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小説50(続・水晶の月)

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フォレストシンガーズストーリィ・50

 「続・水晶の月」


1 繁之

 この部屋にはじめて連れてきてもらったのは大学一年のときだったから、九年も前になる。十八だった俺の苦い失恋の想い出にもつながる部屋ではあるのだが、失恋はもうどうでもいい。秋になったら俺は恭子と結婚するのだから。あのときにはヒデもいて、俺にとってはヒデはどうでもよくはないのだけれど、今はかわりに章がいるのだから、そんな話はしたくない。今年もいろんなことがあったし、もうひとつ仕事もあるのだから、遠い記憶は忘れた顔をしておこう。
 近い記憶ならば、俺の結婚が決まったとか、ラジオドラマがはじまっただとか、先日の海辺でのイベントでは大学の先輩の柴垣さんに会ったとか、徳永さんのデビューが決まっただとか、今年の前半にもたいそういろいろな出来事があった。
 もうひとつの海辺でのイベントが終了すれば夏も終わる。夏が終われば秋が来て、いよいよ結婚式だ。結婚式なんてものは恥ずかしいので避けたいのだが、結婚式をしないんだったら結婚もしない、と恭子が怒るのは目に見えているのでやらざるを得ない。やるしかないよな、などと言っても、きっと恭子は怒るだろうけど。
 何度目だか思い出せないほどに何度も連れてきてもらった乾さんの部屋で、幸生と章が騒いでいたり、本橋さんと乾さんが酒を飲み飲み議論をしていたり、といったいつに変わらぬ光景を眺めながら、俺は近い記憶をたどっていた。
 最重要事は徳永さんのデビューだ。下積みだったころの徳永さんがそれについてどう考えていたのかは知らないし、俺は彼に対してどんな態度を取ればいいのかもわからないので、こっそり言っておこう、おめでとうございます。
 その次に重要なのはラジオドラマ。「水晶の月」の中での俺の役柄は、本庄繁之という名の大学一年生だ。ラジオドラマなんて初体験なのでめくるめくといっていいほど戸惑った。むしろ俺と同姓同名ではない、なんの共通点もない男の役のほうがやりやすいのではなかったのか。やりにくくても仕事はやらなくてはならないのだから、苦悩の中でドラマに入っていった。
 理系大学の男子寮にいる本庄繁之は、荒っぽくて人の気持ちなんぞはてんから考えない、野放図で頭の悪い奴なのだ。脚本の最初のほうを読んだ限りでは、俺にはそうとしか思えなかった。
 なにかといえば腕力にものをいわせる。弱虫だという設定の同い年の乾隆也を徹底的に苛める。意地悪だという設定の三沢幸生を子分にして、ふたりがかりで乾隆也を攻撃して泣かせる。メシまでも取り上げる。彼の書いている詩を馬鹿にしてからかう。あまつさえ、乾隆也をベランダから放り投げようとまでする。
 腕力では俺と張り合うという設定の木村章が、面白がって三沢と本庄に加勢する。腰の据わらないいい加減な奴だという設定の本橋真次郎は、乾くんを苛めてやるなよぉ、と言いつつも、気の強い他の三人の前では意気地がなくてとことんかばったりもできない。
 学生寮には寮長がいて、四年生ではあるのだが、これまた気の弱い男で、その名を金子将一という。なんでも、金子さんと我々フォレストシンガーズが「水晶の月」に出演すると決まってから、登場人物たちの名前を変更したのだそうだ。原作では別の名前がついていたのだそうだから、俺としてはそのままにおいてほしかった。
「気の弱い男はどこにだっているんだから、このほうがリアリティがあるよ。俺はここに出てくる乾くんと似てる気もするな」
「文学少年で詩人ってところは似てるでしょうけど、他はまったく似てませんよ」
 近い部分はあるよ、と言っていた乾さんだが、似ても似つかないと俺は思う。幸生にしてもお喋り男の一点のみは似ているが、幸生はこういった具合に根性がまがってはいない。章はやたらにバットを振り回さないのであったら、単純で扱いやすくて、実物よりもつきあいやすい男かもしれない。
 本橋さんは実物と百八十度異なっているし、金子さんにしても全然全然本人とはちがう。本橋さんは生まれながらの正義の味方で、強気の男なのだとみんなが言っているではないか。金子さんは生まれながらのキャプテン体質なのだから、寮長をまかせられたら完璧にやってのけるはずだ。
「なのに、みんなうまく役柄になり切ってますよね」
 そんなふうに考えたことどもを金子さんに話すと、金子さんは言った。
「おまえはいまだ、どこかで俺をキャプテン視してるだろ」
「……金子さん以外にもキャプテンという地位の方とは触れ合ってきましたけど」
「そうは言っても、おまえが一年生のときのキャプテンは俺だもんな。幼児体験みたいなもんだよ」
「十八だったんですよ。俺はそんなにガキっぽかったですか」
「ガキではなく、純真で純粋だった。おまえほどまっすぐな男はめったにいないよ。だから徳永も……うん、そうなんだな。本庄はそのまんまでいい男になれよ」
「いい男……無理です」
「なにを言ってるんだよ。俺はそんなおまえにさ……本庄、ごめんな」
「は? 金子さんに詫びていただくようなことはなにも……俺のほうこそお世話になりました」
「おまえらしいよ」
 わっはっはっとばかりに笑い飛ばされて、俺は首をかしげているしかなかった。
 それでもいくらかは慣れてきて、俺がいちばんドラマの素養ってないんだよな、と考えながらも、どうにかこうにか声優みたいな仕事をこなしている。ドラマが進んでいくと、本庄繁之も馬鹿そのものではなくなってくるようなので、ますますむずかしくなりそうな懸念はあるのだが、がんばらなくてはいけない。キャプテンもリーダーも乾さんもいるんだから。
 先日の海辺でのイベントはすんでいるのだからいいとして、もうひとつのイベントはまだなのだから、考えても意味がないとして、結婚式を想像すると恥ずかしいのでやめておくとして、そうやってあれこれ思い出しているうちにだいぶ飲んでしまっていて、頭がぼーっとしてきた。
「シゲさんは今夜はまたひたすら無口で飲むばっかだね。どうしたの? なに考えてんの? 花嫁衣裳の恭子さん?」
 この中には美しき花嫁が……と言いつつ、幸生が俺の頭をつついた。
「純白のウェディングドレス? 俺にも見せて」
「俺の想像の中の花嫁なんかよりも、本物のほうがずっと綺麗だよ」
「おー、シゲさんも言うじゃん。恭子さんにもそう言ってあげて下さいね」
「うん、努力するよ。それより幸生、おまえはこの部屋にはじめて連れてきてもらったのっていつだ?」
 大学に入学して間もなく、乾さんと親しくなったのだと聞いている本橋さんは、そのころから幾度となくここで乾さんと語ったり歌ったり、飲んだりもしていたのだろう。章はフォレストシンガーズに入ってからだから、俺も知っている。幸生からも聞いたのかもしれないが忘れてしまったので、質問してみた。
「いつだったかな。章をはじめてリーダーのアパートに連れてったのは、あいつと俺が再会した夜でしたよね。しょぼくれ章をリーダーの部屋まで走らせて、ひいこらひいこらの章に歌わせて、五人で歌ったりもして、そのあとはみんなで飲んで、リーダーの部屋で寝たっけ。あれが俺たちの再出発の夜だったんだ。あれから五年? 思えば遠くへ来たもんだ、ってね」
「五年なんてまだまだだよ。で、おまえは?」
「リーダーの部屋と乾さんの部屋と、どっちが先だったかな。リーダーの部屋には数え切れないほど行ったから、最初はいつだったか覚えてないよ。覚えてるのはリーダーの部屋の押入れの隅に、これぞまさしく隅に置けない。隅にしか置けないってのか」
「なんの話だよ」
「男の子だったらたいていは持ってる雑誌の話。シゲさんの部屋にもあるんでしょ」
「音楽雑誌か。章の部屋にはロック雑誌がどかどかあるよな」
「章は古いロックが好きだから、古本屋を漁って買ったんだって。乾さんも古本おたくだったりするよね。リーダーはウルトラマンおたくだし」
「特撮の雑誌とか?」
「やーねぇ、とぼけちゃって。シゲさんは恭子さんとの新居に引っ越すんでしょ。変な雑誌は整理しましたか」
 変な雑誌と言われて思い当たったら、幸生が口を耳に寄せてきた。
「乾さんの部屋にはねぇ……」
「おまえは先輩の部屋の押入れを探る趣味があるのか」
「幸生、布団敷け、って命令されると押入れの中は見えますよ。リーダーの雑誌を発見したときには……乾さんは恋愛映画のビデオなんか持っててさ、もっとピンクピンクしたのないのぉ、って……」
「ピンクビンク……先輩の秘密を暴露するな」
「はいっ、本庄先輩」
「あったのか?」
 うきゃきゃのきゃーっ、と幸生が奇声を発し、キッチンから乾さんが顔を覗かせた。
「なんという声を出すんだ、って……今さらだけど、幸生、おとなしくしろよ。おまえたちは飲んでばかりでろくなものを食ってないだろ。チャーハン作ってやるから静かに待ってろ」
「ママのフレンチトーストが食べたいな」
「そういうことを言ってべそをかくと、本庄くんに殴られるよ」
「きゃーん、本庄くん、暴力はいけませんよ。木村くんもバットは持ってこないでね」
 バットなんて持ってねえよ、と章の声がした。そちらを見ると章は寝ているので、寝言だったらしい。フレンチトーストなどと幸生が言ったのは、ドラマの中の乾隆也の台詞だ。ドラマの乾隆也は苛められて逃げ出してひとりになると、ママを偲んで泣く。ママの作ってくれたフレンチトーストが恋しくてならないという設定なのである。
「乾さんのママもフレンチトーストをこしらえてくれました?」
