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小説372(名もない花)

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フォレストシンガーズストーリィ372

「名もない花」


1

シロツメクサ、と正確に名前を言ったのは乾くんで、本橋くんは、そんなの知るわけねえだろ、だった。らしいよね、と笑いながら、私は目だけで四つ葉のクローバを探していた。
 大学のキャンパス、春に入学したばかりの私たちは、学校でも新入生。合唱部でも新入生だ。女子部にも友達はたくさんできたが、特に仲良しになったのは男子部の本橋真次郎と乾隆也、今日は三人で学食でお昼を食べて、午後の講義はどうする? さぼりたいかなぁ、なんて話していた。
「うん、でも、私は授業に出る。午後からは物理なんだよね。私の苦手なやつ。いちばーん苦手な物理学。今日はなんだったか、力学基礎理論だったっけ」
「力学の基礎だったらそんなに苦手ってほど、むずかしくもないだろ」
「本橋くんは物理は得意なんだよね。いいなぁ。乾くんはどうなの?」
「俺は文系だからね」
 本橋くんは理学部、乾くんは文学部、私は教育学部、ばらばら学部の私たちは合唱部で出会った。本橋くんはがさつな男の子だが、物理が得意だなんて尊敬してしまう。だけど、本橋くんに勉強を教わらなくてもいい。私には理系大得意な先輩がいるのだから。
 梅雨入り宣言は出たものの、いいお天気のキャンパスを三人で歩いている。おなかはいっぱいになったから、午後の講義は眠くなりそう。俺も出ようかな、そしたら俺も出るよ、と言っている本橋くんと乾くんに、私は言った。
「今日はバイトは? 私は休み」
「俺も休みだよ」
「俺も、今夜は暇だな」
「昨日、母が宇都宮の餃子を送ってくれたの。餃子は市販品なんだけど、うちの近くのおいしいお店のなんだよ。食べにくる?」
「おっ、食いたいっ」
「いいの? たくさんあるの?」
 こんな気遣いをするのは乾くんならではで、本橋くんは言った。
「たくさんあるから呼んでるんだろ。俺が大食いなのは山田だって知ってるもんな」
「うん、大丈夫。母の手作りの特製ピザもついて、クール便で送ってきたの。明日は休みだからにんにくのにおいも大丈夫でしょ。物理が終わったら買い物して帰って、他の料理も作っておくからおいでよ」
「うんうん、行くよ」
「ミエちゃんさえよかったらお招きにあずかるよ」
「待ってるから来てね」
 一ヶ月ほど前に告白してくれた先輩は四年生だから、一年生の私とはそうそうデートもしてくれない。餃子も彼と食べたほうがおいしいけど、会えないんだから、ひとりよりは本橋くんと乾くんのほうがいい。むしろ、ただの友達のほうがすこしぐらいお行儀が悪くてもいいから気楽かもしれない。
 別の講義を受けるというふたりとは分かれて、私は物理学の教室に行った。教授は颯爽とした女性で、かっこいいなぁ、私も将来はこんなふうに働く女性になりたいな、と思うが、頭のできはちがいすぎるだろう。私は物理の得意な人間を無条件で尊敬する傾向がある。
 そうはいってもやんちゃ坊やみたいな本橋くんは、物理以外では尊敬なんかしないけどね。うー、それにしてもむずかしい。私は理系の学部に入らなくてよかった。先生になるとしても、中学や高校の理科系はやめておこう。
 頭が痛くなりそうな授業が終わると、さっさと学校から出ていく。今日は合唱部の練習もないから、本橋くんと乾くんと三人で餃子をいっぱい食べよう。ホットプレートを出したほうがいいかな。奮発して肉を買おうかな。
 ひと駅前のバス停で降りてスーパーマーケットに寄り、買い物をするのも楽しい。母が餃子とピザと、内緒のお小遣いも送ってくれた。小さい会社で経理の仕事をしている母は、ボーナスが出たらしい。荷物の中には妹からの手紙と、妹が作ったちっちゃなぬいぐるみがふたつ同封してあった。

