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小説370(河のほとりに)

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かわ
フォレストシンガーズストーリィ370

「河のほとりに」


1・佐恵子

 花屋の店先にあった鉢植えを衝動買いしてしまい、可愛い花を抱えて歩く。小さな幸せをくれる花たちを見ていたら、自然に顔がほころんで足取りも軽くなっていた。
「荷物、重たそうですね。持ちましょうか」
「え? あの……」
「スーパーの袋だけでも重たそうなのに、花も持ってると大変でしょ。持ちますよ」
「そんな……悪いです」
 いいからいいから、と笑って、追いついてきた青年が袋を持ってくれた。
 このごろ時々、見かける青年だ。たいへんに背が高くて美しい顔立ちをしている。親切ごかしに近づいて、スーパーマーケットの袋をひったくっても仕方ないだろう。ごかしではなく親切なのだと信じることにした。
「その花、なんていうんですか」
「フクシア、これはエンジェルズ・イアリングって種類なんですよ」
「天使のイアリングか。ぴったりの名前だな」
 髪が長めで、どこにでもいる若い男の子の服装をした青年だ。このごろ時々、駅前の商店街で見かける顔なのだから、近所に住んでいるのだろうか。
「俺、ファイっていうんです」
「ファイ?」
「そう、ニックネーム。本名は武者小路っていうんで、なんかこう、大げさな名前でしょ。ファイって呼んで下さい」
「ファイさんね」
「呼び捨てでいいですよ」
 ずいぶんと見上げなくてはならないところにあるファイの顔が、はにかんで笑っている。爽やかないい顔をしていた。
「私は福島佐恵子っていいます」
「福島とフクシアって似てますね。それでこの花が好き?」
「そういうわけでもないんだけど……」
「ほんとはね……」
 すこし口ごもってから、ファイは言った。
「俺は一ヶ月ほど前から駅前の「チャコ」って居酒屋でバイトしてるんです。バイトの仕事のひとつで、スーパーへ買い物に行ったりもする。そしたら、あのスーパーで何度か佐恵子さんを見かけた。今日も会った。会えて嬉しくて、今日こそ話をしたいと思ったんだ。佐恵子さんが重たい荷物を持ってたから、話しかけるチャンスになったんだよね」
「私と話?」
「そう」
「……どうして……」
「佐恵子さんが気になったから。どうしてだかはわからないけど、話がしたかったんだよ」
 こんなときにどんな反応をしたらいいんだろう。からかってるの? と笑えるほどに、私は世慣れてはいない。困ってしまってうつむいた。
「ここ、佐恵子さんのアパート? じゃあ、またね」
「あ、ありがとうございます」
 荷物を返してくれたファイは、ぼーっと立っている私に手を挙げて走り去っていった。


