novel

小説366(グランマ・コンプレックス)

 ←81「すっぱい葡萄」 →いろはの「ほ」
そぼ
フォレストシンガーズストーリィ371 

「グランマ・コンプレックス」


1

「ああ、そういえば聞いたことはあったな」
「話しましたっけ? 乾さんはどうなんですか」
「うん、俺は別にどこのファンってこともないんだけど、やるのは嫌いでもないよ」
 一年後輩の本庄繁之。このたび結成した男五人のヴォーカルグループ、フォレストシンガーズのベースマンである彼は、野球好きなのだそうだ。
 四年前の春の日、本橋真次郎と山田美江子と乾隆也は、東京の大学合唱部で出会った。当時の男子部キャプテン、高倉誠氏が本橋と俺の歌に注目してくれて、おまえたち、夏のコンサートでデュオとしてデビューしろ、と命令されたのだ。
「合唱部って、特に男子部は年功序列みたいなところがあるって、女子部でも話は聞いたよ。そんな男子部で一年生が大抜擢ってのはすごいよね。私も応援するから」
 そう言ってくれたミエちゃんと三人で、あれからは親友トリオでいる。ミエちゃんはフォレストシンガーズのメンバーではないが、プロになったらマネージャーをやると、六人ともにそのつもりでいた。
 その高倉誠氏は広島出身、地元チームの熱烈ファンだった。本橋も俺も野球には興味がなかったので、高倉さんが面白さを教えてやると言い、球場に強制的に連れていかれた。結果、本橋は高倉さんに洗脳されたが、俺は、見てるだけよりもやったほうが楽しそうだと思ったものだった。
「それで、乾さんは野球経験はあるんですか」
「小学校のときに遊びでちょっとやったぐらいだな」
 ここにもうひとり、熱烈野球ファンがいた。
「俺は小学校のときには少年野球をやってました。甲子園に憧れたのはお決まりだったんですけど、才能がなさすぎたんで中学校では野球部には入らずに、合唱部にしたんです。それからは合唱ばっかりやってきましたけど、野球は見るのもやるのも大好きです」
「おまえがプロ野球選手になれるほどじゃなくて、よかったと思うよ」
「そうですか?」
「プロ野球の道へとシゲが進んでいたら、フォレストシンガーズは成立しなかったもんな」
「……そうでもないでしょうけど」
 照れたような嬉しそうな顔。シゲは純朴ないい男だ。
 合唱部では一年年下のシゲと、シゲと同年の小笠原英彦、もうひとつ年下の三沢幸生、本橋と俺とがフォレストシンガーズのメンバーである。結成したのは本橋と俺が大学を卒業する直前で、今春には俺たちは社会人になった。
 フリーターだって社会人だ。本橋は楽器店で、俺はギターと歌の勉強もできる音楽酒場のような店で働いている。ミエちゃんは正社員としてイベント会社勤務。
 同い年だと女性のほうが大人びている。とりわけミエちゃんは俺には大人に見える。彼女だけが三人の中ではまっとうな社会人なのもあって、俺は引け目を感じなくもないのだが、そのうちには俺だって、母と約束した立派な大人の男になるのだから。
 ミエちゃんはともかく、シゲだ。シゲは現在、大学四年生、フォレストシンガーズがあるせいなのか、シゲもヒデも合唱部ではキャプテンや副キャプテンではないようだ。
 本年度男子合唱部は、キャプテンの実松弾を中心に、三年、四年の主だった者が首脳部のようなものを作って運営しているという。民主的になったもんだね、実松の人柄かな、などと話していて、話題が野球へと移っていった。
「野球、やりたいな。教えてくれよ、シゲ。ヒデも好きなんだろ」
「はい。ヒデは俺とひいきチームが同じで、それもあって仲良くなったんですから」
「本橋はスポーツが好きなんだよ。兄さんたちが野球バカだからスポーツは嫌いだなんて言ってるけど、根は好きなんだ」
「本橋さんはスポーツマン体型ですよね」
「だろ。スケートは苦手みたいだけど、野球はうまいはずだよ」
「トレーニングにもなりますよね。やりましょうよ」
「やろうぜ」
 FS野球クラブなんてのを作って、対外試合をするのもいいなぁ、ユニフォームを作りたいな、と思わなくもないが、無駄遣いはできない。なにせフォレストシンガーズは、学生三人とフリーターふたりの貧乏人グループだ。