「お姉ちゃん、彼氏はできた?
 このぬいぐるみ、彼氏にもあげるといいよ。浮気予防になるんだって」

 中学生のくせにおませな妹の作った、ペアのヘビ。どうして蛇なのかは知らないが、宇都宮の中学生の間では流行っているのかもしれない。
 餃子とピザはあるから、サラダとちらし寿司を作ろう。未成年だけどビールも買って、うちに帰ってごはんを炊いて。本橋くんと乾くんがCDを持ってきてくれるかな。我が家にはラジカセはあってもCDはあまりないので、音楽には詳しい本橋くんが頼りだ。
 クラシックやジャズやソウルや、乾くんの好きな古いフォークソングや、そんな音楽を聴いて、彼らの薀蓄を聞くのも楽しみ。アパートに帰って慌ただしく料理をしていると、先に乾くんがやってきた。
「はい、お土産」
「ありがとう。わ、CDもある」
「中古だよ。ムーサイのアルバム。本橋がいいって教えてくれてたんだけど、あいつもアルバムは持ってないんだって。だから買ったんだ」
「それを私にくれるの?」
「三人で聴いて、ミエちゃんも気に入ったらあげるよ」
「うん、聴こうね」
 他には、乾くん手作りの豆腐料理と、小さいチョコレートケーキ。乾くんも本橋くんもケーキは嫌いだから、これは私が明日と明後日ぐらいに食べよう。
「なにか手伝うことはあるかな」
「薄焼き卵、できる?」
「できるよ」
 おばあさまに育てられた乾くんは、家事もきちんと仕込まれている。掃除は嫌いだそうだがたまにはやるのだそうで、こういう男の子が躾のいい子なのだろうと私は思っていた。
「あのさ……告げ口するみたいなんだけどね」
「なに?」
「ミエちゃんとさっき別れたあとで、視線を感じたんだ。誰に見られてるんだろうって思ったら、星さんだった。聞かれてたよ」
「本橋くんと乾くんがうちに来るって? 聞かれてもいいよ」
「いいんだったらいいんだけど、叱られたりしないのかな」
「星さんに? 叱られる筋合いないし」
「だったらいいんだよ」
 星さん、私が物理に関しては頼りにしまくっている先輩で、彼氏でもある。実は星さんは、本橋や乾をおまえのアパートに呼ぶな、あいつらのアパートに行くな、と言いたがる。本橋くんは東京で親と暮らしているのだからまだいいけれど、ひとり暮らしの乾くんのアパートには行くな、と。
「どうしてよ。友達なんだからいいじゃない」
「そう思ってるのはおまえだけで、あっちには下心があるんだよ」
「下心なんてないの。本橋くんは、おまえは半分男だって言うし、乾くんは、そんなに男だ女だってこだわるひとじゃないもの。星さんがこだわりすぎなんだよ」
「おまえはなんにもわかってないんだよ」
「星さんがわかってないのよ」
 そんな喧嘩だったらするけれど、私は星さんよりも下の立場のつもりはない。ただ年下だというだけで叱られる筋合いはないから、この件に関しては好きにするつもりだった。
「聞いてたにしてもなにを言われたわけでもないけどね」
「電話なんかもなかったよ。今度会ったときにはなにか言われるかもしれないけど、ここに乗り込んできたりもしないでしょ。しばらくはデートの予定もないし、星さんは本橋くんや乾くんに乱暴したりもしないでしょ。美江子と友達づきあいするなって言われた?」
「言われてないよ」
 そしたらいいじゃない、気にしすぎ、と笑うと、乾くんも笑った。


2

 二年生になると合唱部の後輩ができる。高校生のときに入っていた料理クラブは、運動部とはちがって先輩だの後輩だのと言わない部活だったのだが、合唱部は男子部、女子部と分かれていて、ことに男子部はけっこう封建的だ。体育会系男子合唱部だとは、部外からも言われているらしい。
 なのだから、去年は四年生の星さんに乾くんも気を使っていたのだ。その星さんも卒業してしまって、私は彼に捨てられて、さっぱりフリーになった。本橋くんも乾くんも、一年生のときの彼女とは別れてしまった。学生時代の恋なんてそんなものなのかもしれない。

