番外編

番外編13(5-2)(気絶するほど悩ましい)

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番外編13(5-2)

 
「気絶するほど悩ましい」


1

 決して寡黙な男ではない。平素は無口でもいざとなれば弁舌巧みという人間もいるだろうが、徳永はそのタイプではない。よけいなことも言うし、言葉を弄して他人を欺く傾向もある。
 長年の交友関係で、一部分は理解できるような気にもなっている徳永渉が、俺のデビューから二年遅れてプロシンガーとしてデビューした。祝いの席を設けてやろうとなって、一夜、宴を張った。その場には合唱部時代の先輩、後輩たちが集った。会うのは実に久々となる、俺が男子部キャプテンだった年の女子部キャプテン、大野莢子さんも来てくれた。
「大野さんは薬学部だったね。薬剤師になったのは、当初の志望がかなったんだ」
「そうね。私の母は薬剤師をして私を育ててくれたから、私も子供のころから薬剤師になりたいと志望してたのよ。卒業してから製薬会社に就職して退職して、今は母とふたりでドラッグストアを営んでる」
 宴の途中から参加してくれた大野さんとふたり、俺は小さな会場の一画で話していた。主役の徳永ではなく、俺にブーケをくれた大野さんは、仕事帰りであろう。シックなスーツに真珠のペンダントで装っている。俺と同年だから、三十路すれすれだろう。若すぎもせず老けてもいず、一種危うげな年齢の魅力が揺れていた。
「地味な仕事よ。金子くんみたいに華麗な世界に身を置いてない。ううん、金子くんには別種の苦労があるんだろうと知ってはいるのよ。デビューまでの道のりは遠かったんだものね」
「デビューまでの道のりは忘れたよ。そんなのも通り過ぎた過去だ」
 合唱部キャプテンとなると、歌の実力はあった。大野さんもプロシンガーを夢見た時期があったのかもしれない。けれど、彼女は皆実と同様に堅実な道を選んだ。
「女子部からは長年、プロシンガーって出てないよね。山田さんはフォレストシンガーズのマネージャーになったけど、歌手ではない。男子部のほうが実力派がそろってるって、たしかにそうだったのね。山田さんも来ないの?」
「三沢以外は仕事があるんだそうだよ。さきほどから俺は、徳永ってのは寡黙な男ではなく、よけいな口もきく奴だって考えながら彼を見てたんだけど、よけいな口をきいたのは俺だったかな。三沢って奴は妙に聡くて、ちらっとほのめかしたらおおむね悟ったらしい。くわばらくわばらだね」
「くわばら? よけいな口って?」
 女性というものは三沢どころではないほどに聡いはずだから、ほのめかし段階の必要はない。俺ははっきりと言った。
「一年ばかり前だったか。山田さんにつきあってほしいと頼んで断られた。すこしばかり引きずってたんだけど、一年もたつんだからちっちゃな傷も癒えたよ。大野さんは恋人は?」
「私も一年ほど前に別れた」
「出会いと別れが人生だ、ってね。このあと、予定はある?」
「なあに? 口説きたいの? 金子くんだったら大歓迎よ」
「さすが大人の女性だ。話せるね」
「このあとでどこかに連れてってくれる?」
「参りましょうか」
 恋愛経験は乏しいと言うが、徳永は女性経験は豊富だ。俺も三十歳になろうとしている男として、女性経験はなくもない。恋とは呼べないにしろ、短期間交際していた女性はいる。何人もいる。大野さんとそうなったとして、先がどうなるのかは野となれ山となれ、男女の仲とはつきつめればそんなものだろう。
 察する奴は察すればいいつもりで、宴が果ててから大野さんと連れ立って店を出た。スキャンダルになったらどうする? と囁く彼女を、ビルの陰で抱きすくめた。
「公表しましょうか。あなたは一般人だから、迷惑かな。俺だってスキャンダル雑誌に激写されるほどの有名人じゃないよ」
「迷惑ではないけど、有名人じゃないなんて嘘ばっかり。今になって金子くんに口説かれるとは思ってもいなかったけど、嬉しいわ。結婚してくれなくちゃいや、だなんて言わないから安心して……」
「黙って」
 小柄な彼女を抱きしめてくちびるを合わせ、長い長いキスを終えたら、彼女は俺の胸に顔を伏せた。
「駄目……立ってられない。憎らしい……なんて……」
「今夜だけでもいいから、莢子って呼んでいい? きみも将一と呼んで。大野さん、金子くんじゃ雰囲気がこわれるよ」
「呼び名なんて……ずるい」
「なにがずるいの? こうやってしっかりつかまってろ。タクシーまで歩ける?」
「……意地悪。やっぱり将一さんって……どうしよう。好きになってしまいそうよ」
「好きだからうなずいてくれたんじゃないの? 色っぽいね。ふるいつきたくなる。続きはホテルで……いいよね」
「ずるいずるい」
 両腕を俺の腰に回して、よろめきそうな足取りの彼女とからみあうようにして歩き出し、タクシーを止めてホテルに向かった。ホテルの部屋にたどりつくと、莢子は俺を見上げて言った。
「いつもこんなことばかりしてるの?」
「黙れ」
「……黙らせて。やだ、私、変。びびーんって来ちゃった」
「なにに?」
「言わせないでよ」
 もはやくにゃくにゃになっている彼女を抱き上げてバスルームに運び込み、彼女がなにか言おうとするたびに口を口でふさぎ、なにものも入り込めないふたりだけのひとときがすむと、莢子はベッドで呟いた。
「ずるい、ずるいのよ」
「こういうときって、男は煙草を吸うとさまになるんだよな。俺は吸わないんだけど、きみは?」
「吸いたい気分だけどね、いつもは吸わないから持ってない。煙草なんかどうだっていいでしょ。もうもうもう、将一さんったら……悔しい」
「なんだよ」
 突如として肩に歯を立てられて呻きそうになったのだが、ぐっとこらえていると、裸の彼女は裸の俺の胸に頬を乗せた。
「いっぱいいっぱい遊んだんでしょ?」
「遊びなんかしてないよ」
「恋の遍歴?」
「恋もしてないな」
「ずるいんだから……」
 ずるいずるいを連発している莢子を見ていると、美しい大人の女の面差しに、少女の貌が重なって過ぎた。
 夏の海には若者たちの秘密がころがっている。中にはきっと、俺のちっぽけな秘密もまじっているだろう。大学生の夏の合宿で、二十歳になる前の俺は、女性の先輩に何度も声をかけられた。夏は女性を解放し、大胆にさせるとは俗な言い回しだが、まさしくその通りで、金子くん、キスしない? とのお誘いをいくつも受けた。
「はい、どうぞ」
「金子くんからしてよ」
 そう言って顔をあお向けて目を閉じたひともいれば、ちいさな身体で大きな俺を抱きしめて、情熱的な口づけをくれたひともいる。二年の夏には何度キスをしたのか覚えてないほどだ。
 三年の夏にもそんな誘いは受けた。二年生のころには受身一方だったのだが、二十歳になったんだし、俺からも誘ってみようかと、後輩の女の子ともキスをした。キスだけだよ、内緒だよ、と耳元で言ったら、全部の女の子が拒否しなかったのにはいささか驚いたものだ。四年の夏にもそうやって楽しんでいて、その中でたったひとり、拒んだひともいた。
たったひとり俺を拒んだのは山田美江子。あのときは俺も困惑したものだが、キスさせてもくれずに俺に八つ当たりして、それはそれで可愛かった。彼女はそんな些細なエピソードを覚えているのだろうか。再会した際にも互いに口にはしなかった。
 キスなんてその程度のものだと思っていたから、海辺でふたりきりになった莢子にも声をかけた。潮風が彼女の長い髪をなぶり、ふたりの心にいたずらっ気を生まれさせ、子供じみたキスだけではなくなってしまったのは、夏がたわむれさせたのだ。それだけのことだった。
 恋じゃなくったって男と女は抱き合える。そんなふうに身体ができているのだから。それからもそのような出来事は何度もあって……山田さんに打ち明けた言葉にしたって、恋にはならなくてもいいと感じていたのか……一年もたったら、おのれの心の動きさえも忘却の彼方に去ってしまった気がする。
「きみともキスはしたよね」
 なに考えてるの? とつねられて、我に返った。
「したような記憶はあるけど、あれも遊びだったんでしょ?」
「キスだけなら遊びでしょ」
「私だってそのつもりだったよ。金子くんのキスなんてほんとに子供っぽくて、外見はかっこいいのに、このひとったら案外……って思ったの。あのころはそんなだったのに……憎らしい。ずるい」
「さっきからそればっかりだね。なにが言いたいの?」
「将一さんったら……」
「将一でいいんだよ」
「そんなのどうだっていいの。こんなのはじめてよ。びびーんって言ったよね」
「うん?」
「あなたに黙れって言われたから。男の命令口調なんて大嫌いなのに、あなたにだったらぞくぞくってしたの。もっと言って」
「黙れって? 俺はきみの声をもっと聞きたいよ。もっと喋れよ」
「いくらでも喋ってあげる。本当に好きになっていい?」
「きみはエムっ気があるのか。俺にはエスっ気ってあるのかな。ためしてみようか」
「そんなのいや。口調だけよ。乱暴なのは嫌い」
「命令口調も嫌いだったんだろ? 目覚めたんだろ? その気になれば俺も荒々しい言葉もふるまいもできるよ。どうしてほしい? 莢子、正直に言え」
 身を起こして彼女の顔の横に手を突くと、かすかに怯えた色がおもてをかすめた。
「可愛いね。遊び慣れた女をよそおって……悪い子だ。いけない子だね、莢子は。こらしめてあげようか」
「そういうのはいやだってば」
「そっちにも目覚めるんじゃないのか? 俺も目覚めたりして……」
「……どうやってこらしめるの?」
「こう」
 きゃっ、と身をすくめる彼女にアクロバティックなポーズを取らせると、目を閉じて眉を寄せた。わずかな苦痛の表情が官能的で、俺は彼女の耳元で囁いた。
「今夜だけは、ふたりして溺れよう。明日からのことは明日考えよう。お母さんに電話しなくていいの?」
「つまらないことを思い出させないで」
「そうだったね。大人なんだもんな、きみも俺も」
「大人なんだから、好きだのなんだのは……遊び慣れた女をよそおってる? 私はけっこう……」
「嘘をつくな。嘘つきの悪い子は……」
「いや」
 黙れ、と再び言うと、いとけないと言ってもいいような顔をする。きみがこんなにも可愛い女だなんて知らなかったよ、俺は心で呟いて、莢子の胸に顔を寄せていった。
 それから幾度かの逢瀬を重ね、そのうちに気づいた。莢子と会っていると時として視線を感じる。気のせいかと思っていたのだが、まちがいないようだ。誰だろう。考えられるのは……いや、莢子がまさか、いや、あり得なくはない、とジレンマに陥っていたある日、徳永と飲んでいると、近寄ってきた男がいた。
「えーと、莢子と知り合いですよね」
 動揺を押し隠し、どなた? と俺が問い返す前に、徳永が言った。
「俺ですけど……」
「……おい」
「いいんですよ。あんたはここにいて。話があるんですか。外に出ましょう」
 こいつはなにを考えてるんだ。徳永の意図が読めないままに、外に出ていくふたりを追った。地下に酒場のあるビルの階段を上り、徳永と男が地上に出た。立ち止まった男が振り向きざま、徳永に向かってこぶしを繰り出した。徳永はその手をつかみ、力まかせに押し戻して倒れさせ、その腹に靴を乗せた。
「なんの真似だ。でめえは?」
「あんたは……莢子の……」
「莢子さんは知ってるけど、だからなんなんだ」
「俺の……俺の……」
「俺は莢子さんとはなんにもしてない。仕事の話しかしてないよ」
「シラを切ってもこっちは……」
「なにもしてないと言ったらなんにもしてねえんだよ。莢子さんはなんと言ったんだ」
 ぶざまにも地面に倒れた男は、徳永の靴を見つめて言った。
「このごろ、莢子とあんたはデートしてたじゃないか。たまたま見つけてあとを尾けたんだ。いつでもタクシーに乗って走り去ってしまうから、確たる証拠はつかめなかったよ。莢子を問い詰めるのもなんだしな、と思ってたら、あそこであんたを見かけた。
遠目でしか見たこともないし、暗いからどっちだかわからなかったけど、あんたなんだろ」
「彼女に確認もせずに俺に殴りかかったのか。馬鹿じゃねえのか。彼女とは仕事のつきあいだよ。あとで訊いてみろ」
「本当か」
「なんなら出るところに出るか。暴行罪と名誉毀損で告訴してもいいんだぞ」
「……本当に?」
「しつこいんだよ」
 靴が腹から離れ、男が立ち上がった。俺は携帯電話を取り出して、莢子にメールを打った。
「きみは実際に悪い子だったんだね。彼氏? ばれたみたいだよ。どうするのかはきみ次第だけど、俺ときみとは仕事のつきあいだと言っておいたから、そのつもりだったらあくまでもとぼけるといい。健闘を祈るよ。言うまでもないけど、メールは即刻削除すべきだね。俺は彼と対決する気はない。さよなら」
 メール送信をしていると、徳永がやってきた。男が歩み去っていくのが見える中、徳永は言った。
「莢子さんってのは……あなたは間男だったんですか。二股かけられてたんですね。みっともねえ」
「返す言葉もないな。俺の弱みを握ったつもりでほくそ笑んでるだろ。よけいなお節介をするな」
 言うが早いか、殴りつけてやろうとしたのだが、予想していたようで身をかわされた。
「俺は悪くないでしょう。弱みを握っただなんて考えてなかったけど、結果的にはそうかな。今夜はごちそうになりますよ」
「なにを言ってるんだ。常に金を払うのは俺じゃないか。合唱部の伝統のひとつだもんな」
「飲み直しましょうか。ところで、金子さんって弱いんですか」
「喧嘩か? さて、今の奴と殴り合ったらどうだったんだろうな。あいつは弱くもないように見えたけど、おまえの身のこなしは鮮やかだったよ」
「でしょ? 俺は弱くはないつもりですよ。なのに本橋は……」
「本橋?」
「いいんです。俺も弱くはないという程度の自信はよみがえってきましたよ。たまにはああやってオスの野性を思い出すのも大切ですね」
「オスのプライドか。つまらん」
「なんとでも言って下さい」
 莢子とは深みにはまる前でよかったのかな、にしても、おまえは僭越だぞ、と睨んでみせると、徳永はそらっとぼけて口笛を吹いた。
 この一幕に徳永が関わっていなかったとしたら、話す相手は徳永だっただろう。が、なにを意図していたのか知らないが、徳永は俺をかばった。徳永の意図を推し量れる能力のある奴、話してもさしつかえのない奴、俺とそれについて議論できる奴。そう考えると乾しか思いつかない。皆実にこんな話をすると怒るかもしれないし、仕事の関係者にできる話ではないではないか。本橋と三沢には会ったのだが、乾にはしばらく会っていないので、呼び出したら来てくれた。
「話す必要もないのかもしれないけど、聞いてくれるか」
 ひとり暮らしのマンションを見回して、乾はにっこりした。
「なんでしょうか。俺がお力になれるのでしたら」
「おまえの推理能力が借りたい。それだけでいいんだよ」
「俺には推理力なんかありませんけどね」
 実名を出すわけにもいかないので、「彼女」として話すと、乾は意外そうな顔をした。
「金子さんってそういうことをするんですか」
「彼女も俺も独身だよ。彼女にも恋人はいないと信じていた。なんら人倫に悖ってはいない。彼女の言を信じた俺が迂闊だったのかもしれないけど、身上調査もしないだろ。おまえはするのか」
「しませんね」
「軽蔑するんだったらしてもいいよ。してもいいけど、徳永の言動だ。なんのためにああいうことをしたんだろう」
「その男の顔色やら雰囲気やらからなにかを察して、先輩の危機だと感じた。よって、金子さんをかばおうとした。徳永は腕力に自信があるんですかね」
「あるような気振りだったな。そういえば、本橋がどうとかも言ってたよ。おまえは知ってるのか」
 ああ、あれですね、と乾はうなずいた。
「徳永が言わなかったんだったら、俺も言わないほうがいいでしょう。ただね、本橋ってのは相当なる猛者なんです。喧嘩にはきわめて強い。喧嘩って腕力のみでやるものではないんですね。テクニックや経験もものを言う。俺は大学生になってからの本橋しか知りませんし、彼が暴力沙汰をやってるシーンはそんなには目撃してないんですけど、たまにはありました。本橋はまず、あの顔と雰囲気で相手を威圧して飲んでかかる。いやぁ、俺も参考になりましたよ」
 本橋には空手家の兄がいる。七つも年上の兄ふたりは双生児だとも聞いた覚えがあった。徳永にも兄がいるのだが、俺は兄貴は大嫌いだ、と彼は言っていた。本橋も兄たちについては相当悪し様に言うが、目が笑っている。本橋は兄たちに屈折した尊敬を抱いているのだろう。
「本橋は兄さんたちに鍛えられたんだな」
「そのようですよ。俺はひとりっ子で、祖母に口を鍛えられるばかりでしたけどね」
 理論派は暴力とは縁がないのかと思っていたが、徳永もああなのだから、乾もああなのだろうか。学生時代に不良少年たちと公園で喧嘩をした、という経験があって、あのときは本橋も乾もそばにいたのだが、あれはたいした喧嘩でもなかった。乾には他にもあるのか? 疑問を口にしてみた。
「おまえも経験あるのか?」
「なくはありませんよ」
「……俺にもなくはないけど、おまえが?」
「金子さんにもなくはない?」
 互いに驚いて見つめ合い、乾は言った。
「まるっきりない男はいないんですかね。こちらがその気じゃなくても、やらざるを得ない場合もありますから。男同士で殴り合う痛みってのは、精神的にも物理的にも人生勉強のひとつとも見なせますよね」
「まあな」
「俺の推理力なんてこんなものですけど、徳永ってのは今さらながら、変な奴ですね」
「おまえもな」
「そうですか。では、金子さんもね」
 たまには乾とも話したいと考えていたのだから、徳永の行為の意味が立証されなくてもかまわない。俺はそう考えていたのだが、乾は言った。
「徳永の言うところによる、オスの本能を思い出すため……それがそうした動機だったとも考えられますけどね」
「オスの野性と徳永は言ったけど、同じようなものだな。そういうのって馬鹿馬鹿しくないのか?」
「こんな言い方は語弊があるのかもしれないけど、若いころにただの一度も殴られたことも殴ったこともない男なんて、信用できないって言うんですかね。男同士でですよ。女性に殴られるのはいいけど、殴ってはいけない」
「女に殴られたこともあるのか」
「ありますよ。女性にってのはこの際いいとして、暴力の経験ってオスとしては必要悪でしょう」
 曖昧にうなずいてから言った。
「おまえの台詞はわからなくもない。あとひとつ……」
「金子さんは世間に名と顔を知られている」
「徳永よりはな。ま、その話題はもういいよ。飲もう」
「金子さんのピアノを聴きたかったんですけど、ここにはピアノは置いてないんですか」
「家にだったらあるけど、グランドピアノを置く広さもないし、買う金もないよ。三味線だったらあるぞ」
 三味線? と乾は問い返し、俺は実物を取り出した。
「端唄の稽古をしてるんだ」
「金子さんが三味線抱えて端唄ですか。なにか聴かせてもらえますか」
「おまえはおばあさんっ子だったんだろ。おばあさんは三味線を弾かれなかったのか」
「うちの祖母は演歌に民謡、フォークソングと、聴くばかりでしたよ」
 もと芸者だという艶なおばあさんに稽古をつけてもらっている端唄を、半端な知識で爪弾いて歌ってみた。

