい。ニーナさんに至ってはいくつもいくつもバリエーションを変えて作り話をする。おまえまで加わってややこしくするな」
「だけど、一歩前進はしたじゃない。全部ちがうって乾くんは言ったんだから」
 なるなるほどほど、と幸生くんもうなずき、カサブランカって花? どんな花? と質問した。私が答えようとする前に、乾くんが答えた。
「ユリ科のゴージャスな花だよ。ひとつだけ正しい解答をしよう。俺がニーナさんに贈った花束は、サンダーソニアとカラーを基調にした和風テイストだった」
「サンダーソニア? カラー? それも花の名前? どんな花か教えてもらってもわからない。ユリだってよくはわからない」
「インターネットで検索してみろ」
「その手がありますね」
 一歩前進はしたみたいだけど、乾くんは幸生くんと花の話しをして、いつものごとくごまかそうとしている。私も近いうちにニーナさんと話して、ことの真相をつきとめたい気分になってきていた。


3

 ライヴホールが小さいのも、満席にはならないのも変化はないけれど、十二月半ばのこの夜に、「フォレストシンガーズクリスマスナイト」の夕べが開催された。今宵は彼らの衣装はクリスマスカラーで、幸生くんと章くんが赤、本橋くんとシゲくんが緑、乾くんが白のジャケットを身につけている。
 衿元の飾りも、章くんはちっちゃなクリスマスリース、幸生くんは天使、シゲくんがキャンドル、本橋くんはスノウマン、乾くんはサンタクロースだ。ステージに立っている幸生くんが、マイクに向かって話していた。
「イヴ当日にはみなさまは、みなさまの愛するひととクリスマスを祝うんですよね。その十日ばかり前の今夜は、我々の歌でひと足早いクリスマスを満喫して下さい。クリスマスムード満点のこの歌で幕を開けると致しましょうか。えーと……ビーチボーイズ、「サーファーガール」。いいでしょう?」
「それだと真夏のカリフォルニア気分満喫でしょ。季節はずれだよ」
 ととっとずっこけてみせてからの章くんが言い、シゲくんも言った。
「クリスマスといえば、ホワイトクリスマス、サンタが街にやってくる、ママがサンタにキッスした、他にもいろいろあるでしょう。ビーチボーイズを選ばなくても……」
「僕の大好きな歌にしませんか」
「リーダー、それはなに?」
 バーニングクリスマス、と本橋くんが言い、幸生くんは首をかしげた。
「クリスマスが燃えちゃうんですか。火事になったら大変ですよ。誰の歌ですか」
「僕が作った歌なんですが……」
「リーダーの詞ですか? そんな歌は僕も知りませんが、クリスマスの火事……不吉だから却下。不吉すぎて快感の戦慄が走りそう」
「不吉なのになぜに快感?」
 だって、ねぇ、と幸生くんが乾くんに視線をよこし、乾くんがしめくくりの台詞を口にした。
「ただ今、幸生が申しました戦慄は、背筋にぞぞっと走る戦慄ですね。そんなものはみなさまに味わっていただきたくありません。別の快感の旋律で参りましょう。この場合の旋律とはメロディであります。我々がみなさまにお届けする快感の旋律、クリスマスナンバーメドレーです。お聴き下さい」
 上手にまとめて、五人は歌いはじめた。シゲくんのベースヴォーカルが快感の旋律とやらを奏ではじめるのを聴きながら、私は控え室に戻っていった。そこにはなつかしいひとがいた。
「徳永くん、来てくれてたの? 来てくれてたんだったら、客席に行けばいいのに」
「あいつらの歌を聴くより、山田さんに会いたくてさ。あいつらがいたら邪魔だから」
「私に?」
「山田さん、三沢と結婚するって?」
 はああ? えええ? どこからそんなニセ情報が? 本橋くんと私がつきあっていると勝手に決め込んでいた徳永くんが、今度は幸生くんと私? あっけに取られていると、徳永くんは言った。
「三沢よりは本橋のほうがよくないか。俺は山田さんにはどっちとも結婚なんかしてほしくないけど、俺ともしてくれるわけもないんだから、それだったら本橋のほうがいいよ。いや、乾でもいいか」
「私の世界は広くはないけど、そこまで狭くもないのよ。FSのメンバー以外にも周囲に男性はいますから」
 ろくろく聞いていない様子で、徳永くんは独断偏見独語を呟いていた。
「乾もよくないよな。あの口……聞いてて苛々してくる。三沢なんかは論外だし、本庄はあの顔で、FSの誰よりもさっさと結婚しちまったんだろ。木村って奴は俺はよく知らない。本橋も乾も……それでも三沢よりは本橋がいいよ」
「どの人とも結婚なんかしないから心配しないで」
「しかし、山田さんももう二十八なんだよな。女性はそろそろ結婚も考えないと……」
「徳永くん、ひとりで喋らないで。幸生くんや乾くんといっしょだよ、それでは」
「結婚しないの?」
「いつかはするかもしれないし、しないかもしれない。決めるのは私よ。せっかく来てくれたんだから客席に行って。さあ、うだうだ言ってないで行きなさい」
 そうすっか、と肩を落としたまま、徳永くんは控え室から出ていった。ドアが閉まって足音が遠ざかっていってしばらくしてから、またドアが開いた。
「徳永くん、忘れものでもしたの? あら、ファイ……」
 ビジュアルロッカーの扮装はしていないものの、破れたジーンズなんか穿いたファイが、うっそりと手を上げた。
「キミも聴きにきてくれたの? そんなら客席に行けばいいじゃない」
「聴きにきたんだけど、ああいう歌は俺の性に合わねえんだよ」
「キミもヴォーカリストなんでしょ。彼らの歌を聴くと勉強になるよ」
「ロックでないと勉強になんかならないよ」
 ロックロックって、知ってはいたけどファイもやはり章くんの同類だ。彼は私のそばに来た。
「ミズキちゃんにふられちまったって話、聞いてる?」
「聞いてないけど、ふられたんだ。まあね、よくある話だよ。ミズキちゃんはエミーを選んだの?」
「エミーでもない。どっちもふられた」
「そう。そのほうがいいかもね」
「よくねえよっ!」