「むかし あるひとに恋をした
 とてもかなしい恋だった

 むかし そのひとが好きだった
 花は名もない花だった」

 そんな歌を口ずさみながら、男子部室を覗いてみる。女子部だって先輩にはお行儀よくふるまうが、別に封建的でも体育会でもないので、男子部の風習がもの珍しくて。
 男子部室から出てきたのは、一年生らしい四角い顔の男の子と、副キャプテンの皆実さんだ。今年の男子部キャプテンと副キャプテンはかっこいいと、それも部外にまで響いている。皆実さんもたしかに長身で筋肉質で眉目秀麗なので、そばにいる身体つきも角ばった男の子は、正直、あかぬけないふうに見えた。
「本庄はどこの出身?」
「三重県です」
「三重県ってのは……頭の中に日本地図を思い浮かべたらわかったよ。伊勢志摩だの伊勢神宮だの、いいところだね」
「俺んちは住宅街で、親は酒屋をやってます」
「酒屋か。いいな、飲み放題じゃないか」
「俺は未成年ですから」
「そりゃそうだ」
 明るい声で明瞭に発音する皆実さんと、低い声でぼそっと喋る本庄くん。三重県は中部地方のはずだが、本庄くんには関西なまりが感じられる。奈良に近いんですよ、と言っている本庄くんの声が聞こえ、ふたりは遠ざかっていった。
 男性としては平均的な背丈だが、本庄くんはがっちりしているので背が低めに見える。背の高い皆実さんと並んで歩いているからよけいにだ。私のそばを通るときに本庄くんが赤くなっているのが見えたが、もしかして?
「女ってのはなんだってそういう発想をするんだよ。喜多が徳永と俺がどうとかって言いやがったんだけど、うげぇ、思い出しただけで吐き気が……」
「え? 本橋くんって徳永くんに恋してるの?」
「うげぇっ、馬鹿野郎っ!!」
 本橋くんに怒鳴られたほどだから、そのたぐいの発想は男性が嫌うとは知っている。宇都宮の我が家でも妹とふたり、芸能人の男の子と男の子をカップルにしたら似合うと言っていたら、上の弟に思い切り軽蔑のまなざしを向けられた。
 まさかね、本庄くんってそんなタイプじゃないし。皆実さんとキャプテンの金子さんだったら似合うけど、本庄くんは男性とカップルにしても似合わないよね。
 似合う、似合わないの問題でもないのはわかっているが、そういう意味で本庄くんが赤くなっているのではないとはわかった。男性同性愛を嫌う男性も多くて、本橋くんと乾くんにだって恋愛は芽生えるかもしれない、と発言したら、ふたりに音を立てて引かれたし。
 なんでそんなにいやがるんだろ、たとえば金子さんと、一年生の美少年だったりしたらうるわしいのにね、と想像しながら歩く。だけど、本庄くんには素朴な感じの女の子のほうが似合うな、とも想像したのは、美江子と三重県が通じるのもあって親しみを感じたからだろうか。