「寝ながらに煙管で開ける連子窓
 あれ見やしゃんせ、この雪に
 鳥もねぐらを離りゃせぬ」

 粋ですねぇ、婀娜っぽいですねぇ、金子さんには似合うなぁ、和服の着流しで芸者さんと差しつ差されつしてるって、金子さんの姿が髣髴としてきますよ、などと乾が言っている。俺はひとくさり歌ってから手を止めた。
「勉強中なんだからこのくらいにしておこう」
「そうですか。んん……俺も金子さんのような大人の男になりたいもんですよ」
「誰が大人だよ。年だけ食ってもどうしようもないだろ」
「そういうものですか」
 さらに乾と話しながらウィスキーの水割りを飲んでいると、インタフォンが音を立てた。
「はい」
「……将一さん」
「ん? 客が来てる。取り込み中だよ。きみとは会いたくないしね」
「そんなこと言わないで。弁解させてよ」
「聞きたくないよ」
「一方の言い分ばかり聞いて、私の釈明は聞く耳持たないの? 私はあんなひとは嫌い。将一さんが……」
 んん、この声は……と乾が耳を澄ましている。タイミングが悪すぎるではないか。乾だってたいへんに聡いのだ。彼女はなおもなにか言っていたが、インタフォンをオフにしようとしたら、乾が言った。
「夜ですよ。こんな時間に女性をひとりで帰らせるんですか」
「深みにはまりたくない」
「見損なってましたね、俺は金子さんを。わかりました」
 横合いから乾が、インタフォンに向かって言った。
「待ってて下さい。俺が送ります」
「誰? お客さま? 私の知ってるひと? ……もしかしたら乾くん?」
 合唱部育ちは耳がいいのだろう。乾の声は特徴的なので、彼女にもわかったのだと見える。乾にもわかったらしい。彼女の名前までは判明しなくても、先刻の話題の主だとは理解したのだろう。
「乾です。あなたがどなたなのかもわかりました。そこにいて下さいね。すぐに出ますから」
「乾、降参するよ。おまえの台詞にも彼女の台詞にも一理も二理もある。片方の言い分しか聞かないのはアンフェアだな。莢子、入れ」
 おや? 入れ、ですか、女性に? と乾が訝しげにしている部屋の中に、思い詰めたような風情の莢子が入ってきた。
「ええと……合唱部にいらっしゃいましたよね? 大野さん?」
「ええ。乾さん、お久し振りね」
「大野さんでしたか。いや、実にご無沙汰しています」
 時ならぬ再会の挨拶をしているふたりを見て、今夜のこれから先を思って、俺はもっともっと強い酒を欲していた。
 