 携帯電話すら持っていない、今どきの若者らしからぬ清貧の身の上ぞろいなのだから、形から入るのは無理だ。形ではなく内容から入ろう。
「大学のサブグラウンドを貸してもらえるそうですよ、野球、やるんですね。俺たちにも手伝わせて下さい」
 実松からの伝言をシゲが持ってきてくれて、ヒデも本橋も幸生も喜んでいた。
 四月の終わり、卒業式から約二か月すぎて、もはやなつかしく感じる大学構内に足を踏み入れた。サブグラウンドは運動部の領域だから、俺たちはあまり入ったこともない。男子部の連中が数名、一緒に練習したいと申し出てきて、ジャージ姿で集合した。
「久しぶりって気がするな。俺は野球は初心者だから、よろしく」
「よろしくお願いしますよ、キャプテン」
 いやぁ、キャプテンにキャプテンと言われると……と実松現キャプテンが恐縮しているのは、本橋が去年のキャプテンだからだ。三年生の幸生も言った。
「実はね、一年生に甲子園経験者がいるんですよ。シゲさん、ヒデさん、知ってました?」
「知らないよ。誰だ?」
 色めきたったような表情になって、シゲとヒデが見回す。幸生が合図をすると、ずいぶんと小柄で可愛い女の子が走り出てきた。
「おまんが甲子園? 女子野球の甲子園かえ?」
「ヒデ、興奮するな。土佐弁がモロだぞ」
「なんでもえいが。女子部の子か?」
「ヒデさん、食いつきそうな顔をしないで下さいね。アカリちゃん、こっちにおいで」
 高校生にも見えるような可憐な女の子は幸生の背中に隠れ、可憐な声で言った。
「井出坂アカリです。火へんに登って書く燈です」
「乾さんが漢字にはうるさいからって、説明するように頼んだんだよね」
「はい」
「それで、きみは高校のときに甲子園に行ったんでしょ」
「はい。高校のチアリーダー部でした」
 なんだ、ああ、そうか、それだったらあり得る、男子部の連中にも知らなかった者は多いようで、幸生とアカリちゃんの質疑応答を聞いて納得の声が漏れていた。
「それでもうらやましいだろ、シゲ?」
「まあな。おまえはうらやましくないのか、ヒデ?」
「俺は野球をやってたわけでもないから、うらやましゅうはないちや。しかし、アカリちゃん、可愛いな。一年生だったら入部したばっかりか」
「アカリちゃん、ヒデさんは野獣だから気をつけてね」
「……幸生、おまえにだけは言われとうないきにっ!!」
 高い声でヒデが叫び、苦笑いの本橋も言った。
「じゃあ、アカリちゃんはチアガールをやってくれるのか? あれあれ? 女の子たちが……」
 グラウンドには野球のダイアモンドが描かれていて、周りには観客席のようなものもしつらえられている。そこに女の子たちが湧いて出てきた。
「フォレストシンガーズっ、がんばってーっ!!」
「山田がいる……あいつ、一緒に練習しようかって言ったら……」
「日焼けするからいやだって言われたんだろ。応援してくれるつもりだったんだな」
「きゃああ、美江子さーんっ、俺、がんばるからねっ!!」
 女性たち以上に黄色い声で幸生が叫び返し、ヒデも黄色い作り声で叫んだ。
「おーし、モエテきたきにっ!!」
「ヒデさん、それって萌え? 燃え?」
「モエモエ……両方だよ」
「アホ言ってないで、やるぞ、ヒデも幸生も」
 当方は五人、男子部のメンバーが七人いるので、十二人になる。フォレストシンガーズチームにひとり借りて、六対六で実戦練習をスタートした。
「さすがにシゲは……」
「ああ、動きがちがうな」
「俺もシゲに負けてられない。乾もちんたらやってんじゃねえぞ」
「本橋くんもモエテきましたな」
「俺は燃えてるんだよ」
 プロになったら、芸能人野球大会なんてものに出たいですね、と言っていたシゲは、イキイキとグラウンドで躍動している。本当に好きなんだなぁ。ヒデも本橋も運動神経はいいので、軽快な動きでゴロをさばいている。
 外野に走っていった幸生は、高く上がったフライをキャッチして、ユキちゃん、天才!! と自画自賛している。俺はスポーツは得意ってほうではないが、本橋と同じく負けていられない気分になる。闘争本能に火がついて、俺も外野へと全力疾走した。