3

 同い年の本橋くんと乾くんとは、一年生のときから親しくしている。三人ともに恋人がいる時期にはすこし離れたりもするのは、彼氏や彼女が妬くからだ。それでもいつしか元通りになって、誰かの部屋でお酒を飲んだりごはんを食べたり、お喋りしたり。
 三年生になった現在は、そこに本庄くんと小笠原くんも加わるようになった。彼らは私の部屋には来ないが、乾くんのアパートに五人で集まることならある。三重県出身の本庄くん、高知県出身の小笠原くん、石川県出身の乾くん、栃木県出身の私は全員がひとり暮らしだ。
「俺も大学を出たら独立するつもりだよ。いい年した男が親元にいるなんてみっともないもんな」
「だけど、本橋は親と暮らしてるからこそ、金が貯まるんだろ」
「それはあるな。兄貴たちも小遣いをくれるしさ」
 今日は乾くんの部屋でそんな話をして、私は一足先に帰ろうとした。
「男性たちはここに泊まったらいいんじゃない?」
「シゲはそうさせてもらうか? 俺は明日、バイトがあるから帰りますよ。美江子さん、送っていきます」
「そのために早く帰らなくてもいいのよ」
「いえ、そういうわけではなく」
 じゃあ、一緒に帰ろうと、小笠原くんと連れ立って外に出た。居酒屋で飲んだりすると乾くんが送ってくれることが多いのだが、小笠原くんとふたりきりになるのははじめてだった。
「小笠原くんも意外と紳士的なんだね」
「意外とって、俺はそんな荒くれ者に見えます?」
「荒くれじゃないかもしれないけど、おとなしくもないでしょ」
「はい、おとなしくはないです」
 二年生の小笠原英彦は、本庄繁之とは大親友だと言う。なんらかのきっかけで乾くんや本橋くんと親しくなって、私も自然に彼らに仲間入りをした。が、自然にだと思っているのは私だけかもしれないので質問してみた。
「女は邪魔だとか思ってるタイプ?」
「俺がですか。女のひとはいたほうが嬉しいな。美江子さんはうまいものを持ってきてくれたり、作ってくれたりもするからますます大歓迎ですよ」
「メシの分野ね」
「それもありますけどね」
 正直でよろしい、それだったら本音だろうと思えて気が楽になった。
「小笠原くんって彼女、いるの?」
「いません。美江子さんは?」
「いません」
「そしたら俺と……冗談です」
「はい、冗談をありがとう」
 ぎゃははっと笑って、小笠原くんは私を見下ろした。彼はけっこう背も高くて引き締まった体格をしていて、腕白坊やタイプの男性が好きな女の子にはかっこいいと言われそうなタイプだ。
「美江子さんとだと会話のテンポがえいなぁ。あ、土佐弁が出た」
「普段は土佐弁って封印してるの?」
「シゲがうるさいのもありますし、俺自身が土佐は捨てて、かっこいい東京の男になろうと努力しているのもあります」
「小笠原くんはまあまあかっこいいよ」
「お返しの冗談をありがとうございます」
 どう致しまして、と頭を下げると、小笠原くんはすこし声を低めた。
「彼氏はいたんでしょ? 美江子さんってもてそうですよ」
「まあね。二十年の人生、彼氏がひとりもいなかったってことはないよ。小笠原くんにもいたんでしょ?」
「俺だってシゲじゃないんだから……」
「本庄くんには彼女はいなかったの?」
「ではないかと……いや、俺もシゲの人生を全部見ていたんじゃないから、明言はできませんけどね」
 人生、人生って、十九と二十歳の男女がかわす会話を大人が聞いていたら、笑いたくなるのではないだろうか。私としても恥ずかしくなってきていると、小笠原くんが言った。
「合唱部の先輩とか?」
「ああ、そうね。小笠原くんは彼を知らないんだ」
「ってーことは、美江子さんよりも三つ年上の男ですか」
「ってーか……小笠原って長いね。オガくんとか?」
「ヒデでいいですよ」
「そうだね。私もヒデくん、シゲくんって呼ぼうかな」
「光栄です」
 彼も言う通りで、私と彼の会話のテンポは合っている気がする。大学一年生のときに好きだったひと、昔の彼と言われれば浮かぶひと。二年生のときにも男のひととはつきあったけれど、私の中では当分は、モトカレといえば星さんなのだった。
「本橋くんよりも背が高くて、大人らしい男性だったの。三つ年上といえば十八の女の子から見れば大人だよね。顔も声もよくて、口もうまくて、私は一年生のときにはもうちょっと太ってたんだけど、美江子のウェストは細すぎるほどだ、なんてお世辞を言ってくれるのよ」
「それはお世辞じゃなくて、彼の好みだったんでしょ。俺だって細すぎる女なんか趣味じゃないもんな」
「そうなの? そうだね。女は痩せたがるけど、男は細すぎる女は好きじゃなかったりするんだ。モデルさんとかってどう?」
「ガリガリモデルは遠慮します」
「モデルさんもそう言いそう」
「おまえなんかとつきあうのは遠慮するって? 言いそうですね」
 二十歳の私から見れば十八歳のときなんて大昔なのに、二年も前の彼氏を引きずっていては前に進めない。わかってはいるけれど、彼以上に好きになれるひとなんかあらわれないと思ってしまう。それでもいいの。彼氏がいなくても友達はたくさんいるんだから。
 ヒデくんもシゲくんも私の友達だと思っていいでしょ? これで特別に仲のいい男友達は四人になった。彼らの彼女には敵視されるのかもしれないけど、それは仕方ないんだろうか。私はただの友達なんだから、気にしないでと言うのは傲慢なのだろうか。
 