2

 ウィスキーをオンザロックにして、グラスをもてあそびつつ、切々と訴える莢子の声を聞いていた。
「一年前に別れたって言ったじゃないの。彼がそうなのよ。私は別れたと思ってたけど、彼は一時離れて考え直そうってつもりだったのね。私になにか言うわけじゃないんだけど、気配を感じたことはあった」
「俺もあったよ」
「見てたんだね。彼はあなたと私を。そんなら私に言えばいいのに。彼はあなたになにをしたの?」
 さよなら、のメールを送ってから、莢子からも返信が届いていた。最初のメールは読まずに消し、その後は着信拒否にして電話もメールも受けなかった。なのに乾に話したくなったのは、あの男と同様に、俺にも未練があったのだろうか。
「俺にはなんにもしてないよ」
「なにも?」
「話すと長くなるから、きみのほうの話を先にして」
「私も彼とはコンタクトを取ってない。店には来てたし、来てなくても店の近くで気配を感じることもあるけど、気持ち悪いじゃないの。今さら口もききたくないし顔も見たくない。私は彼よりも将一さんに連絡が取りたかったのに、電話もメールも無視するんだもの、我慢できなくなって来てみたのよ。どうせ将一さんは遊びのつもりだったんだろうけど……」
「あのぉ、よろしいでしょうか?」
 居心地悪そうにしていた乾が煙草を取り出すと、ちょうだい、と莢子がそれを奪い取った。
「大野さん、煙草を吸うんですか」
「普段は吸わないけど、吸いたいのよ。苛々するんだから」
「そうでしょうね。どうぞ」
 よろしいでしょうか、とは煙草プラス、口をはさんでもよろしいでしょうか、であったようなので、俺は乾を目で促した。乾は莢子のくわえた煙草と自らくわえた煙草に火をつけ、言った。
「それってストーカーじゃありませんか? 警察には?」
「気持ちのよくない気配は感じるけど、彼は将一さんにも私にもなにもしていないのよ。警察沙汰になんかしたくない」
「恋人だったひとなんですから、その気持ちはわかりますよ。しかし、このままではなにをしでかすか……金子さんにはなにもしてないにしろ、大野さんは彼と話し合ってないんでしょう?」
「話したくなんかないのよ」
 苛立った仕草で、莢子は一服しただけの煙草をすぐにもみ消した。
「そうでしょうけど……徳永がいなかったら金子さんだってどうなってたか……」
「乾、おまえも俺をなめてんのか」
「なめてはおりませんが……一発や二発は殴られてたかもしれないでしょうに」
「徳永くんがここに出てくるってなに?」
 この反応は当然であろうから、俺はあの夜の一件を再び語った。目を丸くして聞いていた莢子は黙り込み、乾が言った。
「恋人だった大野さんにはなにも言わず、相手の男に殴りかかるってのも……決して安全な男じゃありませんよ。金子さん、ここまで聞いても行動を起こさないんですか」
「莢子、お母さんは大丈夫か?」
「母? 母にまで……?」
「まさかとは思うけど、自棄を起こしてもっとも弱い女性にターゲットを向けると考えられなくもないな」
「母は力持ちでか弱くはないし、まだ五十そこそこだから年を取ってもいないし、気丈な女だけどね……どうだろ。そりゃあ、母は徳永くんよりは弱いだろうし……」
「男でも、その際の徳永のような行為は咄嗟にはできませんよ。俺だったら殴られてます」
 自信ありげに言う乾を見て、莢子はくすりと笑った。
「乾くんがストーカーだなんて言うから、深刻な気分になってきた。母と私のドラッグストアは、賑やかな繁華街にあるのよ。近くには屈強な男性もいるし、頼んだら母を守ってくれると思う。母って美人だから、彼女に恋してるおじさんもいるしね」
「大野さんのお母さまが美人なのは、当然でしょう」
「乾くんったらお上手だね」
 昔は知らなかった莢子の家庭事情などというものも、寝物語に聞かされている。乾は知らないだろうから、言ってもいい? と莢子に確認してから話した。
「彼女の母上は未婚の母なんだそうだ。薬剤師をして母の手ひとつで彼女を育てた。苦労知らずのぼんぼん育ちのおまえや俺とは、彼女の家庭はちがうんだよ」
「うちは貧乏じゃなかったよ。母は稼いでたからね。私のできが悪かったから、私学にしか行けなかったのよね。公立大学の薬学部なんて難易度が高すぎて、はじめっからお手上げだったんだから。それでも自宅通学できたから、そんなにはお金はかからなかったかな。私もたいして苦労はしてない。将一さんや乾くんほどじゃないかもしれないけど……乾くんもいいおうちのお坊ちゃんなの?」
「それはいいんですけど、するとつまり、大野さんのお母さまは独身なんですね。美人の中年女性に憧れてて、頼まれれば大喜びで守ってくれるおじさんもいる、と。でも、家に帰ると女性ふたり暮らしなんでしょう?」
「そうだね。母を巻き込みたくないな」
 しばし考えていた莢子は、決意の面持ちになって言った。
「私が彼とつきあってたのは母も知ってるから、正直に話す。母は親戚のうちに預かってもらえるから、そこで寝泊りしてもらうように言うわ。きっとわかってくれる。母にだって経験あるだろうからね」
「大野さんはどうするんですか」
「私自身の問題なんだから、私がなんとかしてみせる」
 まさか彼女の策略ではないだろうが、こうなればこう言うしかないではないか。
「きみはここに来るといいよ」
「ええ?」
「乾も徳永も俺をなめてるらしいけど、小柄な女性よりは強いはずだ」
「将一さん……それって?」
「きみの言う通りだな。俺はあいつが徳永に殴りかかったのを見て、あいつの言だけを一方的に信じた。きみには連絡も取ろうとせずに、きみの好きにすればいいと思ってた。こんな事情だなんて夢にも思わなかったのは、俺がそそっかしかったからだね。信じていいんだね」
 この期に及んでそれは……と乾が言いかけたのを遮って、莢子を正面切って見つめた。
「信じるよ」
「……嘘なんか言ってない。私は……」
「続きはあとにしよう。乾、お疲れさん」
「……はあ、そういうわけですね。金子さんも年貢の納め時とね」
「やかましい。おまえもさっさと年貢を納めろ。うだうだ言ってるとほっぽり出すぞ」
「先輩ってのはこれですからね。では、大野さん、お幸せに」
 気の早い台詞とともに、乾は部屋から出ていった。
「信じるよ、ってのにはいろいろとあるんだけど、きみも信じてくれるかな」
「あなたにもいろいろあるの?」
「恋も遊びもしてないよ。俺にとってはきみがはじめてのひとだ」
「いくらなんでもそれは信じられない」
「なぜ?」
「はじめて女を抱いた男が、あんなにキスが上手なわけないでしょ」
「キスの遊びの経験は豊富なんだよ」
「その先は?」
「きわめて乏しい」 
 嘘、って言うのも虚しいわ、と莢子は嘆息し、俺に身を寄せた。
「過去は過去だと割り切るんだったら信じる。言って」
「……今はきみだけが好きだ」
「私も」
 先がどうなるかはわからないなんて、ものごとはなんだってそうではないか。俺の部屋でかわすのははじめてのひとときをすごしてから、ベッドで莢子に言った。
「そいつのところへ俺を連れてけ。引導を渡す」
「……私が話して……」
「莢子は俺のものだ、手を出したら承知しないぞ、いつまで未練たらたらやってるんだ、って一喝したい。これは本当に俺の初体験の台詞だよ」
「そう? でも、大丈夫?」
「おまえまで俺をなめてるのか」
「きゃ……あのね、将一?」
「お、はじめて呼び捨てにしたな。なに?」
 とりあえず言ってあげる、そんな将一ってかっこいい、と来た。この一件が彼女の計略だとしても、乗せられてやろうじゃないか。そうではないと信じたいけれど、女なんてなにをたくらむか謎で、そういうところがまた、女の魅力だったりもするのだから。こうして年貢を納めるのも、きみとだったらいいのかもしれない、とも考えて、おまえまで気が早いんだよ、とおのれの頭をこっそり張り飛ばしてみた。