2

 頑健な身体をしているとはいえないのは、章も俺も似たようなものなのかもしれない。が、章はロッカーの気取りでもあるのか、不摂生をかっこいいと思っているふしがある。弱いくせに酒をすごしたり、早起きせねばならない前夜に夜更かしをしたり。
 今日もそうなのかもしれない。
 メジャーデビューを果たしてからほんの数か月、五人で真冬の温泉場にやってきた。湯の花フェアとかいうイベントに出演して歌うためだ。なのに章は喉がおかしいと言う。喉にネギを巻け、のど飴は? 薬は? ああでもないこうでもないと言い合った末に、温泉宿にいるんだからと、章を温泉に連れていったのだった。
 熱い湯に浸かれば微熱なんか吹き飛ばせるだろ、とは言ったものの、荒療治かな? とも思う。文句を言っていた章は湯の中で脱力していて、そこに幸生が顔をのぞかせた。
「幸生も来たのか。いいお湯だよ」
「のど飴はないんですって。入っていいですか」
「もちろんいいよ」
 ざぶっと湯に飛び込んできた幸生は、憎々しげに言った。
「なんなんだよ、おまえってほんとにほんとにだらしねえんだよな。男のくせして貧血は起こすし、なにかっちゃあ微熱だのふらついただの、弱音は吐くし、ふてくされるしいじけるし、そんなんでプロのシンガーズを続けていけると思ってんのかよ。そんなんだとおまえは俺たちの邪魔者になるんだ。喉がおかしくて声の出ない奴なんていらねえんだから、今夜のうちに荷物をまとめて東京に帰れ。そのまんま二度と戻ってこなくていいよ」
「幸生」
「乾さんは黙ってて下さい。章なんかやめたらいいんだよっ」
「幸生」
「乾さんは黙っててって言ったでしょ。章なんか……今までにだって何度もあったでしょ。遅刻はするし、コンテストでは大ポカやらかすし、女にふられたからっていじけて歌はやめるって言い出すし、やめたいんだったらやめたらいいんだよ」
「もう一度だけ言う、幸生、おまえがやめろ」
「俺がフォレストシンガーズをやめろって意味? 章がやめないんだったら俺が……」
 章は黙りこくっていて、居眠りでもしていたのかもしれない。幸生は意地にでもなっているかのごとく、罵言を吐き散らしていた。
「俺がやめたらいいんですか」
「なんなんだ、今夜のおまえは? 前にもそんなふうに言ったことがあって、あのときにはおまえの意図は読めたけど、今夜はちがうんだろ。おまえはいくつの男だ? 考えてみろ」
「……年は関係……」
「関係ないのか。そうかもしれないな。じゃあ、ガキ扱いしてやろうか。幸生、出てこい」
「出たらどうするの?」
「かついでいって表に放り出してやろうか。冷気に当たって正気に戻るか。幸生だるまを作ってやるから、朝まで雪だるまの中で考えるか」
「……ほんとにやりそうだな、乾さんだったら」
 泣きそうな顔をしている? ひっぱたいてやろうかと思っていたのはやめて、俺は幸生の顔をじっと見つめた。
「章なんかやめちまえ」
 どうやら章は実際に居眠りをしていたらしくて、ほにゃ、ふにゃ、と呟いていた。
「こんなところで寝たら駄目だろ、章。幸生、大きなタオルを用意してこい」
「知らないよ」
「まったくスネガキみたいに。おまえはあとだ。いつまでもそんな態度だと……うん、おまえはあとだ。章、寝るな」
 だらーっとなっていると細い奴でも重い。俺は章を湯から引きずり出して抱え上げ、脱衣場へと運ぶ。宿の寝間着で章を包んで肩に担いで部屋まで運んで、不安そうにしている本橋とシゲに言った。
「俺は幸生の子守りをしてくるから、章を頼む」
「は、はい。本橋さん……」
「うん、布団は敷いてあるから寝かせろ。アイスノンを借りてきたよ」
 頼んだよ、と言い置いて温泉に戻っていき、荒っぽく呼びかけた、
「幸生、出てこい」
「いやです」
「今夜の章は尋常な健康状態じゃないだろ。なのに、昔のことまで持ち出してねちねちと。おまえらしくもなさすぎるじゃないか」
「俺の本性はこうなんですよ。乾さんって意外と洞察力がないんですね」
「いいから出てこい」
「章は?」
「部屋に連れていって寝かせてきたよ。あとは本橋とシゲが面倒を見てくれるだろ。出てこないんだったらそこで湯の中で溺れてしまえ」
 勝手にしろ、と呟いて、中庭に出ていく。東北の雪は金沢よりも重く深く感じる。俺が雪だるまを作っていると、幸生も出てきた。
「俺をその中に入れるんですか」
「これは別だよ」
「章は俺の暴言を聞いてなかったんですよね。聞こえてなくてよかったな。ほんとはのど飴ももらったんですよ。はい、これ」
「おまえの本性はそっちだろ。馬鹿」
 今だったらひっぱたいてやってもいいかな。泣きたいんだったら泣け、との気持ちを込めて、頬を軽く叩いてやった。乾さんが俺を殴るときって、女にするみたいに生ぬるい平手打ちだからよけいに腹が立つ、と章が言っていたが、女だったら生ぬるくだって殴らない。
 差別だっていいさ。おまえたちは男だろ。俺は男だ女だって言うのは好きじゃないけど、これだけは別だよ。だけど、女の子を叩くみたいに叩いたんだから、泣きたかったら泣けよ。
 矛盾したことを考えながらも、再び雪だるま作りに励む。幸生も黙って雪だるまを作って、ぐしゅぐしゅ鼻を鳴らしていた。
「雪遊びなんかすると冷えたな。もう一度風呂に入ろうか」
「はぁい、隆也さん、抱っこしていって」
「女の子になりたい気分なのか。ガキになりたいのはすんだのか」
「女の子のガキになりたい。きゃああっ、うわわっ、冗談ですよっ」
 ジョークでだったら女の子芝居をやりたがる奴だが、今夜は小さな女の子になりたい気分なのか。けど、おまえは男だろ。抱き上げて雪の上に放り投げてやろうとした俺の意図を察したらしく、幸生は悲鳴を上げて逃げ出していった。