 怒鳴ったと思ったら、こぶしを固めて鏡を殴りつけた。殴っておいて、いてて、と唸っている。
「鏡が割れたらどうするのよ。若い男の子は馬鹿力なんだから、そんなものを殴らないで」
「どうせ俺は馬鹿だよ」
「馬鹿と馬鹿力は別ものです。さっさと客席に行きなさい」
 行けばいいんだろ、と彼もまた、肩を落として控え室から出ていった。なんとなくそこらを片付けたりしていても、控え室にも聴こえてくる。遠くかすかに、ライヴ会場のざわめき。廊下に設置されたスピーカーを通して、歌も流れてくる。幸生くんの話し声も聞こえてきた。
「熱唱したら汗をかいちゃいました。僕の汗ってセクシー? リーダー、そんないやぁな目で見ないでよ」
「三沢幸生の汗はセクシーとは程遠い」
「やあね、そんなに褒めないでったら。そのいやぁな目は、僕に恋しちゃった目でしょ?」
「どこをどうねじまげたら、そういう発想になるんですか」
「だって、僕ったら男のひとにも女のひとにも次々に恋をされちゃって、振り払うのに苦労しまくってるんですよ。乾さんもユキちゃんに恋してるしね」
「……セクシーといえば……」
 客席からは笑い声が聞こえてきていて、乾くんの声も聞こえてきた。
「女性にとってはなんともセクシーな声の持ち主が、会場に来てくれています。みなさまもごぞんじの徳永渉くんです。上がってきてくれる? みなさま、盛大な拍手で徳永渉を迎えてやって下さい!!」
 歓声と拍手。徳永くんは拒絶するのではないかと思ったのだが、そこはプロのシンガーなのだから、乾くんの呼びかけに応えてステージに上がってきたらしかった。
「ようこそ、徳永。彼は我々と出身大学が同じでして、年齢もリーダーや僕と同じで、合唱部では同輩だったんですよ、みなさま。当時から傑出した歌唱力と、この声とで合唱部のホープでした。男声合唱や混声合唱で彼と歌ったことはありますけど、彼も含めて六人で歌った経験はないね。徳永、やらないか」
「……突然言われても……」
「プロでしょ、きみも。スタンダードナンバーだったら歌えるでしょ。きみの得意な歌でいいよ」
「なら……スターダスト」
「了解。みんなもいいか?」
 もしかしたら本橋くんは気に入らないのかもしれないけど、そこは彼もプロである。ややあって、ア・カペラの歌声が聞こえてきた。徳永くんがリードを取り、五人がコーラスで続く「スターダスト」は、俄か編成だとは思えないほどに息も合って美しいハーモニーになっていた。
 次はファイ? とはならなくて、徳永くんが引っ込むと、フォレストシンガーズのステージが再開された。彼らのオリジナル曲、既成の曲のカバー。クリスマス、冬、に似つかわしい曲が続々と流れ、私もひっそりと彼らの歌に聴き惚れていた。
 いつどこで聴いても、あなたたちの歌は最高。たいして売れてはいないけど、すこしずつは上向いていってる。学生時代からあなたたちの歌は素晴らしかったけど、完成はしていなかった。今でもまだ完成品ではないんだね。成功するということにおいても、歌の完成度においても、上には上があるってのは努力のし甲斐があるって意味じゃないの。
 私がそう考えているうちに、ステージはフィナーレを迎えつつあった。雪の結晶が目に見えるかのような、章くんと幸生くんのハイトーンヴォイスが歌ってる。ふたりの声がひとつに溶けて、きらきら、ふわふわ、と風花が冬空に舞う幻想が見える。うっとりしながら顔を上げると、目の前にファイがいた。
「うっ……なんなのよ、いきなり! 脅かさないでよっ!!」
 いきなりもいきなり、ファイは私を抱きすくめた。
「ファイ……なにすんのっ!! 冗談は……ちょっと、やめなさい……やめて。やめろ。こらっ、やめろーっ!」
 まったく若い男の子は馬鹿力だ。力いっぱい抱きすくめられて、無理無体にもキスされた。
「な、ななな、なにすんのよっ、あんたはっ!! 離して。離せ。噛みつくよ」 
 もがいても叫んでも、ファイは腕をゆるめない。なにも言わない。本当に噛みついてやろうとしたとき、ふいにファイの身体がのけぞった。
「なにをやってんだ、てめえは」
 押し殺した低い声は本橋くんだった。本橋くんがうしろから力まかせにファイの腰をつかんで引っ張り、鮮やかに投げ飛ばしたのだ。
「山田がぎゃあぎゃあ怒ってる声がしてるから来てみたら、なんだ、この狼藉は」
「本橋くん、ステージは?」
「アンコール前に一旦引っ込んだんだよ。アンコールもすんだら戻ってくるから、ファイ、申し開きはそのときに聞く。逃げるなよ。逃げたら承知しねえぞ。どうなるかわかってるんだろうな」
「ステージでは精一杯品よくふるまってるのに、凄んだらファンの方が幻滅なさるよ」
「んなことを言ってる場合か。おっと、行かなくちゃ」
 逃げるな、とファイに念を押して、本橋くんは走り去り、ファイがぽつんと言った。
「狼藉ってなに?」
「さっき、あんたがやったようなことだよ。立ちなさいよ。立てないの? 腰でも打った?」
「痛い……骨が折れたかも……」
「その手は食わないの。本橋くんはまだ仕事が残ってるんだよ。あんたのせいで歌が変になったらどうしてくれるのよ。彼を怒らせないでよね」
「山田さんも怒ってるよね」
 当たり前ですっ!! と言い返すと、フロアに大の字に伸びたファイが言った。
「怒ってる山田さんって綺麗だなぁ。俺の彼女にならない?」
「論外、問題外」
「なんで? 年下だから? 七つちがいだっけ。七つちがいの彼女なんかよくあるよ」
「キミは私の下の弟と同い年なの。そんな子供と……それもあるけどね、腕力にものを言わせて女を襲う奴となんて、考えたくもないよ。あんたはいつもそんなことをしてるの?」
「してねえよ。襲ってないじゃん」
「襲ったじゃないの」
「キスしただけだよ」
「恋人でもない女を抱きすくめてくちびるを奪うって行為を、襲ったと言うのよ」
 そっかなぁ、とファイは口をとがらせた。
「ファンの子だったら喜ぶよ。キスしてやったらきゃっきゃって喜ぶけどな」