 
 危険な男である可能性もあるのだから、暴力を用いないといけない可能性もある。そんなことになるのだったら、皆実か徳永か本橋にまかせて、俺は言葉での援護射撃に回りたいと思わなくもない。
「将一、変装?」
「変装しなくちゃならないほどの有名人じゃないよ」
「そう? ……似合うね」
「ありがとう」
 革ジャンにサングラス、外見だけでも強気の男の扮装をして、莢子を助手席に乗せて車を出した。
 彼女の母親には、彼女が事情を説明した。母親を近所のおじさんや親戚に託すよりも、俺が莢子のもと彼、竹志という名のそいつと直接対決するほうが手っ取り早いではないか、と三人して結論を出し、莢子が手筈をつけて、彼との待ち合わせ場所に向かおうとしているのだった。
「車ではなかったけど、立場も逆だけど、これに近い経験があるんだよ」
 緊張しているようで、表情の硬い莢子に、運転しながら話しかけた。
「将一もストーカーやってたの?」
「そうじゃない。キスの遊びのせいだな」
「やっぱりそんな遊びばっかり……」
「キス遊びは頻繁にしたって言っただろ。あれは大学四年になって、俺が男子部のキャプテンに就任し、交流会に出席した日だ。異種業界交流パーティってのはきみたちもやってるみたいだけど、業界ではなくて異種サークル」
 サークルも多々あったのだから、全員出席とはならなかった。有志のみが出席しているうちの、ロック同好会代表と演劇部キャプテンと四人で話し込んでいた。ロック同好会は男女ペアで、女性は梶さん、男性は柴垣くん、演劇部は男子キャプテンで音羽くんといった。あの日はうちの女子部キャプテン、すなわち、大野莢子は出席していなくて、合唱部代表は俺がつとめていたのだった。
 ロックと合唱は似て非なるものとはいえ、音楽である。演劇にも音楽との共通点はある。観客を前にパフォーマンスを演じるという一点に集中して話していた。
「三人ともいい男だね」
 話が一段落すると、梶さんが言った。
「音羽は苦みばしったいい男。柴垣は今ふうのかっこいい男。金子は顔も声も甘いいい男。三人とも背が高くてわりかしがっしりしてて、あたし、みーんな好みかも。あんまりがっしりしすぎてるのは好きじゃないけど、ほどよい筋肉質で長身って男が好きなんだな。ついこの間、うちの部室にさまよい込んできた男の子がいたから味見してみたんだけど、ちっちゃくて子供で、あんなのぜーんぜん駄目。新入生なんてガキじゃん。やっぱ四年生くらいにならないとね」
「金子、甘いって言われて嬉しいか」
 音羽が問い、俺は応じた。
「声が甘いと言ってもらえるのは、歌を職業にしようと決心している者としては褒め言葉と受け取っておくよ」
「顔は?」
 柴垣も問いかけ、再び応じた。
「顔は甘ちゃんでも、中身が甘くなかったらいいんじゃないのか」
「おまえは中身も甘ちゃんに見えたけど、話してたらそうでもないとは思ったよ。歌を職業にするのか……歌手に?」
「そのつもり、いや、そうなる」
「自信ありそうだな。音羽は?」
「俺はすでに仕事をしてるよ。ローカル深夜スポットだけど、CMに出演したりもしてると言っただろ」
「そうだったな。梶はどうするんだ、卒業したら」
「一年後のことなんか、これからゆっくり考える。ねえ、キスしない?」
 三人そろってぎくりと身を引き、柴垣が言った。
「したくねえよ。こんなところでなにを言ってんだよ、おまえは」
「こんなところって、いいじゃないの、キスくらい」
 そのとき、別のサークルのキャプテンであるらしき女性が声をかけてきた。
「失礼。聞こえてたんだけど、今回は各サークルの親睦を深めるのが目的の会合でしょ? そんな席であなた、不真面目すぎる。だから女は、って言われるのよ」
「あんた、フェミニズムを論じる会?」
「新惑星を発見しよう、って会です」
「天文学?」
「天文学ほど広い範囲でもなくて、新惑星を……」
「恒星じゃなくて惑星? 太陽系の?」
「我々の太陽系の惑星はすでに発見され尽くしてるでしょうが。別の太陽系のよ」
「……女おたくか」
「女パンクスと似たようなものじゃないの」
「似てないよ。あたしは、だね……」
 宇宙おたくとパンクスの女性ふたりが議論をはじめ、俺たちはそっと逃げ出した。梶さんとはキスしなかったのだが、帰り道で
知らない女性のふたり連れに声をかけられた。彼女たちもどこかのサークルの代表者だったのだろうが、聞かなかったので知らない。あるいはモード研究会だとか、トレンド研究会だとか、ファッション関係のサークルだったのか。ふたりとも背が高くて服装のセンスのいい、モデルタイプのスリムな女性たちだった。
「金子さん、あたしとだったらキスする?」
「あたしともしない?」
「キスでしたら喜んで」
 梶さんの声は大きくて、八方に聞こえていたのであるらしい。新惑星女性には非難のまなざしで見られたのだが、キスしようよ、と声をかけてきた女性は他にもいた。
「金子さんってキス研究会のひと?」
「……合唱部です」
 名乗ったのがよくなかったのか、後日、部室にいた俺を名指しで、小柄な男がメモを届けてきた。そこには「合唱部の金子、どこそこまで来い」との伝言が綴られていた。金子といえばリリヤもいたのだが、リリヤは入部したてで、どこかのサークルの奴に呼び出されるいわれはないはずだ。
 どこそことやらへ行ってみると、男が三人いた。うちのひとりがものも言わずに頭突きを食らわせてきて、あとのふたりも殴りかかってきた。あの夜にキスした女性の誰かの彼氏が、噂を聞きつけて俺を殴りたくなって、仲間を連れて報復に出たのであろう。そうとしか考えられないので、俺も応戦した。
「そんないきさつで、喧嘩の経験はなくもないんだよ」
 車の中で莢子に話すと、彼女は呆れ顔になった。
「将一でもそんなことをしてたのね」
「将一でも? どういう意味だろうね。女性はそうやって果たし状をつきつけられたらどうするの?」
「話し合いで解決する」
「そうしたくてもさせてくれなかったんだよ。いきなり攻撃をしかけてこられたんだ。やるしかないだろ。野性のプライドのオスのって言ってる以前に、こっちもやらなきゃ袋叩きにされちまうよ」
「で、勝ったの?」
 いったいどこのサークルの何者なのか、メモを届けてきたのは彼らの後輩なのか。誰一人として口もきかなかったので、なにもかもが謎に包まれていた。三対一とは卑怯千万でもあったのだが、口をきかせてももらえなかったので言う間もなかった。彼らが本橋と皆実と徳永だったら、俺は全身打撲と骨折で入院していたやもしれないが、幸いにもそういった男たちではなかった。
「しばらくやってたらへとへとになってはきたけど、逃げるわけにもいかないだろ。双方へばって、しまいにはむこうが逃げ出した。運動部じゃなかったな、あいつらは。体力がさほどでもなかった。腕力もテクニックもさほどではなかったから、俺もどうにか無事にすんだよ。彼らもたいした痛手も受けなかったんだろ。痛み分けだね」
「怪我をした?」
「多少はね」
「男って……」
 馬鹿だね、と言われる覚悟を決めていたら、莢子は俺の頬に手を当てた。
「馬鹿だね。男ってのはプライドの生き物だって言われるけど、その通りだと思うよ。だからさ、俺にまかせておけ」
「だからさ、って……いやだなぁ。そんな話を聞いたらますます不安になってきた。喧嘩なんかしないでよ」
「奴次第だ」
「やだ。そんなことになるんだったら行くのはやめようよ」
「行くよ」
 帰ろうよ、と言いつつ、莢子はハンドルを握る俺の手をつかもうとした。
「やめろ。喧嘩では死なないけど、事故ってきみと心中する気はないよ」
「……ごめん。だけど……」
「俺が奴にのされたら泣いてくれ」
「泣いて……ないよ。竹志って……私には乱暴なそぶりも見せなかったけど……」
「今日はどうだろうな。万が一俺がノックアウトされたら、110番しろよ。奴は暴行罪で現行犯逮捕。俺も警察に引っ張られるだろうけど、そうなったらそうなったときのことさ」
 べそをかくのをこらえているような顔で、莢子は言った。
「そんな気だったの? それって短絡的じゃない? 将一は世間に名も知られてる。スキャンダルになっちゃう」
「スキャンダルが怖くて恋ができるか」
「……恋?」
「惚れてもいない女のために、こうして車を走らせるほど酔狂な男じゃないよ」
「……将一?」
「それもあとで」
 東京ベイエリアのひと気のない場所に、一度だけはっきりと見たことのある男が立っていた。竹志は二十六歳だという。薬品会社の営業マンで、新入社員のころから莢子と母親が経営するドラッグストアに出入りしていた。今春、東京本社から千葉営業所に配置換えになり、担当も変わって莢子の店はエリア外となった。
 いっそ遠くの営業所へ転勤になればよかったのだが、千葉ならば近い。とうに別れたつもりでいた莢子の店にも、たびたび仕事にかこつけてやってくる。莢子は事務的に応対していたのだが、彼は別れたつもりはなかったのだろう。そのくせデートに誘うでもなく、じっとりした目つきで莢子を見る。時には気配ばかりを寄越す。
 彼と莢子が恋人同士だった時期があったのはまぎれもなくて、彼に莢子への未練があるのもまぎれもない。どうするのが最善かの判断がつけられなくて、酒場で会った徳永に殴りかかった。徳永を俺だと誤解したのは徳永の勇み足のせいもあるが、そそっかしいといえなくもない。
 車を駐め、先に歩き出そうとする莢子を引き戻して俺が前に立ち、竹志と向かい合った。背は高いほうだが、俺よりは小さくてすらりとしている。おどおどしているようにも見えた。
「……あのときの?」
「そうだ。莢子はきみとは縁が切れたと言ってる。一年も前になんだろ。潔く諦めろ」
 あのときとは別人じゃないのか、と考えているのかもしれないが、そうは言わず、竹志はくちびるを噛み締めた。
「俺を殴って気がすむんだったら、一発ぐらいはいいよ」
「……やめてってば」
「おまえは黙ってろ」
 背中ごしに言うと、莢子が俺の二の腕あたりをつかんだ。
「私の問題なのに……」
「俺が話をつけるつもりで来たんだ。おまえは引っ込んでろ」
「竹志くん……ごめ……」
「あやまるな。莢子が悪いんじゃないだろ。恋が破綻するのは、どちらが悪いんでもない。俺が割り込んだわけでもない。竹志くんと終わってから、莢子と俺はこうなったんだ。竹志くん、どうする?」
 うつむいて、なにも言わず、竹志は背を向けた。
「二度と莢子につきまとうな。約束しろ」
 こくこくっと首を上下させて、竹志は歩み去っていく。莢子がぽつんと呟いた。
「……かわいそうになってきちゃう」
「情けは禁物だ。切れたいんだろ」
「そうなんだけど……将一ってああいうときは迫力もあって毅然としてるのね。かなわないと思ったんじゃないの? 彼にだって男のプライドってあるんだろうし、なんだかかわいそう」
「きみを取り合う男ふたりの対決だもんな。見てていい気分だったんじゃないのか?」
「……そういうところって嫌い」
 毅然として見えたのはポーズだよ、とは言うまでもないだろう。自暴自棄になった竹志との暴力沙汰もあるかと考えていたので、肩透かしを食らわされた気分もあった。
「かわいそうだなんて、傲慢な台詞だよ」
「そうかもしれないけど……将一ってほんと、憎らしい。ひっぱたいていい?」
「あいつのかわりに?」
「……そうじゃないけど……わけわかんなくなってきちゃった」
「こっちにしよう」
 ん、とうなずいた莢子を抱きしめてキスをかわした。