「うちはばあちゃんがかき餅を焼いてくれたよ」
「甘くないフレンチトーストだったら食いたいな。乾くーん、ママの味を再現してよ」
 ドラマと現実をごっちゃにした会話をしている乾さんと幸生のやりとりを耳に留めながら、部屋を見回した。本橋さんと章はごろーんと横たわって寝息を立てている。ふたりを見ていると、最初のうちはこのふたりが嫌っていた、他の三人も決して好きだとは言えなかった同期のジャパンダックスがもうじき解散するとの話も思い出した。
 次第に互いを嫌わないようになってはいたのだが、彼らはロックバンドでうちはヴォーカルグループなのだから、音楽性も考え方もまるっきりちがっていて、仲良くなるまでは至らなかった。ジャパンダックスの女の子たちと美江子さんが喧嘩をしたりもして……だけど、同じころにデビューしたジャパンダックスがいなくなってしまうのは、寂しくなくもないかなぁ。
「シゲ、おまえも眠くなってきたんだろ。寝るか」
 テーブルにチャーハンの皿を運んできた乾さんが、それとも、食うか? と尋ねていた。
「すきっ腹で寝たら明け方に眼が覚めて、腹減ったぁって吠えるんじゃない? 食ってから寝ます?」
 幸生にも言われて、俺はスプーンを手にした。
「いただきます。うまそうですね」
「食いものを目の当たりにすると眠気も忘れるシゲさん」
「幸生はうるさいんだよ」
「本橋も目覚めた瞬間に吠えるんだろうけど、とりあえずほっといて食おう」
 ひとたび寝たらちっとやそっとでは起きない章と、気持ちよさそうにむにゃむにゃ言っている本橋さんは寝かせておいて、三人でいただきまーす、と手を合わせた。たしかに幸生の言う通りで、大盛りチャーハンをかっこみ出すと眠気は失せて、猛然と食欲が湧いてくる。僕ちゃん、人参嫌い、と幸生が甘え声を出し、人参も食べないと怖いお姉さんに叱られるぞ、と乾さんが言い、幸生は言った。
「僕ちゃんもチャーハンじゃなくて、フレンチトーストが食べたいよ」
「フレンチトーストってどうやって作るのか知ってるか、幸生?」
「フランス風トーストって意味でしょ。食ったことはあるんですよ。あの味からすると、パンを焼いてミルクセーキをぶっかける。当たり、乾さん?」
「材料は同じようなもんだな。食いたいんだったら食パンと卵と蜂蜜を買ってこい。牛乳に卵と砂糖を混ぜて食パンを浸して焼いて、その上に蜂蜜をとろーっと垂らした甘い甘いのを作ってやるよ」
「そうやって作るんだ。甘いのはいやよ、ハニー」
「……誰がハニーだよ。そういう声を出すな」
「蜂蜜ってハニーじゃん。ね、ベイベイ?」
 ハニーは乾さんに言っていたので無視していたのだが、ベイベイは俺に向かっての幸生の台詞だった。どちらも本物の蜂蜜ほどに甘ったるい声で、チャーハンを吹きそうになったのをからくもこらえて言った。
「俺は水晶の月の本庄繁之も三沢幸生も嫌いです」
「乾隆也は?」
「乾さんの口から乾隆也はって訊かれると、困るんですけど……」
「ドラマの乾隆也だよ。俺があいつだったらどうする?」
「乾さんは乾さん本人ですから」
 んんとねぇ、と幸生が口をはさんだ。
「ドラマの中の五人が実際に出てきて、同名の相手と対決したらどうなると思います? リーダーVS本橋真次郎は?」
「俺もそれは知りたいな。幸生、どうなる?」
 想像力に関しては、俺は仲間たちには逆立ちしてもかなわない。幸生が持ち出した話題には興味があるので尋ねたら、幸生は考えもせずに言った。
「現実のシンちゃんが架空のシンちゃんにこう言う。てめえって奴はてめえって奴は、おもてに出ろ。根性入れ替えてやる。架空のシンちゃんは、うわわーっ、許してっ。僕は僕は僕は……生まれてこの方、げんこつなんか使ったことはないんだよぉ。そこで本物は、おまえはそれでも本橋真次郎か。そんな奴が俺の名を名乗るとは、ますます許せん!!」
「架空のシンちゃんのやわらかいこぶしが、本物のシンちゃんの硬い硬いこぶしと空中で激突して、架空のほうはあえなく虚空へと飛んでいく。章は?」
「逆じゃないんですか」
「架空の章が勝つんだな。ちなみにおまえは?」
「俺が架空の幸生に言う。そんなふうに根性がねじくれてると、人生までがねじくれてくるんだよ。なるべく早い段階で根性を入れ替えなさいね。俺はリーダーじゃないんだから、きみの根性を入れ替えてやるべき拳の持ち合わせはないの。自ら反省して立ち直りなさい」
「しかし、架空の幸生も口は達者だから、本物には負けないだろうな」
「口勝負だったらね。シゲさんはどうする?」
 前々から想像していたのか、たった今考えついたのか、いずれにせよ、乾さんと幸生のこんな会話には俺はお手上げだ。
「幸生がストーリィを考えてくれよ。繁之VSシゲの勝負はどうなるんだ?」
「シゲさんだったら繁之に背負い投げをかけて、俺は口はうまくないからつべこべとは言わない、自分でよーく考えろ、かな」
「そうかもな。では、乾さんは?」
「この俺が架空の隆也にね……おまえの気持ちはわかるよ。だけどさ、おまえだって長い長い人生を生きていかなくちゃいけないんだよ。ママはもう助けてくれないんだ。人生ってのはおのれの手で切り開いていくべきものなんだ。ママ、ママって泣いてたって……とまあ、俺は実物の俺にもそう言い聞かせたい。聞こえたか、隆也?」
「乾さんにしたら月並みですね」
「あいつは俺の中に住んでいる、こうあったかもしれないもうひとりの俺だからさ」
「ふむふむ、乾さんはあっちこっちの誰かさんに説教しているようでいて、自身にもそう言い聞かせて歩いてきたとね。先輩、これからもよろしくお願いします」
「まかせておきたまえ、後輩」
 ふむふむとうなずき合ってから、ふたりして爆笑した。疲れる会話だ。俺も寝たほうがよかったかもしれないと後悔していると、乾さんが言った。
「水晶の月の続編は、シュールタッチで書いてもらおうか。ファンタジーになるのかな。物語の中の俺たちと、実際の俺たちが対峙して語り合う。霧笛さんが書くとどうなるか、読みたくないか、シゲ?」
「読むのはいいんですけど、演じるのは勘弁してほしいです」
「滅茶苦茶むずかしいよね、そんなのって。でも、俺はやってみたいかも。うーん、無理かも」
 腕組みをしてうんうん唸っていた幸生は、しばらくするとけろりと話題を変えた。
「シゲさん、さっき言ってたよね。シゲさんがはじめてここに連れてきてもらったのはいつ?」
「忘れた」
「乾さん、本橋さんがはじめて来たのは?」
「俺たちが一年のときの、合唱部の飲み会のあとだったな。俺は酒なんてほとんど飲めなかったんだけど、本橋はあのころからけっこう強くて、すこしの酒で酔った俺を送ってくれたんだ。だらしねえな、これしきで、酒なんてのは鍛えたら強くなるんだぞ、これから俺が鍛えてやるよ、って一人前の口きいてたくせに、帰りついたらあいつが先にぶっ倒れて、俺のほうが酔いが醒めちまって、布団を敷いて本橋を寝かせて、俺も寝た」
「抱き合って? 寄り添って?」
「幸生、なんだっておまえはそこへ話を落とすんだ」
「落としてませんよ、乾さん。うるわしいシーンじゃん、ね、シゲさん?」
 いくら本橋さんと乾さんであっても、断じてうるわしくはない。なんぼなんでも気持ちが悪い。そう思ったのだが、先輩たちを気持ち悪いとは言えないので、残っていたチャーハンを口に運んだ。
「幸生がはじめてここに来たのは、おまえが二年になる前だろ。詳しくは覚えてないけど、そうだったよ」
「ああ、そうでした。俺、あの夜からずっと乾さんを愛してるんだよね」
「……シゲ、どうにかしてくれ」
「どうにかね。背負い投げですか」
 きゃん、いやんっ、と叫んでから、幸生は言った。
「シゲさんも愛してるよ。もうっ、ふたりしてそんな、憧れの女優さんを見るような目で見ないでよ。僕ってそんなに美人?」
「アブストラクト美人」
「乾さんってぱまたそんなに褒めて。ピカソの美人なんだね、俺って。美しすぎるって罪よね。俺ったら、どうしてこんなにも美人に生まれたんでしょ。ママ、あなたを恨みたいわ。いでででーっ……」
「本橋、いいところへ起きてきてくれた。頼む」
 いつの間にやら本橋さんが幸生の背後に立って、頭のてっぺんをげんこつでぐりぐりやっていた。
「騒々しくて寝てられねえんだよ。乾、腹減った」
 起き抜けの第一声はこれだろうと、乾さんが言っていたのが当たっていた。チャーハンが残ってるぞ、と立った乾さんが、キッチンへ向かいながら言った。
「俺も引っ越すつもりなんだ。アパートは卒業してマンションに移るよ」
「決めたのか」
 だいたいはね、と本橋さんに答える乾さんの声が聞こえる中、幸生がしみじみと言った。
「……公園にもリーダーのアパートにも、乾さんのこの部屋にも、俺たちの思い出がいーっぱい詰まってるんだよね。そしたら寂しくなる気もするけど、マンションに移るってのは大人の男に近づく一歩なんだし、ちっとは稼ぎも増えたんだし、うんうん、乾さん、おめでとうございます。上昇志向があってこそ、ひとは上昇していける。でしょ、リーダー?」
「そうなのか。俺はあそこでいいよ。引っ越しなんて面倒だ。シゲも乾も引っ越すんだから、手伝うぞ」
「シンちゃん引っ越しセンター、俺のときにもよろしくです」
「おまえにはマンションなんて似合わないよ。十年後だったら手伝ってやるから、そのころにしろ」
「三十六ですよ、十年後って……ま、いいけどね。乾さん、それはそうとピンクのビデオ、いらなくなったら俺に下さいね」
 そんなものは持ってない、とキッチンから乾さんの声が聞こえ、ほんとかぁ? と本橋さんまでが言い、幸生はいたずら坊主みたいな顔で笑っている。章ひとりがただ安らかに、平和に呑気に眠っていた。