4

 あと二ヶ月もすれば大学を卒業する一月、本橋くんが発表してくれた。
「ヒデ、シゲ、幸生、それから乾と俺、五人でフォレストシンガーズだ。乾と俺が就活をしていない理由は、山田は知ってたよな」
「うん、応援するよ」
 ひとつ年下のシゲくんとヒデくん、ふたつ年下の三沢くん、今日からは私も三沢幸生くんを幸生くんと呼びたくて、口にしてみた。本橋くんが発表してくれて、他の四人はアルバイトに行くからと大学の門の前で別れて、幸生くんとふたりきりになって。
「幸生くんじゃなくてユキちゃんって呼んで、って言いたいんですけど、幸生くんでも嬉しいです。じゃあ、俺も美江子さんって呼んでいいんですよね」
「呼んでなかった?」
「呼んでましたっけ? いやいや、それはそうと、本橋さんだけはどうして山田って呼ぶの?」
「最初からそうだったからじゃない?」
 三月生まれの本橋くんと乾くん、私は二月生まれだが、ちょっぴりびっくりしたことに、幸生くんもシゲくんもヒデくんも三月生まれだ。今年の三月には私が全員のために、バースディの特別料理を作ってあげようか。夫でも恋人でもなくても、男は女の手料理でてなづけられる、というのは真理らしい。
 それはそうと、ほとんど同じころに生まれた私たち三人は、合唱部の飲み会で初にまとまった会話をした。本橋くんは同年以下の相手だと誰だって呼び捨てにする。シゲ、ヒデ、幸生となった後輩たちは仲間だからなのだろうが、私の呼び方は変えない。
 頑固だからなのか、乾という呼び方も変えないのは、同い年ゆえのこだわりなのだろうか。慣れた呼び方は案外、変えにくいものなのかもしれない。
「それもあるのかもしれないけど、照れもあるのかな。本橋さんだって彼女だったら名前を呼び捨てにしたりするんでしょ」
「そうみたいね」
「美江子さんだったら知ってます? 本橋さんや乾さんの彼女」
「えー、聞いてないの?」
「先輩たちはちっとも話してくれませんよ」 
 それこそが照れのゆえなのだろうか。
「だったら、私も話せないな」
「けちけち」
 口をとがらせてから、幸生くんは私の腕に腕をからめた。普通、この仕草は女性から彼氏にやるものだが、幸生くんだと小さな男の子にそうされているようで不快感はゼロ。実際、幸生くんは私よりもやや背が高いのだが、男を感じないことはなはだしいのである。
 女に異性を感じないと言われると、男性としては嬉しくはないだろうが、事実だからしようがない。今はまだそこまでは言わないでおいたほうがいいのだろうが。
「でも、それだから美江子さんって信頼されてるんだろうな」
「誰に?」
「わかってるくせに。うん、俺も美江子さん、好き」
「私も幸生くん、好き」
 夜になりかけている道をこうしてふたりで歩いて、好き、好きと言い合って、恋愛感情はこもっていない。私にとってはこんな男友達が増えるのもたいそう喜ばしい。
「ごろにゃーん、これからもよろしくね、お姉さま」
「はいはい、よろしくね、幸生くん」
 ごろにゃんってやめてよね、私は猫は嫌いだからね、とはっきり言うのも、もうすこし先にしよう。