3

 女の子三人の母となっているリリヤが、クリスマスの数日前に電話をしてきた。
「今年のクリスマスは仕事?」
「イヴはオフだよ」
「クリスマスって歌手は滅茶苦茶に忙しいんじゃないの? お兄ちゃんってまだまだ売れてないんだね」
「まだまだだよ」
「じゃあ、うちに来ない? どうせデートもないんでしょ? パパもたまにはお兄ちゃんと飲みたいって言ってるよ。高いシャンパンを奮発しちゃう」
 パパとは、リリヤの夫、黒木哲平である。ユリカ、マリン、サリナ、と名づけられた三児の父でもある。大学を卒業したらリリヤとの兄妹デュオでプロデビューすると決まっていた俺の前から妹を拉致していき、俺を奈落の底に突き落とした犯人だ。当時の俺には哲平は犯罪者以外のなにものでもなかったのだが、ソロシンガーとしてのデビューも果たし、三十路に達した俺は、いつまでも拘泥しているわけではない。
 「できちゃった結婚」ってやつで結ばれたふたりは、かたや子育てと主婦業、かたや俺の両親の事業の協力者として忙殺されている。哲平は黒木家の三男なので、彼の姓を名乗っているものの、事実上は金子家に婿養子に入ったに等しい。哲平のおかげで長男である俺は、親の店には関知せずにいられるのだから、感謝すべきでもあるのだ。
 黒木リリヤ二十七歳、黒木哲平三十四歳の齢となり、ともにかなり太って、中年夫婦の様相を呈してきている。金子将一さんってリリヤさんの弟さん? と言われたと、リリヤがいつか怒っていた。
「お兄ちゃんって昔からかっこよかったし、今も前よりかっこよくなってて、私には自慢のお兄ちゃんなんだよ。合唱部でもうらやましがられた。なのになんでだかもてなかったんだよね」
「おまえの面倒見るので手一杯で、彼女を作る暇がなかったんだよ」
「ファンクラブはあったけど、生身の女性にもてないんだよね。クリスマスもいつだってひとりぼっち。だから、うちでパーティしようよ」
「俺に子守りをさせるつもりか。今回は遠慮させてもらうよ」
「ええ? デート?」
「男同士でな」
「そんなのつまんないでしょ?」
「つまる」
 去年のクリスマスには、生まれ育った家で両親とリリヤ一家、合計七人がパーティをやっていた。仕事を終えて顔を出すと、父がユリカを、哲平がマリンを、母がサリナを抱いてなにやら言い聞かせていた。
「ユリカはお姉ちゃんなんだから、妹たちを可愛がってあげないと駄目でしょ。サリナにも貸してあげなさい」
 これはおじいちゃん。
「マリン、電車はこわれてないよ。大丈夫だからね」
 これはパパ。
「おー、よしよし、泣かないのよ」
 これはおばあちゃん。サリナには言い聞かせても通用しないので、祖母がひたすらあやしていた。
「いつに変わらぬ平和な光景だな」
 ユリカが六歳、マリンが四歳、サリナは二歳で、三人の幼女はみんなが泣いていて、リリヤは言った俺をぎろっと睨んだ。
「平和なんかじゃないよ。おじいちゃんとおばあちゃんが子供たちにプレゼントをくれたのね。ユリカにはお人形、マリンには電車のおもちゃ、サリナにはぬいぐるみ。そしたらサリナがお人形のほうがいいって。とりかえっこしてって。マリンはお人形には興味ないから、電車で遊んでた。お姉ちゃんがとりかえてくれないから、サリナが怒ってマリンの電車を蹴飛ばしたの。それから大騒ぎ、そろって大泣き。頭痛がするよぉ」
「おまえにそっくりの娘たちだ」
「私はお兄ちゃんがもらったクリスマスプレゼントになんか……」
「忘れたのか。あったじゃないか」
 小学校六年生のクリスマスだった。三年生だったリリヤはサンタクロースを信じていた。信じていると両親は信じていて、俺に釘をさした。
「リリヤはサンタさんを信じてる純真な子供なんだから、将一、本当のことを言ったらいけないのよ」
「おまえはもう知ってるだろうけど、リリヤがもらうプレゼントはお母さんとお父さんからじゃなくて、サンタさんからの贈り物なんだから」
「僕にはサンタさんはプレゼントをくれないの?」
「信じてない子にはくれないの」
 そうして人間は大人になっていき、現実のきびしさを知るのだと、十二歳の俺は考えていた。クリスマスの朝、リリヤは外国製の精巧なドールハウスを俺に見せた。
「サンタさんにもらったよ。お兄ちゃんはなにをもらったの?」
「僕はお父さんにラジカセをもらった」
「ラジカセ? うちにはステレオがあるのに」
「僕専用のだよ」
「……いいな。リリヤもそれがいい。取り替えて」
「やだよ」
 そこから喧嘩になって、リリヤはヒステリーを起こして、ドールハウスをラジカセにぶつけてばらばらにしてしまった。
「なにすんだよっ。せっかくサンタさんがくれたんだろ」
「うわーん、お兄ちゃんがーっ!!」
「おまえがやったんだろっ!!」
 兄妹喧嘩を聞きつけた両親がやってきて、お兄ちゃんがやった!! と言い張るリリヤの言葉を全面的に信じた父にこっぴどく叱られて、ラジカセを取り上げられた。
「おまえは今年はプレゼントはなしだ」
「お兄ちゃんったらね、自分でやっといてリリヤを叩いたんだよ」
「将一、あんたが悪いのに妹になにをするのっ!」
 叩いてないよ、やってないよ、と言っても無駄なのでふてくされていると、母にはほっぺたを張られた。リリヤは勝ち誇ってさらに言った。
「この間だって、リリヤが教科書にいたずら書きしたからって叩いたの」
「将一……」
 それは本当だったのでいいわけできないでいると、いたずらをしたリリヤは叱りもせず、父は俺ばかりを叱り、この間も、この間も、とリリヤがあることないこと言いつけたので、部屋に閉じ込められて外出禁止を言い渡された。
「リリヤはサンタさんにプレゼントをもらったのよね。悪いお兄ちゃんにこわされちゃったから、お母さんがかわりのプレゼントをあげるね」
「うん。リリヤもラジカセがいいな。それ、ちょうだい、お父さん?」
「別のを買ってあげるよ」
 部屋に鍵をかけられて、両親はリリヤを連れて遠ざかっていった。クリスマスだってのに一日中、部屋で勉強してなさい、と申し渡されて、母に叩かれた頬をさすりつつ、ベッドに寝転んでリリヤを罵倒していると、昼すぎにノックの音がした。
「勉強中だよ。立ち入り厳禁」
「鍵は外からかかってるから開けられるよ」
 ドアが開き、サンドイッチと紅茶をのせたトレイを手にしたリリヤが入ってきた。
「お父さんもお母さんも怒ってるから、お兄ちゃんはお昼ごはんも抜きだって言ってる。内緒で持ってきてあげたよ」
「俺も怒ってるんだよ。昼メシなんかいらねえよ。出ていけ」
「俺とかメシとか言ったらいけないんだよ」
「いいんだよ。俺は男なんだから。男なんだから、兄貴なんだから理不尽な親の怒りにも耐えるんだよ。メシなんかいらねえんだ。出ていけ。本当に殴るぞ」
 うっ、うっ、うっ、とリリヤが嗚咽を漏らし、途切れ途切れに言った。
「またお兄ちゃんが叩くぅ、って言ったら、お父さんに……」
「言いつけろよ。その前におまえをほんとにひっぱたいてやろうか。それから俺は家出するから」
「……いたずらしたときはほんとに叩いたじゃないの」
「あんなの、叩いたうちに入るか。頭をこつっとやっただけだろ。あんなんじゃなくて……俺の顔みたいに……」
「お母さんが叩いたのだって、そんなにきつくなかったよ」
「お母さんも女だから、たいした力はないけど、ひりひりするんだよ」
「そおお? ちょっと赤くなってるね」
「さわるな」
 妹なんかいらないよ、妹なんか大嫌いだ、と恨みがましく呟いたら、リリヤがまたしても泣いた。
「やだ。そんなのやだ。家出したらやだ」
「小学生がひとりでなんか生きていけないよ。わかってるんだ。早く大人になりたいな」
「大人になったら家出するの? リリヤも連れてってくれる?」
「おまえは一生ここにいろ。お母さんやお父さんに甘えてたらいいんだよ」
「お兄ちゃんは甘えてないの?」
「今は……そりゃあ、甘えるときもあるけど……大人になったら……大人になりたいな。ひとりで生きていけるようになりたいな。おまえも大人も大嫌いだ。出ていけ」
「うん……あのね、あの……ごめ……ちがうもん。リリヤもお兄ちゃんなんか大嫌いだよっだ」
 ごめんと言いかけたのかもしれないが言わずに、リリヤはサンドイッチを置いて部屋から出ていった。食べるもんか、と意地を張っていたのだけれど空腹には勝てず、冷めた紅茶とサンドイッチを口にしたら、生まれて初めてほどの美味に感じられた。あとから父に再度説教されて、ラジカセは返してもらった。兄ちゃんなんだから我慢しろよ、と父が言っていたのは、いくぶんかは両親も察していたのだろう。
 兄妹喧嘩はものごころついたころから、リリヤが結婚して家を出ていくまで、何度も何度もやった。ともに大学生になっても、人前でまでやって、後輩たちに諌められたこともある。仲のよすぎる兄妹だと揶揄されたりもした。今ではリリヤの分身が三人もいる。兄妹と姉妹三人では喧嘩もちがってくるのだろうけど、リリヤの娘たちを見ていると、幼少時のリリヤが思い出されてならないのだった。
 そんなこんなの想い出をよみがえらせながらも、今回のパーティには行かないよ、と言ってリリヤとの通話を切った。三十回目のクリスマスイヴにして実にはじめて、今年は女とふたりきりだ。竹志もあれからつきまとわなくなっているようで、莢子は実家に戻っているのだが、将一の部屋でふたりでクリスマスパーティしようね、ご馳走を作るね、と言ってくれている。
 お兄ちゃんはもてないから、と言うリリヤに莢子を紹介して、びっくりさせてやりたい気もするが、年が明けてからにしよう。改めて一席設けないと、リリヤの小型が三人もいる場所では落ち着いて話せないのだから。