「私はあんたのファンじゃないよ。ファンの方にだったら優しくハグして、いつもありがとう、これからも僕たちを応援してね、って、ちゅっってするんでしょ? あんたは私になにしたの? あんな乱暴なのを狼藉っていうのよっ」
「本橋さんも乱暴じゃないか」
「あんたが悪いからでしょっ」
「乾さんもひでえよ」
「あれはもっとあんたが悪いのっ!!」
 七つも年下だと話が通じにくいのか。弟の和正もこんなのか。章くんも数馬くんと龍くんを引き比べて考え込んでいたが、私もファイと弟を較べたくなる。年下の男の子を弟視したくなるのは、弟のいる兄や姉にはありがちなのであろう。弟は章くんと私にしかいないので、章くんなら一部分でも気持ちをわかってくれるかもしれない。
 不毛な噛み合わない会話を続けているうちに、二曲のアンコールも終了して、客電がついた気配が伝わってきた。客席のざわめきが、一夜のステージが終わった満足感と虚脱感に変わって感じられる。ファイはすわり直し。逃げていい? と訊いた。
「駄目」
「逃げていいでしょ。やだよ、袋叩きにされるよ。本橋さんには殴られて投げ飛ばされて、乾さんには蹴飛ばされて、木村さんや三沢さんは怖くないけど、シゲさんも怖そう」
「僕、壊れそう、ってね」
「山田さん、俺をかばって」
「やなこった」
 ステージの興奮と爽快感の余韻を身にまとった、五人が控え室に戻ってきた。本橋くんはなにも言ってはいなかったようで、幸生くんが怪訝そうな声を出した。
「ファイがなぜにここにいる? 美江子さん、なんだかすっげえ怒ってる。ファイ、美江子さんになにかしたんじゃないだろうな。無礼な口をきいたのか。なにをしたんだ。言ってみろ」
「キスしただけだって」
「にゃ、にゃにおっ! キス? 美江子さんもキスしていいって?」
「いいとは言われてないけど……」
「そんならおまえ……てめえ、この野郎……うがが、ああ、こんなときには非力なおのれが悲しいよぉ。おまえをぶん殴ってやろうとしたって、俺だったら逆にかわされてこっちがころぶのがオチじゃないか。ころんでしたたか腰を打って、ぎっくり腰になっちまうよ。章、おまえにまかせる」
「俺? 俺だったらおまえと同じだ。リーダー……って、リーダーも……」
「俺は知らないぞ。シゲ、こんな際にはいいんじゃないか。おまえがファイをぶん殴れ。恭子さんにキスしたんだったら殴るだろ。やれ」
「……美江子さん、やったほうがいいんですか」
 こんなところはシゲくんそのもの。私がかぶりを振ると、乾くんが言った。
「一応のケリはついてるように見えるんだけど、さきほど、本橋がしばし消えてたな。あのときか」
「俺は知らねえって。山田がその口でファイを撃退したんだろ。しかし、山田の口攻撃だけじゃファイにはもの足りないよな。乾、やれ」
「俺が? ファイ、足りないのか?」
「足りすぎるほど足りたよ」
「そうか。だったらミエちゃんにあやまれ。あやまったからってなんでも解決するんじゃないけど、二度としません、ごめんなさい、だ。ファイ、言え」
「そうそう、ごめんですんだら警察はいらないと言うけど、詫びることで場が円滑におさまるって場合もあるんだよ。章、耳が痛いだろ」
「俺は関係ねえだろ。幸生は黙ってろ」
 おまえも黙ってろ、と章くんに言い、乾くんはファイをじっと見据えた。
「事情は知らないけど、あやまるべきときには潔くあやまれ。あやまらないのか。ごめんなさいが言えないんだったら、お仕置きしてやろうか」
「……お仕置きって……俺はガキじゃねえっての。だけどさぁ、俺、山田さんにつきあってほしいって……」
 先走ったのは常のように、幸生くんだった。
「なに? そういう事情? ファイは美江子さんにキスして、つきあって下さいって言ったの? 美江子さんに拒否されて、ふてくされてそんなところにころがってた。キスってのは、つきあって下さい、いいわよ、ってやりとりがあってからするものだよ。ファイはもてるんだろ。そんなの何度も経験してきたんだろ。美江子さんは断ったんですよね」
「断ったよ」
「つきあってくれって言われたのはほんと? 改めてそんな目で見てみると、似合わなくもないような……」
「似合わないよ」
「そうでもありませんよ。ファイの手綱を引き締めてうまく乗りこなす。美江子さんにだったらできそうな気がする。似合いますよね、リーダー?」
「似合わない。一パーセントも似合わない」
「そっかなぁ。けど、断られちゃったんだったらしようがないね。ファイ、潔く詫びて引き下がれ。ふられた相手にいつまでも未練たらたらは男の風上にも置けないんだぞ。な、章?」
「おまえはなんだってそう俺に……幸生、喧嘩売ってんのかっ!!」
「おーお、素晴らしきへヴィメタシャウト炸裂!! ユキちゃんの背筋に快感の戦慄。快感の旋律もお聞かせしましょうか」
 いい加減におまえは黙れ、とシゲくんに言われて、幸生くんは口を閉じ、ファイが言った。
「わかったよ。山田さん、ごめん」
「わかればいいのよ」
 乱暴なのはまっぴらだけど、ファイほどの美青年とキスして、快感の戦慄とはいかないにせよ、ファンの方にはうらやましがられるのかな、と思って首をすくめた。キスだけだったんだから許してあげましょう。ファイは半ばふてくされ、半ばがっくりしていて、本橋くんが言った。
「殴らなくていいのか、山田?」
「いいの。それより徳永くんは? 誰か徳永くんに言った? 幸生くんと私が結婚するって、彼が言い出したんだけど、そんな話の出所は誰?」
「おー、美江子さんと俺が結婚するって情報が流れてるんですか。いいじゃんいいじゃん、実現させてしまいましょう。俺も年下だけど、ファイよりは人間ができてますよ。何度でもプロポーズしますから、美江子さん、結婚して下さい」
「……もはや幸生くんにプロポーズされても、なんらの感慨もないわ。一度目もなかったんだけどね。話をそらさないで。徳永くんに嘘ついたのは誰? 乾くん?」