 二十年前に高校を卒業して、同時に家を出たのは父が再婚したからだ。実の母は私が小学生のころに亡くなり、父が私を育ててくれた。再婚相手の女性に父をまかせて、私は就職した不動産会社に通いやすいアパートで暮らしはじめた。
 父もその再婚相手の女性も、たまに遊びにいくと私を歓待してくれる。けれど、それはお客扱いだから、私にはもう実家はない。実家も家族もない私にも仕事と収入と住まいはあるのだから、ささやかなベランダや部屋の中に花を飾る趣味もあるのだから、毎日が平和で穏やかで幸せだった。
「福島さんは彼氏、いるの?」
「いませんよ」
「結婚しないの?」
「相手がいませんから」
 二十代のころには会社の人にそんな質問もされたが、三十代になるとされなくなった。不動産会社の事務員である私は、時にはお客の応対もする。ちょっと、そこのおばさん、と呼ばれたりもするのだから、彼氏や結婚なんて考えられないタイプというか、子持ちのおばさんだと思われているというか?
「アラフォーって年になっちゃったんだものね。しようがないよね」
 しようがないよね、が口癖になってしまったようで、苦笑するしかない。
 小学生のときには仲良しの男の子がいて、彼と手をつないで公園に遊びにいって、彼の友達に冷やかされたっけ。熱い熱い、わーっ、カップルだーっ、と囃し立てられて、彼が恥ずかしがって私の手をふりほどいた。
 中学生、高校生のころには私は小さな主婦だったから、友達と遊ぶ時間もなかった。高校を卒業してからは生活に精いっぱいで、花を買ったり育てたりするのだけが潤いだった。そうして中年になった私には、恋愛経験はない。小学生のときのあの男の子が、あとにも先にも私の唯一のボーイフレンドだった。
 そんな私に興味を持った? からかうんじゃないわよ、としか思えなかったくせに、次にファイに会ったときにはどきーんっ!! としてしまった。
「佐恵子さん、おはよう。今日は休み?」
「え、ええ、日曜日だから」
「佐恵子さんってどこで働いてるの?」
「ここから電車で三十分足らずのところにある、小さな会社よ」
 名前とバイト先しか知らない男の子に、詳しく言ってはいけないかもしれない。
 日曜日の朝、ファイは居酒屋の夜勤が終わって帰ろうとしていたところだと言う。腹減ったな、と呟いているのを聞いて、うちでなにか食べさせてあげようか、と言いたくなったのをこらえた。
「コンビニでおにぎりでも買って、公園で食おうかな。佐恵子さんはなにかの用事?」
「いえ、朝の散歩をしていたの」
「だったらさ、つきあってよ」
「え、ええ」
 ひとりで食べるよりは連れがいたほうがいいのだろう。私がうなずくと、ファイはコンビニに入っていき、ツナマヨとエビマヨのおにぎりを買った。
「マヨネーズが好きなんだよね。えーと、これとこれも」
 おにぎりに缶コーヒーという変な朝食の代金をレジで支払い、外に出ると、ファイは私にコーヒーをひとつくれた。
「えと、お金……」
「これぐらいはいいよ。つきあってくれるお礼。今日はあたたかいよね。桜って散っちまったのかな」
「桜はとうに散ったけど、新緑が綺麗よ」
 彼が気軽な口をきくので、私もつられて遠慮ない口調になっている。駅の裏側にある公園にたどりつくまでの間に、ファイは去年に高校を卒業したフリーターで、十九歳だと知った。
「私のちょうど半分の年齢ね」
「えーっ?! 嘘だろ」
「ほんとよ」
「俺はまた、俺より十ほど年上かなって思ってたよ」
「それでも十分に年上だけど、お上手ね」
「マジでそう思ってたよ。こうやって年を聞いても信じられないな」
 こんなにも綺麗な顔をしたかっこいい年下の男の子に、こうして軽い口をきけるようになっているほうが、私としては信じられない。
 お世辞を言われているのはわかっていたが、気持ちがはずんでくる。私なんかにお世辞を言ってもなんの得にもならないのに、彼はサービス精神が旺盛なのだろうか。嬉しいと感じてしまう気持ちが浮ついているようで、ひどく恥ずかしかった。
「ごちそうさま。うまかったよ」
「私もごちそうさま。コーヒー、おいしかったわ」
 公園のベンチで食事をすませて、微笑み合った。
「さてと」
 昼食も出している居酒屋なので、営業時間は長い。ファイの勤務時間はランダムなのだそうだが、四月の分のシフトは決まっているのだそうだ。ファイは携帯電話のメモを見て言った。
「佐恵子さんは土曜日は休み?」
「不動産屋だから、土、日は営業なの。私は日曜日を定休日にしてもらってるけど、あとは月に二回くらい不定期で休みがあるのよ」
「時間は?」
「私は六時までが定時。遅くなる日もあるけどね」
 いつの間にか警戒心を解いて、不動産屋で働いているという話もしてしまっていた。
「そうすると、俺も佐恵子さんも決まった休みじゃないからデートはしにくいよね」
「デート?」
「デートはちょっと早いか。もっと知らなくっちゃな。だけど、一度はふたりでゆっくり会って話して、そうして知っていきたいな。俺は金ないんだけど……ま、それはいいとして、佐恵子さんの携帯ナンバー、教えて」
「……」
「持ってるよね?」
「持ってるけど」
 友達もほとんどいない。父から電話がかかることもない。それでも、ケータイがないと不便だろ、と勤務先で言われたので持ってはいた。数少ないアドレスの中に、ファイの電話番号がインプットされた。
「会う機会はわりとあるんだよね。佐恵子さんのアパートと俺のバイト先が近いんだもん。けど、やっぱり長くは話せないから、俺のバイトが入ってなくて、佐恵子さんが定時で帰れるときに飲みにでもいこうよ。佐恵子さんの会社ってどこにあるの?」
 不動産屋のある駅を教えると、ファイは、ああ、あそこか、近いね、とうなずく。どうして私とゆっくり話したりしたいの? 質問もできずに、てきぱきと飲みにいくと言う日を決めていくファイに見とれていた。