 彼らとは込み入った話をする機会もないままに時がすぎ、初夏のある日、俺はフォレストシンガーズのライヴ打ち上げが行われていると聞いた居酒屋を訪ねた。行きつけの店なのだそうで、貸切になっていた。
「いいステージだったよ」
「金子さん、聴いて下さってたんですか」
 真っ先に出くわした本庄に声をかけると、彼は直立不動で丁寧なお辞儀をした。
「ありがとうございました」
「おまえはあいかわらず礼儀正しいな。飛び入り、いいか?」
「大歓迎です。えーと……先輩たちはまだ来てないんですよ。本橋さんと乾さんは事後打ち合わせ中でして、幸生と章はあっちで歌ってます」
 ステージで歌い続けたあとでも歌いたいのだから、彼らは根っからの歌好きなのだろう。本庄とふたりで居酒屋の片隅にすわった。
「おまえとは久し振りだな。どうだ、近頃は?」
「はい、あの……俺、結婚が決まりました」
「そうか。おめでとう。相手は? ひょっとしてラジオのペアの彼女か」
「な、ななな……な、なんで……金子さんは乾さん以上の……」
「あれ? 当たり? まぐれだよ」
 徳永が深夜放送をやっている同局で、フォレストシンガーズが二名ずつに分かれて早朝放送を担当している。本橋と乾、三沢と木村がペアになり、五人の彼らの中では本庄ははみ出した。本庄が組んでいるのがテニスプレイヤーの川上恭子さんだ。俺も放送を聴いたことがあって、なんとなし漂う彼女と彼のムードが、ひょっとして……と思わせた。
「川上恭子さんか。お会いしたことはないけど、お名前は耳にしていたよ。可愛らしい声の女性だな。見た目も可愛いひと?」
「ええ、まあ、俺には……」
「おまえにとって可愛いひとなんだったら、なによりじゃないか」
「そうですね。可愛いっていうのか、口が達者で負けますけど、明るくて朗らかで……」
「結婚したら尻に敷かれるな」
「まちがいありませんね」
 嬉しそうだ。
「他の四人は?」
「よくは知りません。本橋さんも乾さんももてるでしょ。金子さんももてもてなんでしょうけど、うちの先輩たちもたいしたものでしてね。幸生も章もああ見えてなかなかもてるんですよ。だから盛んなんでしょうけど、章以外は話してくれないんです。彼女ができても別れたりなんだのかんだの……だろうな、と俺は思ってますけど、どうなんでしょうね」
 若いころから現在まで、木村についてはほとんど知らない。小柄だが鋭角っぽさと翳りもある顔立ちをしていて、もとロッカーなのだからもてるだろう。彼にはアマチュア時代からの熱烈ファンがついていて、それが逆作用してファンにつっけんどんにすると、本橋や三沢が嘆いていた。
 乾は学生時代から女性人気は抜群だった。身長もそこそこあるし、顔立ちも悪くはない。人当たりがやわらかで、女性には紳士的に対する。あの物腰に女がだまくらかされると徳永が評していたが、彼は純な男の一面も持っているのではあるまいか。
 有限実行、威圧感と存在感の強い本橋も、あのタイプの男が好きな女性にはもてていた。長身筋肉質、顔は怖いが野性的で精悍で、男のプライドも本能も強いと見える。が、本橋はどこか醒めている。女なんかより仕事が、歌が大切だと、学生時代から考えていたと思われる。仕事優先、ワーカホリックってやつだ。
 三沢もある面、醒めているのではないか。彼の恋愛感は知っているとは言いがたいし、奇態な言動で人を欺くのでわかりづらいのだが、恋愛一直線の男ではない気がする。
 人を欺くといえば徳永もだ。彼はいまだひたすら謎。女性経験は豊富なはずだが、恋愛ではないのだそうだ。そうすると俺もか。女との恋愛遊戯は男の性欲処理にすぎないと、徳永はニヒルな口調で言うが、俺はそこまでは考えてない。恋は野となれ山となれ、が俺の心理であろうか。自分でもわかっていないのかもしれない。わかっているのか否かもわからない。
 その点、結婚するからとフォレストシンガーズを脱退した小笠原と、結婚すると報告して嬉しそうな本庄は、恋には一途な男なのだろうか。
 さしてよく知りもしない彼らだが、木村と三沢以外とは学生時代にも触れ合いがあった。同業者となった現在では、小笠原以外とはその気になれば話せる。今後も観察を続けていけそうだ。俺が黙っていると彼も黙っている本庄と向き合って、過去から現在に至る彼らの印象、とりわけ恋愛方面を反芻していると、本庄が言った。
「結婚式には出席していただけますか」
「いつ? 悪い。その日はライヴツアー真っ最中だ。東京にはいないから出席できないよ」
「残念ですね。徳永さんも無理かな」
「徳永は呼ばないほうがいいよ。おまえはいいけど、本橋と乾にこだわってるから」
「どうしてそうなんですか」
「さあねぇ。俺にも徳永は謎なんだよ」
「金子さんでも、ですか」
 哲平と出会う前のリリヤは、本庄に恋をしていたのだろうか。俺が妨害に出なかったとしたら、ふたりは恋に墜ちていたのだろうか。そうしていたら俺の運命もちがっていたのかもしれないが、今さら言ってもなんの意味もない。
「金子さんは?」
「恋愛話か? 乾がなにか言ってたか」
「いえ、なにも」
 口止めはしなくても、乾があんな話を吹聴するはずはない。みんな来てからにしよう、と言うと、本庄は深くは尋ねずにうなずいた。そうしていると木村と三沢もやってきた。
「金子さん、お久し振りです。いつお会いしてもかっこいいですね」
 軽く言ったのは三沢で、木村は固い口調で言った。
「こんばんは。ご活躍のご様子で……」
「売れてないよ、俺も」
「俺らよりは売れてるでしょ」
「俺らは比較対象にならないの。章、おまえにそう言われても金子さんは嬉しくもないってさ」
 たしかに彼らは、近頃ようやくぽつぽつと知られてきた程度ではあるが、なに、俺も五十歩百歩だ。三沢と木村も近くの席にすわり、俺は木村に問いかけた。
「おまえは大学時代の話は忘れたって?」
「たいてい忘れてますけど、覚えてることもありますよ。たとえばね……俺が退部するって、渡辺さんに言いにいったときとか」
 俺が卒業してから、三沢と木村が合唱部に入った。当時のキャプテンは法学部の秀才、渡辺だった。彼は学業成績優秀で、もっといい大学にも行けただろうに、と噂されていたのだが、歌のほうは抜群とは行かなかった。木村と三沢は彼が目をかけていたと耳にしている。渡辺は高倉さんタイプのキャプテンで、逸材を見出すのに情熱を燃やしていたらしい。
「引き止められたらうざいな、だとか、正直、勝手にしろって言われたらそれはそれで寂しいかも、だなんて、複雑な心境でもあったんですよ」
「渡辺はなんと応じた?」
 本庄と三沢は知っているのだろう。木村は俺の顔を見て話した。
「惜しいな、だったかな。長いこと考えてましたよ。沈思黙考っていうんですね。シゲさんにはできるけど、幸生には死んでもできない技だな」
「章、脱線すると金子さんに殴られるよ」
「金子さんって後輩を殴るんですか」
「殴られるよ。シゲさんも殴られた?」
「殴られたことなんか一度もないよ。幸生、おまえはまた嘘ばっかり……」
「ほんとだもん。ね、金子さん?」
「こうか」
 殴ってほしいんだったらやってやろうと、三沢の頭をぼかっとやると、三沢は黄色い悲鳴を上げ、本庄が尋ねた。
「あの、脱線ついでと言うとなんですけど、金子さんってリリヤさんも殴ったんですか」
「ああ、しょっちゅうやってたよ」
「いけませんよ、それは」
「昔の話だ。今ではリリヤは膨張したから、とっつかまえられない」
 膨張にしてもひっぱたいたにしても、本庄は疑わしそうにしている。膨張は事実だが、ひっぱたいたのはガキのころに頭をこつんくらいで、本庄に兄妹喧嘩を目撃されたときも、考えただけで手は上げなかった。リリヤが叩かれると言い募ったので、あのときの本庄は信じていたのだろう。木村は顔をしかめてなにか言いたそうで、三沢は半信半疑のふうに見えた。
「脱線はここまでにして、木村、続きは?」
「はい。でね、沈思黙考していた渡辺さんは、そうか、惜しいけど止めないよ、これからも別の道でがんばれ、って……安心したような、拍子抜けしたような気分でした。それから俺は大学もやめて、ロックバンドをやって……大学時代なんて完璧に忘れてました。そのつもりでした。だけど、バンドも挫折して打ちひしがれて、そのころの彼女とふたりで部屋でうらぶれてて、そしたら口から歌が出てきたんです」
 どうしてこんな歌を? とおのれの口をついた歌が不可解だった。その歌は「ラヴミーテンダー」だったと木村が言うと、三沢も言った。
「本橋さんと乾さんが歌ってたな。おまえ、忘れたって言ったじゃん」
「忘れたつもりだったんだけど、忘れてなかったんだよ。歌ってたら……俺、いまだに吹っ切れてないけど……いまだに成功もできてないんだろうけど、ここまででいいでしょう、金子さん?」
「金子さん、章の台詞の続きを推測できます? 乾さんだったらできるはずですよ」
「挑戦してんのか、三沢? そうだなぁ」
 推測だったらできるけれど、木村の想いはいつか、彼自身が口にすべきだ。
「ちっぽけなできごとにしろ、その渦中にいれば重大そのものだと思えた出来事にしろ、誰にだって若いころにはいくつもいくつもの出来事があるんだよ。俺なんかは金に困らない家で甘やかされて育って、学生時代も順風満帆だった。なんの苦労もしてない。卒業してからも楽しくすぎていく日々の中で希望をかなえた。こんなにも幸せな男は逆境にはもろいんだろうな。これからかもしれないよ」
「逆説っぽい気もする」
 分別臭い顔になった三沢が言い、どういう意味だよ、と本庄が問い返す。三沢も見かけどおりの軽い奴ではないのだろう。木村もこれからは観察できる。同業者となったのは、今後も彼らを観察していけよ、との天の配剤か。観察したからといってなにがどうなるのかは知らないけれど。
「木村」
「はい」
 顔を寄せてきた木村の頭もごつんとやると、三沢が言った。
「あ、あれね。章はあいかわらずだから、リーダーの代理で殴って下さったとね。章、感謝しろよ」
「なんで殴られて感謝するんだよ」
「リーダーのさらに先輩の金子さんが、おまえを叱ってくれたんだよ。ファンの方々に対する言動が変わってないからだ。前にリーダーとふたりで、金子さんに告げ口したんだよ。覚えてて下さってありがとうございます」
「ひでえ。だから先輩って嫌いだよ」
「口答えしてみろ。抗ってみろよ」
 三沢に挑発されて、木村はもごもごと口の中で反抗し、本庄は言った。
「金子さんにはそういうところがあるんですね。俺も認識を新たにしました。でも、妹さんには穏便にお願いしますよ」
「リリヤはとうに俺の手からは離れたよ」
 もしかしたらおまえも好きだったのかもしれない、本庄も結婚するんだってよ、と告げたら、リリヤはなんと言うだろう。リリヤ? 金子さんの妹さんがどうしたって? と木村が三沢に問いかけ、三沢は聞こえぬふりをし、本庄は焼き鳥にかぶりついていた。