3

 数々のコンプレックスを抱えている身に、もうひとつ加わったのはヒデコンプレックス。俺が悪くてヒデが脱退してしまったのではなく、彼は結婚するから、伴侶を得て家庭を持ち、いずれは子どももできて幸せになるために、歌はやめると言っていたのだが。
 説得し切れなかった切なさ、あれっきり行方知らずになってしまったヒデの現状はどうなのか、そんな諸々が胸を締めつける。
 センチメンタルに浸りたがる癖は自覚しているから、そんな俺は嫌いだから、それゆえにヒデに拘泥したくない。ヒデのかわりに章が参加してくれて、フォレストシンガーズはプロにもなれた。いつまでいなくなった奴を偲んでるんだよ。
 なのに、ここに立つととりわけ、ヒデを想う。
 小笠原英彦が生まれて十八歳まで育った、土佐の高知は桂浜。ふり仰げば坂本龍馬の銅像が俺を見下ろしている。ヒデにとってのこの地は、俺にとっての金沢と同じだろう。
 歴史博物館主催のイベントがあって、我々は「よさこい節」を歌わせてもらう。それ一曲を歌うだけのちょっとしたゲストなのだが、歴史博物館といえば、ヒデのお母さんが勤めているのではなかったか。章以外はヒデからそんな話を聞いているはずだが、誰も口にはしない。
 弟の鋼、妹の美咲、ヒデの弟妹には一度だけ会った。きかんきそうな、いかにもヒデの弟らしい凛々しい少年と、気の強そうなところは似ているが、清楚さも多分にそなえた美少女だった。
 面差しに似通ったところのある三きょうだいと、母親は似ているのだろうか。イベントの前日に歴史博物館を案内してもらっていたときには、小笠原という名札をつけた女性を探していた。おそらくはシゲも俺と同様にしていただろう。
 小規模な博物館だから、職員の数も多くはない。男性と若い女性は省けば、対象はずいぶん減る。小笠原さんは? と尋ねれればいいのだろうが、そうはできなくて。ヒデのお母さんは、フォレストシンガーズって知っているのだろうか。
 ぐずぐず考えてばかりで、一昨日は行動を起こせなかった。昨日はイベント当日。小笠原美咲、鋼の姉弟はフォレストシンガーズを知っているのか。彼らは高知で暮らしているのか。イベントに来てくれたのか、俺たちの歌を聴いてくれたのか。
 誰もこの件は口にせず、なにひとつわからないままにイベントは終了した。今日は帰りの飛行機までは自由行動だ、章と幸生は高知の街に出ていき、本橋はサイクリングをすると言っていた。俺はひとり、桂浜に来た。
「土佐犬ですね」
「ほうやきに、強そうじゃろ?」
「ほんとに」
 土産物屋の建ち並ぶ裏手あたりに、大きな犬の檻があった。土佐犬の実物は以前にも見たことはあるが、まさしく強そうだ。ヒデも土佐の闘犬だなんて言われていたけど、本物の犬と喧嘩したら負けるだろ? 見た目はヒデのほうがスマートだったから、闘犬タイプではないんだな。
 犬を見せてもらったり、土産物屋を覗いたり、銅像を見上げたりしながら桂浜を散策する。本橋も自転車から見ているだろうか。章や幸生もバスで通りかかるかもしれない。そして、シゲは?
「あ、あれ、そうかもしれないな」
 浜辺にぽつっと人影が見える。遠すぎて顔は見えないが、あの背格好はシゲなのではないだろうか。シゲの心にもきっときっと、今はヒデがいるはずだった。