「福島さん、なんだかこのごろ浮かれてるね?」
「そんなことは……ありませんが……」
「いいひとでもできたのかな、まさかね」
 職場には社長とその夫人、おじいさんといっていい年ごろの男性とがいる。営業担当社員たちは出かけていて、お客も入ってこないので静かに仕事をしていると、社長が私に話しかけてきたのだった。
「だけど、なんかこう、色っぽくなったってか……」
「社長、そういう発言はセクハラですよ」
「なにを妬いてんだよ。もっと若い子にだったらともかく、あんたと変わらん年の女にさ……」
「それもセクハラ」
 経理責任者の社長夫人がとがった目で言い返し、おじいさん事務員さんがまあまあとなだめている。私は浮かれている? 伝票整理が一段落すると席を立ち、洗面所の鏡に顔を映してみた。
 たしかにちょっぴり浮ついた顔をしているかもしれない。社長夫人にじろっと見られることが多いのは、化粧が濃くなったせいだろうか。今日はマスカラをしてみたのは、ファイがプレゼントしてくれたからだ。これまではファンデーションと口紅しか使っていなかった。
 いいでしょ? 行こうよ、と誘われて、強く断るのもおかしいかと承諾した。正直、迷惑だと思ってもいたのだが、ファイとふたりで飲むのは楽しかった。
「俺は今はしたいこともなくてフリーターだけど、将来のことを考えてるんだよ。俺にはなにが合うと思う?」
「ファイは派手な感じだから、芸能界は似合いそうね」
「そんなふわふわした望みじゃなくて、しっかり地に足のついた将来がほしいな。早めに結婚してパパになったら、俺も大人になれるんじゃないだろうか」
 そんな話をして、意外に気持ちはしっかりしてるんだと思った。
 あれから何度も会った。偶然にも私のアパート近くで会って、実は待ってたんだよ、と打ち明けられて、ふたりで食事に行ったり。日曜日の朝にすこし遠くまで歩いて喫茶店のモーニングサービスセットを食べたり。俺も自炊しようかな、料理を教えて、と言われて一緒にスーパーマーケットに行ったり。
 デートだなんて言葉は恥ずかしいが、約束して待ち合わせて出かけたりもした。映画を観て食事をして、一杯だけお酒を飲んだ。
 こうして男性とふたりきりで、食事をしてお酒を飲むのははじめて。そんなことを言ったら笑われてしまいそうで言わなかったが、楽しくて、反面、不安で胸がざわめいてもいた。ファイはデートだって言うけど、どうして私と? 私はあなたよりも十九歳年上の冴えないおばさんなのに。
「この次は海に行こうか。車は友達が貸してくれるよ」
「海なんて何年行ってないかな」
「今は佐恵子さんは彼がいないって言ってたけど、モトカレっていただろ。その男と行って以来とか?」
「そう……だったかな」
 見栄を張ってみたけれど、モトカレがいたとしたら小学校のあの友達だけだ。海には高校の修学旅行で、天橋立に行って以来ご無沙汰していた。
 二度目のデートはドライヴ。デートって言っていいのかしら。デートというのはつきあっている男女のすること。私はファイとつきあってるの? おばさん、馬鹿じゃねえのか? って言われそうで訊けない。ううん、ファイはそんなふうに言うひとではない。けれど、訊けなかった。
「アイメイクをしたら、佐恵子さんってもっともっと美人になるよ。はい、これ、使ってみて」
 帰り道にファイがくれた包みの中に、このマスカラが入っていた。
「次は紫陽花でも見にいく? 鎌倉に紫陽花の綺麗な寺があるんだって。佐恵子さんは花が好きだから、友達に教えてもらったんだ。日曜じゃないほうがいいな。都合のいい日を教えてね」
「来週の水曜日がお休みです。ファイ、マスカラ、ありがとう。鎌倉に行くんだったらつけていくね」
「お、楽しみだな。佐恵子さんは美人なんだから、ファッションや化粧に気をつけたらすげぇ綺麗になるよ。鎌倉ってブティックとかもあるらしいから、服を買えば? 俺がプレゼントしたいんだけど、金がなくてごめんね」
 メールでやりとりをして、三度目のデートの約束もできた。つきあってもいないのにデート。それでもいい。こんなに楽しいのだから、デートでもなんでも、名前なんかどうでもいいと思っていた。