4

 芸術学部で本式に芸術方面の学問を積んだ者もいる。たとえば高倉さんは、音楽科出身で現在は音楽プロデューサーとして台頭しつつある。以外にも趣味的にサークルでやっていてプロになっている者もいて、そのひとり、音羽吾郎も母校では俺と同年。異種サークル交流会で、演劇部と合唱部のキャプテンとして知り合って親しく話すようになっていた彼は、学生時代から俳優活動をしていて、現在では中堅どころの売れっ子だろう。
「おまえたちは音羽は知ってるよな」
 年少組の三人と話していたら、年長組の本橋と乾も居酒屋に到着して、学生時代の友人たちの話題が出た。三沢と木村は音羽とは在校期間が重なっていないのだが、知っていると言った。本庄も知っているようだし、本橋と乾はむろん知っているはずだ。
「ほら、この間話しただろ。演劇部の音羽だ」
 今年のはじめに、映画に端役で出演しないかとの打診があって、音羽に相談した。いいじゃないか、やれよと音羽は言い、彼をマンションに伴って帰ったら莢子も来ていて、ふたりを引き合わせた。
「映画に出たんですか」
 三沢が身を乗り出し、乾も言った。
「なんの役ですか。金子さんだったら二枚目が似合いますよね。時代劇の浪人役なんてのもよさそうですよ」
「通行人Aって役どころだったんだけど、その仕事は事務所サイドから断りを入れたよ。興味はあったんだけど、シンガーとしても一人前でもないのに、映画なんて早い。売れてから考え直すよ。映画はいいんだ。問題は音羽だ」
「音羽さんがどうかしたんですか」
 本橋にも問われ、俺は思い出していた。
 あの夜は莢子と音羽と三人で飲んで話し、今夜のように学生時代の話題も頻出した。莢子にも演劇部に友人がいたと言い、懐古と切なさがいりまじった表情になっていた。
「莢子、その友達って男だろ」
「女の子よ」
「なんて名前? 俺たちと同い年? だったら俺は覚えてるよ。誰?」
「音羽さんったら追求しないでよ」
「女の子だったら追求してもいいじゃないか。金子、怪しいよな」
「過去はいいんだけどな」
「そうよ。将一にだって過去は多いんだから」
「莢子さんにも多いのか。きみらだったらそうだろうな」
「おまえは人のことが言えるのか」
「俺はもてなかったから」
 過去は過去だからいいのだが、いつしか莢子の態度が変化していった。デートの約束はすっぽかす、行くと言っては来ない。来たとしても心がどこかに飛んでいっている。莢子は母親と同居しているので、こちらからは訪ねていきにくい。そんなある日、莢子の母親の梅子さんから電話がかかってきた。
「将一さん、結婚しないの?」
「莢子さんとですか。結婚してもいいんですか」
「いいわよ。莢子の仕事に支障を来たさないんだったら、同棲でも結婚でもご自由に。プロポーズしたの?」
「してません」
「早くしないと知らないからね」
 母親は娘の変化を見抜いていたのか。それから数日後に莢子が俺の部屋に来た夜に、俺はベッドで彼女をきつく抱きしめた。
「ちょっと……苦しい。なにするの?」
「全身骨折させてやりたい」
「なによ。離してよ」
「離したらどこかへ飛んでいくんだろ。こうしてたって、きみの心は身体を抜け出してる。なにかあっただろ。正直に言わないともっと力を込めるぞ」
「離して」
 裸のままでベッドから出て、莢子は鏡に向かった。メリハリのついた、しなやかで見事な身体のラインが俺の目を射る。髪をとかし、口紅をつけ、ローズピンクのくちびるが鏡の中で動いていた。
「大人は好きだのなんだのって言わないものだって、あなたが言ったのよ」
「俺は好きだと言った」
「言葉遊びでしょ。あなたはなんだって遊びにしてしまう。そんなら私も本気になんかならない」
「どっちにも遊びで二股か」
「二股だなんていやな言い方しないでよ」
「……俺は今はきみだけだよ」
「私もよ」
 けろりと言ってのけるのを聞いていたら、古い歌を思い出した。

「まつげに涙いっぱいにためながら
 あなたにだけはわかるはずなのと訴える
 あなたは気絶するほど悩ましい

 ああ、嘘つき女と怒りながら
 僕は人生かたむける

 うまく行く恋なんて恋じゃない
 うまく行く恋なんて恋じゃない」

 その歌のまんまになってきた。頭の中では歌が聞こえ、目には莢子の裸身が見える。莢子は目に涙をため、それでいて泣き出しはせずに言った。
「私はあなたが好きよ。あなたも私が好きでしょ。それでいいじゃないの。こうしていたらあなたしか見えない。あなただってそうでしょ? そんなあなたにだったらわかるだろうに……」
「鏡の中のきみ自身も見えてるだろ」
「ここに来てよ。そしたらあなた自身も見える」
「見えるよ。間抜け面の馬鹿男が見える。あなたは気絶するほど悩ましくて、俺はあなたに人生かたむける。それも人生と割り切るか」
「なんなの、気絶するほどって?」
「おまえの姿態は俺の人生かたむけるに値するほど、気絶するほど悩ましくも色っぽいって言ってるんだよ」
「……なにが言いたいの?」
「うまく行く恋なんて恋じゃない。ぱくりだな」
「なんのぱくり?」
「知らないか。それは僥倖だ」
「将一、変」
「変でなかったら、おまえになんか惚れないよ。好きだ好きだ好きだ、好きだよっ」
 そうさ、このままでいい。うまく行く恋は恋ではないのだから、嘘つき女に人生をかたむけるのも恋なのだから。俺にしたってこんな男なのだから。
「音羽さんがどうしたんですか」
 またもや本橋が問いかけ、俺は笑ってみせた。
「俺は失言が多いな。いいよ、おまえたちとは無関係だ。本橋や乾も音羽とは関わりがあったんだろ」
 同業ではないが、近い稼業についてから、音羽からは聞いていた。
「俺が演劇部で頭角をあらわしつつあった三年の夏に、本橋と乾には会ってるんだよ。彼らは一年だったな。合唱部の一年生にたいした実力の持ち主がいる、一年生のくせに大抜擢されてデュオを組んで、合唱部のイベントでステージに立つって聞いたんだ。俺は演劇部だから畑違いだけど、なんとなくライバル心を燃やして、イベントに足を運んだ」
 よその部にまで彼らをライバル視していた男がいた。実際、おまえたちってたいした奴だったんだな、と俺が思っていると、音羽は続けて言った。
「ジャンルは別々だけど、いっそうライバル心が燃えたね。俺はそのころからちょこちょこプロの俳優としての仕事ももらってて、彼らは単なる合唱部の一年生デュオだったんだけど、いずれは……と思った。だからチャンスを探して、俺は彼らに声をかけたんだ」
 うまいんだな、おまえら、プロになるのか、と音羽は彼らに話しかけた。
「……ええと、同じ大学の方ですか。あ、もしかしたら演劇部の音羽さん? 三年生ですよね」
 気づいたのは乾が先で、あの音羽さんか、と本橋も目を見張った。
「ああ、音羽だよ。本橋と乾だな。覚えておくよ」
「……はい、あの、なにか?」
「いいんだ。じゃあな」
 会話はそれっきりだったのだが、音羽の心には、本橋、乾の名がしっかりと刻み込まれた。
「正式にプロになったのは俺が先だった。俺はわりあいじきに売れた。それから何年かして、フォレストシンガーズってヴォーカルグループの名前が聞こえてきた。俺と同じ大学の出身だとも聞いた。彼らはテレビなんかには出てなかったから、CDを探して聴いたんだ。本橋と乾が参加してるはずだって確信があって、写真を見たり予備知識を仕入れたりはせずに歌を聴いた。シングルCDだったな。「あなたがここにいるだけで」。デビュー曲だろ」
「そうだよ。俺もその歌を聴いて、あいつらもデビューしたのか、よかったなってのと、俺は後れを取ったって、悲喜こもごも気分を味わったもんだ」
「あのころはおまえを知らなかった。おまえもプロになったんじゃないか」
 そんな音羽が恋のライバルにもなったのか。いや、ライバルなどとは考えずにおこう。彼は彼、俺は俺として、二股かけられてるとは知らないふりをして、莢子とつきあっていればいいのだから。
「覚えてますよ。あの音羽さんと、金子さんは友達だったんですね」
 乾が言い、本橋も言った。
「演劇部では有名だった音羽さんに話しかけられて、ちょっとばかり嬉しかったんですよ。うまいな、って言ってもらったんでした。けど、だからなんなのかわからなくて、音羽さんはじきに歩いていってしまったんです」
「音羽がおまえたちに声をかけたときは、俺も彼とは親しくなかったんだ。後に話して親しくなった。そんな音羽がなぁ……」
「金子さん、音羽さんとなにか?」
「乾、おまえはくわばらくわばらだ。乾も三沢もむこうに行け」
 くわばらさんって誰? と三沢がありがちな突込みを入れ、本橋に頭をはたかれている。乾は俺の顔をじーっと見た。
「金子さんはご結婚は?」
「あんな女と結婚なんかできないよ。それだけは避ける」
 あんな女? と乾以外の四人も不審そうに俺も見つめる。これで多少は、乾はこの話題から莢子と音羽を結びつけたのかもしれない。まったくくわばら乾だ。しかし、女の不可思議さとはまるで別方向の不可思議さを持つ彼らは、莢子に悩ましくさせられるよりも健康的な悩みを与えてくれる。だからこそ人生は面白いんだよ。女に狂わされてばかりじゃ肉体も精神もぼろぼろになっちまう、とひとりごちてみた。