 
4

 公園で待ち合わせをして、ふたりでハーモニーの練習をしてから飲みにいこうか、そんな約束をしていたから、俺はデートの相手を待っていた。デートだなんて言うとあいつは怒って、蹴られるだろうな。言ってみようかな、言っておいて素早く飛びのいたら被害は受けないかな。
 待っている間は暇なので、下らないことを考える。暇だったらトレーニングでもしようかと、鉄棒に飛びつく。懸垂をしていると、男と女の会話が聞こえてきた。
「だから、お金はもう無理だって言ってるでしょ」
「そんなこと言わないで、頼むよ」
「もっときちんと働けばいいじゃないのよ」
「クビになっちまったんだからしようがないだろ。助けてくれたっていいじゃないかよ」
「前にもお金、あげたでしょ」
「もらったんじゃないよ。借りただけだろ」
「そしたら前の、返してよ」
 鉄棒のむこうの木立の奥で話しているらしい。若い男女の声だ。
 恋人、友人、きょうだい、親戚、知人、関係はいくつも想像できる。さりげなく伺うと、大柄で太り気味の男とほっそりした女性だ。男のほうがやや若いようだから、姉弟なのかもしれない。
「返せるくらいだったらとっくに返してるよ。サラ金で借金しろとか言うのか」
「そうは言ってないよ」
「貸してくれなかったら、よそで借りなくちゃいけなくなるんだよぉ」
「……しようがないわね」
 他人の俺は口をはさめない。知り合いだったら男のほうに、自らの収入でどうにかしろ、もっと働け、と言ってやりたいのだが、やむにやまれぬ事情があるのかもしれない。聞かないふりをして懸垂を続けていると、女性が小さく悲鳴を上げた。
「駄目よっ!!」
「いいじゃないか。同じだろ」
「同じじゃないよ。全部あげるなんて言ってない。返して!!」
 どうやら彼は彼女の財布ごと、奪ったらしい。男は大きいので、女が取り返そうとしてもかなわない。これは俺が割って入るべきなのか、姉弟だったりしたらよけいなお節介になるだろうかと迷っていると、俺の横を猛スピードで走っていった者がいた。
「本橋……」
「うわ、あんた、誰だよっ!!」
「きゃっ!!」
 女性が再び悲鳴を上げ、男の背中に隠れようとする。男は彼女をかばって立ちふさがる。本橋のほうこそ暴漢だと思われているらしいが、その姿を見て言った。
「ちらっと見ただけだからよくはわからなかったんだけど、おまえは彼女の財布を奪おうとしていたんじゃないのか」
「そ、そうだけど、彼女がくれるって言うから……」
「全部あげるなんて言ってないけど、それでもいいわ。よっちゃん、いいからそれ、その人に渡しちゃいなさい」
「ええ、そんな……」
「怪我をさせられたりしたら大変じゃないの。お金で……これ、あげるから……」
「は? 待てよ。俺はそんなつもりじゃねえよ」
 このせちがらい世の中では、男ともみあっている女性を救いにあらわれた正義の味方ではなく、その機に乗じて横から財布を盗もうとする悪漢、のほうが想像しやすいのだろう。男も女も震えていて、本橋は苦笑して言った。
「ちがうよ。あんたら……どういう関係?」
「私たちがどういう関係でも、あなたに関係ないでしょ。あなたはなにを……」
「いや、女が男に危害を加えられそうになってたから……」
 そしたら、助けてくれようと? そこまで言って女はぽかんと本橋を見上げ、男は震え声で言った。
「じゃあ、じゃあさ……その財布は……」
「あっ、ダメっ!!」
 改心してうなだれたらよかったのに、よっちゃんと呼ばれた男は再び彼女の手の財布を奪い取り、ダッシュで逃げようとした。本橋がよっちゃんの足に足をひっかけてころばせ、女性はまたまた悲鳴を上げて彼に駆け寄った。
「なにをするのよっ!! よっちゃん、大丈夫?」
「だ、大丈夫じゃないよぉ。乱暴なひとだな」
「乾、いるんだろ。出てこいよ」