2 真次郎

 ひとり暮らし歴はざっと十年になるんだから、料理くらいできるさ、なのだそうだ。俺はそう言う乾から遅れること三年、大学四年になってからひとり暮らしをはじめたので、ざっと七年近くになる。俺は料理は苦手なので外食かコンビニ食ばかりだが、乾はばあちゃんっ子だったゆえにマメにできているのか。料理もたしかにけっこううまい。手早く作ってくれたチャーハンもなかなかの美味だった。
 五人で飲んでいて章が真っ先に爆睡状態になるのはいつもと同様なのだが、今夜は俺もいつの間にか寝てしまった。その間に他の三人は乾の手になるチャーハンを食いつつ、なにか話していたらしい。いくぶん寝ぼけ加減の俺は、三人の会話、というよりも、主に乾と幸生の会話を聞きながら、別のことを考えていた。
「今さらなんだけど、学食のメシってまずかったか」
 誰にともなく問いかけると、幸生が答えた。
「うまかったとは言えないでしょうね。安いんだから文句も言えなくて、こんなもんかぁ、って感じで食ってましたよ」
「シゲもまずかったか」
「俺はあのころは味よりも量でしたから」
「今でもそうなんじゃないのか。乾は?」
「俺は高校生まではばあちゃんの作った料理を食ってたから、東京の大学の食堂の味ってこんななんだ、ってさ、はじめて食ったときにはわけもなく感動した。うまいとかまずいとかじゃなくて、これがうちの大学の味なんだって思ったんだよ」
 金沢とは田舎ではなく、京都のような古都であって、日本の中でも別格の土地なのだと俺は思う。が、乾は、俺は田舎者だからね、と言う。今夜も言った。
「俺は田舎のばあさんの作る田舎料理で育ったんだよ。高校生くらいになると、もうちょっとしゃれたものを食わせてくれよ、とも思ったけど、言うと百倍になって返ってくるから控えてた」
「乾さんの百倍か。俺の一万倍ですね」
「幸生とだったら五十倍程度だろ」
「そしたら乾さんは俺の二倍? そんな謙遜しなくても……」
「謙遜はしてない。さかさまだろ。おまえが俺の二倍だ」
 はれ? はれほれ? と妙な声を発して、幸生は指で計算している。それから手近の紙に式を書いて、俺、算数苦手、とぶつぶつ言っている。そんな幸生を黙殺して、乾は言った。
「金沢にだってしゃれたレストランはあるんだよ。でも、俺は高校生のころまでは親や祖母の主義で質素倹約を旨としていた。東京に出てきてからも年中金欠だったから、昼は学食、夜はなるぺく自炊をしようとこころがけていた。あれは一年生の夏休み前だったかな。昼ごろに星さんに会ったら、おう、乾、昼メシおごってやるよ、ついてこいって言われて、カレーショップに連れていってもらったんだ」
「カレーくらいはばあちゃんだって作ってくれただろ」
 ぶつぶつと幸生は計算していて、シゲは黙って聞いている。俺が問い返すと、乾はふふっと笑った。
「ばあちゃんがたまに作るカレーは、じゃがいもごろごろの黄色くて甘いのだったんだよ。ところが、星さんが連れていってくれたのは、辛味のレベルが選べるっていう店だった。星さんは勝手に俺の分まで注文して、乾、食え、って命令した。こげ茶色のカレーだなぁ、でも、うまそうだよな、って思って食ったよ。ひと口目はうまいような気がした。けど、カレーはあとから効いてくる。ふた口目あたりで口の中が火事になって、涙ぽろぽろ、ひぃ、水、水、水……ってなってさ。星さんはにやにやしながら平然と食ってて、言うんだよ」
 おまえのは辛さレベル2、俺のは5だ。カレーごときで泣いてないで完食しろ、と言われて、乾は必死でカレーを食ったのだそうだ。皿が空になったころには、口がしびれていたと言った。
「辛いカレーを平気で食えるのが大人の証明なのかな、なんてね、それからは家でも激辛カレーのレトルトパックを買ってきて、訓練したんだよ。今では辛いのは平気だよ」
「俺も一年のころには、先輩によくおごってもらったよ。川添さんだったかな。誰だったかまでは覚えてないんだけど、本橋、昼メシおごってやるから教えろ、って言われたこともある。なにを教えてほしいのかと思ったら、おまえは東京生まれだろ。彼女とデートするのにいいコースを教えろって……そんな話をしてたんじゃなかったんだ。学食のメシだ。おまえら、俺といっしょに学食でメシ食ってたって、まずいなんて言わなかったじゃないか」
「学食のメシが安くてまずいのは、言うまでもないからですよ。よその学校にはうまい学食もあったらしいけど、うちは水準のはるか下だったんじゃないかな」
 計算は投げ出したのか、幸生が言った。
「だからね、いちいち言わなくてもみんなわかってるから」
「そっか。すると……」
 なかなかいける、と考えていたのは俺だけか。だから徳永に言われたのか、おまえは味覚音痴だと。
「乾のチャーハンはなかなかいけるよな」
「はい、うまかったです。幸生もよく食ったよな」
「シゲさんはうまくなくても食うんだろうけど、いいえ、おいしかったでーす、乾さん、ごちそうさまでした」
 後輩ふたりが声をそろえて言うので、安心した。あのころの俺は味覚音痴だったのかもしれないが、現在ではそうではなくなっているのだと考えておこう。
 ただ今は章が寝てしまっているのでなおさらでもあるのだろうが、こうして仲間たちと話していると、学生時代の思い出話が出てくる。星さんや川添さんといった、合唱部の先輩の名前も出てくる。我々がとある大学男子寮を舞台としたラジオドラマに出演していて、俺に限っては四苦八苦して演じているせいもあるのかもしれない。しかも、ドラマでは金子さんまでが共演しているのだから。
 章は酒には弱い。眠気にも弱い。なのだから、いつだって飲むといちばんに寝てしまう。ザルだのうわばみだのと幸生が評するほどに酒に強いシゲと、あまり飲まない乾と幸生は、弱くもない俺も寝てしまったので、三人で話していた。その内容もドラマに関するものだったらしい。
 デビューしてからちょうど四年になる我々には、今年も夏までの間にさまざまなことがあった。最大ニュースはシゲの結婚だ。徳永がデビューすると決まったのもそれなりに大きな事件だが、俺が祝福してやったりすると奴はまちがいなくひねくれた台詞を返してくるだろう。だからあいつは無視無視。
 そうなると二番目の重大事件は、初体験のラジオドラマだ。昨今はミュージシャンとて演技力は必要なのだとか、名を売るチャンスにもなるだろうとか、社長が熱心に言うので、俺としては渋々ながら引き受けた仕事だった。
 まずは各自が脚本を渡されて目を通した。主役となるのは学生寮に入寮した一年生五人で、その名は俺たちとそっくりそのまんまおんなじ。主役に継ぐ役柄の寮長も金子将一といい、金子さんと同名で、女子学生沢田、金子の友人皆実と、そっくりそのまんまの名前が続出していた。
「局で公募した脚本の大賞受賞作「水晶の月」を、エリちゃんが読んで、これって誰かを思い出すな、となったんだそうだ」
 教えてくれたのは金子さんだった。合唱部では一年先輩だった沢田さんが局のアナウンサーになっていて、金子さんは彼女とは学生時代から親しくしていたので、エリちゃんと呼んでいる。
「同じ寮の仲間になって、彼らは当初はもめごとを頻出させる。そこらあたりはちがうけど、最終的には音楽によって結びつくんだよ。誰かさんたちと同じだろ。寮長は彼らに協力する。そこらへんもおまえたちと俺の関係に似てはいる。そこでエリちゃんは、脚本を書いたみずき霧笛さんや局の上司たちとも相談して、俺たちに出演依頼をよこしてくれた。俺たちが仕事を引き受けたのを確認してから、登場人物の名を変えた。もとは別名だったらしいよ」
「皆実さんも出演なさるんですか」
「彼は普通のビジネスマンなんだから、ラジオドラマには出ない。皆実の役柄は本職の声優さんだ。エリちゃんは出させてもらうって張り切ってたよ」
「名前は……いいといえばいいんですけど、なんですか、こいつは」
「本橋真次郎か。役作りに励めよ。俺も励もう」
「金子さんにだって他人ごとじゃないでしょうに」
「だから、励むと言ってるじゃないか」
 役作りに励めと言われても、そりゃあ、仕事を引き受けた以上は石にかじりついてでもやり遂げるつもりではいるけれど、こいつが本橋真次郎か。俺はどうすりゃいいんだ、であった。他のキャラクターにしても実像と大いなる差があるのだが、本橋真次郎は中でもとぴきりの別人なのではなかろうか。俺は殺されそうになってもこのような台詞はほざかない。
「本庄くんは乱暴だね。僕はそういうのは嫌いなんだ。あ、貧血が……」
 誰がこんなことを言うんだ? 俺か? と言いたくなる台詞だ。ドラマの冒頭近くで、本庄が乾を脅してベランダから突き落とそうとした際に、止めようとしても止めきれずに本橋が言うのだ。実際の俺だったらなんと言うだろう。こうか。
「てめえ、なんて真似をするんだよ。弱虫の乾に冗談ででもそんなことをしたら、貧血起こしてぶっ倒れるだろうが。俺が受けて立ってやる。かかってこい」
 であろうか。リハーサルで先の台詞を口にしているときには、想像のほうを言いたくなって困り果てた。
「似ても似つかぬなんてわけじゃないよ。俺の中にはこういう隆也も住んでるんだ」
 乾はそう言っていたが、とんでもない。知り合ったばかりのころには俺は乾を、へなちょこだの青びょうたんだのと言ったが、そんな男ではないのは知り尽くしている。章の別人ぶりはいささか別方向なのだが、シゲにしても幸生にしても、こんな奴が実際にいたとしたら、まとめてかかってこい、と言いたくなるような男どもなのだ。
 しかし、世の中の俳優は誰しも、おのれとは別の人間を演じている。俺たちも俳優もどきのような仕事をするのだから、やりづらいのなんのと嘆いていてもはじまらない。やるしかない。腹をくくって演技に臨んだのだが、やはりやはりやりにくくて、歌う仕事の比ではないほどに神経を使う。つい弱音を吐きたくなっては、ぐっとこらえてドラマキャラの本橋真次郎を演じている今日このごろである。
 平和主義者のシゲは、乱暴者の繁之を演じるのに難儀しているにちがいない。章は、むやみにバットを振り回すのが生き甲斐の章役をさしてこう言っていた。
「こうやって自信過剰ででかい面してて、俺、こいつがうらやましいかも。幸生はなり切ってるよな」
「楽しいよ。なんたって俺は、本橋、乾、本庄って、先輩たちにいばれるのが嬉しいもんね。本橋、台所へ行って食いものでもちょろまかしてこいよ。おまえなんかそのくらいしか役に立たないんだから。おまえは食わなくていいの。そんなでっかい腹して、絶食でもしないと痩せないよ」
「役の本橋さんって肥満体だったか」
「そうは書いてないけど、鈍くさい奴じゃん。でぶってそうだよ」
「今の台詞も脚本にはないよな」
「付け加えましょうよって提案しようかな」
 好き勝手にほざいている幸生は放置するしかないのだが、幸生と章は楽しんでいるようだ。幸生はやるなと言っても芝居をやる奴で、平素から鍛えてあるのだから、芝居をやらせると右に出る者はいない。乾も幸生につきあってやっているのだから、芝居っ気は充分にある。章も案外達者なので、こっちの三人は大丈夫だろう。金子さんはなにをやらせても器用なのだから、俺が心配する必要もない。
 大丈夫ではないのはシゲと俺だろうと、当初は危ぶんでいた。しかし、シゲも苦悩はしていたようだが、次第に板についてきた。下手なのは俺だけなのだから、今後もいっそう励むしかない。
 チャーハンの皿をまとめて台所に運んでいって、幸生は皿洗いをはじめた。章は眠りっぱなしで、乾はギターを爪弾いている。シゲが乾の手元を覗き込んで、そのうちにはふたりで歌を口ずさみ出した。ギターの旋律に、低い声と高い声が唱和している。耳を澄ませたら、脚本家のみずきさんが書いた詩に乾が補作し、金子さんが作曲した「水晶の月」のテーマソングだった。
「エリック・クラプトン?」
「章、寝言でお世辞を言ってくれてるのか」
「いいや、クラプトンがこんなに下手くそなはずねえっての」
「どうせ下手だよ」
 寝言と起きている乾の会話に、シゲが口をはさんだ。
「乾さん、寝言を言ってる奴に返事をするのはよくないんじゃありませんか」
「だな。ばあちゃんも言ってたよ。下手をすると寝てるほうは眠りの世界から戻ってこられなくなるんだって」
「寝てませんよ、俺。乾さん、下手でもいいからもっと弾いて」
「返事はしないでおこう。ギターは弾くよ」
「俺だったらもうちょっとうまく……腹減ったなぁ」
「ろくに食わずに寝るからだ」
「シゲ、しっ」
「はい、そうでした」
 起きてるのか、と窺ってみたら、章は目を閉じていた。寝息の合間に、ギターが、クラプトンが、下手、上手、むにゃらむにゃら、と呟いている。これはこれで器用な奴なのかもしれない。
 酔いが醒めたのでもないし、満腹もして、俺も再び眠くなってきた。横に寝そべって章を見やると、手がギターを弾く形に動いている。こいつは夢の中でまでギターを弾いているのであるらしい。エアギターってやつか。じっと見ていると、章は手の動きでギターを放り投げ、うぎゃっと小声で叫んだ。
「弦が切れた。指も切れた。痛い」
「章、夢だ。起きるか寝るかどっちかにしろ」
「……痛いよぉ。血が出てる」
「出てないよ」
 むこうではシゲと乾が、寝言に話しかけると……と不安そうに言っている。幸生の声も聞こえてきた。
「迷信でしょ、そんなの。平気ですよ。あらら、章ったらほんとに泣いてるよ。あらら」
 あらら、とはこっちが言いたい。なにを寝ぼけたのか、章が俺にしがみついてきたのだった。
「ええ? 堅いな。おまえ、こんなに骨組みが……いつの間にこんなにでかく……うわっ!!」
「誰とまちがえてるんだ。俺はずいぶん昔からこういう体格だぞ」
「うわわっ、リーダー……」
 飛び起きてぺたんとすわった章は、不気味なものを見る目で俺を見つめた。
「な、なにするんですか」
「おまえがやったんだろ」
「俺、なにしたの?」
「真次郎さん、僕をしっかり抱いてって」
 横合いから馬鹿を言っているのはむろん幸生で、俺は幸生の頭を押しのけようとした。それでもめげずに幸生は言った。
「章ちゃんは悪夢を見てたんだね。そんで怖くなって、リーダーに抱きついてたんだよ。リーダーもいつになく優しくて、よしよし、章、いい子だいい子だ、ってね」
「うげげぇ……」
「幸生、でたらめを言うな。章、うげげとはなんだ」
「幸生、ほんとか?」
「うん、それに近かった。ね、乾さん?」
 さあ、どうかな、と言いかけた乾が言い直した。
「嘘だよ。幸生の嘘は聞き慣れてるだろ。章がそんなのを信じたら、これからは夜毎うなされるぞ。な、シゲ、嘘だよな」
「はい、嘘です」
「うん、嘘」
 幸生も言い、章は大きな大きな息を吐いた。
「はーー、よかった」
 うなされるとはなんだ、と乾にも言ってやりたかったのだが、俺もうなされそうなので黙っていた。すると、幸生がまたまた馬鹿を言い出した。
「章じゃなくて彼女だったら、俺が言ったようにするんでしょ?」
「おまえは?」
「また質問に質問を返す。ええ? 俺? きゃはきゃは、照れちゃうから言わないもーん」
 そして幸生は、シゲをじっと見た。
「先輩たちにも章にも、現在ただいまはそんなふうにする彼女がいるのかどうか知らないんだよね。彼女と寄り添って眠っていたら、悪夢にうなされた彼女が可憐な悲鳴を上げて、怖い、怖いの、って抱きついてくる。恭子さんがシゲさんにそうしたらどうするの? シゲさんのそのたくましい胸に抱きついて、こうしていたら安心できるわ。繁之さん、あなたって頼りがいのあるひとよね、私は一生こうしていたいのって……素敵。僕が恭子さんになりたいわ」
「やめろ。変な想像させんなよ」
「変な想像ってなに?」
「おまえが恭子だったら? 俺も酔ってるんだよ。だからなんだろうけど、ウェディングドレスを着たおまえが……うげげっ、どこかに行け、消えろ」
「シゲさんったらひどいんだ。妖魔退散!! リーダー、ウルトラマンはこうやるの?」
「ウルトラマンは妖魔退治はしないよ。ウルトラマンはシュワッチ!! ってやって怪獣を……幸生、乗せるな」
「乗ったくせに。リーダーはウルトラマンのコスプレってやったことあるんですか」
「ねえよ」
「似合いそうだよね。そうすると怪獣役はシゲさんで、怪獣に襲われかかってる少年が章で、章をかばう兄貴の役が乾さんだな。この次はテレビでそういうドラマをやりません?」
 おまえはなんの役だよ、と眼が覚めたらしき章が尋ね、んんとんんと、と幸生は考えていて、乾がかわりに答えた。
「さしずめ、幸生が言いたいのはこうじゃないのか。本橋、ウルトラマンには警備隊が出てくるんだよな」
「地球防衛軍ウルトラ警備隊。初代隊長はキリヤマカオル」
「女性隊員がいるだろ」
「初代は友里アンヌ」
「その役をやりたいんじゃないのか、幸生?」
 おー、あったりーっ、と幸生は嬉しそうに言い、シゲが言った。
「本橋さんと俺は着ぐるみに隠れるのか」
「シゲさんも目立ちたいんだね。着ぐるみの中に入ってると顔が見えないんだった。リーダー、どうしましょう?」
「下らない話題で悩むな」
「はい」
 うーん、ウルトラマンだったらやってみたいかな、と考えかけて頭を振った。俺はシンガーであって役者ではない。シゲはたぶん、恭子さんを持ち出しておいて自ら脱線させた幸生の態度に安堵しているのだろう。やれやれ、と言いたげにため息をついている。乾は章に言った。
「起きたんだったらメシ、食うか。チャーハンでいいか」
「そういえば腹ぺこです」
「腹ペコで寝るから悪い夢を見たのかもな。待ってろ」
「すみません」
 彼女がああやって寝ぼけて抱きついてきたのだったら、それはもちろん俺だって、抱きしめて髪を撫でて、大丈夫だ、俺がいるだろ、くらいは言うのだが、今の俺にはそうしてやる女はいない。シゲにはいるのだから、ちらりと、ほんのちらりと、羨望の想いが……いいや、他人を羨んでなんになる。俺にだってそのうちにはまた彼女もできるさ、と考え直した。
「シゲさん、章と俺もシゲさんにお祝いしたいんですけど、なにかほしいものはないの?」
「いいよ、そんなの。おまえたちにまで」
「恭子さんさえいれば、他にはなにもほしくない。いいわね、お幸せで」
「おまえまで乾さんみたいに……」
「乾さんもそう言った? やっぱ俺、乾さんの影響大だなぁ。いつからこんなに似てきたんだろ」
「おまえになんか似たくねえよ、って乾が言ってるぞ」
 シゲと幸生のやりとりに口をはさむと、そーだそーだっ、と力強く賛成した章は、けど、ほんと、似てきたよな、と呟いた。実は俺もまったく同感ではあったのだが、幸生よりは乾のほうがよほど、常識的ではある。幸生よりは、とただし書きがつくのだが、幸生よりはまっとうな乾も、そうやって俺たちのメシの世話ばかり焼いてないで、世話を焼いてくれる彼女を、と考えかけてまたしても頭を振った。
 頭を振ったのは、世話を焼くのは女の役目? とおっかない顔をして、仁王立ちになって俺を睨んでいる女の幻が脳裏に浮かんだからであって、そうは言ってねえだろ、と口の中でいいわけを述べてみたのだった。