 梅雨入り宣言は出たものの雨は降らない曇り空の水曜日、すこし肌寒いのもあって、夕暮れの由比ガ浜には人影は少ない。ファイと知り合ってから約二ヶ月。私たちは海辺で並んですわっていた。
「明日も休みだったらいいのにね」
「どうして?」
「そしたら帰らなくてもいいだろ」
 意味がわからなくて、私はファイの顔を見つめた。
「俺、マジだよ。前にも言っただろ。俺は真面目に佐恵子さんが好きなんだ。佐恵子さんと結婚して子どもがほしいと思ってる。すぐにとはいかないけど、そのつもりで佐恵子さんと恋人になりたいんだよ」
「冗談……でしょ」
「冗談でこんなことを言うほど、俺が軽い奴だと思ってるの?」
 強い目で見返されて、呼吸が止まりそうになった。
「俺だって悩んだよ。佐恵子さんは三十前くらいに見えるけど、ほんとは四十前だ。俺なんかは佐恵子さんから見たらガキでしょ。こんなガキとマジでつきあうって気にはならないだろうから、つきあってほしいとも言い出せなかったんだ。俺は佐恵子さんが好きだ。抱きたいよ。結婚したいよ。でも、十九のフリーターにはできないんだよ」
「だから……そんな冗談……」
「冗談じゃないんだよっ!!」
 叫んでおいて私を抱きしめて、ファイはすぐに離れた。
「ごめん。佐恵子さんの気持ちも確かめずにキスなんていけないよね。佐恵子さんは年上だけど純で、俺はそんなところが大好きで、一緒にいると楽しくて、どんどん惚れていく。俺が大人だったらなぁ……」
「ファイ……」
「ごめん。今日は帰ろう。この次に会ったら聞かせて」
「……なにを?」
「あなたの気持ちを、だよ」
 そんなもの、とっくに決まっている。こうして真心をぶつけてくれたのに。まるでファイが悪いような言い方をしているけれど、私にだって迷いはあるけれど、年上だの年下だのに目をつぶれば、ファイの気持ちは受け止められる。
 結婚を前提としたおつきあい、たぶん私たちの前には壁がいくつもいくつも立ちふさがるのだろう。ファイのご両親だとか、世間の目だとか。あんな冴えないおばさんと? と驚くであろう、ファイの友人たちだとか。私の周囲の人間だってびっくりするだろうが、そんなものはどうでもいい。問題はファイの回りだけだ。
「歩こうか」
「……はい」
「この近くに川があるんだよ。そこまで歩いてから帰ろう」
 そこからは黙って歩いた。ファイの頭の中にもいろんな想いが渦巻いていたのだろうか。私もいろいろいろいろ考えて、川のほとりにすわってから言った。
「そうね、何日かは頭を冷やして考えて」
「頭は冷えないけどさ」
「そのときまでには私も、頭を冷やして考えるから」
 冷えてほしくなどないが、自分を励まして言ってから立ち上がった。私の胸の中には、私の好きな歌が流れていた。

「河のほとりに ふたり坐れば
 さざ波のかすかな 歌がきこえる
 黙ってこのまま そばにいてください
 悲しい思い出 流してしまうまで
 ずっと昔から 知っていたような
 そんな気がする あなたが好きです」

 鎌倉での一幕から一週間がすぎ、ファイから電話がかかってきた。

「佐恵子さん、考えてくれた?」
「……あなたも?」
「言って」
「なんて言うの? こうかしら」
 冷酷な現実なんてものは一瞬忘れて、私は言った。
「私はあなたが好きです、ファイ」
 ありがとう、と答えたファイの声は、なぜか寂しげだった。