5

 本橋、乾、本庄、小笠原、三沢、五人で結成したフォレストシンガーズ。私は彼らがプロになったらマネージャーをやると決意していた。小笠原のヒデくんが脱退してしまって、幸生くんがかわりにと連れてきたのが、木村章。
 木村くんは一年生の年には合唱部にいたのだが、学校も退学してしまったので、私の記憶には薄い。骨々しているほどに細くて子どもっぽくて、小さくてとんがっている、幸生くんと同い年の二十一歳だ。
「フリーターなんだよね」
「そうですよ。本橋さんも乾さんも本庄さんもフリーターでしょ」
「そうよ。幸生くんだけが学生で、私もフリーター」
「なのに俺だけ、フリーターだったら悪いみたいな言い方ですね」
「悪いとは言ってないよ。確認しただけでしょ」
「確認したんだったらいいじゃないですか」
 その台詞は、確認がすんだら消えろって意味? 章くんは目つきが悪いので、つい悪く受け取ってしまう。
 仔犬みたいに丸い幸生くんの目、人がよさそうな細い目のシゲくん、目元が涼しげな乾くん、鋭くはあるけれど、目つきが悪いとは思わない本橋くん。ヒデくんも鋭角的な顔ではあったが、章くんのように性格が悪そうではなかったのは、なじみの差なのだろうか。
 どうして彼は私をあんな目で見るのだろうか。シゲくんや幸生くん同様、じきに美江子さんと呼んでくれるようにはなったが、親密度ははなはだ少ない。嫌われてる?
 気にしていると気になるもので、ついじっと見てしまって粗が目につく。章は体力がない、身体が弱い、と本橋くんや乾くんが言っていたのも気になって、質問してみた。
「章くん、今日は一日、なにを食べた?」
「そんなもん、いちいち覚えていませんよ」
 フォレストシンガーズが練習している公園で、みんなは私が持ってきた揚げ餃子を食べている。章くんだけが離れていたので、ベンチの隣にすわった。
「朝は?」
「朝は食ってません。今日は早番で、昼ごろに起きてバイトに行ったから」
「昼は?」
「俺は居酒屋でバイトしてるんで、安い値段で賄い飯が食えるんですよ。居酒屋の丼です」
「なんの?」
「なにが入ってたかな。かき揚げだったかな」
「野菜も入ってた?」
 ネギとイカのげそが入っていたと言う。その調子で細かく質問しているうちには、章くんの顔がいかにもうんざりになっていった。
「夜はこれがはじめての食事だよね。いつもそんなふう?」
「だいたいそうかな」
「圧倒的に野菜不足だし、カロリーも不足だよ。自炊しなさい」
「そんな時間もそんな気もありません」
「そんなんだと倒れるよ。本橋くんたちは章くんの体力がないのは鍛えたらいいって言うけど、根本的に食事がまちがってるのよ」
 うつむいてぼそっと吐き捨てたのは、うるせえな?
「先輩たちもうるさいけど、女がうるさいのって種類がちがうんだよな」
「……わかった」
「わかったら黙ってて下さいよ」
「そのわかったじゃないの。章くんの私に対する目つきの意味がわかったのよ。女性蔑視してるでしょ」
「はぁ?」
 やっとわかったのか、と言いたかったのかもしれないが、そうは言わずに私を一瞥して、章くんはベンチから立っていってしまった。口にくわえていた揚げ餃子をぷっと吐き出して、ごみ箱に捨てろ、と乾くんに叱られている。
 ああっ、もうっ、どいつもこいつもうるせえっ!! 幸生くんが名付けた、章のへヴィメタシャウトが聞こえてきそうな、そんな仕草だった。
 