 
3 幸生

 演技力には自信も定評もあるのだからして、ラジオドラマの声優は当然、俺が一等賞だ。美少女になり切って女の声を出してやる芝居は、乾さん以外には激しくいやがられるのだが、仕事として演技する分には大手を振ってやれるのだから。金子さんも褒めてくれた。
「おまえ、実は役の三沢幸生的性格もうちに秘めてるだろ。でないとああもリアリティは出せないんじゃないのか。俳優が本業じゃないんだから」
「俺、そんなに上手ですか。そこまで褒めちぎっていただくと照れるんですけど」
「褒めてるのか、これは。おまえにはそう聞こえるんだったらいいよ」
 褒めていないんだったらなんなんだ、ではあったのだが、うちの先輩たちに言わせると、金子さんとはきわめて本質のつかみづらいお方なのだそうだ。よって、後輩を褒めるにしてもストレートにはやらないのだろう。
ラジオドラマに於ける三沢幸生像をどう消化してどう演じるか。脚本をもらったときには俺とて悩んだ。ラジオだからなのか、体格に関する詳細な描写はないのだが、乾くんは小さいらしい。本橋くんは肥満体っぽい。木村くんは野球選手なのだから、ごつくて大きいのだろう。本庄くんは腕力自慢だから、彼もまた大柄であるはずだ。すると三沢くんは? この性格につりあうのは、細身で陰険そうな体格だと決めた。
 喋りまくるところは本人と同じなのだから、そこは普段通りにやればいい。まったくちがっているのは、底意地の悪さだ。誰彼となく可愛いと言われ、言わないまでも、おまえは可愛いよな、と先輩たちも考えているにちがいない、このユキちゃんの愛らしい性格をどう変換させて、意地悪幸生に変身すればいいんだろうか。
 性格の悪い先輩ってのは合唱部時代にもいた。俺が入部した当時の男子部副キャプテン、溝部さんなどは相当なものだった。本橋さんによると、乾さんも徳永さんも性格が悪いのだそうだが、性格の歪み方にもさまざまあるのだから、溝部さんがもっとも参考になる。俺は一年生のころからたびたび女子部に顔を出していたので、記憶を探って女子部でのエピソードを発掘した。
「三沢くん、おやつあげようか」
 誘ってくれたのはユッコさんだった。
「三沢くんは甘いのは嫌いだよね。おせんべがあるよ。食べる?」
「女子部のみなさまがごちそうして下さるんでしたら、激甘のケーキにあんこをぶっかけて、アイスクリームを乗っけたおやつでも大喜びでいただきます」
「そんなの、私も食べたくなーい」
 そうして女子部に行くと、溝部さんもいた。おまえはまた女子部にうろちょろと、と俺を睨む溝部さんに、ミコさんが声をかけた。
「溝部さんだったら届きますよね。あれ、取ってもらえません?」
 そのときに女子部室にいた女性たちは、ミコさんとユッコさんとカナさんとミャーコちゃん。ユッコさんとカナさんが本橋さんと同い年で、ミコさんはシゲさんと、ミャーコちゃんは俺と同年。全員が小柄だった。俺も小柄であるので、長身の溝部さんが高いところにあるなにかを取ってほしいと頼まれたのだ。溝部さんは女子部でなにをしていたのか知らないが、面倒そうに言った。
「椅子にでも乗ったら届くだろ」
「椅子に乗るとぐらぐらして怖いんですもん。お願いします」
「……あそこ? 俺にも届かないよ。ミコちゃん、肩車してあげようか。そしたら届くだろ」
「私ですか……」
「きみはジーンズルックだから平気だろ」
「あの、俺が取りましょうか」
「三沢を俺が肩車するっていうのか。いやだ」
 なにやらいやらしいたくらみを持っているのではないかと俺は疑ったのだが、ミコさんは恥ずかしそうにためらいがちに、それでも溝部さんの肩に乗っかって目的のものを棚から取り出した。ありがとうございました、とお礼を言ったユッコさんがおやつを出し、溝部さんもどうぞ、と勧めると、溝部さんは言った。
「ミコちゃんはちっちゃいのに重いな。こんなもんばっかり食ってるからだよ。ユッコちゃんも……特にミコちゃんとユッコちゃんだ。女子部は間食ばっかしてるんだろ。女ってどうしてこうお菓子が好きなんだろうな。だからきみらはぶくぶく太るんだ。俺はすらーっと背の高い女の子が好きなんだよ。ミコちゃんみたいにちっちゃいのに太った女の子を肩車だなんて、やるんじゃなかったよ。肩が痛い」
「溝部さんったら、ご自分の好みでばっかものを言って……」
「三沢、なにか言ったか」
「言いましたぁ。聞こえませんでした? 耳まで遠くなってます? 肩も痛いんですね。おもみしましょうか。溝部さんはおやつを食べてて下さいね。肩もみしますから」
「いらないよ。さわるな」 
 肩をもんであげようとした俺の手を払いのけ、溝部さんは部室から出ていきざま、捨て台詞を残していった。
「背が低いのはどうにもならないけど、体重は自己コントロールできるだろ。ミコちゃんとユッコちゃんはダイエットしろ。見苦しい」
 溝部さんは出ていき、ひどーい、と呟いたミコさんの肩を抱いたユッコさんが言った。
「なによ、あの言い方は。四年生の女子はいないからと思って、ここにいるのは後輩ばかりだからって、悔しい。なんなの、あの意地の悪い言い方。ミコちゃん、泣いたら駄目よ」
「ユッコさーん、私、ダイエットしなくちゃいけません?」
「ダイエット……? 私の最大の弱点を……あんなふうに言わなくても……」
 ミコさんとユッコさんはしゃくり上げはじめ、そこに入ってきた四年生女子、沢田さんが俺を怖い顔で見た。
「三沢くん、なにがあったの? 三沢くんがミコちゃんとユッコちゃんになにか言ったの?」
「ええと、えとえと……」
「キミの口は今や合唱部では有名なのよ。ミコちゃんやユッコちゃんはおとなしいほうなんだから、キミになにか言われたら言い返せなくて泣いちゃっても無理ないんだよ。なにを言ったの?!」
 ものすごくおっかない顔で迫られてあとずさりしていると、ミャーコちゃんが言ってくれた。
「溝部さんなんですよ。溝部さんがミコさんとユッコさんに意地悪を言ったんです。三沢くんは悪くありません」
「溝部くんがなにを言ったの?」
「あのね……」
 女性同士では「太っている」は禁句なのであるらしい。ミャーコちゃんも口ごもっていて、カナさんも困り顔をしている。俺にもたいへん言いづらくて困っていると、沢田さんが泣いているふたりに問いかけた。
「泣いてないで言いなさい。どうしたの?」
「いいんです、私が悪いんだもん」
「ユッコさんは悪くないですよ。私が溝部さんにお願いしなかったらよかったんだから、私が悪いんです」
「ミコちゃんもユッコちゃんも悪くないよ」
 カナさんが言ったのだが、続きは言わない。ミャーコちゃんとカナさんはスリムだが、沢田さんもふっくらとヴォリュームのある身体つきなので、どうしても言いづらいのだろう。ミコさんとユッコさんはしくしく泣いてはお互いになぐさめ合っていて、沢田さんまでが困り顔になった。
「なんとなくわからなくもない。太ってるとでも言われたの? そうなんだね。あの男はまったく……三沢くん、そうなんでしょ。正直に言いなさい」
「俺に言わせないで下さい」
 はい、そうです、とついにユッコさんが言い、沢田さんは今度は怒り顔になった。
「私もだからさ……溝部くんを責めたとしても……三沢くん、あいつになんて言ってやったらいいの? 本当のことを言ってなにが悪いんだ、って開き直られるのがオチだよね。三沢くん、なにか考えなさいよ」
「俺、一年生ですから」
「だよね。ああもう、こんなときに金子さんがいてくれたら……」
 悔しくてたまらないような顔をして、沢田さんはくちびるを噛み締めていた。俺としても溝部さんになにをどう言ったらぎゃふんとなるのかを思いつかず、おやつをごちそうになるのは諦めて部室から退散したのだった。
 そこまで思い出して現実に返った。八年も前の記憶だが、女のひとには絶対に太っているだとか、ダイエットしろだとか言ってはいけないのだと、骨身にしみたのでよく覚えている。ことほどさようなまでのタブーを口にした溝部さんは、勇気があると言ってもいいのだが、そんな勇気はないほうがいい。やはり彼は意地が悪かったのだ。
 こんなときに金子さんがいてくれたら、と沢田さんは言っていた。金子さんはすでに卒業していたのだから、言いつけたりはしなかったのだろうか。俺としても女子部の問題にそれ以上口を入れるわけにもいかないので、誰かに告げ口もしていない。今さらではあるが、金子さんに尋ねてみた。
「ふーん、そんなことがあったのか。知らないよ、俺は」
「金子さんがその場にいたとしたら、溝部さんになんと言いました?」
「女心の禁忌エリアに触れる繊細きわまりないことがらを、男がとやかく言うとよけいに荒立つ恐れがある。俺だったら溝部をそこからつまみ出して、がつんと一発」
「殴るんですか」
「それがベストだな」
 意外にも金子さんって方は、時と場合によっては腕力も用いるのだと知った。意外でもないのだろう。金子さんは自らは、俺は後輩を殴ったことはないと言うが、嘘なのだろうとも知った。俺が溝部さんの先輩だったとしても、腕力で解決はできなかっただろうとは、とっくにしっかり知っている。
 うん、そしたらやっぱ溝部さんだよな、と彼を参考にして、役柄の三沢幸生の底意地悪さを演じていたら、金子さんが褒めてくれたのだ。俺が役の三沢幸生的性格をうちに秘めているのではなく、役作りが上手なのだということにしておこう。
 時としてやりはじめる女芝居のユキちゃん的性格ならば、たしかにうちに秘めている。あれはまったくの別人格ではなく、俺の中に住む女の子のユキちゃんを前面に押し出しているのだから、別段やりにくくはない。やりにくかったらやらない。「水晶の月」の三沢幸生は名前のみが俺で、まさしくまったくの別人格なのだが、本番がスタートするとスムーズに役に入っていけるようになった。さすがユキちゃん、とも言っておこう。
 乾さんはもともと芝居の才能もあるのだし、章は役柄の木村章をけっこう好きだったりするようなので、楽しくやっている。もとより俺は最高に楽しんでいる。思い切り役作りに苦労していたのは、本橋さんとシゲさんだった。苦労はしていたのだが、本橋さんにもシゲさんにも満々たる根性と闘志があるのだから、今ではそれなりに役をこなしている。そうすると、いちばん上手なのは俺、いちばん下手なのって誰? 
 もうじき引っ越しすると言う乾さんの現在のアパートに、こうしてみんなで集まるのは最後になるのだろうか。シゲさんと俺のためにも、寝ていた本橋さんと章が起きてくると彼らにも、乾さんがチャーハンをこしらえてくれた。チャーハンを食べている章を見ながら、俺はまた思い出していた。
 はじめてこの部屋にやってきたのは、俺が二年生になる前の春休みだった。大好きだったのに恋人にはなってくれないままに、天国に旅立ったアイちゃんを思って泣きたくなったり、大学を中退してしまった章に腹を立てていたりしたころだ。シゲさんには覚えていないと言ったけれど、はっきり覚えている。乾さんも覚えているようだ。
 十九歳になったばかりの俺は、街で女の子をナンパして、彼女と酒を飲んでホテルに行って、面白おかしく時をすごしての帰り道。ひとりになると虚しさに苛まれて、夜明け前の公園を歩いていた。春になってはいても寒くて、心も寒かった。あてもなく歩き回って、公園のベンチで途中で買った煙草に火をつけた。
「乾さんのアパートってこのへんだっけ。いるかな。寝てるかな。乾さんも女の子といるのかな」
 ひとりごとを言って、見つけた公衆電話で乾さんの部屋に電話をかけた。乾さんは電話に出てくれた。
「今ごろどうした。近くにいるのか。来いよ」
「乾さんが出てきてくれません? 朝日が昇るのを見ましょうよ」
「寒いだろ」
「寒くなんかありませんよ。若いんだもん。来て」
「うん、じゃ、そこで待ってろ」
 待つ間もなく来てくれた乾さんは、腕にちゃんちゃんこを抱えていた。
「顔がそそけ立ってるじゃないか。寒いんだろ」
「寒くないもん」
「なんだって意地を張るんだよ。着ろ」
 ちゃんちゃんこで身体を包んでくれて、朝日は俺の部屋からでも見られるよ、と言って、乾さんは俺をアパートに連れていってくれた。
「ほら、飲め」
「酒はもういらなーい」
「飲んでたのか。甘酒だよ」
「甘いの嫌い」
「名前は甘酒だけど、そんなに甘くはないよ。飲め。あたたまらないと風邪を引くぞ」
「乾さんが作ったんですか」
「買ってきたんだけど、ガキのころにばあちゃんに飲まされたからさ」
「ばあちゃん? ちゃんちゃんこも?」
「ばあちゃんの形見だ」
 ほかほか湯気の立つ甘酒を飲んでいる俺に、たしかあのときはじめて、乾さんが故郷の話をしてくれた。金沢生まれでばあちゃんに育てられて、だから俺は古いんだよな、ばあちゃんは俺が高三の年に逝っちまったんだよ、などと話してくれる乾さんの声は、甘酒以上にあったかだった。
 乾さんのソロをはじめて聴かせてもらったときに、なんて涼しい声なんだろうと思ったよ、と言ったのはシゲさんだったかヒデさんだったか、そんな記憶もあるのだが、俺にとってははじめて乾さんの部屋で聴いた乾さんの話し声があたたかくて、凍りそうな身体も気持ちもとかしてくれた記憶のほうが鮮烈だ。
「女の子よか乾さんのほうがいいかな」
 ごろにゃーん、抱っこしてぇ、だなんて言ったのも、あの日がはじめてだったはずだ。あれからはしょっちゅう女の子芝居をやっては、あとの三人には拒絶反応を起こさせているのだが、あの日の乾さんは苦笑いしていた。
「こんな時間までなにしてたんだ、って訊かないんですか」
「言いたいんだったら言えよ」
「言いたくないもん」
 煙草もあの日がはじめてだったのに、吸い慣れているふりをしてくわえたら、叱られた。
「未成年だろ、おまえ。二十歳になるまでは人前では吸うな」
「人前じゃなかったらいいんですか」
「俺も隠れ煙草だったら十六くらいからやってるよ」
「ほんと? 乾さんったら不良だったんだ」
「煙草ごときで不良呼ばわりされる覚えはないよ。これは没収」
「ずるーい」
 取り上げた煙草を乾さんが吸っていて、ずるいずるいとふくれてみせたら、まあ、今はいいか、と俺にも煙草をくれて火をつけてくれた。
「ありがとうございます」
「もとはおまえのだろ。だけど、ヘヴィスモーカーになるなよ。おまえのその喉が煙草で荒れたら損失だもんな」
「乾さんの喉は?」
「俺はたまにしか吸わないよ。三沢、寝てないんだろ。寝ていいぞ」
「ホテルでちょこっと寝たけど……あ、そうだ。金がなくなっちゃったんです。貸して下さい」
「俺だって金なんか……うん、先輩はつらいんだよな。これでいいか」
「バイトの給料が入ったら返しますから」
「当たり前だ」
 あの夜の俺は乾さんに甘えていた。酔っていたからうだうだとなにを話したのか、覚えているような覚えていないようなで、うだうだうだうだ言っている俺に、乾さんは我慢強くつきあってくれた。その合間には説教もされた。子供のくせに一人前の面をして……だいたいおまえはな、と叱られている途中で寝てしまったのか、眼が覚めると俺は布団に入っていて、乾さんは壁にもたれて寝ていた。
「乾さん……隆也さん、隆也さんもこっちに来て」
「んん? 起きたのか」
「寒いでしょ? 隆也さんこそ風邪を引いちゃうわよ。いっしょに寝ましょ」
「寝る前にもやってたけど、おまえって本物の女みたいな声が出せるんだな」
「出せますのよ。あたため合いましょうよ」
「あのな、三沢」
「ユキって呼んで」
 すーっと息を吸い込んで、乾さんが迫力のある声を出した。
「馬鹿野郎」
「きゃーっ、冗談ですっ!!」
「当たり前の上にも当たり前だ」
 優しい先輩だなんて甘えかかったら、しっぺ返しを喰らうひとなんだ、とも、あの夜はじめて知ったのだった。ああ、怖かった、と布団にもぐって舌を出して、俺だって冗談でもなかったら男といっしょに寝ようなんて言わないし、いいよ、と言われて抱きしめられたらパニックを起こすだろうけど、ああやって乾さんときわどい台詞の応酬をしていたら、虚しさも忘れてしまえる、今後もやろう、などと考えていた。
「乾さんってけっこう怖いんですか」
「怖いか、これしきで? もっと……」
「けっこうです。わかりましたから」
 だけど、乾さんってほんとのほんとは優しいんだよ、だから俺、乾さんって大好き、と布団にもぐったまんまで小声で言った。あの夜からずっと乾さんを愛しているとシゲさんに言ったのは、ある面は本当だ。章はどうだか知らないけど、本橋さんだって乾さんだってシゲさんだって、俺のことを愛してるくせに。
 フォレストシンガーズが誕生したころからは、先輩たちは俺を幸生と呼んでくれるようになった。章はいなくてヒデさんがいたころにも、五人で乾さんや本橋さんの部屋で飲んだ。俺は最年少の可愛い坊やで、先輩たちにいじられたり苛められたりぼかすかやられたりして、存分に可愛がってもらった。
 いつしか想いがヒデさんへと漂っていく。ヒデさんも俺を愛してくれてたんだよね。今でも俺を覚えてくれてるのかな。俺は性格的に後輩を可愛がったり、章の面倒を見たりするよりも、先輩たちに甘えて可愛がられてるのが似合ってた。ヒデさんも俺を可愛がってくれたんだもの。
「おまえは男だろ。いつまでも可愛がられててどうする」
 口にすればリーダーにどやされるのは必至なので言わないが、だって、俺ってそういうタイプなんだもん。本橋さんに殴られたり、乾さんに叱りつけられたり、シゲさんに投げ飛ばされたりするのも、可愛がられるのの一バリエーションではある。ヒデさんは先輩なのは変わりなくても、どちらかと言うと俺とは対等だったらしいので、やや立場は異なっていたが、現在では大先輩たる金子さんも加わって俺を可愛がってくれている。
 他人の会話を脱線させるのも、自らの思考を脱線させるのも得意な俺は、ヒデさんとシゲさんと三人で、ヒデさんの部屋で話していた夜を思い出していた。
「ほんとにプロになれるんだろうか。本橋さんはなるって豪語してるけど……でも、信じなくちゃな」
「そうですよ、ヒデさん。シゲさんも信じてるよね」
「信じてるよ」
 ねえ、ヒデさん、俺たちはプロになって、すこしずつは売れてもきているよ。ラジオドラマを聴いてくれてる? 本物の俺たちをよくよく知ってるヒデさんは笑ってる? ヒデさんがドラマに出演するとしたら、木村章役がぴったりだね。なーんて言うと、章がまたひがむだろうけど。
 それからね、シゲは一生彼女もできなくて、一生結婚できないんじゃないかって、ヒデさんは心配してたけど、結婚するんだよ、ついに。内緒で言うと恭子さんはそれほど美人じゃないけど、シゲさんにはお似合いの明るくて可愛いひとだよ。どこにいるんでもいいから、ヒデさんもシゲさんに言ってあげて。おめでとう、よかったな、って手を握ってあげて。そうしたときのシゲさんの照れまくる顔が目に浮かぶようだよ。
 なんだか眠くなってきた。夢で会えたら、あれからの俺たちの話をヒデさんにしてあげる。だから夢に出てきてね、ヒデさん。みんなで昔のように話をしようよ。