 そうするしかなさそうだ。俺が出ていくと、悪漢の仲間だと思われたのか、よっちゃんと彼女は抱き合い、本橋が言った。
「俺の友達だけど、誤解すんなよな。俺はあんたたちの金を盗ろうなんて思ってないから」
「そうですよ。本橋は正義の味方であって、泥棒でも強請でもありません。名乗り遅れました。彼は本橋真次郎、俺は乾隆也です。乗りかかった船とでもいうのかな。落ち着いてそこにすわりましょうよ。あなたたちの事情を聞かせて下さい」
「は、はい、よっちゃん、大丈夫?」
「まあ、なんとか。すわろうか」
 なぜだか本橋が、軽く舌打ちをして俺を見た。なぜか、理由はわかるような気がするが、この際はどうでもいい。よっちゃんと彼女をはさんで、ベンチの両端に俺と本橋が腰かけた。彼女はサエと名乗り、話してくれた。
「モトカレとモトカノっていうのかしら、関係っていうのを一口で言うとそうなるかな。彼はお金がなくて、そのくせパチンコが好きで借金をこしらえて、バイトをしてもすぐにやめちゃうし、で別れたんですけど、時々お金を無心にくるんです。ちょっとだけだったら、って貸してあげてたから……」
「だって、金がないと飢え死にするよ」
 おまえは黙れ、と本橋と俺が同時に言うと、よっちゃんは口を閉じてべそをかいた。
「今日もそうだったんです。ちょっとだけ貸してあげようとしたら、全部盗っていこうとして……ごめんなさい、本橋さん、助かりました」
「いや、いいんだけどさ、貸すからいけないんじゃないんですか」
「そうですよ、貸してはいけません。こんなときこそ心を鬼にしてつき離すべきです」
「そんなぁ……」
 もう一度、本橋とふたりして、おまえは黙れ、とよっちゃんに言ってから、サエさんに俺が言った。
「あなたは彼をまだ愛しているんですか?」
「愛してなんかいないけど、情にほだされて……」
「気持ちはわかりますけど、きっぱり完全に別れるべきですよ。あなたがそのつもりだったら行って下さい」
「よっちゃんは?」
「あなたには関係ないでしょ?」
 ためらいがちに、サエさんはよっちゃんを見る。よっちゃんは半泣きでサエさんを見返す。サエさんは不安げに本橋を見、それから俺に視線をよこした。
「どうぞ、立ち去って下さい」
「わかりました。ありがとうございました」
「サエちゃぁん……」
 世にも情けない声を出して涙をこぼしているよっちゃんには一瞥もくれず、サエさんは行ってしまった。本橋は指の関節をばきばき鳴らし、俺は言った。
「この公園って俺たちの守備範囲なんだよ。ここにはしょっちゅう来てるんだ。だからさ、きみが今夜のようなことをしていたら発見する可能性は高いんだな。彼女の住まいのほうにも……」
「サエちゃんは実家暮らしだから……」
「そっか、それでバイト先の近くで? ま、いいや。人間は自ら働いて、自らを食わせていくものだよ。借金があるんだったら弁護士に法律相談でもしたらいい。二度とサエさんにつきまとうな」
「……そんな……あの、あんたらって何者?」
「だから、正義の味方だよ、な、本橋?」
 返事は関節をぼきぼきっと鳴らす音。それがよっちゃんには威嚇や恫喝になるようで、びくびくとうなずいた。人間は自ら働いて自らを食わせていくもの。稼ぎの悪い売れないシンガーズとしては、自分自身にも言い聞かせていた。
 しょげてしまったよっちゃんをベンチに残し、本橋とふたりで公園から出ていく。正義感に突き動かされて、深く考えもせずに行動を起こす本橋には危なっかしさもあるが、そのアグレッシブさには羨望も覚える。
 きっと俺たちは、互いに互いにないものを持っているんだ。だからこそいいコンビでいられるんだろ? いつかも言った通りに、俺たちは地獄の先まで一緒だよ、口にすれば蹴飛ばされるにちがいない台詞を、想いとともに心で噛みしめていた。