「幸生がミエちゃんに座興でプロポーズしたとは話したけど、徳永の頭の中に真実がまがってインプットされたんだな。その話はあとでじっくりしよう。徳永は帰ったようだけど、ファイも打ち上げに行くか。デートは……ないんだよな」
 ねえよっ!! とファイが叫び、みんなして笑った。男性たちの笑い声の中には、数十パーセントの同情が含まれているように聞こえた。今の彼らにデートがあるのかないのか知らないけど、ないのだったとしたら、何パーセントかの共感も含まれていたのだろうか。


 打ち上げにはファイも加わり、ライヴスタッフの有志も参加して大人数で、行きつけの酒場を借り切って賑やかに行われた。徳永くんも来ればよかったのに、と考えていたら、ファイが近づいてきた。
「山田さん、俺、本気で言ったんだよ」
「あんなの本気じゃないでしょ。気の迷いだよ」
「ちがうよ。山田さんがぽーっと控え室にいるのを見てたら、俺の気持ちがふわふわっとなってきて……」
「むらむらっとでしょ」
「なんで山田さんはそうやって、俺の気持ちに応えてくれないの?」
「誰にでもそんなふうに言うに決まってる、あんたなんかとつきあう気はないの」
「誰にでもは言わないよ。ココって女になんか言わない。綺麗な女にしか言わない」
「女を外見でしか判断しない男はお断り」
 むっとした顔になり、ファイが反論してきた。
「そりゃあ、男は綺麗な女が好きだよ。女はそうじゃないの? うちの奴らは顔はいいから、みんなけっこう女の子に騒がれるよ。俺らなんかたいしてうまくもないのに、女の子に人気があるのはルックスのおかげじゃん。ロックバンドを外見で判断して好きになるのは女だろ。男は演奏で選ぶから、俺たちには男のファンがあまりいないんだ」
「ロックバンドと恋人選びは別です」
「そうだろうけど」
「ロックバンドの好き嫌いは、そのときのひらめきでもいいよね。あ、素敵、かっこいい、でそのバンドのファンになって、失望したら離れていけばいいのよ。ミュージシャンはミュージシャンの主義で音を変える。それを支持してついていくのも、幻滅してファンをやめるのも、ファンの方の自由ってものよ。ミュージシャンの主義にもファンの支持にも、他人の指図を受ける筋合いはない。恋にも他人の指図はいらないけど、恋人はそうはいかないでしょ? 簡単に別れられるとも限らないし、修羅場になる場合だってある。勢いにまかせて突っ走るのもいいけど、そんなのは若いうちにすましておくべきで、私の年になると軽い気持ちでなんかつきあえないの」
「山田さんもまだ若いよ。勢いにまかせて突っ走ろう」
「キミとだとまかせる勢いも出てこない」
「つめたいなぁ」
 ミュージシャンとファンの関係とはそういうものだ、と自分で言って自分で気づいて、私の考えはそちらに浸り込んだ。ファイはかたわらでなおもあれこれ言っていたが、もはや聞こえていなかった。
 フォレストシンガーズは彼らの主義で、彼らの歌世界を創り上げている。それを支持して下さるファンのみなさまが応援してくれる。今は数少ないファンの方だけど、ライヴに来てくれたその方たちは、リピーターとなってくれる場合が多いようだ。ラジオに出演している際の彼らが読み上げる、葉書やファックスや電話や番組サイトのBBSの書き込みやらで、その事実が窺い知れるのだ。リピーターファンが彼や彼女の友達を誘い、そうして広がるFSのファンの輪。
 そうだよね、それがフォレストシンガーズが成功して大物になっていく一歩じゃないの。すこしずつ広がっていくファンの輪。そうなんだ、とひとりでうなずいていると、ファイのとなりに女性がすわった。ライヴスタッフの一員のマコちゃんだと、名前は知っていた。
「燦劇のファイさん?」
「ファイでいいよ。きみはスタッフの子?」
「はい、マコです」
「いくつ? スタッフってなにやってんの?」
 すらっと背の高い美人であるマコちゃんにファイの関心が移り、しばらく会話をかわしていたふたりは、いつの間にやら店からいなくなってしまった。
「若い子は勢いにまかせて突っ走ってちょうだい。ファイ、しっかりね」
 ひとりごとを言うと、乾くんが私を見た。
「しっかりねって、ファイが誰かを連れ出した?」
「マコちゃん。いいんじゃないの。マコちゃんだって子供じゃないんだし、燦劇のファンみたいだったよ。ふたりきりになって盛り上がって、あとは野となれ山となれ」
「マコちゃんもその気だったらいいんだろうけどね」
「乾さん、燦劇に負けかけてますよ」
 口をはさんできたのは、男性スタッフの佐藤くんだった。
「僕はこの間、燦劇のライヴに行ってきたんですけど、彼らはデビュー間もないっていうのに、FSよりも明らかに観客動員数が多い。FSとはファン層がちがってますけど、僕としては気分がよくなかったな。その上ファイの奴、マコちゃんを連れ出したんですか。許せないな」
「きみはマコちゃんが好きなのか」
「そういうわけでも……いや……別に好きだとかなんとかでは……しかし……あの、僕も出ていいですか」
「いいよ。今なら間に合う。追っかけていってマコちゃんを取り戻せ。ファイと対決してこい」
「そういうんでもないんですけど……」
 とは言うものの、佐藤くんも店から出ていき、乾くんは笑った。
「佐藤くんもしっかりやれよ」
「ファイの好きになる女の子って、必ずライバルが登場するんじゃない? ミズキちゃんにはエミーがいたし、今度は佐藤くん? そういう宿命のもとに生まれてるんだろうか」
「ライバルがいるとますます燃えるんだよな」
「乾くんもそんな経験あるの?」
「ないよ」
「ほんとかなぁ。燦劇はライバル?」
「ジャンルもファン層も別々だけど、音楽に携わる者はライバルになるだろうね。徳永もライバル、金子さんもライバル。この世のありとあらゆるミュージシャンたちを追いかけて追い抜いて、俺たちがトップの座に君臨する。そんな日を夢見て乾杯しましょうか」
「誰が誰に完敗したんですか?」
 シャレを言うのが生き甲斐である、幸生くんも首を突っ込んできた。