「河のほとりに ふたり坐れば
 たそがれ風さえ ふと立ち止まる
 黙ってこのまま そばにいてください
 あなたの肩に もたれていたいのです
 はじめからずっと 知っていたような
 そんな気がする あなたが好きです」


2・ファイ

 この顔でこの身長で、スカウトもされないってのは芸能プロダクションの奴らも見る目がない。こっちから売り込もうか、男性アイドルのオーディションか、モデルか。
 どうやればいいのかを調べて、やろうと思えばできるはずだ。俺だったら合格するはずだ。でも、なんとなく億劫というのか癪というのか、自分から売り込んだなんてプライドが許さない気もする。俺は180センチ以上の身長と最高のプロポーションと、中学生のころから女にもてまくった実績も持っているのだから、スカウトが来るのが当然なのに。
「そんな俺が、なんだってこうやってフリーターでくすぶってるんだ?」
「高卒だからじゃないのか?」
「おまえだって高卒じゃん」
「勉強、嫌いだもんな」
「俺もだよ」
「だけど、勉強なんか嫌いでも行ける大学はあるんだよな。そんな大学だったら行っても意味ないのかな」
「そうだろ」
 勉強嫌いが偏差値の低い大学に行ったとしても、すこしは勉強をしないといけないだろう。高校まではしようがないにしても、もう勉強なんて一切したくなかったのだ。
 高校を卒業して学校からは自由になれたと解放感に浸っていたのもつかの間、そしたら俺はなにをすればいい? 就職なんて勉強するよりももっといやだ。ひきこもりもいやだからバイトはしているが、惣菜を作っている会社の配達係なんて楽しいはずもない。
 給料が安い分、わりと休みが多いのだけがとりえで、男友達と遊んでばかりいる。女の子もその気になればいくらでもいるが、最近は女にいやな目に遭わされることが多かったので、すこし控えているのだ。今日は友達の車を借りて、幼稚園のときからの友達のエミーとドライヴをして、金がかからないように川べりに車を止めて喋っていた。
「ホストクラブってどうなのかな」
「ホストクラブで働くのか? ファイだったら似合うだろうけど、意外ときついらしいぞ」
「きついのか?」
「ノルマとかってのもあるみたいだし、売掛金がどうとかってのも聞くし、男ばっかが働いてるんだから体育会系で、先輩に殴られたりってのもあるみたいだ」
「うえっ」
 本名が嫌いな俺たちは、小学校のときからファイ、エミーと呼び合っている。今ではバイト以外では本名なんか忘れた顔をしていた。
「それにさ、ブスやデブやおばさんやおばあちゃんともつきあわなくちゃいけないんだろ。金のためだったら年を食った化け物みたいな女と寝たりもするんだろ」
「エミーはやったことあんのか?」
「ねぇよ。友達に聞いたんだ」
 エミーと俺の境遇はほぼ同じだ。エミーもフリーターで生活のためにバイトをしているが、趣味でギターを弾くというところだけが俺とはちがっていた。
「エミーはバンド、やってんだよな」
「やってるけど、アマチュアだから金にはならないよ。出ていくだけだ」
「そうだろうなぁ。やっぱ俺はタレントとかモデルとか、お笑いでもいいな。歌手もできなくはないよな。なのになんでスカウトが来ないんだ?」
「そこまでじゃないからだろ」
 ふたりの会話は果てしなく堂々めぐりするばかり。エミーが持ってきていたラジカセをつけると、変わった歌が流れてきた。
「なんて歌?」
「知らないけど、ビジュアル系かな」
「ふーん」
 歌うのは嫌いではないが、俺はエミーほどに音楽には興味がない。エミーも俺に言ってもわからないと思っているようで、彼の好きなロックの話はあまりしない。一度だけ、エミーが作曲したという曲をギターで弾いてくれたのだが、俺が大笑いしたものだから取っ組み合いになって、それからエミーはすねているらしい。
「ホストクラブ、それでもやってみようかな。バイトってないんだろか」
「ホストクラブのバイトか。キャバクラのバイトとかだったらあるんだろうから、店によったら雇ってくれるかもな」
「エミーもやるか?」
「俺はやだよ」
 本気で言ってんのか? と俺を見つめてから、エミーは言った。
「本気だったら、俺の友達のホスト、紹介してやろうか」
「どういう友達?」
「俺がよく行くライヴハウスに来る奴だよ。そいつに話を聞く?」
「そうしてみようかな」
 このままじゃ俺の未来は八方ふさがりだ。ホストのバイトをやったからといって道が広がるわけでもないのだろうが、金だけは溜まるかもしれない。そこに一縷の望みを託してみた。