5

 売れているとはとうてい言えないが、すこしずつすこしずつ好転はしているから、章も気が楽になってきたのだろうか。以前ほどにはとげとげをはやしてはいないようになった。
「乾さん、ロックの勉強をしたいって言ってたでしょ。行きません?」
「ライヴハウスか? おまえのおススメバンド? 聴いてみたいな」
 好みが確立しているというのか、偏頗だというのか、章は嫌いなものは絶対に嫌いで、好きだとまっしぐらにひいきする。音楽に関しては特にその傾向が顕著だ。
 音楽の好みは章と俺ではちがっているから、彼の気に入っているものが必ずしも俺の趣味に合うとは限らない。しかし、十五歳でロックに目ざめて二十代いっぱいは耽溺し、自身もロックバンドのヴォーカリストでもあった章なのだから、ロックに関しては専門家に近い。彼のおススメはぜひ聴いてみる価値があった。
 「JOIN US」その名に似つかわしく、明るくポップなロックをやるバンドだ。二十代後半に見えるメンバーたちは、章の後輩というところだろうか。
「ああ、乾さん?」
 ステージが終了すると飲み会になる。同じライヴハウスが関係者のみの席になって、バンドのメンバーたちが口々に挨拶してくれた。
「おまえら、礼儀を知らないんだよな。乾さんは口やかましいって言っただろ。うっすだのああだの言ってないで、はじめまして、ぐらい言えよ。乾さん、なに笑ってんですか?」
「いやいや、いいよ」
「なんで乾さんが笑ってるのかと言えば、章、おまえの台詞かよ、なんだよな。昔は俺が乾さんにこういうことを言われたんだ。おまえはファンに対する礼儀がなってない、って殴られたりさ」
「乾さんって章さんを殴るの?」
「軽くだったら殴られたよ」
 わかってんじゃないか、章、と苦笑しながら、俺は章とメンバーたちのやりとりを聞いていた。ヴォーカルはショウというらしい。勝と書くんですよ、と章が教えてくれたり、最近のロックは云々、という話になったりする。
 この世界では俺は門外漢なので、興味深く彼らの話を聞いている。そうしているうちには酒が回ってきて、ショウと誰やらが口論をはじめた。若い奴らは血の気が多い。今どきのロッカーもこうなんだな、微笑ましくもなくもないが。
 次第に微笑ましいを通り越して野蛮になってきた。こんなときには本橋がいて一喝してくれるといいんだが、と考えつつ、さて、どうすべきか。俺が止めて聞く奴らかな、とも思う。関係もないのに首を突っ込んでいく奴もいて、どうしたはずみか章までが巻き込まれたらしく、ショウに突き飛ばされて俺のほうに吹っ飛んできた。
「なにしやがんだよっ!!」
「こらっ、やめろ!!」
 本橋と比べれば迫力不足なのは承知の上で、章を抱き留め、喧嘩している奴らにも声をかけた。ショウがだだっと走ってきて章に飛びつき、そのはずみで章はまたもや転倒した。
「やめろと言ってるだろ」
「……乾さん……」
「え?」
 男に抱きつかれて泣かれるのは初体験ではない。うちの事務所の後輩デュオ、フルーツパフェのクリは気の弱い奴で、妻のモモちゃんには頭が上がらない。クリがモモちゃんや社長に叱られたりやっつけられたりして、乾さぁん、と抱きついてきたことはあった。
「乾さん、気持ちいいですか」
「気持ちいいわけないだろ。俺はどうしたらいいんだよ」
「そのまま抱き上げてどこかの部屋に運んでやって、なぐさめてやったら? 女にだったらそうするんじゃないんですか」
「おまえまで幸生みたいに言うなよ」
 他のメンバーたちはショウが泣き出したので、おとなしくなったようだ。章は面白がっていて、ショウはしゃくりあげていた。
「オ、オレは……こんな乱暴なの……こんなの……いやなんだ。こういうの……嫌いなんだ。こいつら、下手だしさ……なのに、なのに俺のせいだって……やだよ。乾さん、俺をフォレストシンガーズに入れてよ」
「はぁ?」
「俺はバンドをやめるから……フォレストシンガーズに入れて」
「そうはいかないだろ」
「行くよ。かわりに章さんがうちに入ればいいんだ」
 はあっ?! と章は叫び、ショウの肩をどんっと突いた。
「馬鹿言ってんじゃねえんだよ。なんで俺がおまえと変わらなくちゃなんねえんだっ。いやだからな、俺はっ!!」
「わかってるよ、章、おまえまで興奮するな」
「あ、ああ、そうでしたね。つい……」
 ショウにこんなことを言われると当惑はするものの、章の反応が嬉しい。おまえはフォレストシンガーズにいたいんだよな、ロックバンドよりもフォレストシンガーズがいいんだよな、俺だっておまえにいてほしいよ、そう言って、章の頭を撫でてやりたくなっていた。