「その完敗じゃないんだよ。グラスを掲げて乾杯。フォレストシンガーズの関係者諸君、俺の趣旨に賛同してくれる方はすべて、乾杯しよう」
 若者たちは恋が人生の第一義問題だったりもするんだろうけど、私には恋よりも仕事だよ。近頃はそんなふうにばかり考えてるけど、仕事もうまく行って恋もできたら最高なんだけどなぁ。私は私なりの理屈をつけて、グラスを上げた。乾くんの高らかな、かんぱーい!! の声に、意味を察していないかもしれないみんなも和す。
 店内の全員が乾杯、乾杯、とやっている。ここにいる人々がそれぞれに、フォレストシンガーズプラス他のなにかに乾杯、と叫んでいるのだろう。美江子もしっかりやれよ。私は私を激励していた。


4

 座が盛り上って乱れてきて、私もほろ酔いになってきていたら、近くにいた男性が青ざめて口を押さえた。
「仁科さん? 気持ち悪い? もどしちゃったほうが楽になるんじゃない?」
「いえ……それほどでもない……それほどでもある。失礼!」
 ライヴスタッフたちのうちでは年長の部類の、地位も高い男性なのに、あのていたらくじゃ困るんじゃないの。私は駆け出していく仁科さんのうしろ姿を見送っていたのだが、いつまでたっても戻ってこない。座は大盛り上がりに盛り上っていて、仁科さんの変調に気づいている者もいないようだ。かといって私が男性用化粧室を見にもいかれないので、周囲を見回した。
 テーブルに突っ伏して、すでに寝ているのが章くん。本橋くんはスタッフたちに囲まれている。幸生くんは歌っている。乾くんは近くにいない。となるとシゲくんだ。私はシゲくんの耳元で言った。
「仁科さんが化粧室に駆け込んでいったきり戻ってこないの。見てきてくれない?」
「悪酔いしましたかね。見てきましょう」
 ふたつ返事で引き受けて、シゲくんが立っていき、ややあって戻ってきた。
「相当に酔ったみたいですね。あんなのひとりで帰らせられませんよ。家まで送っていってきます」
「シゲくんは章くん担当じゃないの? あっちも潰れてるよ」
「……あちゃ、また寝ちまってやがる」
「仁科さんは私が送っていこうか」
 いけません、とシゲくんは真面目に言った。
「仁科さんは独身、独り暮らしです。そんな彼を女性が送っていくなんてとんでもない」
「だけどねぇ、他のみんなも酔ってるじゃないの。私もわずかに酔ってはいるけど、酔っ払い男なんかよりはよほどしっかりしてる。いいわ、私が送ってく」
「美江子さん、いけませんよ。章は本橋さんにまかせて、仁科さんは俺が……」
「大丈夫だってば」
「ちょっと待ってて下さい」
 本橋くんのところに歩み寄っていくシゲくんを見て、完璧に寝てしまっている章くんも見てから、私も歩き出した。つけのきく店なので、支払いは後日でいい。外に出ると、壁にもたれてすわり込み、うつらうつらしている仁科さんが見えた。
「歩けます?」
「は? あ、山田さん、だいじょう……大丈夫……」
「大丈夫じゃなさそうだね。タクシーを呼んでくるから」
「すみません、厄介を……」
 そこにシゲくんがやってきた。
「本橋さんにことわってきましたよ。章は本橋さんが背負っていってくれるでしょ。あいつのああいうのには慣れてますから、どうにかなります。仁科さんは……歩けそうにない? しようがないな。こっちは俺が背負うとしましょうか」
「いえ、そんな……歩けますよ」
 立ち上がろうとしたのだが、仁科さんはずるっと崩れてへたってしまった。
「タクシーは表通りに出たほうがつかまえやすい。そこまで俺が背負っていきますから、美江子さんはご心配なく」
「シゲくんは恭子さんが待ってるじゃないの。表通りまではおんぶしていってもらうとして、タクシーが来たら私が引き受ける。シゲくんは帰っていいからね」
「そうはいきません」
 ほら、とシゲくんは背中を向け、仁科さんは恐縮至極のていでそこにおぶさった。仁科さんの背丈は乾くんほどある。体格も乾くん程度の細身ではあるが、六十キロはあるだろう。シゲくんは軽々と彼を背負って楽々歩いていった。
「シゲくんってほんとに力持ちだね。重くない?」
「章よりは重いですね」
「これでは私ひとりで送るのは無理だわ。シゲくんもついてきて」
「俺がひとりで送っていきますよ」
「それも無理がありそう。彼は独り暮らしなんでしょ? タクシーが彼の住まいについて、シゲくんはまたまた彼をおんぶしなくちゃいけなくなる。そしたらどうするの? 鍵を開けたりしなくちゃいけない。私も行くから」
「そうですね。まずったな。幸生でも引っ張ってくるんだった」
 すみません、歩きます、とシゲくんの背中で、仁科さんは情けない声を出している。シゲくんは子供にでもするように仁科さんをゆすり上げ、いいから寝てなさい、と言った。
「シゲくんって頼りになるよね。恭子さんをおんぶしたことはある? 抱っこは?」
「んんと……なくもない……いいでしょ、そんな話は」
「私は聞きたいな。どういうシチュエーションでおんぶや抱っこをしたの? テニスの試合でくたびれ果てた恭子さんが、私、もう歩けない、そしたらおぶっていくよ、かな?」
「そういうのではありません」
「そう? これ以上言うとふたりの甘い生活を侵害しそうだからやめようか」
「甘くはありませんけど、美江子さんも想像力豊かなんですから、変な想像はしないで下さいね」
「はいはい、わかりました。シゲくんって他の四人がいないと喋るんだよね」
 表通りに向かいながら、シゲくんは苦笑した。
「乾さんや幸生がいると、俺が喋る必要もなくなりますからね。章も本橋さんも口は達者でしょ。本橋さんは他の三人よりは無口なほうでしょうけど、乾さんと幸生が特殊なまでに口が回るんであって、章も負けてないんであって、本橋さんくらいが普通なんです。俺も無口ってほどでもありませんよ」
「恭子さんとの会話は?」
「恭子とはそれなりに……タクシーがいますよ」
「呼んでくるね」