「おまえ、度胸はある?」
 綺麗な顔をしてはいるが、俺よりは落ちる。背は低めで、可愛いタイプの男が好きな女にはもてるのかもしれない。ロック好きつながりでエミーと親しくなったという男の名前は、大崎信吾。高校中退筋金入りホストで、十年くらいやっているらしいが、十九のエミーや俺と同じくらいの年齢に見えた。
「度胸ってなんの?」
「俺はおまえより年上だよ。敬語で話せ」
「あ、ああ、はい」
 体育会系ってのはこんなふうか。クラブ活動の経験もない俺はむっとしたが、妙な迫力に負けてうなずいた。
「体力的にも精神的にもだよ。ホストってのは弱い奴にはやれないんだ」
「わかる気も……します」
「だろ? おまえはルックスはいいから、うちの店に口をきいてやってもいいよ。でも、そうして俺が口ききしてやって、じきに音を上げて辞められたんじゃ俺の信用にかかわる。だからさ、テスト、やってみるか」
「テスト?」
「度胸だめしだよ。度胸さえあれば簡単だぜ」
「どんなテスト、ですか?」
 煙草をくわえた信吾は、そうだなぁ、と言いながらいやらしい笑みを見せる。
 ふたりでいるのは夜のカフェだ。信吾の視線がさまよって、なにやら考えているらしい。煙草を一本吸い終わってから、彼はおもむろに口を開いた。
「よし、決めた」
なにを決めたのかがわかったのは、それから一週間ほど後だった。
「俺の店に来る客で、礼香ってのがいるんだよ。その女はクラブ勤めなんだけど、昔は不動産屋でアルバイトしてたらしいんだ。この間、その不動産屋の前を通りかかったら、礼香がバイトしてたころとまったく変わってもいなくてなつかしくて、中に入ってみたんだそうだ。そしたら、礼香がバイトしてたころと働いてる奴らも変わってなくて、事務のお姉さんがおばさんになってそのまんまいたって。礼香はそのおばさんと話をしたらしいんだ。ファイ、そのおばさんを落とせよ」
「落とすって?」
「落とすんだよ。おまえはもてるんだろ。四十のおばさんだって落とせるだろうが」
「どうやって?」
「そのおばさんの情報は教えるよ。使えるなって俺が話したから、礼香が面白がって乗ってきたんだ。やり方はおまえにまかせるけど、惚れさせろって意味だ。できないのか?」
「できる、できますよ」
 まかせられたのだから自分で考えなくてはいけない。信吾のなじみ客だという女が教えてくれた情報を手にして、俺は彼女が住んでいるアパートの最寄駅まで行ってみた。
 名前は福島佐恵子。年は四十ちょっと前。零細企業の不動産屋勤務の高卒おばさんだ。いつでも同じ時間に電車に乗って通勤し、ほぼ同じ時間に帰ってくる。彼氏なんかいるわけないじゃん、と信吾の客の礼香は決めつけていたそうだ。朝から刑事みたいに張り込んで見つけた佐恵子は、礼香が言った通りのおばさんだった。
 しなびた感じに痩せていて、わりに背は高い。醜くはないのだが綺麗でもない。まったく目立たないどこにでもいるおばさん。四十歳前の女なら外見はこんなものか。
 エミーが言ったような、化け物のようなばばあではないんだから我慢できる。
 あんなおばさんを落とすのは簡単だ。俺は女をその気にならせるのだけは得意なのだから、ホストになってもいいかなと思ったのだ。落とすよりも落とされた経験のほうが多いが、俺が合格しないなんて絶対になさそうなテストだと思える。楽勝じゃん。
 惣菜屋のバイトはやめて、佐恵子が電車の乗り降りをする駅前の居酒屋に代わった。お、かっこいいね、と店長が言って、きみが入ると女性客が増えそうだと付け加えた。ほら、誰が見たって俺はかっこいいんだ。
 事実、佐恵子に俺を好きにならせるのは簡単すぎるほどに簡単だった。
 隙だらけのおばさんに近づいて取り入って、甘い言葉をふんだんに聞かせてやる。思ってもいない言葉だって、テストのためだったらつるつる出てくる。最初は不審げに俺を見ていた佐恵子のまなざしも、次第にうっとりしたものになっていく。あなたが好き、と言わせたら俺の勝ちだった。