4 章

たいていは最後の最後まで起きていて、ひとりで起きていてもひとりで喋っている幸生が寝てしまった。本橋さんもシゲさんも寝ている。乾さんも幸生と同じくらいに睡眠時間の少ないひとなので起きている。半端な時間に寝ていた俺は目が冴えて、チャーハン食いつつ乾さんに話しかけた。
「俺が寝てる間って、なんの話をしてたんですか」
「ドラマの話だったよ」
「水晶の月? みんなは学生時代を重ねて見てるんですよね。俺には学生のころの思い出は少ないから、ああいうのは新鮮ですよ。うちの大学には寮はなかったんですよね」
「なかったな。あったとしたら、俺は入れと親に命令されてたよ」
「俺もかもしれない」
 金持ちのひとり息子の乾さんなのだが、大学生の分際でアパートで独り暮らしなんて贅沢だ、寮に入りなさい、とお母さんに命じられていただろうというのは、俺にもわからなくはない。とにかく乾さんのお母さんは、息子につつましい生活をさせて鍛えたかったそうなのだから。うちの親父もそう言っただろう。
 本橋さんは東京に家があるのだから、寮に入る必要はない。しかし、俺たちが寮生だったら、と空想するのは可能だ。もしも大学に寮があったとして、俺たち全員が入寮していたと仮定すると、どんな関係になっていたんだろう。
 ドラマでは隆也がいじめられっ子で、苛めるほうの繁之と幸生に章が加担して苛めが激しくなる。章は子供のころから野球をやっていて故郷では有名な選手だった。高校時代には甲子園で自らのバットでホームランを量産し、大学の野球部に特待生として招かれたという設定なのだ。これってシゲさんのほうが似合いそう。
 そのせいで章は態度がでかい。自信満々。俺がいなくちゃ野球部は崩壊しちまうんだよ、と豪語している。いっぺんでいいから俺もそういう奴になってみたいものである。
 そんな奴なのだから、章はなにも率先して隆也を苛めたいのではなく、繁之と幸生の苛めの尻馬に乗っているにすぎない。ちょっと苛められると隆也がぴいぴい鳴くので面白がっているのだ。章は野球部の猛者で、隆也は生っ白い文学少年。章がバットを突きつけてちょいと脅せば、隆也はひいっと叫んで縮こまる。なんだか昔の乾さんと俺が一部あべこべみたいな……。
 現実に合唱部ではなく、寮の仲間たちだった俺たち? 俺が大学に入って寮生となったときには、幸生も同じ新入生として入寮してくる。二年生のシゲさんとヒデさんもいる。三年生の本橋さんと乾さんもいる。そのふたりずつが同室で、幸生と俺はどんな会話をかわすのだろうか。
「やあ、はじめまして。三沢幸生です。よろしくね」
 初対面の際に、本物の幸生だったらにこやかな笑みを浮かべて、手を差し出すだろう。俺はその手を無視して、うん、まあな、ともごもご言いつつ、横目でちらちら幸生を観察する。ちびだな、俺と似たようなもんだな、妙に愛想のいい変な奴。
「木村くんはどこから来たの?」
「稚内」
「遠いんだね。北海道だったら北大に入ればよかったのに」
「北大になんか入れるはずねえだろ」
「そう? 北海道なんて北大しか知らないもん」
「おまえはどこだ」
「横須賀」
「近いんじゃないか。そしたら横浜国立大学とか……」
「神奈川ったら横浜国大しか知らないんだろ」
「まあな」
 簡単には一年生たちの間に溶け込めないでいる俺に、幸生が情報を持ってくる。現実でもそうだった。
「すっげえ歌の上手な先輩たちがいるんだよ。本橋さんと乾さんっていって、三年生なんだ。寮祭ってのがあって、今年もそのステージでデュエットやるんだって。去年も一昨年もやって大好評なんだってさ。楽しみだな」
「寮祭? そんなもん、俺はどうだっていいよ」
「俺も歌は好きなんだ。二年生に本庄さんと小笠原さんってひとがいて、彼らも歌が好きなんだって。俺たちも寮祭で歌わせてもらおうって話になって、有志を募ってるんだ。章もいっしょに歌おうよ」
「ロックだったらいいけど」
「ロック? うーん、ロックはね」
「ロックじゃないんだったらいやだ。俺はロックバンドをやりたいんだよ」
 発想がどうしても歌、ロックに流れていって、そこで空想を中断させた。
「寮に入るなんて、実際の俺には向いてないから、一年も保たずにさっさと飛び出してただろうな」
 言うと、現実の乾さんはうなずいた。
「そんな想像してたのか」
「してました。寮なんてなくてよかったよ」
「俺はそういう経験もしてみたかったけどね」
「本物の乾さんはドラマの隆也とは大違いだから、寮にいてもそのうちには副寮長とかになって、寮長の本橋さんの補佐をしてそうだな。合唱部と似たようなものですよ」
「そうかもしれない。ドラマの隆也と俺にも似たところはあるんだけど、おまえは役柄とはずいぶんちがってるよな」
「ちがってるほうがやりやすい。俺はリーダーやシゲさんみたく、やりにくくはありませんでしたよ」
 どうしようもない単純馬鹿の面もあるとはいえ、どこかしら、俺もこいつみたいな男だったらな、と憧れに近い面もあるキャラだからなのだろうか。俺は役作りを楽しんだ。
 脚本をもらった時点では、本橋さんとシゲさんは自身が演じる男の像を知って呆然としているように見えた。乾さんと幸生は持ち前の芝居っ気を発揮すればいいのだから、他のふたりのように苦労もしないだろうと俺は感じていた。では、俺は? ここまで実像と異なる木村章をどう演じるべきか。俺だって最初は考え込んだのだ。
 まあ、しかし、ラジオなんだから声のみの出演で、この細くて背の低い俺が、筋骨隆々野球選手を演じたとしても違和感はないだろう。でかい男にもこんなに高い声の奴はいなくもないだろうけど、なるべくドスの効いた声を出そう。ドラマの木村章を演じるときは、でっかい男になり切ろう。
 でかい男になるとは、小さく細く生まれついた俺には、絶対に不可能な望みだ。なりたくてもなれるはずがないのだから、憧れても時間の無駄だ。けれども、なってみたかった。本橋さんや乾さんほどの身長がほしかったな、と思った覚えは何度もある。俺が「水晶の月」の木村章を楽しんで演じられるわけのひとつには、彼が大きくて強いからというのはまぎれもなくあった。
 昔からいつだって誰にだって、だらしないの弱虫だのちびだの骨っぽいだの、男らしくないだの、男だろ、しゃきっとしろだの、いいわけばっか得意な行動の伴わない男だの、殴られて殴り返せるのはおまえより弱い相手にだけで、そうできるのは女にだけで、男に凄まれたらびびるしかない奴だのと、散々に罵られてきた。
 鍛えれば強くなる。精神を充実させれば気力体力も充実する。貧血? 男のくせして情けねえの。男に乱暴されてる仲間の女の子たちをかばってもやれないなんて、おまえはそれでも男か。あんたなんか男だとも思わないよ。男じゃない男になんか頼らないよ。そのくせ、あんたって女の子とごちゃごちゃってとこだけは男なんだよね。
 章だってちっちゃくて力のないのはあたしと変わらないのに、男は大変だね。はーん、おまえ、男なのか? 嘘つけ。なんだのかんだのなんだのかんだの。俺がぶつけられたありとあらゆる人間の言葉が蘇ってきて、力なく反論していたのも思い出した。
 だって、俺は小さいんだもん。勇気もないんだもん。気が弱いんだもん。殴られるなんていやだよっ。俺はただ、ロックを歌って音楽に浸っていたいのに、世の荒波ってやつが俺を翻弄して、奔流ってやつに押し流される。俺だって男らしくなりたいのに、なれないんだからどうしようもないだろっ!!
 だけど、ドラマの中ではなれるんだ。俺は力強い野球選手の木村章になり切って、昔日の恨み重なる乾隆也を……って、おっとっと、そうじゃないっての。
 思わず現実とドラマを混同しそうになったのだが、つまりそういうわけで、俺は木村章役を楽しめるようになったのだった。おまえはバットなんか振り回さなくても強いんだから、隆也を脅すにしても素手でやれよ、と章に突っ込みを入れたりしながらも、ドラマのときには別人になり切れるようになった。
「三沢と乾には演技力はあるんだと知ってはいたけど、おまえもけっこう達者だな」
 金子さんはそう言ってくれ、シゲさんも言った。
「たしかに乾さんと幸生はうまいよ。章もうまい。本橋さんだって下手じゃないだろ。俺は……」
「シゲさんも下手じゃないですよ。金子さんも上手ですよね」
「俺がもっとも……そんなことを言っていてはいけない。やるしかない」
 本橋さんは改めて決意の面持ちになり、幸生は言った。
「俺がいちばんうまいの。そんなの当然じゃん。いちばん下手なのは……言わない」
「俺かよ」
「いやぁ、章はなかなかだよ。隠れた才能っつうのか、願望のあらわれだったりして」
 幸生には見抜かれているようでもあるが、乾さんもわかっているのではあるまいか。たった今は乾さんの部屋で彼と俺だけが起きていて、常の説教口調で乾さんは言った。
「歌を歌うってのは、その歌に入り込んで、歌の中の主人公になり切るって一面があるだろ。感情移入するよな。そういう意味では、社長が言ったという、シンガーにも演技力は必要だっていうのは当たってるんだよ。だからさ、声優をやるってのも歌の糧になるんだ」
「なるほど。で、他にはどんな話を?」
「おまえがはじめてここに来たのはいつだった? 本橋は彼が一年生のとき、シゲも彼が一年生のとき、幸生は彼が二年生になる前だったか。幸生がそのころにどんな気持ちでいたのかは、おまえも知ってるんだよな」
「そのような話ですか」
 二年生になる前の幸生がどんな気持ちでいたか? そのころとは、俺が大学を中退したころか。幸生と正面からそんな話をしたことはないので、俺は知らない。幸生の気持ちに俺の中退が関わっているのか。まさか、と苦笑いして、乾さんの最初の質問に答えた。
「アマチュアだった時期には、本橋さんのアパートの近くの公園で練習してたんですよね。本橋さんのアパートに集合してから公園に行ってたんだから、リーダーの部屋には何度も何度も何度も行ってた。乾さんの部屋にはじめて行ったのは……そうだ、思い出した」
 あのころの俺はリーダーに怒鳴られたり、乾さんに叱り飛ばされたりばかりしていた。怒られてしょぼくれている俺と、悪くなる雰囲気を和ませようと、幸生がふざけまくっていたのだとは、今ではもう知っている。幸生がいなかったとしたら、俺はフォレストシンガーズを飛び出していたかもしれない。
 フォレストシンガーズに入れてもらって、将来のあてができたような、そうは言っても確固たるあてでもなくて、俺はやっぱりロックがロックが、とじめじめしていたころだ。俺が先輩たちに怒られる原因はいくつもあったのだが、なんのせいで怒られたのだったか。遅刻か、スーとの暴力沙汰の喧嘩か。そのふたつが最大原因だったので、どっちかだったはずだ。
 悪いのは俺だとわかっていてもふてくされていた二十一歳のガキは、歌の練習にも熱意がこもっていなかった。そのうちには体調もすぐれなくなってきて、ふらふらしはじめたのだった。
「章、具合がよくないのか」
「……そうみたいです。乾さん、俺、帰っていいですか」
「俺んちに来いよ。本橋、今夜はこのへんにしよう」
「うん、いいけどな。章、大丈夫か?」
 大丈夫ですよ、うちに帰ります、と言って歩き出した俺の肩を、シゲさんが引き戻した。
「夜中に倒れたとしても看病してくれるひとは……いるんだったか。スーちゃんは来てくれるのか」
「看病なんかさせられないし、平気ですってば」
「シゲ、そっち持て」
「ええ? 俺がひとりで……」
 そっちを持てとはどこだったのか。言った乾さんにシゲさんはうなずきかけ、俺を背負おうとした。
「ひとりで歩けますよっ。本庄さん、やめて下さい」
「素直に乾さんの部屋に行くのか」
「行きますから」
 思いっきりのふくれっ面になったら、幸生にほっぺたをつつかれて、ぷしゅっと空気が抜けた。
 ちょうど五年前、夏だった。ぶうぶう文句を言いながら乾さんについていって、あの夜の乾さんはソーメンを茹でてくれた。ネギがどばっと入っていて、いちゃもんをつけたのだった。
「俺、ネギは嫌いです」
「そうか。入れちまったから出せないよな。それは俺が食うから、おまえには新しいのを茹でてやるよ」
「いいですよ。ネギくらい食えなくはないから」
 なんだ、この切り方は、ネギがつながってる、まずっ、と文句をつけながらも食っている俺を、乾さんは呆れ顔で見ていた。
「ネギは身体にいいんだぞ」
「嫌いなものは嫌いなんだからしようがないじゃん。次はネギヌキソーメンにして下さいね」
「了解。覚えておくよ」
「ネギはまずいけどソーメンはうまい。つゆはインスタント?」
「インスタントがベースだけど、ばあちゃん仕込のコツがあるんだよ」
「乾さんってマメですよね。俺なんかのためにわざわざ」
 あのころの俺は乾さんが嫌いだった。本橋さんはうざかったし、シゲさんはあまり口をきかないので軽く見ていた。幸生は軽薄馬鹿だと決め付けていた。幸生には面と向かって馬鹿の間抜けのと言ったけれど、先輩たちには言ったことがあっただろうか。あからさまには言えなくて、その分、幸生だの彼女だのに先輩の悪口を吐き散らして鬱憤晴らしをしていた。
「俺なんか身体は弱いしさ、力もないしさ、顔がいいなんて言われても嬉しくないし、どうせ俺なんかさ……」
 どうせ俺なんか、どうせ俺なんかさ、ってぼやいては叱られたのも思い出す。じきにそうやって説教するからあんたは嫌いなんだよ、と内心では反発していたくせに、耳は乾さんの声を聞いていた。
「俺なんかって言うな。おまえは俺なんかじゃないよ。木村章という一個の男だ」
「どうせ俺なんか男じゃないし」
「男だろうが。肉体は男でも魂は男じゃないって人間もいるんだそうけど、おまえはそれか」
「ちがいます」
「女じゃないんだよな。ガキなんだ」
「どうせどうせ……あんたは大人なのかよ」
「俺もまだまだガキだよ。すこし熱があるな。寝ろ」
 そう言って布団を敷いてくれて、おでこにつめたいタオルを乗せてくれた。あれからも幾度も俺は発熱して、仲間たちに世話を焼いてもらった。あの夜がその最初だったのだ。
「身体が丈夫にできてないのは、体質なんだからしようがないんだよ。気長に鍛えていけばいい。ただ、おまえは精神力が弱いだろ。そっちはさ……」
「うるせえな。乾さんに横で説教されるとますます熱が上がる」
「そうか。ごめん。熱が下がってからにしような」
「熱が下がってからもしていりません」
 枕元にあぐらをかいて、乾さんは優しい目で俺を見ていた。乾さんってほんとは優しいの? 嘘だ。優しくなんかないよ。俺の胸をえぐっては傷つけて、深い穴をうがって俺を落ち込ませる。あんたがいなかったら俺はもっと楽なのに。でも、あんたがいなかったら俺は……
 微熱に浮かされてうとうと眠り、目を開けるたびに乾さんの顔があった。乾さんは徹夜で俺を見ていてくれたのだろうか。朝には平熱に戻っていて、乾さんは目を赤く充血させていた。
「俺、引っ越すんだよ」
 はじめておまえがここに来たのはいつだ、と訊いたくせに、俺の返事が半分だけでも追求はせず、乾さんは言った。
「今夜がここにみんなで集まるのは最後だろ。引っ越してからもまたみんなで集まれるけど、形が変わってくるんだよな。シゲは結婚するんだし、いずれは誰かがシゲに続く。けど、いつまでもいつまでも俺はおまえたちと歌っていたい」
「やだな、乾さん、酔ってるんですか。気持ち悪い」
「俺も言ってて気持ち悪いよ」
 冗談めかしてはいるけれど、目つきがシリアスだ。俺もですよ、なんて言いたくもないが、俺もそう思う。俺がそう思えるようになったのはきっと……言わないよ、言わないけどね。
 だけど、あれから五年、俺は大嫌いだった乾さんと、情熱的すぎてうざかった本橋さんと、時としてきつい台詞も吐くものの、俺を見守っていてくれたり支えてくれたりしたシゲさんと、俺たちをフォローしてくれた美江子さんと、そして幸生のおかげでここまで来られたのだと、言わないけれど認めている。あんたたちがいなかったら俺は……何度でもそう思う。
 そのくせ時として、やっぱりあんたたちは大嫌いだーっ!! と絶叫したくなる。もしもあのまま幸生と再会せずに、あんたたちとは別の道を歩いていたとしたら、俺は今、どこでなにをしているんだろうか。ふと頭をよぎった思いを、乾さんの声がかき消した。
「幸生がはじめてここに来たときに、いっしょに朝日を見ましょうよって言ったんだよ、あいつ。なのに寝てしまいやがって、あの日は朝日は見られなかったな。章、ほら、太陽が昇ってきたよ」
「……もう朝? 乾さんと朝日を見てもどうにもならない。意味ない」
「まったくだ。俺も可愛い彼女と見たいよ」
「同感ですね」
 いっしょに朝日を見たかった? 乾さんと? そのころの幸生の心には、どんな想いがあったのだろうか。こいつだって俺とおんなじ年のガキだったんだから、葛藤ってやつもあったのかな。幸生の心の葛藤ってのは、ピンクピンクのもやもやではないのだろうか。その中には幸生がよく言っていた、章の面倒見なくちゃいけないから、俺は身が縮むんだよ、ってのもまじっていたのだろうか。苦労してたんだよな、おまえも、そう思って寝ている幸生を見ると、幸生はでへへと笑った。
「いやん、見つめないで」
 両手で顔を覆ってでへでへしている幸生を見て、乾さんとふたりして、寝ててもこうだもんな、こいつは、とため息がひとつ、ふたつ。たとえ俺が苦労させたのだとしても、こいつは絶対にそんなものではめげないのだから、ピンクいろの楽しい夢を見たら、はじきとばしてしまえるようなものなのだろうから、たぶん、いや、きっと。