 すっかり寝込んでしまった仁科さんをタクシーに乗せ、シゲくんがそのとなりにすわり、私は助手席に乗った。シゲくんが仁科さんを揺り起こした。
「仁科さん、あんたの家の住所は?」
「……んん?」
「起きろ。今だけ起きろ」
「ええ? ああ? はい……えと……あ、すみませんっ!!」
「いいから住所を言いなさい」
 仁科さんが告げた住所に向かうタクシーの中で、さきほどの続きを尋ねたかったけれど、ドライバーの耳があるとシゲくんの口が重くなるだろうから諦めた。やがてタクシーが仁科さんのマンションに到着し、シゲくんが再び彼を背負って車から降りた。幸いにも仁科さんの部屋は一階だったのだが、彼がポケットから出した鍵でドアを開け、靴を脱がしてコートを脱がして、とやっていると、シゲくんがついてきてくれてよかった、とつくづく思った。
 酔っ払いを寝かせて任務終了となったのだが、外から鍵がかけられない。シゲくんがドアチャイムを鳴らして言った。仁科さん、無用心だから鍵をかけなさい、だった。ふわあーい、と寝ぼけ声が聞こえたので、私たちはマンションから出ていった。
「いくら男だって、押し込み強盗なんて危険性もありますからね。物騒な世の中なんだから」
「そうだよね。お疲れさま。タクシー拾って帰りましょう」
「送っていきますよ」
「早く帰りたいくせに」
「いいんですよ」
 先に私のアパートに回ってから、シゲくんも帰っていった。
 所属事務所からの依頼で働いてくれているライヴスタッフたちとは、会う機会は頻繁ではない。けれど、私の携帯電話のナンバーを仁科さんは知っている。翌朝には電話がかかってきた。
「昨日はまことにまことにまことに……」
「私はたいしてなにもしてないから。お礼はシゲくんに言って」
「本庄さんですか? 本庄さんも僕を送ってきてくれたんですか」
「覚えてないの?」
「山田さんが送って下さったのは覚えてるんですが」
「あのね」
 あなたみたいに小さくもない男性を、私がひとりで送ってったらどうなると思う? シゲくんがずっとおんぶしてくれてたのよ、と言うと、仁科さんは恐縮しまくっていた。
「本庄さんにもお礼を言っておきます。それはそうと山田さん、食事をごちそうさせていただけませんか。せめてものお詫びとお礼のつもりです」
「シゲくんもいっしょ?」
「まさか本庄さんもそんな野暮なことは……」
「野暮?」
「いえ、お願いします!!」
 お願いしますと言われては、彼の気持ちの問題もあるだろうし、と承諾して、翌日、カフェで仁科さんと待ち合わせた。
「本庄さんにも電話しておきました。寝てしまった男をかついで歩くのは、木村さんで慣れてらっしゃるそうで」
「そうみたいね。仁科さんは章くんよりは重かったそうよ」
「そりゃそうでしょうね。本当にすみませんでした」
「いいんですけど、あまり飲みすぎないようにして下さいね」
 あの夜はもとからいささか体調不良でして……などといいわけする仁科さんと、レストランに席を移した。間もなくクリスマスを迎えるイタリアンレストランの店内には、シックなツリーやオブジェがセンスよく飾られていた。
「早いね。もうクリスマス」
「そうですね。ワインは白でいいですか」
「仁科さん、まだ飲むの?」
「今日は気分爽快ですし、飲みすぎませんから」
「迎え酒なんて駄目ですよ」
「はい」
 個人的に話すのはほとんどはじめてで、ゆっくり彼を見るのもはじめてだ。四方山話をしているうちに、彼のプライベートも知った。三十一歳、岡山の高校を卒業してから大阪で予備校に入り、一浪の末に大学受験をしたものの、受けた大学のすべてに落ちた。二浪する気がなくなって、東京に来てイベント関係の専門学校に入った。
「私も一年だけ、イベント会社にいたのよ」
「そうなんですか。転身組なんですね」
「転身っていうか、就職したのは不純な動機でなくもなかったかな。学生時代から私は本橋くんや乾くんと友達で、彼らがプロになったら私がマネージャーをやるって決めてたの。そのためにイベント会社で働いて、修行するつもりだった。だけど、新入社員なんて走り使いしかやらせてもらえない。そういうものだって今だったらわかるけど、そのころは焦れて、こんなんじゃ修行にもならないって苛立ってたな」
 そのころだった。不倫の恋を打ち明けて、本橋くんにも乾くんにも叱られたっけ。若かった私は、私自身の問題に口を出さないで、と怒ったものだけど、彼らは私のために叱ってくれたんだと今になればわかる。若いとはなんにも見えてないってこと。今の私も大人になり切れてはいないが、すこしは自己分析もできるようになった。
「だから退職したんですか」
「私も彼らとともに苦労したかったから。アルバイトで食べてたの」
「固い絆があるんですね」
「仁科さん、恥ずかしい台詞はやめて」
 そうして私のプライベートも話し、意外なほどに話がはずんだ。不倫の話なんかはもちろんしなかったけれど、ワインが舌をなめらかにしてくれて、とりとめもなく途切れ目もなく会話が続いていった。
「今夜の僕はよく喋るな。不愉快じゃありませんか」
「私、よく喋る男性って好きよ。無口で話題の乏しい男性だと、気詰まりになってしまう。私もごらんの通りにお喋り女だから、テンポよく会話のかみ合うひとが好き」
「そう言っていただくと……美江子さんと呼んでいいですか」
「ミエちゃんでもいいよ。丁寧語もいらないから。私のほうが年下なのに、年上みたいにいばってて気が引ける」
「いばっては……いないよ。僕もミエちゃんと……言いにくいけど……ミエちゃんと話してると楽しい。じきにクリスマスイヴだよね。予定はある?」
「クリスマスイヴに男性との予定が入ってたら、仁科さんとこうやってデートはしないよ。仁科さんの気がすまないって言うんだったら、無理やりにでもシゲくんを連れてくる」
「デートか……じゃあ、ミエちゃん。イヴには僕とデートしてくれますか」
 え? とは思ったのだが、うなずいた。