6

 空元気を出していると本物に変わる。本橋くんの持論だが、空元気を出す気分でもないのだろうか。フォレストシンガーズを結成してから、何度目のオーディションチャレンジだったか。彼らには十二分に実力はあるのに、世間は認めてくれない。
「見る目ないよね、聞く耳もないよね」
「俺たちの努力、実力が足りないんだよ」
「実力はあるよ」
「世間は広いんだ。俺たちなんか……」
「俺なんか、って言うのはやめろって、いつも章くんに言ってるくせに」
「おまえになにが……いや、いいよ」
 ヴォーカルグループ対象オーディションに出場して、失敗もあったせいで予選通過さえしなかった。他の四人は帰ってしまい、帰りがけの乾くんには言われていた。
「本橋はだいぶ参ってるから、近づかないほうがいいよ」
「そうだね」
 とは言ったものの、気がかりで私も残った。
 オーディションが行われたコンサートホールの前庭で、本橋くんは地べたにすわり込んでいる。おまえになにがわかるんだよ、と言いたくて言えないのだろう。私には芯からはわからない。当事者ではないのだから、希望がかなわない苦しみも淡いのかもしれない。
 フォレストシンガーズを結成してから約三年、私たちが大学を卒業してからでも間もなく三年だ。本橋くんと乾くんと私はじきに二十四歳になる。
 メジャーデビューできないのならば見切りをつけて、諦めたほうがいいのだろうか。就職だって選ばなかったらできるはず。方向転換は若いうちのほうがいい。わかってはいても、私だってそうは言いたくなかった。
「乾くんがお母さんに告知されたのは、五年でしょ。五年はがんばってみるんだよね」
「……女はいいよな、いや……なんでもないよ」
「なんでもないだの、いや、いいよ、だの、言いたいことがあるんだったらはっきり言えば?」
「言ったら怒るだろうが」
「中途半端に言われるとぶすぶすくすぶってくるよっ」
「おまえの顔みたいにか」
「ぶすぶす……」
 むっかーっ、となったら、本橋くんがようやく笑った。
「おまえって怒ると……」
「なによ?」
「いやいや」
「いやいや、ばっかりだよね。本橋くんって男らしい男になりたいんでしょ。はっきりしないのって男らしいんだった?」
「俺はおまえほど男らしくないんでね」
「……さっきから言わせておけば……」
「殴れよ」
 今度は挑発的だ。
「くそ、喧嘩がしたいんだよな。おまえが男だったら、ここは広いんだから殴り合いして、そしたらすっきりできるのに……女ってのは……くそくそ、女は女でもおまえは……」
「なんなのよ、はっきりしろっての」
「いや、いいよ。山田、飲みにいこうか」
 男とだったら喧嘩がしたい。本橋くんらしい言いぐさだが、女は女でも山田美江子ではない女とだとなにがしたいのか。わかるような、わからないような。
 それでも多少は好き放題言って、気分がさっぱりしたらしい。灯りが消えたホールから、明るい街のほうへとふたりで歩き出す。すこし身体が冷えたので、本橋くんの足の速さに負けじと早足で歩いた。本橋くんももう笑っていた。
「自棄酒はダメだよ」
「そんなに飲まないよ。金もないんだから」
「私って口うるさい?」
 一瞬黙って私を見下ろしてから、本橋くんはがはがは笑った。
「なにをいまさら」
「言うまでもないって? これだから章くんにも嫌われるのかな」
「嫌われるのがなんだ、ってのは乾の感覚みたいだぜ。おまえもマネージャーになるつもりだったら、言うべきことは言え」
「本橋くんも言えば? さっきの続きは?」
「……あれは言えないんだ」
「勝手な奴」
 だよな、と笑ってから、本橋くんは伸びをした。
「だけど、元気は出てきたよ。これでうまいものを食ったら俺は復活する。おまえって……」
「なんなのよっ」
「そうやって怒ってる山田に対抗すると、元気を注入されるって言いたいんだよ」
 喜ぶべきなのかどうかはわからないが、私も本橋くんと口喧嘩をしていると元気が出てくるのだから、私たちはいい関係なのだろう。男も女も関係ないとは建前で、時と場合によっては男か女かというのが問題にもなるけれど、私たちはこのまんま、プロになれてもこのまんま続いていけたらいいなぁ。