 幕開けは乾隆也朗読の詩だった。

「水晶の月
 蒼ざめた双眸が
 月のおもてに映る
 したたるしずくは
 誰の涙?」

 もともとの作品とは登場人物の名を変えてあるのだが、彼らの境遇が我々に近いと感じたのは沢田愛理で、彼女が提案して、フォレストシンガーズの五人と俺がラジオドラマに出演する運びとなった。
 エリちゃんがアナウンサーとして勤務するラジオ局が一般公募し、応募作の中から大賞を受賞したのが「水晶の月」だった。大学の寮に集う男子大学生五人がフォレストシンガーズ、全員大学新入生。寮長の四年生が俺の役柄だ。途中から加わる女子学生役がエリちゃんで、ラジオドラマは初体験の者ばかりだった。
「なに、それ? ご詠歌?」
 寮のベランダで詩を朗読している乾のそばに、三沢がやってくる。持ち前の少年っぽい高い声をぐっと低めて、陰険な口調で言う。
「詩? 誰が書いたの? おまえ? 乾? 続きはいらないよ。聞きたくないからね」
 無口だという設定の乾は、反論もせずに立ち去ろうとする。そこへもうひとり、本庄もやってくる。どんっ、という効果音は、乾の肩が本庄の肩に強く触れたのだ。
「なんだよ、おまえ。人にぶつかっといて詫びも言わないのか」
「……ごめ」
「聞こえない。ちゃんとあやまれ。なんだなんだ、その反抗的な面は? なんか文句でもあんのかよ。じめーっとしてぬらーっとして、俺はおまえが気に入らなかったんだよな。ちゃんとあやまらないと下へ突き落とすぞ」
「だから……ごめんって……」
「聞こえないってんだよっ!!」
 迫力満点の低音で凄む本庄に、乾がたじろいでいる。本庄が乾をベランダの隅へと追い詰め、うわっ、うわっ、と乾が小さく悲鳴を上げる。効果音が作り出しているのは、ベランダの柵に本庄が乾を押し付ける物音だ。
「本庄くん、酒持ってきたよ」
 そこにのほほんとあらわれたのが本橋で、彼は言った。
「……うわ、なにやってんだよ。乱暴はやめろって」
「こいつが悪いんだよ。おまえは手出ししなくていい」
「そんな……そんなことしたら、乾くんが落ちるよ」
「落としてやってもいいんじゃないのか。二階なんだから、落ちても骨折するぐらいだ」
「やめろって。な、な、話せばわかるから」
「俺はわかんねえんだよ。こいつはもとから気に入らなかったんだ。落としてやったら泣くだろ。泣かせてやろうぜ」
「本庄くん、やめようよ。三沢くん、きみも止めてくれ」
 境遇は似ているのかもしれないが、各々の性格が素とはあまりにもちがいすぎて、リハーサルの場にも関わらず、笑いをこらえるのに必死になっていた。最後の台詞が本橋なのだから。
「本橋、おまえは手も口も出すなって言ってるだろ。引っ込んでろ」
「……本庄くんは乱暴だね。僕はそういうのは嫌いなんだ。あ、貧血が……」
「勝手に倒れてろ。三沢、止める気か」
「止めないよ。俺も乾って好きくないもん。おーい、木村、いいところにいるんだ。適当に受け止めてやってくれる?」
「なんだぁ?」
 やや遠くから聞こえる声は木村。彼はベランダの下にいて、素振りをやっている。びゅんびゅんとバットが空を切る音とともに、木村が言った。
「こいつで乾をかっ飛ばしてやろうか」
「そうじゃなくて、バットで受け止めるってどう? 乾なんて細くてちっこいんだから、おまえの腕力を持ってしたら朝飯前でしょ? バットが緩和剤になって、乾も骨折は免れるかもよ」
「面白い。本庄、やれよ」
「おう、やってやろうか」
 うわっ、やめてやめてっ、と乾が卒倒しそうな声を出す。本庄は乾の身体を持ち上げる。三沢がけらけら笑い、本橋はおろおろと止めようとするが、三沢に突き飛ばされてベランダのポールに頭をぶつけて呻いている。そこに俺が登場するのだった。
「一年生たち、なにをやってる? おい、本橋、大丈夫か?」
「あ、あ、先輩……寮長、止めて下さい。本庄くんが……三沢くんが……」
 本橋を抱き起こした俺は、三沢と本庄に向き直る。
「乾が真っ青になってるじゃないか。ふたりがかりでか弱い乾を苛めるのは感心しないな」
「寮長、あんたまで来なくていいんだよ。本橋もさ、寮長に言いつけるなんて最低だよ。ま、言いつけたところで、なにができる寮長でもないだろうけど」
 本庄は嘯き、三沢も言う。
「寮長さんも引っ込んでて下さいね。一年生同士の問題は一年生で解決しますから」
「あくまで止めるつもりだったら、俺にも考えがありますよ」
「……本庄……きみは……こうなったら先生に……」
「情けねえ。四年生にもなって先生に頼るんだって。これだからね。おーい、木村、寮長さんもそのバットで弾き飛ばす?」
 三沢の声に応じて、下から木村が言う。
「本橋も乾も寮長も、まとめて面倒見てやるよ。さっさとしろ」
「かっ飛ばせ、木村、アメリカの空までホームラン、ってね。こんなのが吹っ飛んでいったら、アメリカの方たちはびっくりするよ。本庄、ひとりでやれるんだろ。はい、寮長はこっちね。本橋もそこで震えてろ。早くしろよぉ、本庄」
「やめろってば」
 震え声で言う本橋に向かって、うるせえ、と吐き捨てた本庄が両腕を伸ばす。三沢は俺を引き寄せ、乾はただただ怯えている。ベランダで騒ぎが繰り広げられている中、下では女性の悲鳴が響き渡った。ちょっと待て、と大声で言った木村が駆けつけると、女子学生沢田が、草むらを指さして叫ぶ。
「蛇っ!!」
「蛇? 毒蛇か?」
「こんなところに毒蛇はいないはずだけど……いやだっ!! 木村くん……ちょっと、いやっ、いやーっ!!」
 バットに蛇をからみつかせた木村が、こんなのなにが怖いんだよぉ、ほーれほーれ、と沢田の目の前で蛇をちらつかせて怖がらせて喜んでいる。とある大学の男子寮の一夜は、暗雲をはらんで更けていくのであった。
「はい、カット」
 ディレクターの声に、スタジオにそろっていたフォレストシンガーズの五人、及び沢田愛理と俺は、ほーっと肩の力を抜いた。
「導入部はこんな感じですね。なかなか臨場感もあってよかったですよ。どうでした、本橋さん?」
「臨場感があったのかどうか知りませんけど、やりづらい。非常にやりづらい。台詞はドラマに添ってるんですけど、顔を見たらいつものこいつらでしょ。名前もそのまんまでしょ。シゲがこんなことを言うわけがないとか、乾がこんなんでびびるわけがないとか、幸生がこんなに陰湿なわけないとか、とりわけ俺が……」
 そうそう、と三沢も言った。
「本物の本橋真次郎があの場にいたら、乱暴な本庄くんと陰湿な三沢くんを殴り倒して、臆病者の乾くんを救出していきますよ。乾さん、ご感想は?」
「ドラマなんだから、素とはちがった役のほうがやりやすいよ」
「俺には素に近い部分もありますよ。よく喋る三沢幸生くん。乾さんも近いところはありますよね。詩の朗読ってぴったりだもん。あとの三人はちがいすぎ。章は豪快な野球選手で、本橋くんは平和主義、ことなかれ主義。本庄くんは腕力馬鹿。理系大学って設定なんですよね。うちでは理系はリーダーだけで、シゲさんと乾さんは文系。章は工学部。工学部って理系?」
「俺は電気工学だったから、理系のほうなのかな。ったって一年で中退してるんだし、俺は音楽系だよ。おまえもだろ、幸生」
「そうですよぉ。俺は経済学部だけど、無類の音楽系です。シゲさん、疲れた?」
 疲れていなくてもこの中では常にもっとも口数の少ない本庄が、ようやく口をきいた。
「……いちばんやりづらいのは俺ですよ。本橋、引っ込んでろ? 本橋さんを呼び捨てにするだなんて……せめて名前でも別だったらいいんですけど……」
「俺は本橋さんや乾さんを呼び捨てにできて楽しいよ」
「幸生だったらそうだろうけど……」
 金子さんも無口になってますね、と乾が俺を見て言い、俺もようやく口を開いた。
「俺が登場しない場面では、笑いをこらえるのに大変だったんだよ。ドラマなんだけどさ、絵空事なのはわかってるけど、一年生たちがあんなことをやってる場所に割って入って、本庄に言い負かされて、こうなったら先生に? だらしのねえ寮長だな。おまえは寮長失格、即座に荷物をまとめて出ていけ、とこのドラマの中の金子将一に言ってやりたくて困ったよ。ね、エリちゃん?」
「私は本橋くんたちをそんなによくは知らないんですけど、ほんとにね。全然素顔とはちがっててむしろ楽しいかも」
「楽しいのは楽しいよ。本庄、弱音を吐くな」
「はい、本番ではしっかりやります」
 しょっぱなでは暗雲立ち込める男子寮なのだが、やがて彼らはそれぞれに折り合いをつけ、性格は性格のままに、喧嘩をしたり話し合ったりしつつ、親しくなっていく。理系大学では規格はずれの文学少年である乾の詩に、乱暴者の本庄が曲をつけ、学園祭で五人で歌って喝采を浴びた彼らは、バンドを結成して音楽の道への模索をはじめるのである。
 結果的に彼らを結ぶのは音楽で、寮長たる俺も彼らに手を貸す。そのあたりが我々の境遇に似ているのだ。彼らと女子学生沢田との恋の鞘当てもあって、やがては明朗な青春ドラマの趣になっていくのだった。
「大学一年をやるにはいささか老けましたけど、みんな声は若いでしょ」
 乾が言い、ディレクターも太鼓判を押してくれて、第一回リハーサルは解散となった。
「俺も大学四年の役にしては老けたよ。三十になったからね」
 彼女も今日の仕事はすんだと言うので、エリちゃんと連れ立って帰路をたどりつつ言った。
「気の弱い寮長なんて役作りに苦労しそうだけど、共演者たちとも息は合うだろうし、がんばるよ」
「金子さんも声はとっても若いから大丈夫。うん、がんばって。私もこういう仕事は新鮮で楽しい。ねぇ、ところで金子さん、恋愛はいかが?」
 いたずらっぽい目で俺を見上げて問いかけるエリちゃんを見ていると、当方もいたずらっ気が起きた。
「きみとはキスしてないね。してみない?」
「……なによ、それ? キスしようってなに? キスだけ?」
「もちろん。なに、それ? ってこっちが訊きたいね。きみはそれ以上を望んでるの?」
「それ以上? 私をそんなふうに……そんなふうに軽い女だって……」
「おっと、失礼。ごめん。冗談だよ」
「冗談ってね、言っていい冗談と悪い冗談があるって知らないの?」
「……ごめん。相手を選ばないと……ごめん。ごめんっ!! 嗚呼、俺は失言続きだ。馬鹿だ。間抜けだ。愚か者だ。エリちゃん、殴ってくれ。目を覚ます」
 拳を握ったり開いたりしていたエリちゃんは、ふっと気が抜けたように微笑んだ。
「なんだか変だね。なにかあったの?」
「きみに言えるはずがないでしょ」
「そおお?」
 デビューへの道筋をつけてくれたエリちゃんの上司、この局のプロデューサーである溝渕奈々子は、いまだ会うたび俺を口説きたがる。彼女は危ういといったレベルではなく、きわめつけの危険な女であろうから、口説かれてもはねつける。まるで俺が女になって、好色な男に口説かれては拒絶しているような気分だった。
 では、エリちゃんとはそのようなムードにならなかったのはなぜだろう。なんとなくなんとなく、彼女は俺を好いていてくれているのかと思わなくもない。彼女ははっきり言わないし、うぬぼれにすぎないのかもしれないので、俺も問い質したことはない。キスしようかと言ったら怒ったので、やはり好かれてはいないのか。
 嘘つき女で気絶するほど悩ましい、そんな莢子にからめ取られて、結婚はしない、と決意しているものの、これはこれで楽しいじゃないか、とも思っている。うまく行く恋は恋ではないと、どこかのギタリストが歌ってる。その通りだ。恋はそういうものだ。だけどだけど、とも思う。
 妙な駆け引きもしない、妙な手練手管も操らない、妙な嘘もつかない、エリちゃんと恋をしていたら、俺の人生もまっすぐに健全に進めたのかなぁ、だった。エリちゃんだって山田さんだって、恋人になったら女としての顔を見せるかもしれないのだから、そうとも言いきれないのかもしれないけど、莢子のような女ではないだろう、たぶん。
 けれどけれど、と再び思う。うまく行く恋が恋ではないのならば、まっすぐ健全な人生なんてつまらないじゃないか。人生あまねく、うまく行かないからこそ人生だ。振り返れば俺の人生は、おおむねうまく行き過ぎた。デビューは遅まきだったとはいえ、志望通りの道を歩いている。仕事がこうなんだったら恋はね、恋はとりあえずあれでいいんだよ。
 先がどうなるかわからないのも、すべからく人生じゃないか。ね、エリちゃん? と微笑み返すと、今夜もまた不審そうな目で見つめられて、金子さんって変、と言われたのだった。

END




 


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