5 美江子

 朝からタオルで鉢巻をして、トレーニングウェア姿の六人が乾くんのアパートに集合した。私は鉢巻はしていないけど、Tシャツとジャージーパンツを身につけて仲間入りをすると、さてと、どこから手をつける? と本橋くんが言い、乾くんは言った。
「引っ越しセンターから屈強なお兄さんがふたり来てくれるんだから、専門家にまかせておけばいいんだよ。本橋もシゲもそう張り切らないで。適当に適当にやってくれよな」
「専門家にまかせないといけないところもあるんでしょうけど、力仕事だったらまかせて下さい」
 シゲくんは言い、本橋くんもうなずいた。
「おーし、やるぞ。章と幸生はその本棚でも運べ。本は抜いてあるから軽いだろ。それにしても本棚だらけだな」
 リーダーに指示された本棚に取りついた章くんは、うげーっと叫んだ。
「重いじゃん、これ。腰をいわしそう。俺は乾さんの大切なギターやCDを運びますよ」
「俺もそうしよう。ぎっくり腰になったら大変だもんね。おー、お兄さんたち登場」
 引っ越しセンターの従業員が二名あらわれて、幸生くんが言った。
「よろしくお願いしまーす。ここには力持ちがふたりいますから、なんでも言いつけて下さいね」
 よろしくーっ、と六人で頭を下げると、ひとりのお兄さんが言った。
「若い男が五人もいるんですね。俺たち、いなくてもいいんじゃない? ってことはないんだな。さて、やりますか」
 彼の声を合図に、続々と家具が運び出されていく。私は乾くんに言った。
「私はなにをしたらいいの? 掃除?」
「男が七人いるんだからね、ミエちゃんはその細腕で運搬なんかしなくていいんだよ。チアリーダーでもやってくれる?」
「私はそんなに細腕じゃなくてよ」
 とは言うものの、ふたりがかりで冷蔵庫を運んでいく本橋くんとシゲくんのたくましい腕に較べたら、私は細腕だといわれても否定できない。私のうしろを通っていく本橋くんが言った。
「乾も山田も邪魔だ。どけどけ」
「無礼な奴だな。俺の荷物なんだから俺だって……俺はあれにしておくよ」
 ギターを大事そうに抱えていく章くん、布団ケースを抱えていく幸生くん、乾くんは本の詰まったダンボール箱を抱えていって、仕方がないので私は拭き掃除に取り掛かった。
 他の四人ほどには頻繁ではないものの、私もこの部屋には学生時代から幾度も遊びにきた。はじめて来たのは大学一年のときだった。あのころの恋人はやきもち妬きで、本橋くんや乾くんの部屋に遊びにいくと言ったら、行くなと怒った。それでも行ったと話したら、おそろしく怖い顔になったこともある。
「乾の部屋に行った? 乾とふたりっきりだったのか」
「本橋くんもいたよ」
「あいつらがその気になったら、美江子なんかはひとたまりもなく食われてしまうんだぞ」
「その気になんかならないし、私は餌じゃないし。三人で乾くんのこしらえてくれたカレーを食べたの。星さんが乾くんに言ったんだよね。一人前の男は舌がしびれるほど辛いカレーを食えるんだ、って。だから辛かった。でも、おいしかったよ」
「行ったものは仕方ないけど、二度と行くなよ」
「行くもん」
「……おまえは自覚が足りない」
「なんの自覚?」
「男なんてものはな……」
「やだ、星さんってお父さんみたい」
 おでこを押さえて、あいつらは身体もでかくて、美江子はこんなに細くてか弱くて、と言っていた彼を思い出す。私はか弱くなんかないもん、と反抗したら、そんなら俺を突き飛ばしてみろ、とますます怒って私を抱きしめた星さん。今では遠い遠い、好きだったひと。
 あのころよりも私は痩せたでしょ。いろいろと苦労して、ちょっとは大人になったでしょ。ほんとは強くもないのはあのころと変わってないけど、もう二十八なんだもの。星さんを忘れてはいないけど、あなたに縛られてはいない。子供だった私を愛してくれたあなたがなつかしくて、やきもち妬きだったところまでを可愛いと思う。意地っ張りだった私自身をも愛しく思い出す。
 だけどね、自覚だの食われるだのって、絶対に星さんの考えすぎだったんだよ。あのころから彼らは私を友達だと見ていてくれたし、今でもそう。星さんは本橋くんや乾くんの部屋を訪ねたことはないんだろうけど、口では悪し様に言いながらも、合唱部の後輩としての彼らの面倒を見てあげていたのだと、あとで彼らに聞いた。星さんは私を好きだったからこそ、私となにかあったんじゃないかと疑っていた彼らを、悪くばかり言ったんだよね。
 あなたとつきあっていたころにも、いくらあなたが怒っても、本橋くんや乾くんとはどちらかの部屋で食べたり飲んだりして話した。あなたと別れてからも、いつだってそうしてた。星さんは知らないの? 本橋くんや乾くんがいてくれたからこそ、私があなたに捨てられた痛手から立ち直れたんだって。きっと知ってるよね。
 あれからシゲくんやヒデくんとも知り合って、ヒデくんはいなくなってしまったけど、幸生くんや章くんとも親しくなった。そうしてフォレストシンガーズがデビューして、私は彼らのマネージャーになった。星さんを思い出すのは久し振りだけど、彼らとはずっとずっと、友達として、仕事仲間としてともにいる。これからもこのまんまでいられると私は信じてる。
 はじめてここに来たころには、私にとっていちばん大切だったひとだから、だから星さんを思い出してる。そんな星さんに話しかけていた。
 乾くんが引っ越すんだよ。マンションに移るんだって。シゲくんは結婚するんだよ。こうしてみんな、すこしずつ境遇が変わっていくんだね。永遠に同じであるものはないのだろうけど、私たちの関係は同じでいたい。
 学生時代から現在に至るまでの、乾くんの恋人だった彼女たちにも話しかけた。
 何人かは知っているあなたたちも、もちろんこの部屋に来たんでしょ? そのときにはひとりだったあなたは、乾くんと抱き合って愛を囁いて、乾くんの作った料理をいっしょに食べたりした? あなたにとってのこの部屋も、大切な想い出の場所だよね。本橋くんやシゲくんや章くんや幸生くんや私の追憶とはちがった形で、あなたの中にくっきりひっそり残っているはず。乾くんはここから出ていく。次にこの部屋に入るひとも、またここで想い出を作る。
 周りでどたばたしている男性たちを見やりつつ、センチメンタル気分に浸りつつ、掃除をしている間に、家具の運び出しが完了していた。がらんとした部屋を見回していると、乾くんが私のかたわらに立った。
「引っ越しって感傷的になるもの? 私の引っ越しじゃないのにね。乾くんのご感想はいかが?」
「あそこで伸びてた本橋だとか、あそこで奇声を上げてた幸生とか、あそこでギターを弾いてた章だとか、あそこで嘆いてたシゲだとか、思い出すね。あそこで歌ってたいなくなってしまった奴だとかも思い出すよ。あそこにはミエちゃんが持ってきてくれた、ガーベラが彩りを添えていてくれた日もあったよね」
「ガーベラなんか持ってきたっけ。彼女の想い出は?」
「今、ここにいてくれる彼女の想い出だったら、いっぱいあるよ」
「私も彼ではなく彼女ですけどね」
 おーい、おーい、と下から本橋くんが呼んでいる。乾くんにも感傷があったにちがいないのだが、それらを振り払うように言った。
「本橋とシゲがレンタカーを借りてきてくれてるから、俺たちは分乗して新居へ向かいましょうか」
「お昼ごはんはどうする? おなかすいたんじゃない?」
「むこうで出前でも頼もう。引っ越しソバかな」
「私はなんにもしてないのに、けっこうおなかがすいたかも。幸生くんと章くんはともかく、みんな力持ちだね」
「俺も?」
「乾くんだって、本橋くんやシゲくんには負けるんだろうけど、力はあるって知ってるよ。ひがまないの」
「ひがむよ。同じ男として……いや、あいつらは特別だね。さ、行きましょう」
 なにやってんだよ、早く降りてこーい、と短気な本橋くんの声が怒りかけている。幸生くんの声も聞こえてきた。
「バイバーイ、ありがとうっ!!」
 たぶん幸生くんは、この部屋に別れとお礼の言葉をかけているのだろう。私も空っぽになった部屋に、ありがとう、想い出の数々を、と呟いて、乾くんと外に出て、ドアを閉める乾くんを見ていた。
 新居に到着したらしたで、引っ越しソバでのお昼の休憩もそこそこに、あれだけ活躍してもたいして疲れてもいないらしき本橋くんとシゲくんがまたまた張り切って業者さんたちと働いて、他の四人も働いて、思ったよりもはるかに早く片付けもあらかたすんでしまった。さすが、と両腕を広げた乾くんが言った。
「ありがとう。本橋とシゲのおかげだよ」
「章と俺は?」
「うん、幸生、きみたちもそれなりにありがとう」
「私は?」
「ミエちゃんには多大なる感謝を捧げます」
「私はなんにもしてないけど?」
「してくれたじゃないか。ま、つべこべ言うのはやめましょう。この暑い時期に、みんな、ありがとう」
 いえね、しかしね、腹が……とシゲくんはお腹を押さえ、乾くんは声を立てて笑った。
「シゲはソバなんかじゃ足りなかったんだろ。感謝の気持ちをこめたごちそうを作りたいんだけど、今日は無理だな。それはまたの機会にしよう」
「私は今日はなにもしてないから、ここでお祝いのパーティするんだったら、豪華なごちそうを作ってあげる」
「おー、大賛成」
 幸生くんが言った。
「乾さんも料理は下手じゃないけど、美江子さんのほうが料理の腕前は上だもんね。それにさ、なんたって美江子さんが作ってくれたほうが、美味度がはるかに上なんですよね。なんでだろ、ね、乾さん?」
「それはおまえの先入観だよ」
「なんの先入観? 美江子さんが怒りそうな?」
「かもな。外に食いにいくっていっても、近所をよく知らないし、夜も出前にしようか。メシを食いつつみんなでこれを聴こう」
 これとはカセットテープ。ラジオドラマ「水晶の月」を録音してあるのだそうだ。みんなで聴くんだね、と嬉しそうに言った幸生くんが、私の耳に口を寄せてきた。
「美江子さん、ユキちゃんのお願い、聞いてくれます?」
「汗かいちゃったからシャワーだよね。マンションのお風呂場ってアパートより広いから、章くんと仲良くお風呂に入ってきたら? 乾くんとがいいの?」
「先に風呂ですね。うん、そのお願いもしたいけど聞いてもらえないでしょうから、あとでつきあって」
「なにするの?」
「デート」
「あのね……幸生くん?」
「はーい、コンビニへデートです」
 では、お先にどうぞ、と幸生くんに言われてシャワーを貸してもらっている間には、章ちゃーん、いっしょにお風呂に入ろうよ、おまえといっしょに入るくらいだったら、俺は一生入浴しないよ、だとかなんとか、おなじみの騒ぎがあったと推測できる。私に続いて幸生くんもシャワーを浴びて、着替えてふたりで外に出た。
 コンビニでなにを買いたかったのかといえば、ああ、それね、と私にも納得はできた。それの作り方だったら知ってるよ、ってわけで、材料を買い込んだ。
「作りたてがおいしいのはもちろんだから、すこぉしドラマティックに演出しようか。そこは私にまかせておいてね」
「はい、頼りにしてます」