6


 両親ともに多忙で、祖母に育てられた子どもは稀な存在でもないだろうが、当人が亡くなったあとでもそのばあちゃんと会話をしているのは、変人なのかもしれない。
「あんたはあのお父さんの息子なんだから、変人なんだよ」
「俺から見てもお父さまは……うん、変人かもな」
「それで、今夜はなに? ああ、美江子さんかね」
「悟られてるんだな」
 悟られているのも道理、俺の脳裏にいる祖母は俺の分身のようなものだ。祖母と話すのは自身の心と向き合っているということだ。
「明日は結婚式なんだよ」
「いつから気がついてたの?」
「いつからだったんだろ……」
 明らかに気づいたのは、本橋が宣言した瞬間だ。俺は山田と結婚する、と本橋が言った瞬間、俺の恋心が明確になった。
 はじめて会ったのは大学一年生の春。合唱部の飲み会で本橋を真ん中に、両側に山田美江子さんと俺とがすわっていた。山田は栃木だろ、なまりでわかるよ、本橋は東京だろ、乾は……どこだろ、京都じゃないのか、ああ、金沢か!! 本橋得意の出身地当てで盛り上がっていた。
 あれから十五年近く、三人で、後には仲間も増えて六人になって歩いてきた。山を登り、川を渡り、しっかりして、私がついてるよ、とミエちゃんに励ましてもらい、ひたむきに進んできた。
 六人は仲間、戦友という言葉は好きではないが、ともに闘う同志だった。フォレストシンガーズとしてメジャーデビューしてからは、売れないという理不尽と、少なくとも我々には理不尽だと感じられる事実と闘ってきた。
 十五年近く、ミエちゃんと本橋と俺は一緒にいた。大学を卒業しても離れ離れにはならず、同じ仕事をしてきた同志でもある。
 三人一組の親友だったはずだ。三人ともに同性だったとしたら、永遠にそんな関係でいられたかもしれない。けれど、ミエちゃんひとりは女だった。男だから、女だから、とは一概には言いたくない主義を持ってはいても、彼女が女性だという事実はまげられない。
「山田、結婚しよう」
 真相はこうだったのかどうか知らないが、俺の想像ではこうなる。
「俺はおまえを愛してる。結婚しよう」
「そうだね、結婚しよう」
 あのふたりのことだから、こうやってあっさり結婚を決めたのか。いや、実は意外に濃厚だったのか。どっちでもいい。山田美江子と本橋真次郎は婚約し、明日、華燭の宴を張る。
「ずっと友達だったよ。友達でいる期間が長すぎたから、このまんま友達でいるしかないと思ってた。だけど、いつしか俺は、男が女を見る目でミエちゃんを見てたんだな。そうなってからも、俺は彼女を女性として好きだけど、友達なんだもんな、としか思えなくて諦めの境地に達してしまっていた。ふと感じるときはあったんだよ」
 あれ? 本橋とミエちゃんは……? と感じた次の瞬間、なにものかが、なにごとかが俺の想いを砕いた。なので、深く突き詰めなかったのだ。
「本橋も俺と同じような感情を持っていたんだ。俺は諦めてしまい、本橋は一歩を踏み出した。その差だろ。俺は完敗。それだけのことさ。ばあちゃん、叱りつけないのか? だらしない、情けない、未練たらしい、私は隆也をそんな子に育てた覚えはありませんよ!! ってさ」
「いいんじゃないのかねぇ、人間、そんな気持ちになることだってあるよ」
「おや? ばあちゃん、老けたな」
「私は死んじまってるんだから、これ以上は老けないの。見ててごらん、そのうちにはあんたよりも年下になるんだよ」
「俺はそんなに長生きしないといけないのか?」
「当たり前だろ」
 こうして俺は、自分で自分を甘やかしているのか。長い人生のひととき、未練に、悔恨に、かなわなかった想いに、自己憐憫に浸るのも必要だと。
「あんたはそういう仕事をしてるんだし、詩を書いたり音楽を作ったりもするんだから、そういうセンチメンタルな感情は……」
「ばあちゃん、らしくない台詞はもういいよ。おやすみ」
「そうだね。明日はなにを着るの?」
「新郎と新婦の一番の友達なんだから、タキシードさ」
「タキシードなんてものも似合うような、大人になったんだね」
「ばあちゃんに褒められると薄気味悪いんだよ」
 このひとが俺のそばで生きていた、十七歳のころまでと同じ憎まれ口をきいて、俺は祖母の幻を頭から締め出した。
「あんたが結婚できなかったとしても、私はあんたのそばに……」
「やめてくれよ、消えろよ」
 消えろ、と言わなくてはならないということは、俺が祖母に依存しているという意味だ。これでは俺は本当に一生、結婚なんかできやしない。ミエちゃんとではなくて、誰とも結婚できないんだろうか。いいや、できるさ、と思いたいけれど、まだしつこく、祖母が言っていた。
「そうかもしれないね、できないのかもしれないね」
 俺が結婚できなかったとしたら、祖母は嬉しいのだろうか。困ったものだ。

END







スポンサーサイト


  • 【81「すっぱい葡萄」】へ
  • 【いろはの「ほ」】へ
  • Tag List 
  •  * |

~ Comment ~

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

>2351

なるほど。
できますね。v-19
管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【81「すっぱい葡萄」】へ
  • 【いろはの「ほ」】へ