 バイトなんてやめるのも代わるのもたやすい。幾度か遅刻したりさぼったりして店長にいやな顔をさせ、すみません、辞めます、と言えば喜んで辞めさせてくれる。俺は若くてかっこいいのだから、次の仕事だってすぐに見つかるはずだ。
「居酒屋でバイトしてたってのは、ホストクラブで働く予行演習か? だいぶちがうんじゃないのか」
 居酒屋のバイトもやめたよ、とエミーに告げたのは、前にもホストクラブの話をした川のほとり。エミーは俺にはなんでもは話していないようだが、俺は大部分の出来事を話している。なのに、信吾にさせられたテストやら、佐恵子がターゲットだったやらの話はしていなかった。
「だいぶちがうよな。居酒屋だったらけっこう楽しいバイトだったけど、やっぱりホストはちがうかな。俺のプライドが許さないってのもあるからさ」
「ファイのプライド?」
「そうだよ。俺は女にもてて告白されて、つきあってほしいって言われてつきあってやるのが好きなんだ。たまにはこっちから好きになったりもするけど、それって好きっていう感覚が大事なわけだろ」
「おまえらしくない台詞だな」
「俺らしいだろうが」
 前半はファイらしいよ、と言って、エミーが首をかしげる。俺はどうしていやな気持になっているのだろうか。今の台詞にしたって自分で言っててわけがわからなくなって、俺は頭を振った。
「いいんだよ。だからさ、信吾さんには断っておいてくれ」
「いいけど……」
「そだ、信吾さんはおまえにはなんにも言ってなかったのか?」
「特になにも……ってか、このごろ会ってないしな」
「そっか」
 テストの話をしてからは、俺も信吾には会っていない。信吾のほうはエミーから聞き出そうともせず、成功したら俺が報告してくると思っているのだろう。エミーが信吾に断ったとしたら、失敗したんだと笑って忘れるのか。彼がエミーによけいなことを話す場合もあるかもしれないから、エミーに尋ねられたとしたら。
「そんなこと、やらないよ。やってみようかとは思ったけど、なんだってホストクラブのバイトくらいでそんなアホらしいことをやらなくちゃいけないんだよ」
 そう言えばいい。まさか信吾だって、佐恵子に確認まではしないだろう。
 本当はやって、きっちり成功したよ。でも、やらなかったらよかった。佐恵子なんかとは二度と会うこともないだろうけど、成功した何事かを後悔するなんて、俺には生まれてはじめての経験だ。忘れればいい、忘れればいいだけなのに、ひどく後味がよくなくて気分も悪かった。


END







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~ Comment ~

NoTitle

ふうむ。年上の恋か。。。
今の私の年齢だと少し難しいですけど。
無理ではないですからね。
年上の香りに惹かれるときはありますが、
それは恋愛感情と別種ですからね。
私の場合は。

それも人それぞれか。。。

LandMさんへ2

こちらにもありがとうございます。

男性は若いときには年上の女性に憧れる場合もある。
たとえば二十代後半あたりの女性は、全年代の男性に恋をされる可能性がある、なんて考えたこともあります。
たしかに、男性がある程度の年齢になると、年上の女はおばさんだったりおばあさんだったりで、恋愛対象からはずれますよね。

今回のこのストーリィは、フォレストシンガーズストーリィの脇役、顔だけはよくて性格のよくないファイが主役でした。
彼は佐恵子にまったく恋はしていませんが、この行為の後味を悪く感じているのは、著者がそこに救いを求めたかったから、のようです。


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