 夕食にはピザを頼んだと言う。シゲくんはおなかぺこぺこで目が回っているだろうし、お酒はコンピニのほうが安いよね、と言い合って、他にもいろいろと仕入れて帰った。ワインで乾杯して、買って帰ったスナック菓子などつまんでいるうちにピザの出前が大量に届き、乾くんがカセットをセットした。
「なに、今の歌? 歌詞には聞き覚えがあるけど、メロディははじめて聴いたよ。まさか本庄のオリジナル?」
 ピアノの音が流れる中で幸生くんの声が聞こえて、メロディがやんだ。しばらくの間があいて、シゲくんの声も聞こえてきた。ここは寮のリクレーションルームで、ピアノが設置されている。
「俺、ガキのころからオルガンやってたんだ」
「ほええ、ガラでもないにもほどがあるんだけど、そしたらおまえが作曲したの? それってほら、前に乾が書いた詩だろ? こんなうつけた詩は目障りだとか言って、破っちゃったんじゃなかったの?」
「破って捨てるつもりだったんだけどさ、気が変わったんだよ。曲をつけて歌にしたら聴きやすくなっただろ」
「詩のまんまよりはましかな。本庄、おまえ、顔に似ずいい声してんじゃん」
「声は前から聴いてるだろうが」
「顔も前から見てるけど、歌、うまいんだな。その声と俺の声でハモるといいかもよ。もういっぺん歌ってみて」
 そこに足音が聞こえてくる。部屋に入ってきたのは章くんで、幸生くんの焦った声もした。
「こらっ、バットでピアノを弾くなっ」
「ふむふむ、なになに? 楽譜? こーんな感じ?」
 バットで鍵盤を叩こうとしたのをやめて、章くんが楽譜を取り上げる。ドラマの中の乾くんが作詞して、本庄くんが作曲しかけている歌だ。章くんが高い高い声で口ずさむ。本庄くんも幸生くんも歌い出す。ドラマの中の彼らは本人とはまったくちがっているけれど、ここでようやく本領発揮、この三人には隠されていた音楽の才能があると判明するシーンだった。
 ラジオドラマの仕事を持ってきてくれたのは、合唱部の先輩の沢田愛理さんだ。本橋くんや乾くんや私より一年年上で、金子さんとだと一年年下に当たる。沢田さんはラジオ局のアナウンサーになっていて、彼女が勤務する局が一般公募してその大賞に選ばれたのが、このたびの「水晶の月」の脚本だった。
 事務所の社長がその仕事を引き受け、本橋くんも渋りつつも引き受け、私も久し振りで沢田さんに会った。私も脚本をざっと読ませてもらってから、沢田さんに尋ねた。
「脚本家のみずき霧笛さんって、私たちの知り合いではないんですよね」
「登場人物の名前? それはもともとは別名なの。金子さんとフォレストシンガーズが出演してくれるって決まってから、みずきさんや局の上司たちとも相談して検討して、こう決めたのよ」
「のちに結成されるクリスタルムーンのリーダーになる、荒っぽくて人の気持ちなんててんで斟酌しない彼が本庄繁之。これ、本橋真次郎じゃないんですか」
「本橋くんはそういう性格?」
「どこかしらは似てます」
「その彼、バスなのよ。だからってのもあるんだ」
「声で決まったんですか。んんとそれから……」
 野球馬鹿の木村章、本来はこれがシゲくんで、気の弱い泣き虫の乾隆也が章くん。そうするとふらふら性格の本橋真次郎が乾くんの役割? 三沢幸生はそのまんまでぴったりだと思えるけど、いずれにしても全員が実体とは大幅にちがっているのだから、各々の声で役柄が決定したのだと聞けば、それはそれでいいのだと思えた。
「お、いいところに来た。本橋、乾も連れてこいよ」
 ドラマの中では幸生くんに命令された本橋くんが、乾くんをリクレーションルームへ連れてくる。おどおどとやってきた乾くんに、章くんがバットを突きつける。
「おまえも歌え」
「ええ? 僕は歌なんか……」
「三沢幸生作詞、本庄繁之作曲のこの歌に、木村も協力してコーラスアレンジってのをやったんだよ。五人で歌うといいんだ。本橋も乾も歌え」
 幸生くんが言うと、章くんも言った。
「三沢の作詞? ちがうだろ」
「俺だもん」
「俺もこの詞は前にどこかで聞いたぞ。三沢じゃないだろ。おまえだっけ、乾?」
「誰が詞を書いたんだとしても、そんなことはどうでも……」
 激しく鍵盤を叩く音がして、本庄くんが言った。
「どうでもよくはないんだよ。こんなうざったくってうっとうしい詩、見たくもないと俺は思ったけど、改めてじっくり読むと悪くはなかった。だから曲をつけたんだ。三沢、これは乾が書いた詩だ。てめえの手柄みたいに言うな」
「そうだよ、僕も知って……」
 知ってるよ、と言いかけた本橋くんに、本庄くんが言う。
「本橋、おまえは黙ってろ。あのな、俺たちって声がいろいろだろ。俺はこんなに低い声。本橋は俺よりは高いっていうのか、太くて響きのいい声をしてるよな。乾は澄んだ綺麗な声を出せる。いつもはびくびくしてるから駄目なんだ。腹に力を入れて声を出してみろ」
「……んんと、こう?」
「もっとおまえ自身の声を出せ」
「こう?」
 乾くんの発声練習が続き、次第になめらかな高くて綺麗な声が出るようになると、本庄くんは満足げに言った。
「でな、三沢は甘くて高い女みたいな声が出る。木村はびっくりするほど高い高い声が出る。五人でハーモニーをやるとかっこいいぞ。俺はそのつもりで曲を書いたんだから、おまえたちもやれよ。練習しよう」
「ぼ、僕も?」
「そうだよ、本橋。さっきから言ってるじゃないか。文句でもあるのか」
「ない、ありません」
「乾は?」
「ええっと……そんな怖い顔……なんとかやってみます」
「なんとかじゃないんだよ。ぐすぐずねちねちしやがって。だからおまえは嫌いなんだよ。嫌いだけど仲間に入れてやるから、ちゃんと歌え。木村は?」
「俺は野球のほうが……いや、ま、いっか。野球はさぼっててもどうにでもなるんだし、歌も面白そうだな。やってもいいよ」
「三沢は?」
「その歌、俺が作詞したってわけには? いかない? つまんねえな。俺、目立たないじゃん」
「おまえはその声で目立つ」
「そう? だったらやろうかな。でもさ、本庄? 歌の練習してどうすんの? なんか意味ある?」
 あるさ、と決然と言うのも本庄くんだ。
「そんなに時間はないけど、楽器の特訓もしよう。今年の学園祭ではバンドを組んで歌おうぜ」
「バンドって……俺、高校のときに軽音楽部でウッドベースやってたんだけど、役に立つかな」
 幸生くんが言うと、章くんも言った。
「俺、ドラムやりたいな。本橋はなにか楽器は?」
「ギターだったらちょっとは……乾は?」
「僕は楽器なんてできないよ」
「そうか。そんならまっさらだな。乾はバンジョーをやれ」
「ええ? 本庄くん、バンジョーだなんて無茶な……」
「不可能を可能にしてみせるんだ。やるぞ」
 そんなの無理だよぉ、と逃げ出そうとする乾くんの頭を、章くんがバットでごつんごつんやって悲鳴を上げさせる。よし、やるぞっ、と本庄くんが低く決意の台詞を口にし、幸生くんはおーっ!! と叫び、大丈夫かなぁ、と本橋くんは小声で言い、乾くんは泣き声を出すのだった。
「歌だけじゃなくてバンジョー? ママ、僕、どうしたらいいの?」
 そのあたりで席をはずした私はキッチンに立ち、幸生くんお望みの品を作って運んでいった。
「はい、乾くん、フレンチトースト。これを食べてがんばってね」
 現実の乾くんは丸い目になって私とフレンチトーストを見比べ、幸生くんが拍手した。
「おー、さっすがママ」
「誰がママだって? ママだったらこうじゃないの? 隆也ちゃん、あなたにはできないことなんかないのよ。あなたはママの手は離れたけど、ママが遠くで見守っていてあげるんだから、やりなさい。やるのよ、隆也ちゃん」
「乾の実のおふくろさんだったら、こうじゃないのか」
 現実の本橋くんも言った。
「隆也さん、あなたは立派な男になるために、私の手元から羽ばたいていったんでしょう。なにを弱音を吐いてるんですか。しっかりしなさい。そんな気の弱い男は私の息子ではありませんよ」
「……本橋、やめてくれ」
 乾くんは頭を抱え、現実の章くんが言った。
「リーダーは乾さんのお母さんに会ったことがあるんですよね。そんな感じ?」
「そんな感じだよな、乾?」
「実物たちまでが俺を苛めるんだな」
「ま、隆也さんったら、あなたは苛められてるんじゃないでしょう。みなさんはあなたを激励して下さってるんですよ。しっかりしなさい、隆也さん」
 まだ恭子さんと出会っていなかったころに、私たちは乾くんのお母さんには会っている。幸生君の口真似もそっくりだった。
「乾さんが高校生くらいのころに、こんなふうに言われた? な、章? 当たってるから乾さんの顔がこうなってるんだよ」
「ふむふむ、こういう顔ね」
「章……幸生も……ああ、ああ、好きに言ってろ」
 珍しくも乾くんがふてくされ、現実のシゲくんは言った。
「あのぉ、せっかくのフレンチトーストが冷めますよ」
「そうよ。隆也さん、召し上がれ。ママのこしらえたフレンチトーストはこれで最後にしましょうね」
「ミエちゃんまでが……」
「乾くん、私の作ったフレンチトーストが食べられないの?」
「……そのほうがあなたらしいです。いただきます」
 そのほうがらしいとはなによ、と私もふくれてみせると、幸生くんが言った。
「ママぁ、僕ちゃんも食べたい」
「こうなったらついでだから、みんなの分も作ってあげる。隆也さん、おいしい?」
「隆也さんと呼ぶのはやめて下さい。はい、うまいです」
 金沢にいる乾くんのお母さまも、そのうちにはこのマンションを訪れて、そしたらなんておっしゃるのだろう。あなたもすこしずつは立派な男になりつつありますね、隆也さん、かしら?
「ついででもいいから、山田、俺もそれ、食いたい。作ってくれよ」
「俺も食いたい。美江子さん、俺にも作って下さいね」
「はいはい、真次郎さん、章さん」
「うちのおふくろだったら、真次郎、甘えてんじゃないのよっ、かな。章のおふくろさんは?」
「フレンチトーストってなに? とは言いませんかね。そんなの、俺、食ったことないですよ。甘いんですか、乾さん?」
「俺たちが甘いのは得意じゃないのは、ミエちゃんはよーく知ってるんだから、甘くはしてないよ。うまいよ」
「幸生くんのは甘く甘くしてあげようね」
「甘いのはやめて」
「ハニーと言うなよ」
「あら、言ってほしいの? 隆也さーん、マイハニー」
 やめろってば、と章くんが幸生くんを蹴飛ばす。埃が立つだろ、と本橋くんが怒っている。シゲくんは苦笑いしていて、ミエちゃん、よろしく、と乾くんが頭を下げる。現実ではいつに変わらぬ光景が繰り広げられている。
 以前のアパートよりも広くなって、一段階ゴージャスにもなった乾くんの新居。これからまた、この部屋でも乾くんにも、私たちにもいろんなことがあるんだね。なにがどうなっていいほうにころんでも悪いほうにころんでも、私たちはずっといっしょだよ。みんなも賛成してくれるよね。信じてるよね。確認なんかしなくても、私も信じてる。恭子さんをはじめとするこれからふえていく仲間たちも加わって、私たちはずっとこうして歩いていくんだと。