END















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~ Comment ~

NoTitle

浮気予防のぬいぐるみですか。
(*_*;
なるほど。面白い発想ですね。
監視カメラでも入っていたら実用性がありそうですね。

LandMさんへ

いつもありがとうございます。

浮気予防ぬいぐるみ。
これはまた面白いところに目を止めて下さったのですね。

監視カメラ入り蛇のぬいぐるみ。
それ、いいですね。
ついでにicレコーダーも装備しているといいかもしれません。
売り出して評判になったりしたら、むしろ使えなくなりそうですけどね。

NoTitle

乾くんの作る豆腐料理!食べたい是非食べたい!!
そして山田さんが猫嫌いなことに衝撃を受けました…どうして?!
料理上手っていいですよね。
それだけでほいほいついて行きたくなります。

気を遣ってくれる山田さんの何が気に食わないのでしょう、木村君は。
「女なんかっ!」って感じでしょうか?


野球はざっくりとしたルールしか分からないし、
球団やなんかもいまいちで、
地元だからという理由で、なんとなく楽天を応援しています。
まーくんが居なくなってかなり大変な状況のようですが、
期待の大型新人、オコエの入団はかなり明るいニュースでした。
……と、この程度の知識しかありませんが、高校野球は好きです。
みんなホントに必死で頑張っているのがステキです。

高校の頃は私は必ず野球の応援で(吹奏楽部だったので)、
顔にタオル巻いて死にそうになりながら応援してたのを覚えています。
具合が悪くなって休ませてもらおうとすると、
「自分は怪我してもいいから楽器だけは守れ!」
と、教師としていかがなものか、という言葉を浴びて、
日陰でぐったりしたりして…しかも楽器は自分で持ち帰るっていう……重すぎ。
そしてその日の夜に顔が赤くなりヒリヒリして大変なことになるんです。
日光アレルギーなので地獄でした。

宮城はいまだに優勝旗が来たことがないので、
今年こそ!と毎年応援しています。
(まーくんが居た年はハンカチ王子に決勝で負けたんです…

ハルさんへ

いつもありがとうございます。
このごろご無沙汰していてすみません。近いうちにお邪魔させてもらいますね。

料理上手というと思い出す男性がいます。
彼は彼女のためにマカロンまで作る人なのですが、性格はねぇ……隆也みたいに、素朴な豆腐田楽くらいのほうがいいかもしれません。
私は自分で作った好きなものだけ食べていたいほうなので、料理上手男性には惹かれないのですが、忙しい女性だったら嬉しいでしょうね。

美江子は猫は気持ち悪いと思う人です。
子どものころに猫と触れ合ってこなかった人には、往々にしているみたいですよ。怖いとかキモイとか。

章は女性蔑視もあり、実は美江子がちょっと好きだったりもして複雑なのです。
美江子の猫嫌いも、章のこの幼稚さも、三十代になるころにはなくなっているはずです、たぶん。

そっかぁ、オコエくんとまあくんですね。
ハンカチ王子とまあくんの決戦は記憶に新しいです。
だけど、現在ではあのふたりの境遇は相当にちがってますよね。
顔のむにゃむにゃな男性には希望を与えていたりして。

ハルさん、吹奏楽部で応援をなさっていたのですね。
私は若いころは日光は平気でしたが、おばさんになるにつれてアレルギーになってきたので、そんなことはとてもできませんが、青春時代のいい思い出でもあるのでは?

私は阪神ファンですので、今年は見ないふり、見ないふり。
楽天もいいときもあったけど、つらいときもありますよね。
どっかのお父さん犬のチームみたいにいつも強いなんて、面白くないですよ。強かったり弱かったりしてこそ人間味があるのです。
と、負け惜しみを呟いてみる……。
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