「よかった。あんな無様な男は嫌いだ、って断られるかとびくびくしてたんだ」
「だけど、イヴにどこでデートするの? どこもかしこも予約でいっぱいでしょ? もしかして仁科さん、先約があったんだけどドタキャンされて、かわりに私を、だなんていうんじゃないでしょうね」
「そんなはずないでしょう。知り合いがやってるレストランがあるんで、そこだったら横入りさせてもらえるんだ。そりゃあ、僕だってこの年までには……」
 言わないで、私にもなにかとあったんだから、と彼の口に人さし指で封をしたら、彼はその指を取って、改めてくちびるに押し当てた。


 これはもしかして、なにかの予感? クリスマスイヴにふたりっきりで会うだなんて、特別な仲の男女のデートだろう。まだはじまってはいないけれど、予感はある。仁科さんのくちびるに触れた人さし指が、ぽっと甘い熱を持って感じられる。仁科圭祐、とフルネームも知った彼と、イヴのデート。イヴにデートするなんて何年ぶりだろうか。
 しかし、ほんわかしてばかりはいられない。仕事もきちんとしなくっちゃね。仁科さんとの初デートの翌日、事務所で事務的な仕事をしていたら、携帯電話のバイブレーションが着信を知らせた。
「はい」
「おう、山田か」
「山田のケータイに出るのは山田です。ただいま勤務中ですので、下らない用件でしたら後ほどお願いします」
「下らないかどうかはおまえが判断しろ」
 早くも声が喧嘩腰になっている。なんだよ、と返答すると、本橋くんは言った。
「なんだよ、じゃなくて、なに? くらい言えないのか」
「喧嘩は下らない用件ですね」
「あのな、手っ取り早く言うと、二十三日は空いてるか」
「デートしたいの? それも下らない用件っぽい」
「誰がおまえとデートなんかしたいんだよ。おまえとデートするくらいだったら、部屋で布団かぶって不貞寝してるよ」
「私は勤務中ですので、用件をどうぞ」
 得手勝手にころころ態度を変えやがって、と本橋くんはますます怒り声になり、私は笑いをこらえていた。
「二十三日は休みだろ。イヴには予定のある奴もいる。おまえにはないかもしれないが、ある奴もいるだろうってんで、二十三日の午後から、恭子さんが招いてくれたんだよ」
「新婚家庭のクリスマスパーティにお邪魔するの?」
「イヴのイヴだからかまわないんだってよ。行けるよな」
「二十三日だったら行く。あ、ちょっと待って」
 二十三日だったら、と言えば、乾くんになら悟られてしまいそうだ。本橋くんは勘ぐったりはしていないようで、私は向かいの席で仕事中の玲奈ちゃんに呼びかけた。
 今年の春に短大を卒業して事務所に就職した玲奈ちゃんは、初々しくも可愛い二十歳のお嬢さん事務員である。幸生くんや章くんが、可愛いねぇ、と鼻の下を伸ばしているのは知っている。玲奈ちゃんもフォレストシンガーズには興味津々の様子だったので、訊いてみた。
「二十三日はデートがある?」
「デートなんかありません。彼はいません」
「では、本庄家のクリスマスパーティに参加しませんか」
「えーっ?! 私がですか。いいんですか」
「来てくれると男性たちが大喜びよ。女は恭子さんと私しかいないのね。恭子さんは人妻だし、私は半分男だそうだし、若くて可愛い玲奈ちゃんがいると、彼らは相好崩しっぱなしになりそう。行く? はい、本橋くん、聞こえてた? 嬉しいでしょ?」
「いいんじゃねえのか。女手がふえると恭子さんも助かるだろ」
「私のも女の手に変わりはないよね。早めに玲奈ちゃんと行ってお手伝いしますわよ」
 時間の打ち合わせなどなどもして電話を切ると、玲奈ちゃんもほわわんとした表情をしていた。
「玲奈ちゃんにもお手伝いしてもらわないといけなくなっちゃったけど、いい?」
「はい。エプロン持参でがんばります」
「玲奈ちゃんから見たら、うちのみんなはけっこうおじさん? 燦劇のパーティのほうがいい?」
「燦劇ですか。あのひとたちは……私はもうすこし普通のひとがいいです。フォレストシンガーズのみなさんにもスターのオーラみたいなのは……」
「そんなのないって。彼らはスターじゃないし、変人ぞろいではあるけど、普通といえば普通の男性だよ。玲奈ちゃんは誰がタイプ?」
「タイプだなんて恐れ多い」
「恐れ多くないってば」
 どうやら玲奈ちゃんはFSを過大視しているようだ。シゲくんは結婚してるんだから除外するとして、個別に名前を出して顔色を見てみると、どの名前にも過剰反応を示して読めなかった。今の時点では玲奈ちゃんもFSファンのひとりってところかな、と判断しておいて、仕事に精を出すことにした。 
 クリスマスイヴイヴっていうその日に、玲奈ちゃんと待ち合わせて新婚家庭を訪問した。私はワインと果物をお土産にして、玲奈ちゃんは綺麗にラッピングされた包みを抱えていた。
「いらっしゃいませー。どうぞどうぞ。玲奈さんですね。私に?」
 包みから出てきたのはテディベアのぬいぐるみで、恭子さんはクマちゃんをぎゅーっと抱きしめた。
「嬉しい。シゲちゃんに似てる」
「そっかあ」
「私が作りました。本庄さんに似るように作ったんですよ」
「玲奈さんはテディベアを作るんだね。可愛い。ありがとうございます」
「俺はクマに似てるか。そうかもな。ありがとう、玲奈ちゃん」
 遠慮する恭子さんのお手伝いを、玲奈ちゃんとふたりでした。シゲくんは遠慮なくこき使われていて微笑ましい。料理の仕上げやらテーブルセッティングやらを手分けしてしていると、乾くんが真っ先にやってきた。彼はオレンジトーンのクリスマスアレンジをされた花かご持参だった。
「恭子さん、シゲ、本日はお招きにあずかりまして……」
 紳士の礼をしてみせる乾くんを、玲奈ちゃんも恭子さんもぽーっと見ている。コートを脱ぐとシルバーの光沢あるシルクシャツ、マオカラーのシャツに純白のパンツ、胸ポケットから華やかなプリントのポケットチーフが顔を見せていた。
「さすが乾くんだね。アレンジメントフラワーだなんて、乾くんしか思いつかないよ」