END

 


 

 
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~ Comment ~

永遠に同じであるものはないのだろうけど、私たちの関係は同じでいたい

↑共通テーマがこれでしたねぇ!

ここだけ、3日かかって拝読いたしました(^^;
一気にシゲさん以外のバージョンだったので、長かったということと同時に、一人ひとりを少しゆっくり味わわないともったいない気がして。

ミエちゃんで、引越し終了。
なるほどなるほど。
やはり、美江子さんが入ると、途端に場が華やぎます。
今回は続いて並んで一気にいったので、余計にそれが際立ちました。
いろんな方がいろんな追想をして、過去のたくさんの人が出てきましたが、美江子さんが語る星さん、やはり、一番、この二人が印象に残ります。
一番、辛い別れ方だったような気がして。

それから、溝部さん。
この方は、確かにすさまじい方でしたが、嫌いではなかったし、今でもあんまり印象は悪くない。
現実にお会いしたくないし、お近づきにはなりたくないけど、人間としてまっとうだと思う。
異性に対して変に媚を売るタイプの人間って、なんだかため息ものだけど、彼は誰に対しても態度が同じで、自分をよく見せようとか、嫌われないように振舞うというイヤらしさがない。
いつでもストレート。
自分を貫いている。
と、感じられるから。
多少はガキで、ひねくれているけど、でも、磨いていけば良い男になるんじゃないか、という要素を持っている。

それから。
演じる、ということ。
これ、現実でもけっこうやっていることかもな、とfateは感じる。
嘘はつかない。だけど、本当の「核」の部分をさらさない。
ひとえに、それをやると相手が不愉快になることが分かっているから。
相手が笑顔になる行為が善であり、相手が傷つくことが悪である、っていう感じの言葉を最近、ふとラジオで聞きました。
それ、ある程度は本当だと思う。
だから、fateがゲジゲジを見て「ぎゃああああっ、気持ち悪っ」と嫌悪を抱くようなことを、fateも他人にしてはいけないと思うのダ。
いや、崇高なハナシをしてるんじゃなくって、あまりに似合わない格好とか、奇抜すぎる服装をするのはよそう(ーー;、という意味です(^^;

fateさんへ

六人分ですから、長かったですね。
分けたらよかったのに、すみません。
このころはほんと、自分で楽しむためにブログをやってたようなものですから、読んでくださる方はいらっしゃらないかと……すこしでも読んでくださる方が増えたのは、fateさんのおかげもありますよ。

いろいろとありがとうございます。

こんなふうに何人もの視点が移り変わる形式で、それでもって長くなっていく、というのは、私にはもっとも書きやすいみたいです。

星丈人という奴は、まだ私の中で決着がついていないみたい。
彼はミエちゃんよりも四つ年上、ってことは、小説世界の中では今年、四十歳だったりして。

ミエちゃんたちは三十五歳以上には、しばらくはさせない予定なんですけどね。
で、星さんっていったい……どうも彼は特に、著者の思い通りに動いてくれないのです。

溝部くんもある意味、星さんと似たポジションなのかもしれません。
私にとってこのふたりのキャラは扱いにくい奴なので、出てくるたびにバトルをやってるってのか。
どうもすっきりしてくれないキャラです。

fateさん、ゲジゲジがお嫌いなんですか。
以前にfateさんがネズミについて、「嫌いだからとっつかまえて持ってきて、猫に食べさせた」というようなことを書いておられたでしょ?

ゲジゲジはまたちがった意味でお嫌いなのですね。
私はネズミよりはゲジゲジのほうがましです。
この間、ちっちゃいゲジゲジみたいなのが出てきたので、つかまえて猫に与えようとしたら逃げられました。

で、演じるということ。
たしかにやってますね。
素のままの自分を他人にはさらしませんものね。
そっかー、やっぱりこうしてコメントをいただくと、改めて考えさせてもらえます。

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