「誰も思いつかない部分が俺の担当だよ。玲奈ちゃん、それは俺が持つよ」
「え、乾さんにそんな……」
 服が汚れるよ、と言ってみたら、乾くんもエプロンをかけて、玲奈ちゃんが持ち上げようとしていた大きなチキンの丸焼きを取り上げて運んでいった。それから本橋くんが来た。スナック菓子をおつまみにと持ってきたのは、本橋くんとしては上出来だろう。服装はダークスーツにネクタイ。パーティなのだからと、これでもおしゃれをしてきたほうだ。
 続いて幸生くんと章くんが登場。事前に相談でもしたのか、幸生くんはクリスマスプリントのシャツを着ていて、章くんは赤白緑のストライプのシャツ。派手なファッションは彼らの持ち味で、お土産はコメットやクリスマスのおもちゃ。幸生くんは早速、サンタクロースの帽子をかぶっていた。
 シゲくんは手編みのセーターにこげ茶のパンツを穿いている。私は男性たちの胸元に、花かごと、最初からあった花瓶の花を失敬して飾ってあげた。玲奈ちゃんは花柄のドレス、恭子さんはニットのドレス、私は浅いブルーのドレス。女性たちのドレスを褒めてくれたのも、むろん乾くんだった。
「恭子さんも玲奈ちゃんもミエちゃんも、らしくて素敵なドレスだね。個性に似合ってるよ」
「らしいとは? 恭子さんは新妻らしくて、玲奈ちゃんはお嬢さんらしくて、私も年相応?」
「俺たちの胸にミエちゃんが飾ってくれた花も、らしいね。本橋がオレンジの薔薇、シゲは黄色の薔薇、幸生は白のガーベラ、章はゴールドっぽいガーペラ、俺は緑のバーゼリア、服装に合わせたんだろ」
「幸生くんと章くんの花は目立たないけど、服が派手だから」
 これ、ガーベラっていうのか、バーゼリア? はじめて聞いたよ、と章くんと幸生くんが言っている。私も緑の粒々の名がバーゼリアだとは知らなかった。
「あなたたちには俺が……」
 迷いながらも、乾くんが花を抜いた。玲奈ちゃんにはピンクのマーガレット、私には白薔薇で、それぞれに手渡してくれてから、乾くんはシゲくんに言った。
「奥方さまにはおまえが飾ってさしあげろ」
「俺ですか。わからない。どの花が恭子に似合います?」
「それはもちろん」
 あれ、と乾くんが指さしたのは真紅の満開の薔薇。シゲくんは照れつつも薔薇を抜いて、恭子さんのドレスの胸に挿した。
「本日はようこそいらっしゃいました。なにもありませんけど……ってことはないんですよ。昨日から恭子が大奮闘して、俺も手伝って一生懸命ごちそうを作りました」
「テイクアウトの料理もあるんですけど、おいしいって評判の店のなんです。ケーキも私には作れないから買ってきたんですけど、お気に召すと嬉しいな」
「楽しんでいって下さいね。では、まずはリーダー、乾杯を……」
「よし。しかし、なんと言えばいい?」
 こそこそっと乾くんが耳打ちし、本橋くんは言った。
「月並みではありますが、恭子さんとシゲの前途、玲奈ちゃんと事務所の皆々様の前途、山田も含めての我々フォレストシンガーズの前途を祝して……」
 ほんと、月並み、と呟くと、まあまあ、と乾くんに横目で制された。八人でシャンパングラスを上げて乾杯。そこからはライヴの打ち上げ会場のごとく盛り上っていった。
「歌いましょうよ」
 はじめは控えめだった玲奈ちゃんも次第に打ち解けて、節度を保ってお行儀よく、それでも楽しそうにしている。玲奈ちゃんを囲んで章くんと三人でわいわいやっていた幸生くんが、頬を染めて言った。幸生くんはあまり飲まないのだが、酔ってきているらしい。
「イヴイヴだけど、なんたってクリスマスソングですよね。今夜のこの雰囲気にふさわしいのは、「きよしこの夜」。静かな夕べには最適ですよ」
「どこが静かだ」
「リーダーったら茶々入れないで」
「おまえに言われたくない」
 いつもの台詞が出て、幸生くんが歌い出した。

「きよしこの夜
 星は光り
 救いの御子は御母の胸に
 眠りたもう
 夢安く」

 なんて綺麗な声……おまえはボーイソプラノひきずってる、と言われている幸生くんの声は、キーが高くなるとひとり少年合唱団のようだ。章くんも歌い出し、そちらは英語だった。

「Silent night holy night
All is calm All is bright
Rout you virgine mother and child
Holy in fant so tender and muve
Sleepin heavenly peace
 Sleepin heavenly peace」

 ふたりのデュエットは何度聴いても、私を夢見心地へといざなってくれる。章くんが高音部、幸生くんが低音部のパートで、日本語と英語のデュエットが続いていく。ひたすら静かな雪の日、ベツレヘムの馬小屋で、生まれたばかりの嬰児キリストを胸に抱く、聖母マリア像が浮かんできそうだった。
 恭子さんと寄り添ったシゲくんも、低い声で日本語を歌っている。乾くんは中音部、本橋くんは低音部に回り、ふたりは英語で歌っているので、幸生くんは日本語の高音に変わって、五部合唱になっていった。玲奈ちゃんは私に寄り添ってきたので、彼氏の代理をしてあげようと、髪を撫でてあげた。すると、幸生くんが歌をやめて言った。
「これぞ倒錯シーン。女性同士がそうしてると美しいですね。僕もまぜて」
「美しいんだったらほっといて。幸生くんはもっと歌って」
「まぜてもらえないんでしたら歌うしかないか。独り者は寂しいねっと」
 まるっきり静かな夜ではなかったけれど、しーんとなった部屋に流れる「サイレントナイト」は、イヴイヴのこの夜にまたとなくふさわしいと思えた。きっとこんなにもハーモニーがうるわしいから、なのだろう。
 それからもうひとつ、もしかしたら明日からはじまるかもしれない、素敵な出来事の予感があるからかも。

E N D

 
 



  

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